砦の石壁に囲まれた中庭に、乾いた打撃音と鋭い風切り音が断続的に響き渡っていた。
陽光は既に高く昇り、俺の額から流れ落ちる汗は地面に染みを作る間もなく蒸発していく。対峙しているのは、我が師ドウセツ老師。その佇まいは古木のように静かでありながら、いかなる嵐にも揺るがぬ威厳と、いつ如何なる瞬間にも爆発しうるエネルギーの胎動を秘めていた。
俺は盗賊団の頭領との戦いで手に入れたばかりのレア装備、『闘拳(ナックルダスター)』を両拳に固く嵌めている。無骨な鉄の塊は、俺のオーラに呼応して鈍い光を放ち、その存在感を主張していた。レベル12に上がったことで、俺の身体を駆け巡るオーラの総量は以前とは比較にならない。質も量も、数日前の自分とはまるで別人だ。
「ハァッ!」
気合と共に踏み込み、闘拳を纏った右拳を老師の顔面目掛けて突き出した。頭領戦で見せた直線的な突進とは違う。心源流の体術に則った、腰の回転と体重移動を連動させた一撃。自分でも、その速度と威力には確かな手応えを感じていた。オーラを込めれば込めるほど破壊力が増すという『応報』の特殊能力が、俺の拳をさらなる凶器へと昇華させる。
だが、老師は動かない。
俺の拳がその顔の皮膚を捉える寸前、老師の身体がふっと霞んだ。いや、動いていないように見えて、最小限の動きで俺の拳の軌道を完全に見切り、体捌きだけで回避しているのだ。空を切った俺の拳は、その勢いのまま前へと流れ、体勢がわずかに崩れる。
その一瞬の隙を、老師が見逃すはずもなかった。
「甘い」
静かな呟きと共に、視界の端から伸びてきた手刀が、俺の闘拳の側面を軽く打ち据える。
「ぐっ…!?」
軽い接触。それなのに、まるで巨大な鉄槌で殴られたかのような衝撃が腕から肩、そして全身へと駆け巡った。痺れと痛みで右腕の感覚が一瞬麻痺する。老師は俺のオーラの流れ、力のベクトルを完璧に読み切り、その一点に自らのオーラを凝縮させてカウンターを合わせたのだ。これが、達人の技。
俺は即座に後方へ跳び、距離を取る。痺れの残る右腕を振り、感覚を取り戻しながら呼吸を整えた。
「…くそっ」
悔しさが口をついて出る。レベルが上がり、新たな武器も手に入れ、明らかに強くなったはずなのに、老師との距離は一向に縮まったように感じられない。それどころか、自分の成長度合いを測る物差しである老師の存在が、以前よりもさらに巨大に見えていた。
「どうした。もう終わりか」
老師は静かに告げる。その双眸は、俺のオーラ、筋肉の動き、呼吸のリズム、心の揺らぎ、その全てを見透かしているかのようだ。
「今の動き、頭領との戦いをなぞったか。確かに威力と速度は増している。闘拳の能力も、お前の特質系という性質と噛み合っているようだ。だがな…」
老師は言葉を区切り、すっと間合いを詰めた。俺が反応するよりも速く、その指先が俺の胸の中心、鳩尾の寸前でぴたりと止まる。冷たい汗が背筋を伝った。俺の『凝』では、その動きの起こりすら捉えきれなかった。
「お前の動きには、まだ『驕り』が見える。力が付けば付くほど、人はその力に頼り、思考が単純になる。頭領との戦い、お前が勝てたのはなぜだ? 純粋な力比べで勝てたのか?」
「…いいえ」
俺は唇を噛み締めながら答えた。
「奴の慢心を突き、策で勝ちました」
「そうだ。お前は格上の敵に対し、己の持つ札を全て使い、状況を操作し、乾坤一擲の奇策で勝利をもぎ取った。お前の武器は、そのレベルアップによる成長能力だけではない。その頭脳こそが、お前の最大の武器であることを忘れるな。力を得て、その武器を錆びつかせることほど愚かなことはない」
老師の言葉が、深く胸に突き刺さる。そうだ。頭領との戦いは薄氷の勝利だった。関節技で腕を折り、渾身の一撃を装備とオーラで耐え凌ぎ、心理的に追い詰めてようやく手にした勝利。一つでも歯車が狂えば、今頃俺はここにいなかっただろう。あの勝利に浮かれていた自分を、老師は完全に見抜いていた。
俺は一度大きく深呼吸し、闘拳を構え直す。
「もう一本、お願いします」
俺の目から驕りの色が消え、再び挑戦者の鋭い光が宿ったのを見て、老師は満足げに微かに頷いた。
そこから数時間、俺は無心で老師に打ち込み続けた。体術、念の攻防、フェイントの応酬。老師は俺の攻撃をいなし、捌き、時には圧倒的な力量差で弾き返しながら、的確な助言を与え続ける。
「足捌きが疎かだ。上半身の力に頼りすぎている」
「オーラの『流』が淀んでいる。攻撃の瞬間だけ『硬』に近づける意識は良いが、防御への切り替えが遅い」
「その武器は強力だが、それ故に大振りになりがちだ。もっと内側へ、コンパクトに打ち込む術を覚えろ」
全身が鉛のように重くなり、肺が焼け付くように痛む。オーラも消耗し、思考が鈍り始める。それでも、俺は動きを止めなかった。この修行の一瞬一瞬が、俺を確実に強くしている。その実感だけが、俺を突き動かしていた。
やがて、太陽が中天からやや西に傾きかけた頃、老師がふと動きを止めた。
「…そこまでだ」
その一言で、張り詰めていた糸が切れ、俺はその場にへたり込んだ。全身の筋肉が悲鳴を上げ、汗が滝のように流れる。
「はぁ…はぁ…っ…」
荒い呼吸を繰り返す俺を見下ろし、老師は静かな口調で言った。
「うむ、なかなかの練をするようになったな。レベル12に上がったのもあるだろう。これなら、初心者卒業ぐらいにはなったと言えよう」
「しょ、しんしゃ…卒業、ですか」
息も絶え絶えになりながら、俺は師の言葉を繰り返した。それは、初めて聞く明確な評価だった。盗賊団の頭領を倒したというのに、まだ初心者。だが、その評価に不満はなかった。今の修行で、自分の未熟さを骨の髄まで思い知らされたからだ。むしろ、ようやくスタートラインに立てたという安堵感すらあった。
「うむ。だが、中級者まではまだまだ遠い」
老師は厳しい言葉を続ける。
「しかし、お前のその特異な能力で、その道のりは大きく短縮できるやもしれんな。そうだ、頭領を倒したことで、また新たな力を得る機会があったのだろう。スキルポイントとか言ったか。それに余裕が出たはずだ。どんなスキルを振るか、もう決めたのか?」
老師は近くにあった石段に腰を下ろし、俺に視線を向けた。修行の厳しさとは打って変わって、その眼差しはどこか穏やかで、純粋な興味に満ちているように見えた。俺の持つ『ハクスラ能力』は、この世界の念能力の常識から大きく逸脱している。老師ほどの達人であっても、その未知の力には強い関心を抱いているらしかった。
俺はぜえぜえと息を整えながら、ゆっくりと上体を起こす。
「いやー、まだですね。いくつか面白そうなのは見つけたんですけど、どれも一長一短というか…。決めかねてて」
「ほう。聞かせてもらおうか。お前の言う『スキルツリー』とやらは、どのような選択肢を提示している?」
老師に促され、俺は脳内に表示されるスキルツリーの情報を思い出しながら、口を開いた。
「まず、防御系のスキルですね。『スティールスキン』っていうのを付与できるようになります。説明によると、効果時間中、受けたダメージをスキルが持つ『耐久値』で肩代わりしてくれるみたいです。一度使うと、次に使えるまでクールタイムが8秒かかりますけど」
「ほう…スティールスキン、鋼鉄の皮膚か」
老師は顎に手をやり、思案するように目を細めた。
「ダメージの肩代わり、か。面白い能力だ。それは、お前のオーラとは別に存在する防御壁のようなものか? それとも、お前のオーラを瞬間的に鋼鉄の如き硬度へと変化させる補助的な能力か」
「えっと、たぶん前者…だと思います。オーラとは別に、スキル固有のHPみたいな『耐久値』があって、それがゼロになるまでダメージを無効化してくれる、みたいな感じですね」
「なるほど。つまり、純粋な防御回数、あるいは防御量を一つ増やすに等しいわけだ。確かに強力だな。頭領との戦い、最後の左拳をお前は革鎧とオーラの集中防御で受け止めた。もし、そこにその『スティールスキン』があれば、あるいは無傷とは言わずとも、より少ないダメージで凌げたやもしれん。生存確率を上げるという意味では、非常に優れた能力と言えよう」
老師の分析は的確だった。俺もまさに同じことを考えていた。あの時の一撃は、本当に紙一重だった。装備の性能、咄嗟の判断、そして運。それらが噛み合って、ようやく致命傷を避けられたに過ぎない。確実に生き残るための保険として、『スティールスキン』は非常に魅力的だった。
「良い能力じゃないか。過信は禁物だがな」と老師は付け加える。「それに頼り切りになり、念能力の基本である『堅』や『流』の鍛錬を怠れば、いざそのスキルが使えない状況、あるいは耐久値を超える攻撃を受けた時に、あっさりと命を落とすことになる。あくまで補助、二手三手先の備えの一つと考えるべきだろう」
「はい。肝に銘じます」
「他にはどんなものがある?」
「次はサポート系ですね。『迅速のオーラ』っていうのを展開できるようになります。これは、自分と、範囲内にいる味方の攻撃速度や移動速度にバフを掛ける、つまり強化するタイプの能力です」
「範囲効果だと?」
老師の目が、わずかに見開かれた。
「自分の能力を、他者にまで及ぼすのか。それも、速度強化という形で。それは…極めて希少で、価値の高い能力だぞ」
老師の声には、先ほどのスティールスキンについて語っていた時とは明らかに違う、強い響きが籠っていた。
「念能力において、他者へ直接的に、かつ有益な効果を及ぼす能力は少ない。特に、お前のような特質系の能力者が、だ。強化系は、その性質上、己の肉体を強化することに特化する。他者を癒す、あるいは強化するというのは、どちらかと言えば放出系や変化系の応用、あるいは特殊な制約を課した具現化系や特質系の領域だ。それを、特質系であるお前が、範囲効果として発動できるとなれば…それは戦局を覆しうる一手となり得る」
「もう一つ、似たようなサポート系のスキルがあります」
俺は続けた。
「『活力のオーラ』です。効果は、治癒能力を爆発的に上げる強化系のオーラを、自分と周囲に張ることができる、というものです。これも範囲効果ですね」
「…治癒能力の強化」
老師は天を仰ぎ、深く息を吐いた。
「なんという…なんという規格外な力だ。迅速のオーラが戦術レベルで戦局を左右する力ならば、活力のオーラは戦略レベルで、一つの戦い、いや、一つの組織の運命すら変えかねん力だ。負傷した仲間を、その場で高速回復させる。それは、兵力の消耗を劇的に抑え、継戦能力を飛躍的に向上させる。通常の念能力者であれば、治癒能力の向上は強化系の得意分野ではあるが、それを他者にまで、それも範囲で及ぼすなど、聞いたことがない」
老師は俺の顔をじっと見つめた。その視線は、もはや単なる興味ではない。畏怖と、そして一抹の懸念のようなものが入り混じった、複雑な色を帯びていた。
「お前という存在は、儂の長年の経験と知識を根底から揺さぶる。スキルツリー、レベルアップ、そしてこれらのスキル…。お前の進む道は、我々が歩んできた念の王道とは、全く異なる理で出来ているようだ」
老師の言葉に、俺は自分の力の特異性を改めて突きつけられる。ただ便利で強力な能力だと思っていたスキル群が、この世界の常識からすれば、ありえない奇跡の連続なのだ。
「うーむ…選択肢が多くて悩むのう」
老師は、まるで自分のことのように腕を組み、唸った。
「防御を固め、己の生存を確実にするか。それとも、他者を助け、集団を勝利に導く力を手にするか。どちらも捨てがたい。どちらも、使い方次第では比類なき価値を持つ」
「そうですねー…」
俺は正直な気持ちを吐露した。
「今の俺に、足りない点を補えればな、とは思うんですけど…」
その言葉に、老師はふと表情を和らげた。
「ほう。足りない点、か。具体的になにが足りないと感じている?」
その問いに、俺は頭領との死闘をありありと思い返していた。
「全てです」
俺は即答した。
「純粋な戦闘能力、オーラの総量、技術、経験…。全てにおいて、あの頭領は俺を上回っていました。俺が勝てたのは、さっき老師が言った通り、奴が驕っていたから。俺を格下だと完全に見下し、能力を自ら開示し、大振りな攻撃を繰り返してくれたから。もし奴が、もっと慎重で、老獪な戦い方をするタイプだったら、俺に関節技を極める隙など与えずに、一方的に蹂躙されて終わっていたはずです」
俺は自分の拳に嵌められた『闘拳』を見つめる。これは勝利の証だが、同時に、俺がどれほど危険な綱渡りをしていたかの証左でもあった。
「最後の左拳。あれを受けた時、俺は死を覚悟しました。盗賊の革鎧と、咄嗟に集中させたオーラがなければ、胸を貫かれて即死だった。あれは、俺の防御力が足りていなかった証拠です。だから、『スティールスキン』で確実に攻撃を防げる手段を増やしたい。まず、自分が死なないこと。それが大前提だと思うんです」
自分の生存を最優先する。それは、決して臆病な考えではないはずだ。生き残らなければ、強くなることも、誰かを守ることもできない。
「だが…」
俺は言葉を続ける。
「あの戦いを思い返すと、同時にこうも思うんです。もしあの場に、俺以外の誰か…例えば、老師のような頼れる仲間がいたら、どうだっただろう、と」
俺の脳裏に、まだ見ぬ仲間たちの姿がぼんやりと浮かぶ。
「『迅速のオーラ』があれば、仲間の攻撃を加速させて、もっと多くの隙を作り出せたかもしれない。『活力のオーラ』があれば、万が一仲間が傷ついても、すぐに戦線に復帰させられたかもしれない。俺一人で戦うことだけを考えるなら、これらのスキルは宝の持ち腐れになるかもしれない。でも、いつか誰かと共に戦う日が来るのなら、これほど頼もしい力はないんじゃないかって…」
攻防一体の自己完結型ファイターを目指すのか。
それとも、仲間を支援し、集団の力を何倍にも引き上げるサポーター、あるいは指揮官を目指すのか。
スキルポイントの割り振りという、たった数ポイントの選択が、俺という念能力者の今後の『在り方』そのものを決定づけてしまうような、途轍もなく重いものに感じられた。
俺の葛藤を聞き終えた老師は、静かに目を閉じた。しばらくの間、中庭には風の音だけが流れる。やがて、ゆっくりと目を開けた老師は、諭すように言った。
「お前の悩みはもっともだ。それは、全ての力が道半ばにある者が、いずれ必ず突き当たる壁だ。己の力をどこへ向けるのか。何を成すために、その力を振るうのか」
老師は立ち上がり、俺の隣に並ぶ。その視線は、砦の壁の向こう、どこか遠くを見据えているようだった。
「儂が知る限りでも、様々な念能力者がおった。一撃必殺の威力を求め、攻撃以外の全てを切り捨てた者。鉄壁の防御を極め、決して倒れぬ盾として仲間を守り抜いた者。不思議な治癒の力で、幾多の命を救い戦場を支え続けた者。彼らは皆、自らの信じる道を選び、その道を極めようとした。どの道が正しく、どの道が間違っているということはない。ただ、選んだ道と、その結果があるだけだ」
「だがな」と老師は俺に向き直る。
「お前は、彼らとは少し違うのかもしれん。お前の能力の真価は、先ほども言ったが、その異常なまでの成長速度と、この『スキルツリー』がもたらす選択の自由度にある。一つの型に、無理に嵌る必要はないのかもしれんな」
「型に、嵌る必要がない…?」
「うむ。例えば、こう考えることはできんか。今は、お前が最も必要としている『生存』のための能力を優先する。つまり、『スティールスキン』だ。まず己が生き残る術を確固たるものにする。だが、それはあくまで『今』の選択に過ぎない。レベルが上がれば、また新たなスキルポイントが手に入るのだろう? その時、将来仲間ができた時のために、『迅速のオーラ』や『活力のオーラ』への布石を打つ。お前は、一つの道を選ぶのではなく、複数の道を同時に、段階的に歩むことができるのではないか?」
複数の道を、同時に。
その言葉は、俺の凝り固まった思考に風穴を開けるような衝撃を与えた。そうだ。俺の能力は、一度決めたら後戻りできない、というものではない。レベルを上げ続ければ、いずれ全てのスキルを習得することだって可能かもしれないのだ。今はこれ、次はあれ、と、状況に応じて自分をカスタマイズしていく。それこそが、俺の持つハクスラ能力の、本当の使い方なのかもしれない。
「…なるほど」
俺の口から、感嘆のため息が漏れた。悩みの霧が、すっと晴れていくような感覚だった。
「まずは、生き残るための防御を固める。そして、力が付けば、仲間を守るための力も手に入れる…。そうか、そういう考え方もあるんですね」
「あくまで一つの考え方に過ぎん。最終的にどうするかは、お前自身が決めることだ」
老師はそう言うと、ふっと笑みを浮かべた。それは、修行中に見せる厳しい顔とは全く違う、弟子の成長を心から喜ぶ師の顔だった。
「いずれにせよ、まずは己が生き残らねば、誰かを守ることも、道を究めることもできん。基礎を固めよ。スキルはその上にある応用に過ぎんということを忘れるな。…さて、雑談はここまでだ。立て。修行の続きを始めるぞ」
「はいっ!」
俺は力強く返事をし、再び大地を踏みしめて立ち上がった。
体の疲労は変わらない。だが、心は驚くほど軽くなっていた。
進むべき道が見えた。今はただ、目の前の壁を一つ一つ乗り越えていくだけだ。
闘拳を固く握り直し、老師と向き合う。
脳裏には、先ほどまで悩んでいたスキルツリーの画面が広がっていた。
『スティールスキン』のアイコンに、まずポイントを振ろう。
そして、いつか手に入れるであろう『迅速のオーラ』や『活力のオーラ』の輝きを思い描きながら、俺はまだ見ぬ仲間たちのいる未来へと、力強い一歩を踏み出した。