...ふう、どうにか荷物もまとまったな...。
なんだか、少し名残惜しい気がする。
俺は...ここでの夢を諦めるんだ。
俺がトレーナーを志したのは、かなり早い時で小学校高学年ほどの時だった。
親は競馬なんぞに全く興味がなく...。当たり前だ、息子に全く興味がなかったんだ、競馬にも何にも興味を待つはずない。
あぁ、ずれたずれた。まだ少し画面が狭かった時代のテレビで見た、あるレース。あるウマ娘が、今でも脳裏にこびりついて取れそうにない。
俺は、そのウマ娘に自分で名前をつけていた。「スーパーちゃん」ガキっぽい名前だ。しかし、本当のそのウマ娘の名前は全くと言っていいほど覚えていなかった。
記憶という日々薄らいでいくファイルの過去データを漁っても、ぼんやりとしか思い出せない。
数少ないうろ覚えの特徴を検索してもヒットはしなかった。
ではなぜ覚えているのか?
それは、走りだ。
当時俺は2歳から親のエゴでピアノを習わされており、その時は恨みたくなるほどそれを弾くのが嫌いだった。
ただ、聞くのは好きだった。
聴覚から脳に流れるハーモニー、バラバラな音なのに統一されている和音、アレンジや転調や音を多くするなどの工夫から伝わってくる努力の音。
音が流れる
それに重なったのが、当時たまたま見ていたどこかのレースでの一戦だったのだ。
レースとか、当時全く知らなかったが、実況や見た感じでかけっこと同じ容量だと瞬時に気がついた。勝ったもの、一位になったもの、それこそが正義のシンプルな世界。力だけの世界。
違った。
美しい。一定の時間間隔で回る足。誰が勝つのか最後までわからない、先が見えないことの楽しさ、期待、緊張。
視覚から脳に流れるハーモニー、バラバラに走っているのに統一された意識と目的、各々の走り方から伝わってくる努力の結晶。そこで一際目立ったのが「スーパーちゃん」だったのだ。
流れる走り
空気抵抗を受けていないかのようなヌルヌルとした動き。けれども緩急、タイミング、位置どりに相手への牽制、全てが含まれている複雑な動き。
その時からだ、音楽とレースを重ねるようになったのは。その時からだ、俺がトレーナーを志したのも。(本当はその少し後のトレーナーという存在を知ってからなのだが)
ただ、俺は今までの中で理想とするウマ娘を育てることはできていない。なぜなら、それぞれに合った走りというものがあるからだ。
俺だけのエゴで、無理やり彼女らに合わない走り方を強制することはしたくなかった。あいつらとは違う。
しかし、できれば...スーパーちゃんのようなウマ娘を育てたかった...
「入江トレーナー!」
俺は書類の束を机に打ち付けてまとめている時に、誰かから声をかけられた。
まぁ、声だけでわかる。この人は...
「どうも、理事長...どうされました?」
トレセン学園理事長の秋川さんだ。ルックスはとても理事長らしくは見えないが、俺なんかよりも相当の想いをウマ娘に抱いている方だ。
喋り方が独特で、よく「理事長」と書かれた扇子をバッサバッサ開いたり閉じたりしている。そう言えば昔はよく叱られた。
「やぁ!新たに歓迎した地方からのウマ娘が、是非とも君に会いたいと言っていてね!いや、辞めるのを引き止めるわけじゃない、何か言いたいそうなんだ」
理事長は相変わらずの豪快な身の振りで、一つのバインダーを渡してきた。
受け取ると、そこにはとあるウマ娘の経歴書が挟まれている。このウマ娘が俺に会いたいと言っているんだろう。
...?
うーん...?
顔写真が付いている。そこには、漆黒のショートヘアーにところどころ見える白のハイライト、キリッと整っている顔、そして頭に二分音符の形の髪留め...。
「ママ〜...ママ〜...」
脳内にマリの甘える声が聞こえてきた。
「ママじゃあなぁい!!!!!」
俺はその後、周りと目の前の小柄な理事長から注がれる氷よりもドライアイスよりも冷たい目線に気づき、顔を赤くして席に座り直した。
「あ、入江トレーナー、いつぞやは無礼な態度をすみませんでした!」
俺は待合室に入ってすぐにそう言われて頭を下げられた。間違いない、彼女だ。
背後では理事長が無言でドアを閉め、俺と彼女の二人きりにしてくれた。
「はじめまして、私は...」
「いや、いい、いい、気にしてませんよ、履歴書は見ました、自己紹介は必要ないです。?驚きです?あんな小汚いおっさんがちゃんとしたスーツ着てるの。まぁいいや、君が引き抜かれてきた地方からのウマ娘だったなんてね、驚きました...。」
俺は彼女の話を捲し立てるように遮った。なぜなら彼女がある女に
そして、彼女と向かい合う形で机を挟んで長椅子に座る。
「改めまして、入江だ、よろしく。ここでトレーナーをやってます、まだね。」
彼女は俺が差し出した手を見つめると、手を握り返しながら尋ねてきた。
「
「あぁ、どうも娘のことでうまくいってなくてですね...ははは!、やめようと思ってるんです、トレーナー」
彼女はやけに明るく笑う俺を見て、大きな目を少し細めた。俺を呼び出してみたものの、もう辞めるとなって期待はずれになっただろうか?
「やめてどうするんですか?」
さらに質問が飛んでくる。
「ははは...いつでも面倒が見れるように在宅のものを探そうと思ってるんです。もう目星はだいたい...。何せ!母親が死んでしまって俺と娘の二人だけになっちまったんですか...ら...。
ふっ、そんな顔しないでください、嘘ですから...。本当はね、離婚したんですよ。いろいろありましてね」
俺は、“また無礼を働いてしまった”とでも思ってそうな彼女の顔をみた。驚きを隠せなくて、こちらを凝視している。
なんだ、人の思いも知らないで共感したような顔しやがって。そして、雰囲気まであいつに似て...。
「ま、そんなことで...俺はもう辞めるんで、指導を受けたいなら他のトレーナーに当たってみてくださいよ!」
俺は膝に手をつきながら椅子から立ち上がった。早くこの空間を離れたい。音楽を聴いて気分を落ち着けたい...。
「待って!」
!?、俺は腕を掴まれる形で、彼女に引き止められていた。
「あの時拍手をしなかったのは! (なんだ、そんな話か) 入江トレーナー!あなたの演奏に感激して言葉もなかったからです!」
何が言いたい、離してくれ。そうだ、あいつともこんなことをした、何から何まで不快なことをする。もう...!くそ!
「私の走りを見てください!一度でいいから...!」
...
そんな顔でせがまれたら、断るに断れないじゃないか。
キラキラとした目、期待と不安と願いを持って引き締められた口元。似ている...でも、少し違う。彼女には、彼女だけの輝きがあるような気がした。
...わかった、少しだけなら。
ストレッチ...柔らかい体だな、体幹も悪くない、スカウトされるだけはあるだろうか?
「行きますよ〜!」
どうせトレーナーはやめるんだ...。第三者視点からレースを見てるような緩い感じで行こう...。
ダダダダダダダダダ
走り出した。...? うん、早いな
ダダダダダダダダダ
何か引っかかる。走り方か?いや、少し前傾だが、それといって奇な走りではないように見える。なんだ?
ダダダダダダダダダ
コーナーを曲がった。特に何もなし。??終わりか?しかし何かが俺の中で引っかかったままだ。
そんなことを考えている間に、彼女はゴールラインを走り抜けて笑顔を見せた。
多分、走るのが気持ちいいのだろう。俺が見ているのなんて、忘れていそうな顔だった。
「どうでしたか〜!?」
...
「入江トレーナー?」
彼女はいつのまにか、トラックからもう俺のすぐそばまで歩み寄ってきていた。
「あ、あぁ...うん」
いつの間にか、あんなに高く登っていた太陽がかなり傾いていて、夕暮れの橙にトレセン学園を染めつつあった。
そんな太陽を背に、彼女は俺を一身に見つめている。逆光であの黒い髪はさらに黒くなり、ハイライトの白と音符の髪留めだけが空中に浮いているようだった。
「...最後のスパートとかは、なんでかけなかった?」
俺は独り言のつもりでそう呟いた。
「うーん...実はスパートとか、かけようとするとうまくいかないっていうか...タイムおちることもあるんです...」
多くのウマ娘ならば、どこかで(最後の方で)スパートをかけて、一気に勝負をつけようとする。
だが彼女はそれが向いていなさそうだった。
「もしかして、レースの時の方が練習よりもいいタイムが出たか?」
「...ええ」
彼女は、俺の質問の意図が汲み取れていなそうだったが、とりあえず頷いた。
もしかしたら、俺の育てたかったタイプのウマ娘かもしれない。
「前を張って、逃げ切るタイプの走りが得意か?」
「ええ...」
「流れるような走りが、得意か?」
「流れる走り...ええ、多分。」
そうか...ついに見つけてしまったのか。俺の理想としていたウマ娘を。「スーパーちゃん」のような走りを見せてくれるウマ娘を。
「どうしました?」
スーパーちゃんの走りは、レース序盤から前を張り、その差をキープし続けて勝っていく...いわば逃げ切りの形で勝利を掴むウマ娘。
それはとても難しい。
スタートは早く抜き出て前に着く必要がある。そしてそこで生まれた差を維持し続けるための圧倒的スタミナ。後ろから仕掛けられた時も同時に速度を上げて抜かせない、タイミングの力。そして常に崩れないリズムを持った走り。
このウマ娘にできるか?
「入江トレーナー!」
俺は、まだこちらを一身に見つめていた彼女に驚いた。太陽を背にしても消えない輝き。捕めるかもしれない。
「私、勝ちたいです。
俺だって彼女の手を取ってみたい。
ただ、マリが...子育てをするのはもう俺しかいない。育児介護の人達と娘がうまくいってないのはよくわかっていた、娘は人に全く懐こうとしないから。
「入江トレーナー!」
すると、俺は後ろから声をかけられた。ヒラヒラと扇子を踊らせている人が、背後に立っている。
「理事長...?」
理事長は、扇子を片手で閉じるとその先端を俺に向けた。
「入江トレーナーができない理由は聞いている!娘さん、面倒はこちらで見させてもらおう!大!歓迎!」
ん?こちらで...面倒をみる?
「マリを?理事長さんがってことで...え?てか急にどうしたんですか?」
理事長は相変わらず堂々と、ふふんと鼻を鳴らしてこちらを見つめてきている。...え?どゆこと?いきなり来てなんですか?秋川さん!?
「トレセン学園には、子供を預ける施設がちゃんとあるのだよ!そこにマリちゃんを預けて、たまに会いにくればよかろう!」
「っで!でも、あれは幼いウマ娘用じゃ...ないんすか?それに...まだ彼女とやるとは決めてません」
俺は被せるように言った。そして理事長に歩み寄るが、俺が近づいてきても理事長さんは嫌な顔ひとつしないで、また鼻を鳴らしている。
「問題なし!ちょっと耳が生えてないだけであろう!」
理事長は、俺の奥で何事かと見つめていた彼女を見た。
理事長は、会長と同じで全てのウマ娘のためを思って行動する人だ。この彼女の太陽よりも輝く瞳を見て、理事長が行動を起こさないわけがない。
俺が会いに行けるなら、マリも寂しさからイライラするなんてことはないだろう。
「りじちょー!!!」
俺は、この秋川さんにとてつもなく感謝をしたい。そんな気持ちで激しい握手をしようとした時だった。
「ほい!入江トレーナーがまず手を取るべきは、彼女であろう!」
理事長は俺が差し出した手を扇子ではたき落とすと、真っ直ぐ彼女のほうに指を刺した。
そうだった、そうだった。
「...」
俺は何故か溢れそうになっていた涙を袖で拭き取り、彼女の方に180°体を向けた。
「
俺のチーム...今は誰もいない。もう辞めるつもりだったからだ。
「もちろん、喜んで...入江トレーナー!」
「
「...ふふ、私も...ネイロ?レックス?まぁ、なんでも好きに呼んでください!」
俺たちは、夕日が頬を明るく照らす中、固い固い握手を交わした。
読んで頂きありがとうございます!
次もまた近日中に...