ドウセツ老師との組手で、俺は己の未熟さを骨の髄まで思い知らされた。
レベル3になり、オーラの絶対量が増えたことで、どこかに生まれていた万能感は、木っ端微塵に砕け散った。器が大きくなっただけで、その中身を自在に操るための「技術」が、俺には絶望的に欠けていたのだ。
「宝の持ち腐れ」。
師のその言葉が、俺の心に重く突き刺さっていた。
あの日以来、俺の修行メニューは、再び基礎へと回帰した。だが、その意味合いは以前とは全く違う。一つ一つの修練が、あの敗北の屈辱と、師の教えに直結していた。
俺の一日は、夜明け前の冷たい空気の中で始まる。
まずは、道場の掃き掃除と水拭き。その間、常に「纏」を維持し続ける。これはもう、呼吸と同じレベルの無意識領域に達していた。
そして、朝日が昇る頃、軽い組手が始まる。
相手はもちろん、ドウセツ老師だ。以前のような、本気の殺し合いではない。老師は一切の攻撃をせず、ただ俺の攻撃を受け流し、捌き続ける。その中で、俺に課せられた課題はたった一つ。
「肉体とオーラを、完全に同調させること」。
俺は牙のナイフを構え、一歩踏み込む。狙いは老師の右腕。
しかし、俺の体が動いた瞬間、老師から鋭い声が飛ぶ。
「遅い! 今、お前のオーラは0.3秒遅れて刃先に到達した! それでは斬れるものも斬れん!」
俺は攻撃を中断し、仕切り直す。
次は、拳での突き。
「違う! 拳が相手に当たる『瞬間』にオーラの出力を最大にするのだ! 振りかぶった時からオーラを垂れ流すな、無駄が多い!」
老師の目は、俺のオーラの微細な流れすらも見逃さない。「凝」を使っているわけでもないのに、老師には全てがお見通しなのだ。これが、熟練者の「感覚」。俺がこれから、何年も、何十年もかけて手に入れなければならないもの。
軽い組手とは名ばかりの、神経をすり減らすオーラコントロールの訓練。それが終わると、次は地獄の筋力トレーニングだ。
この世界は、基礎練習が非常に大事だ。強靭な肉体があってこそ、膨大なオーラを宿し、自在に操ることができる。念能力者とは、超能力者であると同時に、超人的な武闘家でなければならないのだ。
俺に課せられたメニューは、常軌を逸していた。
指だけで岩壁を登り、巨大な岩を担いで裏山を駆け回り、滝に打たれながら「練」を維持する。前世の常識で考えれば、完全にオーバーワーク。だが、念能力者はオーラで肉体を活性化させ、傷の治りを早めることができる。この世界のトップクラスは、皆こうして、人間の限界を超えてきたのだ。
そして、一日の全ての修行を終え、夕食と風呂を済ませた後。夜のしじまに包まれた道場で、最後にして、最も過酷な修行が待っていた。
「練」の維持修行。
俺は道場の中央に座し、精神を統一する。
「――練」
全身の精孔を解放し、蓄えたオーラを一気に噴出させる。俺の体を、淡く、しかし力強いオーラの炎が包み込んだ。
レベル3になった俺のオーラ総量は、レベル1の頃とは比較にならない。だが、「練」とは、そのオーラを絶え間なく放出し続ける行為。蛇口を全開にしたまま、水道管の水が尽きるのを待つようなものだ。
ピリピリと、肌が粟立つ。
道場の空気が、俺のオーラで震えているのが分かる。
――5分経過。
まだ余裕だ。体中のエネルギーが満ち溢れている感覚。
――10分経過。
少し息が上がってきた。オーラの放出量が、僅かに揺らぎ始める。ダメだ、一定に保て。老師の教えを思い出す。
――15分経過。
全身から、滝のような汗が噴き出す。心臓が早鐘のように打ち鳴り、呼吸が荒くなる。オーラの炎が、風前の灯火のように明滅を繰り返していた。きつい。頭が、くらくらする。
――19分経過。
もう限界だ。視界が白み始め、耳鳴りがする。体中の細胞が、悲鳴を上げている。まだか。まだ20分経たないのか。
――そして、ちょうど20分が経過した、その瞬間。
俺の体から、フッとオーラが消えた。ガス欠だ。
俺は、糸が切れた人形のように、その場に倒れ込んだ。
「はぁ…っ、はぁ…っ、ぜぇ…っ…!」
指一本動かせない。道場の冷たい床が、火照った体に心地よかった。
情けない。たった20分。たった20分で、俺のオーラは底をついてしまうのか。
俺は、壁際で瞑想していた老師に向かって、振り絞るような声で叫んだ。
「師範…っ! この修行、キツイです…!!!」
ほとんど、泣き言に近かった。
毎日毎日、血の滲むような努力を続けているはずなのに、その成長は亀の歩みよりも遅い。俺の心は、折れかけていた。
そんな俺に、老師は、目を開けることなく、静かに答えた。
「うむ。――千里の道も、一歩からだ」
その言葉は、あまりにも静かで、あまりにも重かった。
俺は、何も言い返せなかった。
そうだ、分かっている。近道など、ないのだ。
だが、俺の心の中では、黒い感情が渦巻いていた。
(……千里の道も、一歩から、か。けどな、師範。俺が知ってる物語の主人公たちは、もっと効率よく強くなってたんだよ)
脳裏に浮かぶのは、ゴンとキルアの姿だ。
彼らは、ビスケという一流の師範の元で、彼女の念能力『魔法美容師(マジカルエステ)』によって、修行の疲労を瞬時に回復させ、常識はずれの速度で成長していった。
天才的な才能に、最高の環境、そして、チート級のサポート能力。
それに比べて、俺はなんだ?
持っているのは、凡才としか言いようのない肉体と、孤独な修行環境だけ。
俺の能力は、敵を倒さなければ発動しない。修行そのものを楽にしてくれるような、便利な力じゃない。
(この修行はキツイぞ…。毎日、毎日これかよ…)
体の痛みと、心の弱音が、俺を苛む。
俺の手元には、「近道」がある。喉から手が出るほど、使いたくなるような、甘い誘惑が。
(……スキルツリー、使いたくなるな…)
その黒い誘惑を振り払えないまま、俺はその夜、泥のように眠った。
次の日。
俺は、昨夜の疲労を引きずったまま、早朝の道場にいた。
まだ誰もいない。俺は、道場の中央に座り、静かに目を閉じた。
心の中で、俺は自分の能力の根幹…スキルツリーの画面を展開させる。
【カイ:LV 3】
【スキルポイント:2】
【取得可能スキル】
・オーラ総量 LV 2 (消費SP: 2)
・身体強化 LV 1 (消費SP: 1)
・近接攻撃基礎 LV 1 (消費SP: 1)
・念能力基礎 LV 1 (消費SP: 1)
L 『練気持続力向上 LV1』(消費SP: 1)
L 『纏気強度向上 LV1』(消費SP: 1)
・etc…
あった。
俺の目に、一つのスキルが飛び込んでくる。
『練気持続力向上 LV1』。
その説明文には、こう書かれていた。「“練”の状態を維持できる時間が、20%向上する」。
たった1ポイント。たった1ポイント消費するだけで、昨日の地獄のような修行が、20%も楽になる。20分が、24分になる。それは、今の俺にとって、とてつもなく魅力的な効果だった。
(…うーん…)
俺は、悩んだ。
(使うか…? 使ってしまえば、楽になる…。だけど…もったいない、か…?)
老師の言葉が蘇る。
『基礎能力は、なるべくお前自身の力で身につけていく方がいい』
『スキルポイントという『近道』に頼って得た技術は、脆い』
(俺のレベルは、多分100まである。まだレベル3だ。ポイントは、これから先、まだまだ余裕がある。けど…)
俺は、未来を想像する。
キメラ=アントとの死闘。幻影旅団との駆け引き。暗黒大陸から来る災厄。
その時、俺はどんな敵と対峙している? どんな絶望的な状況にいる?
もしかしたら、「毒への完全耐性」とか、「特定の操作系能力を無効化する」みたいな、修行では絶対に得られないスキルが必要になるかもしれない。その時、この「たった1ポイント」が、俺の生死を分けるかもしれないのだ。
(これは、基礎練習で伸ばすしかないんだ。高等技術も、まだまだ先の話だしな…)
俺は、スキルツリーの画面を睨みつけ、そして、ゆっくりと閉じた。
決めた。俺は、この誘惑に勝つ。
(修行、修行、修行しかないな)
俺の心は、決まった。
楽な道はない。俺が選んだのは、いばらの道だ。
だが、その先にこそ、本物の強さがあると信じて。
俺は立ち上がり、道場の掃除を始めた。
いつもの、修行の一日が始まる。
だが、今日の俺の心は、昨日までとは違った。
迷いを振り切った人間の心は、鋼のように強い。
その日の夜。
俺は、再び「練」の維持修行に臨んでいた。
昨日と同じ、地獄のような苦しみ。全身の細胞が、悲鳴を上げる。
だが、俺は歯を食いしばって耐えた。
昨日、意識が遠のいた20分の壁。
その壁を、俺は、超えた。
――20分10秒。
たった10秒。されど、10秒。
それは、俺がスキルポイントという近道に頼らず、自分自身の意志で、自分の限界をほんの少しだけ超えた証だった。
倒れ込み、荒い息を繰り返しながら、俺は、笑っていた。
千里の道も、一歩から。
師範。俺は今、確かに、自分だけの力で、その「一歩」を踏み出しましたよ。
その小さな一歩が、未来の俺を支える、巨大な礎になると信じて。
俺の、本当の修行が、また一つ、始まった。