王子軍での過酷な模擬戦と、ドウセツ老師との基礎修行。その二つの歯車は、俺を凄まじい速度で成長させていた。
だが、俺の心は晴れない霧の中にいた。
レベルは35を超え、手元には30ものスキルポイントがある。それなのに俺は、自分の進むべき道を決定づける『キーストーンスキル』を選択できないまま、日々を過ごしていた。
矛となるか、盾となるか。
あるいは、全てを捨てて歪な怪物への道を選ぶのか。
その問いは、鉛のように重く、俺の心にのしかかっていた。
俺の迷いは、当然、老師の目から見ても明らかだったのだろう。
その日の組手の後、老師は、木刀を置いた俺に静かに声をかけた。
「カイ。お前の拳は、曇っておる。迷いのある拳は、真に敵を討つことはできん」
「…師範」
「無理もない。お前の背負う力はあまりにも巨大で、その選択肢はあまりにも多い。道に迷うなという方が、無理な話よ」
俺は、自分の弱さを見透かされたようで、何も言い返せなかった。
そんな俺に、老師は諭すように言った。
「迷う者には道を示すのが、師の役目だ。…カイ、ワシとしばし旅に出るぞ」
「旅、ですか?」
「うむ。このカキン国内に、古くから存在する念の修練場がある。そこはかつて、多くの修行者たちがお前と同じように、己が道に迷った時に訪れた場所だ。お前の答えは、そこにあるやもしれん」
ガドは、その話を聞いて不満そうな顔をした。
「へっ、なんだよ、俺は留守番かよ」
「そうだ」と、老師はきっぱりと言った。「これは、力の試練ではない。魂の試練だ。カイが一人で向き合わねばならん。ガド、お前にはワシの留守中、王子軍の兵士たちの指導を任せる。それもまた、お前にとっての修行となろう」
ガドは、舌打ちしながらも、老師の言葉に素直に従った。
数日後、俺と老師は、カキンの喧騒から遠く離れた、霧深い山脈地帯にいた。
そこは、人の気配が一切しない、静寂に包まれた場所だった。空気は澄み切っているが、どこかこの世ならざるものの気配を、色濃く感じさせた。
「ここだ」
老師が、足を止めた。
目の前にあったのは、巨大な岩壁にぽっかりと口を開けた洞窟だった。
入り口の周りには、風化して、もはや判読不能な古代文字のようなものが、いくつも刻まれている。そして、洞窟の奥からは、ただの暗闇ではない、まるで光そのものを吸い込んでしまうかのような、絶対的な「無」が滲み出ていた。
「この洞窟の名は、『内観の洞(ないかんのうろ)』。中には何もない。あるのは、己が心と向き合うための暗闇と静寂だけだ」
老師は、俺に試練のルールを告げた。
「お前は、この中で十日十晩を過ごす。持ち込めるのは、水だけだ。食料はない。そして、光も音も一切ない」
「…十日間」
俺は、ゴクリと唾を飲んだ。
「洞窟は、お前に幻を見せるだろう。お前の、最も深い場所にある恐怖。心の底にある欲望。忘れようとした過去。そして、お前が選びうる全ての未来の可能性。それら全てと対峙せよ。拳で戦うな。心で戦うのだ。そして、お前だけの答えを見つけてこい」
俺は、覚悟を決めた。
老師に荷物を預け、水筒だけを手に、洞窟の中へと一歩足を踏み入れる。
その瞬間、俺は世界から切り離された。
背後で、老師が巨大な岩で入り口を完全に塞いだのだ。
一筋の光も、届かない。
完全な暗闇。そして、完全な静寂。
俺の、古の試練が始まった。
最初の二日間は、ただただ感覚の喪失との戦いだった。
目は何も映さない。耳は何も聞こえない。鼻は、湿った岩の匂いしかしない。
俺は、自分が今立っているのか、座っているのか、それすらも曖昧になっていった。
時間の感覚が、狂い始める。
腹が減った。
心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
俺は、壁に背を預け、ひたすらに耐えた。
三日目の夜だったか、あるいは四日目の朝だったか。
俺の目の前の暗闇が、不意に揺らいだ。
そして、そこにあり得ない光景が広がった。
それは、俺の前世の部屋だった。散らかった机。壁に貼られたポスター。パソコンのモニターの明かり。
「…ただいま」
ドアが開き、母さんが入ってくる。
「あら、おかえり。ご飯、できてるわよ」
その何気ない日常。俺が、捨ててきた世界。
『帰りたくないか?』
暗闇の奥から、声が聞こえる。
『お前はまだ帰れるぞ。全てを捨てて、ここへ来い』
俺は、歯を食いしばった。
(…帰らない。俺の覚悟は、『還れざる者の覚悟』だ。俺はもう、あちらの世界の人間じゃない!)
俺が強くそう念じた瞬間、目の前の幻は、砂のように崩れ去った。
だが、試練は終わらない。
次に現れたのは、あの盗賊団の砦。目の前には、憎悪に満ちたガドの顔。
彼の拳が、俺の胸を貫く。
「ぐっ…!」
痛みはない。幻だと、分かっている。だが、死の恐怖はリアルだった。
俺の心の奥底にこびりついた、敗北への恐怖。
そして幻は、さらに凶悪なものへと姿を変えた。
血と薔薇の香りがする、美しい女。パクノダ。
玩具で無邪気に遊ぶ、猫目の少女。シズク。
俺が知っている、幻影旅団。
彼らが、俺を嘲笑う。
『お前ごときが、我々に勝てるのか?』と。
その奥から現れる、異形のキメラ=アント。
ネフェルピトーの、あまりにも巨大で絶望的なオーラが、俺の魂を直接握り潰しにかかる。
俺は、ただ耐えた。恐怖に歯を食いしばり、耐え続けた。
そして試練は、次の段階へと移行した。
俺の目の前に、俺自身の様々な「未来の姿」が現れ始めたのだ。
『キリングマシーン』を選んだ俺。その両手は血に濡れ、その目には、もはや何の光も宿っていない。ただ、敵を殲滅するためだけの戦闘機械。その周りには、誰もいない。ガドも、老師も、そしていつか出会うはずのゴンやキルアたちも、そのあまりにも強大で冷酷な力を恐れ、離れていってしまっていた。
『ガーディアンソウル』を選んだ俺。その体は、常に傷だらけだった。仲間の攻撃をその身に受け続け、ボロボロになりながら、それでも盾として立ち続けている。仲間は、守れている。だが、俺自身は決して前に出ることはない。俺は、守護者にはなれたが、主人公にはなれなかった。
『不動の精神』を選んだ俺。『絶』が使えないが故に、常に敵にその居場所を察知され続け、終わりのない消耗戦を強いられていた。
『修羅の肉体』を選んだ俺。『円』が使えないが故に、敵の奇襲に全く対応できず、その自慢の肉体を背後からあっさりと貫かれていた。
全ての未来が、俺に語りかけてくる。
『お前は、何を選ぶ?』
『お前の選択は、本当に正しいのか?』と。
そして、十日目の最後の夜。
全ての幻が、消え去った。
暗闇と静寂が、再び戻ってくる。
だが、その暗闇の中に、一つの人影が立っていた。
それは、俺自身だった。
恐怖と迷いに、その顔を歪ませた、もう一人の俺。
『お前は、偽物だ』
暗闇の俺が、言った。
『お前は、この世界の人間じゃない。ただのバグだ。ゲームみたいな能力に頼って、いい気になっているだけの、空っぽの存在だ』
『お前は、ゴンやキルアのような天才じゃない』
『お前は、ジン=フリークスのような本物じゃない』
『お前は、ただの臆病でずる賢いだけの、転生者だ』
その言葉は、俺が心の奥底で、ずっと自分自身に問い続けてきた言葉だった。
俺は、拳を握りしめた。
こいつを、殴り飛ばしてやる。
だが、足が動かない。
そうだ。こいつは、俺自身なのだから。
俺は、こいつから逃げることはできない。
俺はゆっくりと、握りしめていた拳を開いた。
そして、暗闇の中に立つもう一人の俺に、言った。
「…ああ、その通りだ」
俺は、認めた。
「俺は、偽物で、バグで、空っぽだ。天才でもなければ、本物でもない。ただの、臆病でずる賢い転生者だ」
俺は、自分の弱さと歪さを、全て受け入れた。
「だがな」
俺は、続けた。
「このゲームみたいな能力は、俺の力だ。このずる賢さも、臆病さも、全て俺自身だ。俺は、ゴンやキルアにはなれない。だが、俺は俺のやり方でこの世界を生き抜いて、そして俺が守りたいと思ったものを守る。俺の道は、俺だけのものだ。偽物で結構。バグで上等だ!」
俺がそう叫びきった瞬間、目の前にいた暗闇の俺は、ふっと満足げに笑った。
そして、その姿は暗闇の中へと溶けて消えていった。
試練は、終わったのだ。
その時、俺の脳内に、あの聞き慣れた声が響き渡った。
それは、これまでとは比較にならないほど、荘厳な響きだった。
【概念試練『内なる暗闇』を克服しました】
【膨大な経験値を獲得しました】
【レベルアップ! LV 35 -> LV 40】
【スキルポイントを5獲得しました】
【『運命の戦利品』が発動しました…】
俺の目の前の、何もないはずの空間に、一点の光が灯った。
その光は、ゆっくりと一つのアイテムを形作っていく。
それは、まるで一粒の美しい涙のような形をした、水晶だった。
【『後悔のオーブ』(レジェンダリー) を獲得しました】
【効果:一度だけ、全てのスキルポイントをリセットし、自由に振り直すことができる】
これが、試練を乗り越えた俺への報酬。
俺は、そのオーブをそっと手のひらに包み込んだ。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
ガコン、という重い音。
背後で、10日間閉ざされていた洞窟の入り口が、開かれたのだ。
差し込む光に、俺は少しだけ目を細める。
入り口には、老師が静かに立っていた。
俺の姿を見て、老師は何も聞かなかった。
ただ、俺のその目を見て、全てを悟ったようだった。
「…答えは、見つかったようだな」
「はい、師範」
俺は、強く頷いた。
俺の心は、晴れ渡っていた。
もう、迷いはない。