ガチャ狂い徳川家康   作:星野林(旧ゆっくり霊沙)

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今川旗本隊内訳

 信濃の再建は順調に進んでいる。

 

 初年度に大まかな道を通し、関所を軒並み破棄したことで物流が改善し、それからは灌漑工事が続けられていた。

 

 信濃は山が多い地形であるものの水源は多いのが特徴で、山から湧き出る湧き水や地下水源が多く、そして土壌の質も良い。

 

 こういう地形で効率的に米を作るとなると棚田が必要になってくる。

 

 棚田の起こりは室町時代中期……1400年頃とされ中国地方の一部地域で始まったのが最初とされている。

 

 そこから徐々に畿内に広まりを見せたものの、応仁の乱による混乱と戦国時代が到来したことで農業技術の普及が滞ってしまい、東日本にはあまり浸透していない技術であった。

 

 ただ棚田では無く、段々畑は昔から作られており、灌漑技術の不足で米の生産が滞っていたのが原因であった。

 

 あとこの時代の場合、平地の湿地より棚田の方が水量の調整が行いやすく、機械が発達するまでは平地よりも棚田の方が米の生産量が多かったなんて記録もある。

 

 なので信濃の各地は開発が進めば米の一大生産地になれるポテンシャルを秘めていたのである。

 

 現代でも信濃こと長野県は生産量は全国15位前後をうろうろしているが、1等米(質の高い米)や10アール当たりの生産量だと全国2位であることが多かった。

 

 これは山が多い地形の為、機械が入りにくいので大規模な生産がしにくいものの、水質や土壌の豊かさが米作りに適していて、美味しいお米を作っていたのである。

 

 戦国時代にトラクターなんてものは存在しないため、田植えや稲刈りは手作業になるが、そうなると棚田の方が生産性が高くなるため、逆に有利である。

 

 米作りのことだけ言っていたが、信濃の水質と土壌は他の作物を栽培することにも適していて、野菜や果実の栽培にも適している。

 

 逆に栽培に適していないのは痩せた土地でも育つ作物などで、例えば薩摩芋なんかは痩せた土地でも育つ為、わざわざ土壌の良い場所で作る必要性は無く、痩せた土地の方が良く育つ自然薯の栽培も向いていなかったが、基本色々な作物を育てるに適した土地である。

 

 信濃再建4カ年計画では灌漑施設や農業用水を整備すること、離散していた農民に土地を与えて廃村を再建させること、農業と林業を盛んにさせることで金を稼げる土壌を作ることなどが組み込まれている。

 

 生産する作物はまず米、次に白菜やキャベツ(玉菜)等の葉野菜、りんご、もも、なし、ぶどう等の果実、そして桑を用いた養蚕産業と椎茸栽培も信濃にメインを移していく。

 

 家畜系はヤギ等の雑草を食っていけば生きていられる動物や、場所を比較的取らない鶏などを除いて、牛や豚などは餌の現地生産や輸送コストが嵩む為、長野盆地の一部を除いて、大規模な施設は建てず、果樹園や桑畑、茶畑、換金性の高い椎茸の栽培を普及させることで金を稼げるようにするつもりである。

 

 更に道の整備や灌漑施設の建設、治水工事や農業用のダム建設等の公共事業を行うことで、地域に一気に金をばらまき、貨幣を浸透させていく。

 

 貨幣が浸透すれば商人の動きも活性化し、鉱物資源の豊富さから多数の工房の誘致も決まっているので、鉄製品の農具や今まで買えなかった少しの贅沢品、食料品も売れるようになる。

 

 そうなれば金の流れによる循環が発生し、経済的な成長と東海3国と信濃の連携……経済圏の拡大を達成することができるのである。

 

 信濃経由で食料を輸入している上杉や道中の村上氏の様な領主達にも利益が享受されるので結果的に安全にも繋がる。

 

 そこまでくれば俺が定期的に投資をすれば民間の力で成長していく……はずである。

 

「もっとも、疲弊した領土をある程度立て直す為の4年間、飛躍させるには更に数年必要になるだろうが」

 

 もっともその頃には中央の動きが活性化していくことになるだろうから、信長様と一緒に西に進むか、北条がこちらを狙ってくるか……どちらかだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「射撃用意……放て」

 

 ババババン

 

 俺は北条時行こと江間時行率いる旗本隊の軍事訓練を見学していた。

 

 現状旗本隊は今川の部隊単位である備の中でも特別予算をかけて育成が行われていた。

 

 戦闘員の人数は5000人、補給部隊や補助部隊などを合わせると約8000人となる。

 

 階級は旗本奉行(連隊長)、旗本奉行並(連隊長補佐)、参謀である指図役と指図役並(参謀次官)、その下に歩兵奉行(大隊長)騎馬奉行、槍奉行、遊撃奉行(規模は大隊に劣る特殊部隊)、それぞれの補佐官である各奉行並、中隊長である歩兵頭に副隊長の頭並、その下に隊長(小隊長)、班長、班員と続いていく。

 

 もっとざっくりとした定員をいうと、班が10名、小隊40名、小隊4つで中隊(160名)、中隊5つで大隊(800名)、それらを束ねて旗本隊となる。

 

 歩兵は基本鉄砲を装備していて、歩兵大隊が3部隊(2400名)、騎兵大隊が2部隊(1600名)、槍大隊(場合によっては竹束による盾を構える)が1部隊(800名)、遊撃隊(200名)と言う感じである。

 

 歩兵中隊1部隊につき、大筒(後々大砲に置換予定)が4門配置されている感じである。

 

 戦国時代の基準に当てはめながら鞍馬と義経、時行の4人で頭合わせて必死に考えた結果がこの部隊編成であった。

 

 というかこれ以上は現状出来ないし、どうしても一定数近接戦闘要員の槍隊を入れないと危なかった。

 

 まぁ歩兵の面々も刀を1本装備しているので戦えなくはないのであるが……。

 

 普通の武士は打刀と脇差の2本装備するのが普通なのであるが、鉄砲を装備している関係で、2本持ちだと重量がかさみ、移動に支障が出てきてしまうことから鉄砲を装備している歩兵は今川家から支給される脇差もしくは自前の刀を1本装備していた。

 

 歩兵の装備品として新しい取り組みで家畜の革を用いた背嚢(ほぼランドセル)の普及が始まっていた。

 

 鉄砲隊はどうしても弾薬をある程度自前で持っていかねばならないことや、携帯食料、替えの衣服(防寒着含め)などを運ばなければならなかったが、腰に下げる袋や体に布を巻き付けて運搬するのでは効率が悪いとして、背嚢が作られたのである。

 

 背嚢の他に肩がけバックの開発も成功し、最近では市場でも売られるほど人気の商品になっている。

 

 あと他の武家との違いは皮足袋と靴下が普及していることだろうか。

 

 皮足袋はこの時代の武将クラスが合戦時の履物として広まっていたが、皮の供給量が増えたので、草履よりは高価になるが、耐久性が高く、草履よりも足への負担が減らせる足袋を正式装備として採用。

 

 職人に今川家が大量発注し、兵には安く卸売りすることで全体に行き渡るようにしていたのである。

 

 あとは靴下の普及もしており、木綿の栽培が広まったこと、紡績機や半自動の織機が開発されたことで布の値段が大きく下がった為、足を守る靴下に布を使うことができるようになったのである。

 

 靴下が普及したことで草履を履く時に足が痛くならない、足元が冷えない、誤って石や鉄片を踏んでしまった時に怪我しにくくなるといった効果があり、民間にも広まりをみせ、信長様も綿製の靴下を気に入り、織田家も軍用に採用するほど広まりを見せていた。

 

 背嚢も皮足袋も靴下もちょっとした工夫であるが、それが個々の兵士の疲労感や生存性に直結するので影響は大きい。

 

 また鉄砲による遠距離攻撃が主体になっていたので歩兵は甲冑が廃れつつあり、防具は頭を守る鉄製の陣笠が主流と成りつつあった。

 

 将来的には陣笠もヘルメットにして自衛隊や旧陸軍の戦闘服の様な装備にしていければ良いなぁと考えていた。

 

「時行、平均的な射撃速度はどれくらいになった?」

 

「そうですね、旗本の歩兵だと1分に3発から4発は射撃できるようになってますね」

 

「普通の火縄銃を使っている他国が平均分間2発……30秒に1発と考えると十分早いな」

 

「ただ訓練ではこれ以上早く撃つことはできませんね。これ以上となると僕の知識だけにはある薬莢を用いた銃弾を用いなければならないかと」

 

「薬莢を用いた銃か……金属加工技術が飛躍的に向上している今川の技術であれば、金屋子の力を借りれば開発できそうではあるか……今度相談してみることにするよ」

 

「お願いします」

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