鬼が現れたのは、姫が京の寺へと向かう最中のことだった。
「えれぇ別嬪だなあ、よし、攫っていこう!」
鬼は大人の男よりも二回りも大きく、丸太のような腕をぶんぶんと振り回しながら姫へと迫る。
周囲の衛士たちが立ちふさがるも、鎧袖一触に蹴散らされた。
「っ、貴女は隠れててっ!」
「ひ、姫さまっ!」
はっと我に返った姫は、肩に乗っていた一寸法師を掴んで袂の中へと隠す。
その間にも鬼は衛士を打ち倒し、ついに姫の眼前へとやってきた。
「さあ、行くぞっ!」
「っ……!」
鬼は俵を抱くように姫を肩に担ぎ、その場を後にする。
姫は震える手で、袂の中の小さな少女を必死に押さえた。
そのまま鬼は我が物顔で市中を歩き、駆けつけた警吏も門番もものともせず、悠々と都を出た。
※
姫が連れて来られたのは、都から少し離れた山中に建つあばら屋だった。
中は物置同然にゴミが散らばり、鬼はそれらを乱暴にどかしてどっかりと座り込む。
「おう、そこら辺に座れや! それにしても腹が減ったな! 何か食いたいもんはないか?」
「……別にないわ」
「なんだ遠慮するな! いいもんがあるんだ!」
そう言って鬼が取り出したのは、木でできた小槌だった。
古びた木目には不思議な光沢が差し、やけに細かい装飾が施されている。
「これは打出の小槌って代物でな。念じて振れば、どんな願いでも叶えてくれる物凄い宝よ」
「そんなもの、あるわけないでしょう」
姫の冷たい視線をよそに、鬼は愉快そうに笑う。
「ところどっこい、本当にあるんだなあ! さあ見てろ! 小槌よ、食いもんだ、食いもんを出せ!」
「……え?」
振り下ろされた小槌から光があふれ、次の瞬間、床を埋めるように肉や魚が現れた。同時に、鼻をつく匂いも広がる。
「ほらっ出ただろう!」
鬼は自慢げに言うと、鬼は生肉を鷲掴みにしてむしゃむしゃと貪り食う。その様子を見た姫は、目の前に広がるものが幻などではないと認めざる得なかった。
とはいえ、攫われた身で食事をする気には到底なれず、ましてや出所も分からないモノを口にする気などさらさらなかったが
鬼は食べ尽くしては小槌を振り、またそれを平らげてると小槌を振るった。そして、それを三度も繰り返すと。
「ぶへー! 食った食った!」
そう言い放ち、その場で大の字になって、十秒と経たずに眠りこけた。
「……縄もつけずに放置するなんて。まあ、こちらとしては助かるけど」
姫は呆れたように呟いて、袂から一寸法師を取り出す。
「はあ、疲れたわ。あなたは大丈夫だった?」
「姫さまの方こそっ! ご無事でしたかっ?」
「ええ、なんとかね。──じゃあ、今のうちに行きましょう」
「はいっ!」
二人は目を合わせ、鬼の住処からそっと逃げ出した。
※
「ひ、姫さま? 大丈夫ですか?」
「はあっ、はあっ……だいじょうぶ、じゃないわ……っ」
あばら屋を飛び出してから、すでに一刻。
屋敷から出ることの少ない姫にとって、荒れた山道を歩くのは過酷そのものだった。しかも肩には一寸法師を乗せている。小さな重みとはいえ、その分の疲労も確かにあった。
一寸法師は自分を置いていくように訴えたが、姫はそれを決して認めなかった。
役立てないどころか足を引っ張るばかりの自分を、一寸法師は情けなく思いながらも声をかける。
「姫さまっ。一度休みましょう! 足を痛めたら、動けなくなっちゃいます!」
「はあっ……そう、ね……ふうっ……」
姫はばたりとその場に座り込み、荒く息を吐く。
額には玉のような汗を浮かべ、強張ったふくらはぎを両手で揉み解す。
「姫さま、近くに水場がないか探してきます!」
「ええ、お願い……」
一寸法師が離れると、あたりはしんと静まった。
汗に触れる風が、ひどく心地よい。
鬼に攫われた理不尽を恨む気持ちはあった。
けれど、こんな機会でもなければ、一寸法師と共に山道を歩くことなど決してなかっただろう。
そのことだけは、感謝してもいいのかもしれない。
ここまで来れば鬼も追っては来るまい。なら、少しくらい二人きりで野山を歩いたとしても、きっと許されるはずだ。
姫がそんなことを考えていたとき、後ろからがさりと音がした。
思ったより早い帰りだ。近くに水場があったのだろうかと振り返る。
「おかえりなさ──」
「よう、さっき振りだなあ?」
そこにいたのは鬼だった。
獰猛な牙を剥き出しにして、にやりと笑う。
「寝てる間に逃げるなんてひでぇ奴だぜ。こうしてやる!」
「っいやっ!」
姫の体が大きな手に掴まれ、きつく締め上げられる。
骨が軋み、呼吸すら奪われる中で、一寸法師がかつて「子どもに遊びで掴まれて苦しかった」と語っていたことを思い出す。
──その時の彼女も、今の自分と同じ気持ちだったのだろうか。そう思うと、わずかに心が慰められる気がした。
「痛てえッ!」
突然、鬼が悲鳴をあげて、姫を放り出す。
地面に落ちた姫が目にしたのは、鬼の裸足へと木の枝を突き立てる一寸法師の姿だった。
彼女は焦燥に駆られた表情でこちらを振り返り、叫ぶように声を上げた。
「姫さまっ、逃げ──」
「なんだこいつ? ちっちぇな人間だなあっ! 丸呑みにしてやる!」
「──あ」
ひょい、と摘ままれ、ぱくり。
あっけないほどに簡単に、一寸法師は鬼の口へと放り込まれた。
ほんの一瞬。まばたきの間の出来事だった。
「──ねえ? 嘘でしょ……?」
あまりにも唐突で、滑稽な最期だった。
理解が追いつかず、呼吸すら忘れる。
目の前がぐにゃりと歪み、世界が崩れていく。
「うそ、うそ。うそ、嫌っ、いやあああああっ!」
喉から零れる言葉は、どこまでも事実を認めていた。
必死に首を振っても現実は揺らがず、涙が止めどなく溢れ、ぼろぼろと頬を伝っていく。
あの小さな体で自分を守ろうとしていた姿が脳裏に浮かぶたび、胸の奥をぎゅう、と鷲掴みにされるように苦しくなる。
「なんだあ? 気でも狂ったか?」
耳をつんざくような叫びに、鬼は顔をしかめた。
血の気を失ったように泣き叫ぶ姫の姿は、むしろ不気味で気味が悪い。
「おいおい……あんなちび一匹喰ったくらいで──」
姫の絶叫に、鬼も思わず引き気味になっているときだった。
「うっ、な、何だっ? 腹が……いてえ!」
鬼が突如として呻き声を上げ、腹を抱えて崩れ落ちる。
巨体が地響きを立ててのたうち回り、喉の奥から苦悶の唸りが洩れた。
その衝撃で腰に結わえていた袋がほどけ、金貨やら骨やら、血のついた刃物やら、雑多なものがばらばらと地面に散らばっていく。
姫は涙で霞んだ視界の中、その様を呆然と見つめていた。
そして、わずかに震える唇でその名前を呼んだ。
「……一寸法師……?」
返事はなく、ただ鬼の苦悶の呻きだけが響く。
胸の奥でかすかな希望が灯るが、それを打ち消すように恐怖も膨れ上がる。
祈りにも似た想いで、姫はただ鬼の口元を凝視していた。
やがて鬼は大きく喉を鳴らし、身体を震わせた。
「おえっ!」
次の瞬間、鬼の口からぼとりと吐き出されたのは、一寸法師だった。
全身が胃液に塗れ、息も絶え絶えながらも、手には真っ赤に染まった小枝を固く握りしめている。
「……い、生きて……っ」
胸の奥に熱がこみ上げ、涙がまた溢れ視界を滲ませる。
その小さな姿があるだけで、世界が再び色を取り戻した気がした。
「けほっ、けほっ……姫さまっ、逃げてっ!」
一寸ほどしかない背丈でありながら、その少女は誰よりも勇敢だった。
しかし、その姿に逆上した鬼が、歯ぎしりを響かせて吠えた。
「舐めやがって、このちび! 握り潰してやるっ!」
「きゃあっ!」
鬼の太い指が一寸法師を掴み上げる。
その小さな体は容易に壊れてしまいそうで、姫は胸が張り裂けそうなほどの恐怖に駆られた。
(何か、何かないの……!)
必死に周囲を見渡すと、金貨に骨、血のついた刃物……鬼がのたうち回った拍子に袋から零れたものが散乱していた。
そして、雑多なそれらに混じって、装飾の施された木製の小槌が転がっていた。
──打ち出の小槌。
「っ!」
姫は我を忘れて地面へ飛び込み、それを掴んだ。
願いなんて考えてる暇なんてなく、ただ喉から溢れたのは切実な一言だった。
「大きく……っ! あの子を大きくして!」
姫は必死に小槌を振り、祈るように叫ぶ。
小槌から溢れた光は、渦を巻くように一寸法師を包み込んだ。
「──え?」
「おおおっ!」
眩い光の中、鬼の手に握られていた小さな身体はみるみる大きくなっていった。
だが、鬼もなおその手を放さず。巨大な指で握り潰そうと力を込める。
肉が潰れ、骨が砕けるような感触を得ようと、鬼は歯を剥き出しにして吠える。
「ぐぬぬぬぬっ、でかくなろうが関係ねえ! このまま握り潰してやる!」
「一寸法師──!」
姫の悲鳴が響いた刹那、鬼の片目がざくりと抉られた。
「あ゛?」
突き刺さっていたのは、一本の枝だった。
大きくなったのは身体だけでなく、身にまとう衣服も、その手に握られた木の枝までもが変化していた。立派な槍のように鋭く伸びたそれは、一寸法師の手によって鬼の目を貫いていた。
「──はあっ!」
動揺する鬼から槍を引き抜き、もう片方の目へと容赦なく突き立てる。
「う、うわああっ! 見えねえっ! 何も見えねえっ!」
光を奪われた鬼は恐怖に駆られ、一寸法師を手放して両目を必死に押さえた。
放り出された一寸法師はなんとか地面に着地し、ふらふらとよろめく鬼から距離を取った。
「くそっ……くそっがあっ! 殺すッ、絶対殺すッ!」
暗闇に閉ざされた世界で、鬼はなおも怒りのままに咆哮する。
だが、足元はすでに崖際だった。
「うおおおおおっ!?」
山道を大きく踏み外した巨体は傾き、そのまま重力に引きずられるように転げ落ちていく。
木々をなぎ倒し、地響きを轟かせながら、鬼の姿は山の中に消えていった。
※
「……一寸法師……」
自分の呟きが、どこか他人事のように耳に届く。
目の前に立つのは、ひどく綺麗な女の人だった。
それは一寸法師なんて呼ぶにはあまりにも不相応な、大人の女性の姿。
──私よりずっと小さくて、不自由で、可哀そうな少女はどこにもいなかった。
「はあっ、はあっ、ひ、姫様、今のうちに逃げましょうっ!」
「……そうね」
「あ、手を……手をお貸しします!」
立てなかったのを疲労のせいだと思った一寸法師は、そっと手を差し伸べてきた。
今までできなかったことだからか、その顔はどこか嬉しげだ。
見下ろしてはにかむ彼女の笑みに、胸の奥が軋むようにざわつく。
姫は無意識のうちに小槌を隠し、手を取った。
それは、まるで普通の人間と変わらない手だった。