ガチャ狂い徳川家康   作:星野林(旧ゆっくり霊沙)

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税制改革と1563年開始

 冬になり、今年も1年が終わるシーズンになったが、浜松城……いや、今川の各城はこの時期になっても忙しく動いていた。

 

 というのも、東海3国の年貢見直しが行われていたからである。

 

 東海3国の農業生産量は今年遂に200万石を達成したのであるが、これ以上は大規模な治水工事……もしくは技術革新が無ければ難しい状態に突入。

 

 史実明治時代で東海3国の石高が約100万石の事を考えると、生産量は昭和頃まで進んでいたが、これが実質な限界。

 

 それに作られているのは米だけでなく、雑穀や芋、野菜、果実等の農業に関連する物を全て含めての200万石なので、太閤検地というより江戸時代の各藩が行なっていた商業作物込みの検地となっていた。

 

 そのため米だけの収穫量は120万石前後であると記述しておこう。

 

 さてさて、では何をこんなに慌てているのかと言うと、税制度を色々弄ったのである。

 

 まず年貢の徴税方法を今までの検見法から定免法への切り替えを行ったのである。

 

 そもそも検見法と定免法とはなんぞやとなるが、どちらも年貢を徴税する法律であるが、検見法は毎年気候や夏頃に苗の生育状況(米以外だったら各種作物の生育状況)を確認し、田畑に上、中、下、下々の4等級を付けて上だと収穫量が多く見込めるため税収も1.2倍、中が1倍、下が0.9倍、下々が0.8倍と税の重さが決められていた。

 

 このやり方だと年貢を確認する役人が春の終わりと秋の終わりの時期に村々をいちいち確認しなければならないことや、検地の際に田畑の等級を賄賂を貰って意図的に下げることが横行していたのである。

 

 それまでは俺も見逃していたのだが、遂に上田が一切計上されなくなったのに、収穫量はどんどん上がっている状況だと役人の役得が大きすぎ、力を持った役人が悪いことを企みかねないので、税制度を一新することにしたのである。

 

 その方法が定免法と呼ばれる過去5年間から10年間の収穫量の平均から各年の年貢を割り出す(天災の時の記録は除外)という方法に切り替えたのである。

 

 こちらに切り替えることで、役人は年貢を徴税すると同時に来年度の年貢の計算ができるようになること、村民は役人の接待回数が減るので村の負担も減ること、役人は賄賂を毎年もらっていたのが検地の回数も数年に1回に減るので賄賂を貰える回数を減らし、更に数年で配置転換をすることで村との癒着を切り離す事を行うようにしたのである。

 

 というか規模は違えど、それで力を持って独立したのが戦国大名と言われる人達だからね。

 

 信濃は生産量がまだ安定していないのと役人達にも民の生活優先と言っているので年貢率は4公6民なれど、下田や下々田で計算するように言い聞かせているため、実質税率は36%から32%前後になっていた。

 

 実質3割税率である。

 

 また今川の直轄領でない各領主達にも4公6民の税率は守らせ、代わりに軍役の負担を軽減させることで相殺とし、今川領内の税率を4公6民で統一。

 

 田んぼの基準は上田が機能しないので、東海3国は一律中田扱いに揃えることにした。

 

 一部の領民にとって少し税率アップに感じるかもしれないが、俺が統治するようになって収穫量は4倍以上になっているのだから文句は言わせない。

 

 更に余剰作物を相場より少し安くなるが、村々から一括で買い取る仕組みを作り上げた。

 

 これは商人が村人から作物を安く買い叩くのを防止するのと、村からの余剰作物を領主が買い取ることで、その作物を使った加工品や商人達への転売、もしくは他国への売却に必要な量を確保するのと、村に貨幣を行き渡らせ、将来的に税を穀物では無く銭で納めさせる貫高制に戻す事を期待していた。

 

 そもそも元々の税制度は石高制では無く貫高制が基本なのだ。

 

 俺が領主になってから今川は貫高制から石高制に切り替えたが、それもこれも銭が足りていないからである。

 

 私鋳銭は造って市場に流したり、交換事業を行って貨幣の価値の正常化を俺は推し進めてきたが、西国の大大名で日明貿易を担っていた大内氏が家臣の反乱によって滅亡後は明からの銭の輸入がストップしてしまい、それによって事実上貫高制は破綻してしまったのである。

 

 硬貨不足による市場はデフレに陥り、物価だけが高くなっていく。

 

 そうなると石高制にしてしまった方が領国安定に繋がると思って石高制に切り替えたものの、将来貫高制に戻す事を見越して、家臣達には銭での給金の支給を行って武士達に銭の使い方を忘れないようにしたのである。

 

 近衛様が朝廷に働きかけで、俺が鋳銭司となれば硬貨の発行をすることができるようになる。

 

 そうなれば一時しのぎであった石高制を終わらせて、貫高制に戻すことができる。

 

 その貫高制に則って金でのやり取りを行う前段階として作物を領主が各村と買い付ける契約を結んでいれば、税を銭払いに切り替えた時にも村民達が銭が足りなくて税が支払えない……なんてことは無くなるのである。

 

 そうすれば史実江戸時代に米価の上下で税収が安定せずに、市場が大混乱に陥ったり、武士の経済感覚が全く無い……ということを無くすことができれば幸いである。

 

 まぁそのための切り替え作業で地獄をみているのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 年が明けて1563年。

 

 最初に動き出したのは北条だった。

 

 もう東日本は史実の歴史が粉砕されているため、参考程度にしかならないが、北条は安房の里見を今度こそ潰すために出陣をおこない、これにボロ負け……それはもうコテンパンに負けたらしく、里見は調略によって上総も奪還に成功。

 

 これにより常陸の佐竹と連携を強め、関東諸侯は再び反北条連合を結成。

 

 押されていた上野前線も里見の敗戦で総国(千葉県旧国3国を纏めた呼び方)方面へ兵を抽出しなければならなくなり、兵を引き抜いたところ戦線を押し戻されて上野から叩き出されてしまい、更に弱体化していた武田が乾坤一擲の大博打に出て、北条所領の武蔵国へ侵攻を開始。

 

 関東情勢は混沌に陥るのであった。

 

 

 

 

 

 この関東の動きに上杉謙信公に連絡を取ったところ、手紙でこの様な事が言われた。

 

『まず関東のこの動きは上杉は全く関与しておらず、上杉としても困惑している状態だ』

 

『今川も反北条勢力に支援を行っていないと手紙に書かれていたために信用することにするが、上杉としては北条が潰れるのは構わないが、関東諸侯が勝利して関東を分割統治することも望んでいない』

 

『ましてや滅びかけた武田が北条の領地を切り取って復活することも望んではおらず、今川には北条を支援するふりをして甲斐に侵攻し、武田を滅亡に追いやることを望む』

 

『上杉としては今川の甲斐侵攻に合わせ、上野の国人衆と連携を取り、主導権を奪うことで再度の関東遠征を行うことを決定とし、今川にも北条を攻めてもらいたいのである』

 

『上杉としては関東を今川勢力と上杉勢力に二分し、同盟を締結することで関東における両方に従わない国人衆を炙り出し、粛清することを目的とする』

 

『上杉としては関東管領として上野、下野、武蔵を所領に加えたいと思っている。あと里見は自身を関東管領を自称しているため潰したいと思っている。とりあえず上野か武蔵で合流できれば幸いと思われる』

 

 上杉謙信公による軍事侵攻計画が書かれていた。

 

 この計画書によると俺が小田原城を攻略することになるのであるが……攻略できるか? 

 

「とりあえず上杉謙信様に同調して武田を攻め滅ぼすか……北条に恩を売りつつ、情勢を見守るのが一番かね……」

 

 こうして動乱の1563年が始まったのであった。

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