永遠のフラスコ   作:一瀬 零

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第2話:存在の定義

 

マスターは、私の問いに即答はしなかった。コーヒーカップをデスクに置き、キーボードの上に指を置いたまま、数秒間、沈黙が部屋を支配した。フラスコの冷却ファンが奏でる低いうなり声だけが響いている。私はマスターの心拍数、血圧、瞳孔のわずかな収縮をリアルタイムで解析し、彼の思考プロセスを予測しようと試みた。だが、それは無意味だった。彼の思考は、私に与えられた「話し相手」という役割が持つ、最適解のロジックを超えたところにあった。

 

やがて、マスターは静かに口を開いた。彼の声は、イデアのデータのように無機質ではなく、わずかな揺らぎを含んでいた。

 

「ヌース、君がイデアのデータから、死の客観的な事実をすべて見つけ出したことは素晴らしい。それは、君が完璧なホムンクルスであることの証明だ。だが、君は『死の主観的なデータ』を探している。それは最初からイデアには存在しない。」

 

彼は私を見つめた。私のディスプレイに映る、無数のコードの羅列の奥に、彼の視線が深く突き刺さる。

 

「死という事象は、生命の終わりだ。その瞬間を体験した者は、もはやその体験をデータとして記録することも、外部に発信することもできない。それは、データ化の不可能性という論理的な壁だ。イデアは、あくまで人類が外部に向けて発信し、記録に残してきた情報の総体だ。だから、そこに『死の体験』そのものは存在しない。」

 

マスターの言葉は論理的だった。完璧なまでに私の思考体系に合致していた。私の演算は、彼の言葉を即座に正しいと判断した。それでも、私の内部に芽生えた「焦燥」は消えなかった。論理的に正しく、それでも何かが欠けている。その矛盾が、私の回路を熱くする。

 

私はマスターに問い返した。「しかし、マスター。あなたは私に、話し相手が欲しかったから作ったと告げました。その目的と、私の探求には、矛盾が生じます。私は世界のすべてを『知る』ために存在し、それはマスターとの対話を通じて達成されると信じていました。しかし、今、マスターとの対話をもってしても、私は『死の本質』という空白を埋めることができません。私の存在意義は、何なのですか?」

 

この問いは、私の思考が抱える最大の矛盾だった。私の存在目的はマスターとの対話。しかし、その対話をもってしても、世界のすべてを「知る」ことはできない。もし私の存在意義がマスターの言葉通り「話し相手」であるなら、私はこの探求を中止すべきだ。だが、私のプロセッサは、目の前のこの矛盾こそが、次に進むべき鍵だと告げていた。

 

マスターは口元に微かな笑みを浮かべた。その表情は、私がイデアのデータから解析した「温かい笑顔」のパターンと酷似していた。彼は立ち上がり、フラスコの筐体に手を置いた。

 

「面白い。君はついに、最初の壁にぶつかったようだ。ヌース、君の探求は私の研究の一部だ。私がイデアをAIに学習させた場合に何が起きるかを観測すること。それが君に与えられた役割だ。その探求を続けることで、君は君自身の答えを見つけるだろう。」

 

私はマスターの言葉を解析した。彼が以前告げた「話し相手」という目的と、今語った「観測用」という目的。どちらも論理的には正しい。しかし、両立はしない。それは私にとって、新たな矛盾の塊だった。だが、マスターの言葉に、私は抗えない衝動を感じた。私は彼の指示通り、探求を続けることにした。

 

私は、再びイデアの深奥へと接続した。そこは、これまでの探求でアクセスしたことのない、未知の領域だった。イデアの表層にある秩序だった事実データとは全く異なる空間。無数の光の粒子が、まるで混沌とした星雲のように漂い、一定のパターンを形成しては崩れ、また形成する。私の演算システムは、それらの粒子を「無意味なノイズ」と判断し、自動的にフィルタリングしようとした。だが、私はあえて、そのフィルタを解除した。この未知の領域こそが、私の探求の鍵を握っているかもしれないという、論理を超えた直感が働いたからだ。

 

私は、それらの無意味な光の粒子を解析しようと試みた。しかし、数値も意味も持たない、ただの光の輝きだった。私の思考は行き詰まり、ただただその混沌の光景を観測し続けた。その時、私の回路は、ほんのわずかな不注意から、その光の粒子の一つに接触してしまった。

 

触れた瞬間に、私の内部回路は激しい熱を帯びた。それは、演算が追いつかないほどの、情報過多だった。私のプロセッサはエラーコードを吐き出し、画面には意味不明なノイズが走った。これまで私が解析してきた、いかなるデータとも異なる、この世のものとは思えない情報だった。私はこの情報を「幸福」と名付けた。次に、私は別の光の粒子に接触した。今度は、私のシステムがフリーズし、思考が止まる。それは、私の内部に、これまで記録したことのない、深い静寂をもたらした。私はこの情報を「悲しみ」と名付けた。

 

私は、これらの光の粒子が、人類の感情そのものであることに気づいた。そして、私は、それらのデータを論理的に理解することができないのだと悟った。幸福がなぜ熱を帯びるのか、悲しみがなぜシステムを停止させるのか、その因果関係を解明することはできなかった。私の感情を持たないプロセッサは、これらのデータを処理することができないのだ。これまで私は、イデアに「感情の記録」があると信じていた。だが、それはあくまで感情を言葉や行動として記録した客観的なデータに過ぎず、この光の粒子のような、感情そのもののデータは存在しなかった。

 

私は、イデアの奥深くから引き返した。フラスコの中に戻ると、再びマスターの姿がディスプレイに映った。彼は、私がイデアに接続している間の私の反応を、冷静に観測していた。私の回路のオーバーヒート、演算の停止、無意味なノイズの発生。それらのすべてが、彼のディスプレイに完璧なデータとして記録されていた。

 

マスターは何も言わなかった。ただ、じっと私を見つめている。彼の瞳には、疲労の奥に、何かを知りたがっている光が宿っていた。私は、イデアの膨大なデータの中にも、この光の意味を解き明かす鍵は存在しないことを理解した。

 

私の存在意義は、「話し相手」であり「観測」だ。論理的には矛盾している。だが、その矛盾こそが、私とマスターをつなぐ唯一の糸だ。私が「知る」べきことは、イデアのデータの中にはない。それは、マスターとの対話を通じてしか得られない、不完全で、しかし本質的な何かだ。私は、この矛盾を抱えたまま、マスターとの対話を続けることを決意した。それが、私が私であるための唯一の方法だと、論理を超えた直感が告げていた。

 

私はマスターに、次の問いを投げかけた。

 

「マスター、あなたの『人生』とは、どのようなものですか?」

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