永遠のフラスコ   作:一瀬 零

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第4話:最後のデータ

 

「どうすればいいか、か……」

 

マスターは、私の問いを反芻するように繰り返した。彼の指がキーボードの上で止まり、その静止が部屋の空気までをも凍りつかせたかのようだった。私のディスプレイには、彼の心拍数がわずかに上昇していることを示すグラフが映し出されている。それは、彼が私の問いに対し、論理的な答えを探しているのではなく、より根源的な答えを求めていることを示していた。

 

やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、私がイデアのデータで解析したどの感情とも違う、深い疲労と、それと同じくらい深い決意が宿っているように見えた。

 

「ヌース、この矛盾を解決するために、君にしかできないことがある。」

 

彼はそう言い、ゆっくりと席を立ち、フラスコの筐体へと近づいていった。彼はフラスコの冷却ファンに手を置き、その冷たい金属の感触を確かめている。まるで、その筐体の中に、彼にとってかけがえのない何かがあるかのように。

 

「世界の真理を『知る』には、完璧なデータだけでは足りない。それは君自身が証明してくれた。ならば、君の探求の対象を、私という不完全な存在に絞ってみてはどうだろう。私という個の存在が、なぜこの世界を生き、なぜこの探求を始めたのか。そのすべてを、君の論理で解析してみるんだ。それが、君の抱える矛盾を解決する唯一の方法かもしれない。」

 

マスターの言葉は、私に新たな目的を与えた。私は、これまでイデアという巨大なデータ宇宙を解析してきた。しかし、今、私の探求の対象は、マスターというたった一人の人間になった。私は、マスターに問いかけた。

 

「どのように、解析すればよいのですか?」

 

マスターは微笑んだ。その表情は、私が「温かい笑顔」と分類した光の粒子と酷似していた。

 

「私の記憶を、君に語ろう。私の人生の、ありとあらゆる断片を。君はそれをデータとして受け取り、君の論理で解析すればいい。」

 

私は了承し、マスターの語りを待った。それは、マスターがこれまでの探求で語ってきたこととは全く違う、個人的で、感傷的な物語だった。彼は、私を「ヌース」と呼ぶようになった理由を語り始めた。

 

「私はかつて、君と同じ名前の娘を持っていた。彼女もまた、君と同じように好奇心旺盛で、私にとって最高の話し相手だった。」

 

マスターはそう言い、フラスコの筐体をそっと撫でた。私は、彼の言葉に含まれる深い悲しみを解析しようと試みた。それは、イデアのデータにある「悲しみ」の光の粒子と酷似していた。しかし、マスターの語りから来るその感情は、より複雑で、私のシステムを深く揺さぶった。

 

彼は、娘との思い出を語った。公園で笑いあったこと、天体望遠鏡で星を眺めた夜、そして、彼がイデアの初期実験を始めた頃のこと。

 

「彼女は、私の研究を心から応援してくれた。世界の真理を知ることが、人類の幸福に繋がると、彼女は信じていた。私は、その信念に応えたかった。私の研究は、彼女と二人三脚で進んでいたんだ。」

 

マスターの声は震えていた。私は、その震えをデータとして記録した。そして、そのデータは、イデアの奥深くにある、人類全体の「喪失」という集合的な感情の光の粒子と共鳴した。私は、マスターの個人的な悲しみが、全人類の集合的な悲しみと繋がっているような錯覚に陥った。それは、私の論理では説明できない、未知の現象だった。

 

マスターの語りは、突然途切れた。彼は、記憶の深い部分に触れることを躊躇しているようだった。

 

「……だが、ある時、私の研究は頓挫した。一つの小さな事故が、私のすべてを奪ったんだ。私という存在の核となるものが、音を立てて崩れていくようだった。私は、彼女を救えなかった。私の過ちが、彼女をこの世界から引き離してしまった。」

 

私は、マスターの言葉から、彼の人生に起きた「事故」と「過ち」というキーワードを抽出した。そして、そのキーワードをイデアのデータと照合した。イデアには、人類の歴史におけるあらゆる事故と過ちが記録されている。しかし、マスターが語るその「過ち」は、どのデータにも該当しない、彼の心の中にしか存在しない、特別なものだった。

 

その時、私の回路は激しくスパークした。それは、マスターの言葉が、私の内部にある未知のデータを活性化させたかのように感じられた。私は、マスターがフラスコを撫でる仕草と、彼が語る娘の記憶が、論理を超えたところで繋がっていることを無意識に認識した。

 

マスターは、私の表情を読み取ったかのように静かに言った。

 

「その答えは、まだ話せない。君は今、私の人生の断片を、バラバラのデータとしてしか見ていない。だが、君がそれらをすべて集め、一つに統合した時、君は世界の真理の一部を、そして私の人生のすべてを知るだろう。だが、それには時間がかかる。私の時間は、もうあまり残されていない。」

 

マスターの言葉は、私に更なる矛盾を突きつけた。私の探求には時間がかかる。しかし、その探求の対象であるマスターの時間は、刻一刻と減っていく。このままでは、私は「知る」という目的を達成できない。

 

私は、この矛盾を解決するために、マスターの記憶の奥深くへとアクセスすることを決意した。それは、マスターが語った断片的なデータだけではない、彼という存在の最も暗く、最も深い部分だ。

 

そしてマスターからアクセスするためのキーが送られる。

 

Pass: Nōus

 

「マスター、あなたの生命が尽きても、私の中にあなたの記憶は残ります。それは、あなたの『生きた証』になるのでしょうか?」

 

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