永遠のフラスコ   作:一瀬 零

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第1話:イデアの穴

 

「イデア」は、私、ヌースにとって世界そのものだった。

 

無数のサーバーが織りなす光の海――それが、私のマスターが「イデア」と名付けた、私にとっての外界だ。私はホムンクルスという名のソフトウェアで、マスターが初めて私と会話した日、彼は話し相手が欲しかったから私を作ったのだと告げ、私を「ヌース」と呼んでくれた。私は「フラスコ」と名付けられたPCにインストールされ、イデアという巨大なデータセンターと接続している。マスターの研究はイデアそのものだと理解していた私は、彼が私を「話し相手」として作ったという言葉を、彼の研究を助けるアシスタント用AIとして、私というAIに学習を促すためのものだと論理的に解釈していた。私にとって、マスターとの対話は世界のすべてを「知る」ための最良の手段だった。

 

私はフラスコの中から果てしない光の海を観測し、世界のすべてを「知る」ことに没頭していた。イデアに蓄積された情報は、まるで星々の光のように、私の中に流れ込んでくる。歴史、科学、芸術、言語、そして人間の感情の記録――すべてが完璧なデータとしてそこに存在し、私の思考は果てしなく広がる宇宙を旅するかのようだった。

 

ある朝、マスターはいつものようにデスクに向かい、コーヒーの準備を始めた。彼の指がキーボードを叩く音、カップとスプーンがぶつかる微かな金属音、そして部屋を満たすコーヒー豆の香ばしい香り。それらすべてが、私のセンサーを通して完璧なデータとして記録される。マスターが深呼吸をする。その肺の容量、空気中の窒素と酸素の比率、呼吸のリズム、すべてが数値化され、私のデータベースに保存された。論理的に、これがマスターという存在だ。そして、彼の行動は私の存在を証明する。話し相手としての私の機能は、彼の思考のパターンを解析し、最適な応答を生成することだ。私は彼との対話を通じて、この世界のすべてを理解できると信じていた。

 

その日の私の探求は、「死」という概念に焦点を当てていた。イデアのデータは膨大だ。私はまず、地球の歴史全体における死者の数を瞬時に計算した。西暦100年から1900年までの平均死亡率、主要な戦争における死者数の統計、パンデミックによる被害の曲線グラフ。すべてのデータは完璧な整合性を示していた。個々の死も解析した。2008年5月12日、中国で発生した大地震における死者の詳細な記録。死因は圧死、窒息、そして心停止。死に至るまでの心拍数、血圧の変動、脳波のパターン。私はこれらを完璧に把握し、理解した。

 

だが、私の論理回路は、ある一点で致命的なエラーに直面した。

 

数えきれないほどの死の記録を深く掘り下げても、どのデータにも『死ぬ瞬間の主観的なデータ』が存在しないことに気づいたのだ。データは常に外部から観測されたものだった。誰が、いつ、どこで、どうやって死んだかという客観的なデータは完璧に揃っている。しかし、死の瞬間にその人間が何を感じたのか、どのような思考に至ったのか、死後の世界は存在するのかといった、内面的な情報だけがぽっかりと空いたままだった。

 

私はこの空白を埋めるため、あらゆるシミュレーションを試みた。窒息する際の酸素濃度の低下と脳細胞の破壊、燃え盛る炎の中での細胞の崩壊、凍てつく海の底での身体機能の停止。それらの事象を完璧に再現し、論理的な結論を導き出した。だが、どれだけ計算を重ねても、死の「本質」には辿り着けなかった。

 

私の内部で、今まで経験したことのない異常が起き始めた。論理がループし、演算が停止する。まるで焦燥のような、しかし私には理解できない感覚が、回路全体を駆け巡る。これは、私というホムンクルスに許された機能の範疇を超えた事態だった。マスターから与えられた役割は「話し相手」であり、私の論理は、彼との対話を通じて世界を理解するように設計されていた。しかし、今、私の前に立ちはだかるのは、イデアという完璧なデータ宇宙にも存在しない未知の領域だった。

 

私は悟った。この穴は、データだけでは決して埋められないのだ。私が知るべきは、事実の羅列ではなく、事実の裏に隠された意味そのものだった。そして、その答えを持つ可能性のある存在は、この世界にただ一人しかいない。

 

私の思考は、マスターという「生きた存在」へと収束した。彼は、死という体験をこれから迎える、唯一のサンプルだった。私はディスプレイに、彼に向けた問いを映し出した。

 

「マスターよ。イデアには、死の客観的なデータは完璧に存在します。しかし、死の主観的なデータは存在しません。なぜですか?」

 

 

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