地道で過酷な基礎修行を始めてから、数ヶ月が経過した。
俺の『練』の維持時間は、涙ぐましい努力の末、20分から40分近くまで伸びていた。オーラと肉体の同調も、以前とは比べ物にならないほど滑らかになり、俺は自分が確かに、しかしゆっくりと成長していることを実感していた。
そんなある日の昼下がり。道場の引き戸が、ガラリと音を立てて開かれた。
現れたのは、見知らぬ男だった。身なりの良い、しかしその顔には深い疲労と心労が刻まれている。隣町で商業組合の長をしているというその男は、ドウセツ老師の前に深々と頭を下げた。
用件は、シンプルかつ深刻だった。
隣町と、こちら側の街を繋ぐ山道にある古い砦に、素性の知れない盗賊団が居座り、道行く商人や旅人を襲っているのだという。最初は金品を奪うだけだったのが、最近では抵抗した者への暴力が激化し、死者まで出始めているらしい。
「どうか、ドウセツ様のお力をお貸しいただけないでしょうか。我々では、もはや手の打ちようが…」
男は、ほとんど懇願するように言った。
俺が暮らすこの辺りは、良くも悪くも田舎だ。ハンター協会に正式な依頼を出すようなルートも、時間もないのだろう。だからこそ、この地域で最強の武人として知られる老師を頼ってきたのだ。
老師は、黙って男の話を聞いていたが、やがて静かに頷いた。
「…承知した。その盗賊団、我ら心源流が対処しよう」
その言葉に、俺の心臓が大きく跳ねた。
「我ら」。それは、俺も含まれているという意味だ。
これまで、魔獣は狩ってきた。だが、相手は人間。それも、平気で人を殺すような悪党だ。
これは、修行ではない。本物の、実戦。
組合長が帰った後、老師は俺に向き直った。
「カイ。準備をしろ。今夜、二人で山へ向かう」
「…はい。ですが師範、相手はただの盗賊です。師範がお一人で向かわれれば、一瞬で…」
「たわけ者」
俺の言葉を、老師は一喝した。
「これは、お前のための試練だ。魔獣をいくら狩ろうと、それは『狩り』に過ぎん。人間の内に渦巻く悪意、狡猾さ、そして命の駆け引き…それと対峙して初めて、お前は本当の『戦い』を知る。お前の力が、ただの自己満足で終わるか、あるいは、誰かを守るための力となり得るのか。今夜、それが試されるのだ」
老師の言葉に、俺は唇を噛んだ。
そうだ、俺が力を求めたのは、ただ強くなりたいからだけじゃない。原作で描かれた数々の悲劇。助けを求める人々の叫び。その未来を知っているからこそ、俺は、無力なままではいられないと思ったのだ。
これは、そのための、最初の戦い。
「…オス。準備します」
俺は覚悟を決め、力強く頷いた。
その夜、俺と老師は、月明かりだけを頼りに、問題の山道を進んでいた。
目指す砦は、かつてこの地を治めていた領主が建てたものらしい。今は廃墟と化し、盗賊団のアジトとしては格好の場所なのだろう。
「いいか、カイ。敵の数は、おそらく数十人規模。そのほとんどが念を知らん、ただの荒くれ者だろう。だが、油断はするな」
移動しながら、老師が作戦を説明する。
「我々は『絶』を使い、完全に気配を消して砦に侵入する。そして、警備の者から一人ずつ、静かに、確実に無力化していく。決して騒ぎを起こすな。これは、お前の潜入と暗殺の技術を試す試験だ」
暗殺。その言葉の響きに、俺の背筋が凍った。
だが、これは必要なことだ。俺の能力は、敵を倒してこそ真価を発揮する。そして、正面から数十人を相手にするのは、いくらレベル3の俺でも無謀すぎる。
砦に到着した俺たちは、その規模に息を飲んだ。石造りの、思った以上に堅牢な砦だ。あちこちに松明が焚かれ、見張りの男たちが欠伸をしながら槍を手に立っている。
俺と老師は、アイコンタクトだけで意思を疎通させ、同時に『絶』を発動させた。
フッと、俺たちの存在感が、闇夜に溶けて消える。
俺たちの最初のターゲットは、城壁の上を巡回していた一人目の見張りだった。
老師が、無言で「行け」と顎で示す。
俺は頷き、城壁の影を伝って、音もなく見張りの背後へと忍び寄った。
心臓が、うるさいほどに鳴っている。
相手は人間だ。本当に、やれるのか。
一瞬の躊躇。その迷いを、老師の厳しい視線が断ち切った。
――やらなければ、俺がやられる。そして、この先の未来で、俺が守りたいものも守れなくなる。
俺は覚悟を決め、最後の数歩を詰めた。
男が、何か物音に気付いて振り返ろうとする、その寸前。
俺は、右手に握った牙のナイフの柄で、男の延髄を強かに打ち据えた。
「ぐっ…」
短い呻き声と共に、男は崩れ落ちる。殺してはいない。だが、数時間は目を覚まさないだろう。
その瞬間、俺の脳内に、あの久々の声が響いた。
【盗賊を無力化しました】
【経験値200ポイントを獲得】
(…に、200ポイント!?)
俺は驚愕した。あの飛翼蛇ですら、30ポイントだった。人間の、それも念能力者でもないチンピラ一人が、その約7倍もの経験値を持っているというのか。
魔獣と人間では、得られる経験値の算出方法が根本的に違うらしい。
そして、経験値ゲージが一気に満たされる。
【レベルアップ! LV 3 -> LV 4】
【スキルポイントを1獲得しました】
なんと、たった一人を倒しただけで、レベルが一つ上がった。
体の奥から、力が湧き上がってくる。先ほどまでの戦闘の緊張で消耗したはずのオーラが、全快どころか、以前よりも大きく、強固なものになっていく。
(対人戦は、こんなにも経験値が良いのか…!)
俺は、自分の能力の新たな可能性と、その恐ろしさを同時に垣間見た気がした。
俺の初仕事を、老師は満足げに見届けていた。
そして、再び顎で、次の獲物を示す。
俺たちは、まるで闇に紛れた二匹の獣のように、砦の中を静かに、しかし着実に進んでいった。
二人目の見張りは、背後から口を塞ぎ、首筋に手刀を落として昏倒させる。
【盗賊を無力化しました。経験値190ポイントを獲得】
三人目と四人目は、二人組だった。老師が陽動のために小石を投げ、注意がそれた一瞬の隙に、俺が二人まとめて仕留める。
【盗賊を無力化しました。経験値210ポイントを獲得】
【盗賊を無力化しました。経験値200ポイントを獲得】
【レベルアップ! LV 4 -> LV 5】
【スキルポイントを1獲得しました】
もはや、作業だった。
俺の動きからは、最初の躊躇が完全に消えていた。
『絶』で気配を消し、死角から忍び寄り、急所を的確に攻撃して無力化する。
レベルが上がるたびに、俺の身体能力は向上し、動きはさらに洗練されていく。オーラの絶対量が増え、多少の無理な動きをしても、スタミナが尽きる気配はなかった。
レベル5、レベル6、レベル7…。
俺のレベルは、面白いように上がっていった。
まるで、ボーナスステージだ。
砦の中庭にたむろしていた五人組を、物陰からの一瞬の急襲で片付けた時、ついに俺のレベルは、二桁の大台に乗っていた。
【レベルアップ! LV 9 -> LV 10】
【スキルポイントを1獲得しました】
【称号『駆け出しの狩人』を獲得しました】
レベル10。
最初の岩猪を倒した時から、俺の強さは、もはや別次元に到達していた。
全身にみなぎるオーラは、以前とは比べ物にならないほど濃密で、力強い。
そして、俺の能力は、経験値だけでなく、装備も着実にドロップしていた。
一体、何人倒しただろうか。二十人近くは片付けたはずだ。
その結果、俺の装備は、いつの間にか一新されていた。
【盗賊の革鎧(レザーアーマー)】(N)
【盗賊の革篭手(レザーガントレット)】(N)
【盗賊のすね当て(レザーグリーブ)】(N)
【盗賊のブーツ】(N)
【使い古された鉄の短剣(アイアンダガー)】(N)
どれもレアリティはノーマルで、特殊能力はない。だが、頑丈な革製の防具は、最低限の防御力を提供してくれたし、鉄の短剣は、牙のナイフよりも殺傷力は高いだろう。
俺は、さながらゲームのキャラクターが、初期装備から一つ上の装備に一新したような姿になっていた。
砦の、最後の扉の前。
そこには、この砦のボスがいるはずだ。
俺は、自分の急激な成長に、興奮を隠せないでいた。
「師範。対人だと、経験値が良いみたいですね。装備も、5個も出来ましたし」
俺が、少し浮かれた声でそう言うと、老師は、静かに、しかし厳しい声で俺を諌めた。
「…カイ。その力に、決して溺れるな」
老師の目は、月明かりの下で、鋭く光っていた。
「お前が今得た経験値とは、お前が踏み躙った、二十人分の人生の重みだ。相手が悪党であろうと、その事実は変わらん。その力を、人を傷つける力を、軽々しく口にするな。その重みを、決して忘れるな」
老師の言葉に、俺はハッとした。
そうだ、俺は、少し調子に乗りすぎていた。
レベルアップの快感に、力の全能感に、俺は、自分がやっていることの本当の意味を忘れかけていた。
これは、ゲームじゃない。現実だ。
俺は、自分の未熟さを恥じ、深く頭を下げた。
「…申し訳ありません、師範」
老師は、それ以上何も言わなかった。
だが、その沈黙が、何よりも雄弁に、俺に事の重さを教えてくれていた。
老師が、重い扉に手をかける。
「…来るぞ、カイ。この奥にいる男…これまでの雑魚とは、違う」
扉が開かれると同時に、ビリビリと肌を刺すような、邪悪なオーラが溢れ出してきた。
間違いない、念能力者だ。
扉の奥は、広間になっていた。
無数の金銀財宝が山と積まれ、その上に、一人の大男が、玉座のように腰掛けていた。
筋骨隆々とした体に、顔には大きな傷跡。その目には、人を人とも思わない、残虐な光が宿っている。
「…ほう? ネズミが二匹、紛れ込んでいたか。それも、こそこそと人のオーラを嗅ぎ回る、厄介なネズミのようだな」
男が、ニヤリと笑う。
俺たちに気付いていた。いや、おそらく、俺たちが砦に入った時から、念能力者である俺たちの存在には気付いていたのだろう。部下たちがやられている間も、ここで悠々と待ち構えていたのだ。
「カイ」
老師が、俺の肩に手を置いた。
「この男は、ワシがやるよりも、お前が戦った方が良い。お前にとって、最高の『経験値』となろう」
そして、老師は俺から一歩下がり、こう告げた。
「ここは、一体一(サシ)で仕留めろ。お前にとって、初の念能力者との実戦だ。心してかかれ」
全身の血が、逆流するような感覚。
レベル10になったという自信が、目の前の男が放つ、濃密な悪意のオーラの前に、急速にしぼんでいく。
こいつは、強い。
これまで俺が戦ってきた、どんな魔獣とも、比べ物にならない。
そして、俺の能力には、『敗者の烙印(スティグマ・オブ・ルーザー)』がある。逃げることも、負けることも、許されない。
俺は、震える喉で、かろうじて、一つの言葉を絞り出した。
「…オス」
それは、武者震いか、恐怖か。
あるいは、その両方か。
目の前の男が、ゆっくりと玉座から立ち上がる。
ゴキゴキと、指の骨を鳴らしながら、その口元には、獲物を見つけた獣のような、残忍な笑みが浮かんでいた。
そして、勝負へ――。
俺の、本当の初陣が、今、始まろうとしていた。