ガドが心源流の門を叩いてから、季節は一巡りした。
俺とガドの関係は、相変わらず水と油のようだったが、その間には、同じ地獄の修行を乗り越えてきた者だけが共有できる、奇妙な均衡が生まれていた。互いを罵り、競い合いながらも、その実力を認め、己を磨くための砥石として利用する。それは、友情とは程遠いが、単なる敵対とも違う、歪で、しかし確かな関係性だった。
その日、俺とガドは、ドウセツ老師によって道場の中心に呼び出された。
老師は、いつもと変わらぬ静かな佇まいで、俺たちの前に座している。だが、その瞳の奥には、これまでとは違う、何か大きな決意のような光が宿っているのを、俺は見逃さなかった。
「カイ、ガド」
老師は、ゆっくりと口を開いた。
「お前たちに、この道場で教えられる基礎は、もはや全て伝えた。器に注がれた水は、いつか満ちる。だが、器の中に留まり続ける水は、やがて淀む。川となり、大海を目指してこそ、その水は真の力を得る」
老師の言葉は、常に示唆に富んでいる。俺とガドは、黙ってその先を待った。
「これより、我ら三人は、武者修行の旅に出る」
その言葉に、ガドの目がギラリと光った。
「武者修行、だと…? へっ、ようやくこの退屈な雑務から解放されるってわけか」
ここ数ヶ月、念の修行と並行して、畑仕事や薪割りといった雑務を延々とやらされていたガドにとって、それは何よりの朗報だったのだろう。
俺もまた、胸が高鳴るのを感じていた。
武者修行。まだ見ぬ強敵、未知なる冒険。それは、俺がこの世界に転生してから、ずっと夢見ていた響きだった。
「師範! 我々は、どこへ向かうのですか?」
俺が、逸る気持ちを抑えきれずに尋ねると、老師は、こともなげに、その目的地を告げた。
「目指すは東方の大国…カキン帝国だ」
その名前を聞いた瞬間、俺の全身の血が、急速に凍りついていくのを感じた。
笑顔が、顔に張り付いたまま、固まる。
ガドが「カキン…! そいつは面白そうだ、腕が鳴るぜ」と不敵に笑う声が、やけに遠くに聞こえた。
(……カキン、かよ…ッ!!)
俺は、内心で絶叫していた。
脳裏を、前世で読んだ、あの地獄のような物語が、フラッシュバックする。
(なんで、よりによって、一番ヤバい場所なんだよ! 厄ネタ満載じゃねーか! 王位継承戦! 守護霊獣! あのイカれた第四王子、ツェリードニヒ! 幻影旅団! ヒソカ! 暗黒大陸へ向かう、あの巨大な棺桶、ブラックホエール号! 冗談じゃない、冗談じゃないぞ! そんな、物語の厄ネタが凝縮されたような場所に、今から行くってのか!?)
全身から、冷や汗が噴き出す。
行きたくない。絶対に、行きたくない。
原作知識は、俺にとって最大のアドバンテージであると同時に、最大の呪いでもあった。まだ起きてもいない未来の惨劇を知っているからこそ、その震源地へと自ら足を踏み入れるという行為が、どれほど愚かで、危険なことか、痛いほど理解できてしまう。
(…待て、落ち着け、俺。今は、何年だ? そうだ、1979年だ。王位継承戦は、まだ20年以上も先の話。ツェリードニヒは、確か30代前半だったはずだから…今の歳は、10歳かそこら。まだ、ただの子供だ。そうだ、原作のイベントはまだ起きない。起きない、が…!)
一瞬の安堵は、すぐに、別の種類の恐怖へと変わった。
原作のイベントがなくとも、カキンという国そのものが、極めて危険であることに変わりはない。
絶対的な王政による独裁国家。社会の裏側を牛耳る、巨大なマフィア組織。異常なまでの排他性と、独特の価値観。
未来であれほどの地獄が生まれるのだ。その土壌が、この時代に、存在しないはずがない。
(断りたい…! 全力で、拒否したい! でも、なんて言えばいいんだ? 『師範、実は俺、前世で読んだ漫画の知識によると、あの国は将来、血で血を洗う大惨事が起きるんで、やめておきませんか?』なんて、言えるわけがない!)
俺に、拒否権はなかった。
師範の決定は、絶対だ。そして、俺自身が、このぬるま湯のような環境から抜け出し、さらなる強さを求めていることも、また、事実だった。
俺は、内心で渦巻く絶望的な葛藤を、奥歯で噛み砕いて、無理やり飲み込んだ。
顔に、引きつった笑みを貼り付ける。
「…カキン、ですか。…はは、腕が、なりますね。師範」
俺の声が、わずかに上ずった。
老師は、俺の表情の微かな変化に気づいたようだったが、それを、未知なる強敵との出会いを前にした、武者震いと解釈したのだろう。満足げに、深く頷いてくれた。その優しさが、今は、少しだけ恨めしかった。
数日後、俺たちは旅の準備を進めていた。
カキンへの旅は、俺に、溜めていたスキルポイントを使う決意をさせた。
「カキンで、確実に生き残るため」。
その動機は、以前よりも、遥かに切実なものになっていた。
俺は、自室で、スキルツリーを展開させる。
【カイ:LV 14】
【スキルポイント:12】
俺は、迷わず、以前から目をつけていた防御系スキルへと、ポイントを割り振った。
【『スティールスキン LV1』を取得しますか? 消費SP: 2】
心の中で、「YES」と念じる。
瞬間、俺の体に、これまでに感じたことのない、新たな概念がインストールされるのを感じた。
オーラのように、内側から湧き上がるエネルギーではない。
まるで、俺の存在そのものの上に、一枚、冷たい鋼鉄の薄膜がコーティングされるような、異質な感覚。
これが、『スティールスキン』。俺の生存確率を、少しでも引き上げてくれる、命綱。
俺が、未来の力で己を強化している頃、ガドは、もっと現実的な方法で、旅の準備を進めていた。
彼は、その見た目によらず、驚くほど手際が良かった。かつて盗賊団の頭領として培ったのだろう、裏社会のルートを使い、偽造した身分証や、カキンで通用する通貨を、どこからか調達してきた。
その姿は、俺にはない、確かな「生存能力」を感じさせた。
カキン行きの大型客船での、数週間に及ぶ船旅は、俺とガドの関係を、さらに少しだけ変化させた。
揺れる甲板での修行。互いに干渉せず、ただ黙々と、己の課題と向き合う。
だが、修行を終え、手すりに寄りかかって水平線を眺めていると、どちらからともなく、言葉を交わすようになっていた。
「…カキンの港町ってのはな、カイ。ありとあらゆるクズと、野心家が集まる場所だ」
ガドは、潮風に吹かれながら、そう言った。
「マフィアに、密猟者、闇金の取り立て、賞金稼ぎ。そういう連中が、みんな、自分の『シマ』で、独自のルールで生きてやがる。そして、そういう場所の連中は、念能力を、ただの『暴力装置』としか考えちゃいねえ。連中とやり合う時は、心源流の『型』なんざ、何の役にも立たねえぞ」
ガドが語る言葉は、老師の教えとは全く違う、実践と経験に裏打ちされた、生きた情報だった。
俺は、彼の言葉に、静かに耳を傾けた。
船旅の途中、ちょっとした騒ぎがあった。
船内のカジノで、イカサマをしていたチンピラたちが、負けた腹いせに、他の乗客に絡んでいたのだ。
俺は、老師に目配せをし、許可を得ると、そのチンピラたちの元へと向かった。
結果は、言うまでもない。
俺は、彼らが念能力者ですらないことを確認すると、オーラを使うまでもなく、心源流の体術だけで、あっという間に全員を叩きのめした。
【チンピラを無力化しました。経験値150ポイントを獲得】
【レベルアップ! LV 14 -> LV 15】
【スキルポイントを1獲得しました】
ほんの僅かな経験値だったが、レベルアップには十分だった。
俺の、地道な成長は、まだ続いている。
そして、長い船旅の末、俺たちはついに、カキン帝国の地に、足を踏み入れた。
俺たちが上陸したのは、ショウホウ港という、巨大な港湾都市だった。
その光景は、俺がこれまで暮らしてきた、どの街とも、全く違っていた。
天を突くような、奇抜なデザインの摩天楼。その麓に、古めかしい伝統的な木造建築が、ひしめき合うように並んでいる。
道行く人々は、一様に無表情で、その目には、他人への警戒心と、諦観のような色が浮かんでいた。道の至る所に、威圧的な態度で警邏する、武装した兵士たちの姿が見える。
そして何より、俺は、この街の「空気」に、肌が粟立つのを感じていた。
空気が、重い。
街全体が、無数の、練度の低い、しかし、悪意に満ちたオーラで、澱んでいるのだ。
ここは、戦場だ。誰もが、常に、見えない敵と戦っている。
俺たちが、宿を探して裏路地へと足を踏み入れた、その時だった。
前方から、怒号と、肉のぶつかる鈍い音が聞こえてきた。
覗き見ると、そこでは、二つのグループに分かれた、マフィアの下っ端らしき男たちが、抗争を繰り広げていた。
その中の一人が、拳に、淡いオーラを纏わせるのが見えた。
次の瞬間、その拳は、敵対する男の顔面を粉砕していた。
殺し合いは、ほんの数秒で終わった。勝った方のグループは、何事もなかったかのように、その場を立ち去っていく。
これが、この国の日常。
「念」が、あまりにも、安っぽく、暴力として、消費されている。
その夜、俺たちは、街の安宿に部屋を取った。
老師は、俺とガドに「今夜は、この国の空気に慣れろ」とだけ言い残し、瞑想に入ってしまった。
ガドが、退屈そうに、言った。
「おい、カイ。こんな部屋でじっとしてても、しょうがねえ。ちょっと、面白い情報を仕入れてきてやるよ」
そう言うと、彼は、まるで水を得た魚のように、夜の街へと消えていった。
一時間ほどして、ガドは、満足げな笑みを浮かべて、帰ってきた。
「師範、カイ。見つけてきたぜ。この街で、一番、手っ取り早く、強さと、金と、情報を手に入れる方法をな」
ガドは、懐から、一枚の、汚れたチラシを取り出した。
そこには、こう書かれていた。
『参加者求ム。勝者ニハ、名誉ト、巨万ノ富ヲ。――地下闘技場』
その文字を見た瞬間、俺の心臓が、再び、大きく鳴った。
経験値。レア装備。そして、まだ見ぬ強敵。
カキンという国への恐怖と、転生者としての警戒心。
その全てを、俺の能力の根源である、「狩人」としての本能が、塗りつぶしていく。
俺の目が、ギラリと、光った。
俺たちの、本当の武者修行が、今、始まろうとしていた。