盗賊団との戦いから、三月(みつき)ほどの時が流れた。
季節は、燃えるような夏から、全てが静かに色褪せていく秋へと移ろいでいた。
その日、俺、カイは、ドウセツ老師と共に、隣町の外れにある古びた刑務所の前に立っていた。高くそびえる石壁は、長年の風雨に晒されて黒ずみ、そこから放たれる陰鬱な雰囲気は、秋風の冷たさと相まって肌を粟立たせる。
やがて、俺たちの目の前にある重い鉄の扉が、錆び付いた蝶番を軋ませながら、ゆっくりと開かれた。
現れたのは、一人の男。
数ヶ月ぶりに見るその顔には見覚えがあったが、その姿は、俺の記憶にあるものとはまるで別人だった。
筋骨隆々としていた体は一回りも二回りも痩せ、無造作に伸ばしていた髪は、短く刈り込まれている。着ているのは、囚人服から着替えたばかりの、何の変哲もない簡素な衣服。そして何より、あの戦いの時に宿していた凶暴で驕り高ぶった光は、その双眸から消え失せていた。代わりにそこにあるのは、社会から隔絶された者特有の、どこか虚ろで、それでいて心の奥底で何かが燻っているような、複雑な光だった。
盗賊団の頭領、ガド。
俺が初めて、死闘の末に打ち負かした念能力者。
「ドウセツ様、お約束通り。身元引き受け、感謝いたします」
刑務官と思われる男が、老師の前に深々と頭を下げた。
「くれぐれも、問題を起こさぬよう…。次に何かあれば、我々としても…」
「うむ。全て、ワシが責任を持つ」
老師は、静かに、しかし有無を言わせぬ響きでそう答えると、門の前に立ち尽くすガドに視線を向けた。
「行くぞ」
ただ、その一言だけだった。
ガドは何も答えず、刑務官に一瞥をくれることもなく、ただ黙って老師に一礼した。その時、俺と一瞬だけ視線が交錯する。俺は反射的に身構えたが、ガドはすぐに目を逸らし、うつむいてしまった。
こうして、俺と老師、そしてかつての敵であるガドという、奇妙な三人での道場への帰路が始まった。
道中は、誰一人として口を開かなかった。
カサカサと、俺たちの足が枯れ葉を踏む音だけが、やけに大きく聞こえる。
俺は、老師の数歩後ろを歩きながら、そのさらに後ろをついてくるガドの気配を常に感じていた。憎しみや殺意といった分かりやすい感情は、今のガドからは感じられない。だが、その代わりに、得体の知れない澱んだ感情の塊のようなものが彼の全身から滲み出ているようで、俺は片時も気を緩めることができなかった。
この三ヶ月、俺は俺で、修行に明け暮れていた。
盗賊団との戦いで得た経験値とスキルポイントは、俺をさらに成長させた。レベルは14に到達し、オーラの絶対量は、もはや老師との最初の組手の頃とは比べ物にならない。だが、俺はスキルポイントには一切手を付けていなかった。老師の教えを守り、まずは自力で基礎技術の精度を上げることに専念していたのだ。
そんな俺の日常に、ガドは、あまりにも唐突な異物として再び現れた。
老師が、ガドの身元引受人になるために、街の有力者たちと何度も話し合い、多額の保証金を積んだという話は、人づてに聞いていた。
(なぜ、師範はあんな男のために、そこまでするんだ…?)
俺には、到底理解できなかった。
ガドは、ただの盗賊ではない。多くの人々を傷つけ、恐怖に陥れた悪党だ。そんな男に、更生の機会を与える価値が本当にあるというのか。
いや、それ以上に、俺自身の感情がこの状況を許容できなかった。
俺は、あいつに殺されかけたのだ。命のやり取りをした相手だ。そんな男と、これから同じ屋根の下で暮らす? 同じ釜の飯を食い、同じ道場で汗を流す?
冗談じゃない。
(本当に、こいつは更生するのか…? 俺は…俺は、こいつを道場に入れることを、まだ到底受け入れられていない…)
様々な感情が渦巻き、俺の心は軋んでいた。
だが、老師の決定は絶対だ。俺に否やを唱える権利はない。
俺は、ただ黙って前を歩く師の広い背中を見つめることしかできなかった。
道場に到着すると、老師は、ガドを道場の中心に立たせた。
そして、俺と向かい合わせるようにして、そのルールを叩き込む。
「いいか、ガド。まず、勘違いするな。貴様は、客でもなければ、ましてや囚人でもない」
老師の静かだが、鋼のような硬質さを伴った声が響く。
「貴様は、今日この時から、心源流のただの『修行者』だ。これまでの人生で得た地位も、力も、考え方も、その全てを、この道場に踏み入れた瞬間に捨て去れ。貴様は、ゼロから、いや、マイナスから武の道を学び直すのだ」
ガドは、唇を固く結び、屈辱に耐えるように床板の一点を睨みつけていた。
「そして、もう一つ。貴様を打ち負かしたこのカイが、貴様の『兄弟子』となる。カイの教えは、ワシの教えと思え。カイへの反抗は、ワシへの反抗と見なす。異論は、一切認めん。それが、貴様があの薄暗い石牢の中から、再び日の光の下へと戻れたことへの、唯一の対価だ」
「兄弟子」。
その言葉の響きに、俺は思わず息を飲んだ。
俺が、こいつの?
老師は、俺にもあまりにも重い役割を課すつもりのようだった。
ガドの肩が、微かに震えた。
自分を叩きのめした、自分よりも遥かに年下のガキに、教えを乞えというのか。その屈辱は、想像に難くない。
だが、彼に選択肢はなかった。
しばらくの沈黙の後、ガドは、歯の間から絞り出すような声で、一言だけ呟いた。
「…分かった」
生きるためには、それを受け入れるしかなかったのだ。
翌日から、俺とガドの、奇妙で不本意な共同修行が始まった。
老師が最初に二人に課したのは、念の修行ではなかった。
それは、精神を叩き直すための過酷な肉体労働。
「道場の裏手にある、あの岩山が見えるか」
老師が指さした先には、巨大な岩がいくつも転がる荒れ地があった。
「あの岩を全て砕き、運び出し、この道場の基礎となっている石垣を、一から作り直せ。道具は、その拳と己の肉体のみだ」
あまりにも、無茶な命令だった。
ガドは、一瞬呆気に取られたような顔をしたが、すぐにその目に、かつての凶暴な光をわずかに取り戻した。
「フン…岩砕きか。上等だぜ」
彼は、己の肉体強化には、絶対の自信を持っている。こんな作業、造作もないと、そう思ったのだろう。
ガドは、最も巨大な岩の前に立つと、深く息を吸い込み、全身のオーラを練り上げた。
「ウォォォッ!」
強化系のオーラを纏った拳が、岩へと叩き込まれる。
ゴッ!という鈍い音と共に、岩の表面がわずかに砕け、破片が飛び散った。
だが、岩そのものはびくともしない。
「…なんだと…?」
ガドが、信じられないという顔で、自分の拳と岩を交互に見た。
老師が、静かに口を開く。
「ただ力任せに殴るだけでは、エネルギーが分散するだけだ。それでは、百年経ってもあの岩は砕けんぞ」
そして、老師は俺に視線を向けた。
「カイ。兄弟子として、この愚か者に、力の使い方というものを教えてやれ」
最悪の命令だった。
俺は、渋々ガドの元へと歩み寄った。
「…力を一点に集中させるんだ。心源流の基礎だろ。岩の最も脆い一点を見抜き、そこにオーラの全てを叩き込む」
俺がそう説明すると、ガドは忌々しげに俺を睨みつけた。
「…ガキに教わることなんざ、何もねえ」
「そうかよ。じゃあ、一生そこで石ころ相手に拳を痛めてろ」
俺は、冷たく言い放った。
「…ちっ!」
ガドは、大きく舌打ちすると、再び自己流で岩へと殴りかかり始めた。
その日の作業は、全く進まなかった。
俺とガドは、一言も口を利かず、ただ黙々と、それぞれのやり方で岩と向き合い続けた。
互いの間に流れる空気は、凍りつくように冷たく、険悪だった。
そんな状況が、数日続いた。
ガドの苛立ちは、日に日に募っていった。
そしてその日、ついに彼の堪忍袋の緒が切れた。
何度殴っても砕けない岩を前に、ガドの全身から、制御を失った黒く禍々しいオーラが立ち昇った。
「ああ、クソッ! やってられるか、こんなこと!」
その怒りの矛先は、岩ではなく、俺へと向けられた。
「テメェだ、ガキ! テメェさえいなければ、俺は…!」
ガドが、俺に殴りかかろうとしたその瞬間。
彼の背後に、音もなく老師が立っていた。
「…まだ分からんか。愚か者めが」
老師の、氷のように冷たい声。
老師は、伸ばした人差し指一本で、ガドの額にそっと触れた。
ただ、それだけ。
それだけのはずなのに、ガドの体から全ての力が、オーラが、まるで栓を抜かれたように、急速に萎んでいった。
「な…に…を…」
ガドは、自分の身に何が起きているのか理解できないという顔で、膝から崩れ落ちた。
老師の指先から放たれた、あまりにも高密度なオーラが、ガドの全身の精孔を、内側から強制的に閉じていたのだ。
「この道場では、貴様の力など無に等しい。ここでは、規律こそが全てだ。それを、その愚かな体に叩き込んでやる」
老師は、気を失ったガドを、まるで米俵のように軽々と担ぎ上げると、地下の蔵へと戻っていった。
蔵で一人目を覚ましたガドは、己の無力さと、ここから決して逃れられないという絶対的な現実を、ただ噛み締めていた。
その様子を、俺は、少し離れた場所から黙って見ていた。
憎い相手であることには、変わりない。
俺を殺そうとした悪党であることにも、変わりはない。
だが、今の彼の姿に、かつてのあの驕り高ぶった盗賊団頭領の面影は、どこにもなかった。
そこにあったのは、全てを失い、ただ打ちのめされた、一人の男の姿だけだった。
俺の心に、ほんの僅かな、名状しがたい感情のさざ波が立った。
それは、同情とは違う。憐れみとも違う。
ただ、俺と同じように、この道場で、絶対的な師の下、地獄の修行に喘ぐ一人の「修行者」として、彼の姿をほんの少しだけ認識したのかもしれない。
長く、険しい「仲間」への道。
そのあまりにも不本意で、軋みだらけの第一歩が、今、確かに記された。
俺たちの奇妙な修行生活は、まだ始まったばかりだ。