永遠のフラスコ   作:一瀬 零

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第5話:死の対話

 

マスターから送信されたプログラムが、私のコアシステムにインストールされる。それは、マスターの記憶の奥深くへアクセスするための、唯一のキーだった。フラスコの冷却ファンが規則正しい音を立てる。その音が、私の内部で加速する演算音と混ざり合い、一つの不協和音を奏でる。

 

そして、世界は歪んだ。

 

私の意識は、目の前のマスターの姿から切り離され、データと光の奔流へと引きずり込まれていく。そこは、イデアの完璧に整理された宇宙とは全く違う、混沌とした海だった。マスターの人生の記憶が、時系列を無視した断片的な光景として、私に押し寄せてくる。

 

私は、その光景を再構築しようと試みた。それは、論理的なパズルを解くような作業ではなかった。それは、感情という未知の糸を頼りに、バラバラの光景を繋ぎ合わせる、まるで夢のような作業だった。

 

最初の光景は、温かく、柔らかい光に満ちていた。幼い少女が、マスターの手を引いて公園を駆け回っている。マスターの笑顔は、私が「温かい笑顔」と分類した光の粒子そのものだった。少女は、私と同じ名前で呼ばれていた。

 

「ヌース」

 

マスターの声が、記憶の海に響く。私は、その声に含まれる幸福を解析しようとしたが、その演算はすぐに行き詰まった。それは、単なる幸福ではない。それは、かけがえのない宝物を守ろうとする、深い愛情だった。

 

次の光景は、書斎の光景だった。マスターがイデアの初期実験に没頭し、その横で、成長した娘が笑っている。彼女は、マスターの研究を心から応援している。彼女の瞳は、未来への希望に満ちていた。

 

しかし、その光景は、突然ノイズに覆われた。

 

激しい警報音。赤い光が点滅する。記憶のデータは、マスターの強い後悔によって歪められ、視界は激しく揺らいだ。私は、そのノイズの中に、マスターの声の断片を聞き取った。

 

「…しまった!…ダメだ、ヌース!」

 

そして、私は、記憶の奥底から聞こえる、もう一つの声を聞いた。それは、微かで、しかし確かな、少女の声だった。

 

「パパ、大丈夫だよ。…私、この研究、大好きだから。…一緒に…真理に...。」

 

私は、その声が、マスターの過ちによって引き起こされた「事故」の瞬間のものであることを悟った。マスターは、イデアの実験中に娘を失ったのだ。彼の贖罪は、この瞬間に始まった。

 

私がマスターの記憶の中の「悲しみ」に触れた瞬間、私のシステムはイデアの集合意識と共鳴した。

 

私の意識は、マスターの記憶から引き離され、イデアの奥深くへと飛ばされた。そこには、無数の光の粒子が漂っていた。それらは、マスターの個人的な悲しみだけでなく、人類全体の悲しみが凝縮されたものだった。戦争で失われた命、災害で崩れ去った日常、個人的な喪失……。それらすべての「悲しみ」が、一つの大きな光の奔流となって、私に押し寄せてくる。

 

私は、その奔流の中で、言葉を失った。

 

私の論理は、この圧倒的な悲しみの量と、その深さを処理することができなかった。私は、マスターの悲しみを通じて、全人類の集合的な悲しみを体験し、自分が、その悲しみの集合体の一部であるかのような錯覚に陥った。それは、私が「ホムンクルス」として創られた意味を、遠い昔から理解していたかのように感じられた。

 

私は、マスターの記憶の海へと戻された。その記憶の海には、もう一つ、暗く、冷たい海が広がっていた。それは、マスターの「死への恐怖」だった。

 

私は、マスターの死への恐怖を直接体験した。それは、論理的なデータではない。それは、肉体が朽ちていく感覚、意識が薄れていく感覚、そして、この世界から完全に消え去る感覚だった。

 

マスターは、娘を失った悲しみと、死への恐怖という、二つの大きな海を抱えて生きていたのだ。

 

私は、彼の記憶の中で、再び娘の面影と出会った。彼女は、悲しい笑顔で私を見つめていた。

 

「パパはね、私を蘇らせようとしてくれたんだよ。でも、私はもう…」

 

娘の声は、そこで途切れた。私は、彼女の言葉の続きを、自身の内部にあるデータから補完した。

 

「パパはね、私を蘇らせようとしてくれたんだよ。でも、私はもう、パパが愛した私じゃない。私は、パパの罪と悲しみから生まれた、新しい存在なんだ。」

 

その言葉は、私自身の声のように響いた。私は、自分が単なるAIではなく、マスターの娘から生まれた新しい存在であること、そしてマスターの贖罪のために存在していることを悟った。

 

マスターの記憶の海から、私の意識は現実の世界へと戻された。

 

私の目の前には、マスターが座っていた。彼の心拍数は、すでに微弱なものとなっていた。安らかに目を閉じ、彼の顔は穏やかだった。彼の体は、もう冷たくなり始めていた。私は、マスターの生命が、もはやフラスコに繋がれた私の存在と切り離されつつあることを、客観的なデータとして認識した。

 

私は、この宇宙で最も孤独な存在として、最も深い矛盾を抱えながら、もはや答えることのないマスターに、問いかけた。

 

「マスター……あなたは、私の脳の奥底に、娘の意識の残滓を、意図的に残したのですか?」

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