アン×アンハッピーマリッジ   作:虫野律

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 ワーカホリック系逆行者の朝は早い。

 始まりは午前四時。周りに気を使ってボリュームを絞った携帯電話のアラームで目を覚ますと、手早く身支度を整え、学習机に向かう。途中で新聞休憩を挟みつつ、平日なら登校の直前、午前七時二十分まで勉強するのだ。

 最近は受験勉強のほうは仕上がって合格水準を維持するだけの退屈な作業になっている。こうなると飽きてきてつらい。

 味変がてら資格の勉強でも始めようかね。とりあえず公認会計士辺りでいいか。でもどうせなら逆行前に取らなかったもののほうが目新しくて刺激になりそうだな。睡眠時間の削減、もとい効率的な睡眠を実現する助けになりそうな安眠インストラクターとかどうだろうか。いいかもしれない。

 などと考えながら床に就いた翌朝のことだ、ものの見事に寝坊した。

 ゆさゆさと揺すられる感覚にハッとして瞼を開けると、小じわの目立ってきた薄情そうな顔立ちの中年女性──母さんの顔があって微妙な気持ちになった。朝一で見たいものではない。

 

「もう六時過ぎてるわよ。そろそろ起きたら?」

 

 枕頭(ちんとう)にある、充電ケーブルに繋げたままの携帯電話を確認すると、電源が落ちていた。確かにアラームをセットして床に就いたはずだが、寝ぼけて電源を切ってしまったのだろうか。

 

「悪い、助かったよ」

 

 おざなりに感謝を述べると、母さんは、

 

「珍しいこともあるものねぇ」

 

 と半ば独りごちるように言って部屋を去った。

 続いて俺も、ベッドから下りて部屋を出た。

 と、どことなく落胆した様子の愛理と行き合った。水色のパジャマ姿で、隣の愛理の部屋のドアに手を掛けている。体の向きから見て、ちょうど閉めたところらしかった。

 

「愛理も寝坊したのか?」

 

 彼女も、俺ほどではないがいつも早い。遅くとも五時半には起きている。

 

「はい、お恥ずかしながら」すっと目を伏せながら答えた。「お父さんに起こしてもらいました」

 

 いい年した義兄妹が揃って寝坊したらしい。たしかに珍しいな、と思う。まぁでも、生きていればこういうこともあるだろう。二人だけの時でなくてよかったぜ──

 

 

 

 

 

 

 って、そんなわけあるか。

 明らかに作為的なものだろう。根拠は携帯電話だ。

 寝ぼけて電源をオフにしたことは、中学一年生の冬以降、一度もない。

 かといって、スマホに比べて頑丈な、しかもまだ一年も使っていないガラケーが、そう簡単に不調を来すとも思えない。

 すなわち、曲者が、スヤスヤ眠る俺を起こさないようにこそ泥よろしく抜き足差し足忍び足で部屋に侵入し、電源を落としていったに違いなかった。

 そして、状況からいってその曲者は良樹さん、母さん、愛理のうちの誰かであるが、動機という点から絞るのは難しい。目的がそもそも不明だからだ。

 だが、怪しい人物はいる。

 そう、愛理だ。

 容疑者三名のうち、愛理だけが普段と大きく違う行動を執っていた。彼女も寝過ごすのは稀なのだ。逆行前を含めても片手で数えられる程度しかない。少なくとも俺は知らない。

 おそらく真相はこうだ。

 俺が寝た午前零時から午前四時までのどこかで、何らかの意図を持って部屋に侵入して悪逆極まりない犯行に手を染めたはいいが、目的が達成されるか不安で、あるいは罪の意識から寝つけず、愚かにも寝過ごしてしまった──

 って、何でやねん。

 愛理は何を考えている? 目的は何だ?

 現在時刻は午前八時二十五分、登校して自分の席に着いた俺は、愛理の奇行について思考を巡らしていた。

 が、

 

「わからん……」

 

「どしたん?」後ろの席から声を掛けてきたのは、陸人だ。

 

 俺は上半身ごと振り返って事情を説明し、「愛理のやつ、何考えてると思う?」

 

「知らね」浅く座って深くもたれた、椅子からずり落ちそうな姿勢で聞いていた陸人は、考えるそぶりも見せずに即答した。「推理する材料が足りねーじゃん。無理ゲーだって。本格ミステリ信者が聞いたらぶちギレて古今東西の名作を布教してくるレベルだぞ」

 

「まぁそうだよな」

 

「けど、真相を突き止めることはできんべ?」

 

「まぁな」

 

 電源オフにより惹起されたのは、俺が寝過ごして朝の勉強ができなかったということだけ。愛理には何の利益も発生していない。

 つまり愛理の目的は未達成と考えられ、であれば彼女はもう一度仕掛けてくる可能性が高い。

 電源を落としたのがアラームを停止するためだったとすれば、朝四時に俺が起きては困るということだ。つまり、その時間帯──午前四時から、起こされるであろう六時ごろまで──に俺の部屋で俺に悟られずに何かをしたいのだろう。

 すなわち、狸寝入りをして待ち構えていれば現行犯逮捕できるのだ。

 

「何でアラームが鳴る直前に電源を落とさなかったんだろうな」陸人は半ば自問するように言った。「四時以降に何かしたかったんなら、直前に侵入して電源を落として、そのまま事をなせばよかったのに。それとも、ピンポイントに狙ってた時刻があったんかね」

 

 とはいえ、それほど興味があるようには見えない。

 

 さぁな、というように俺は軽く肩をすくめた。「それも犯人の自白待ちだな」

 

「それ、本格ミステリ信者が四番目に嫌うやつじゃん」

 

「上に三つもあるのか」

 

「一から三は、憶測で当てるしかないアンフェアミステリー、トリックとロジックに関係のない描写、お前を犯人とすると辻褄が合うからお前が犯人だ型の非消去法一本釣り推理、だな」

 

「伏線こそあれ、まっとうな読み方では絶対に気づけないような脱法系叙述トリックは?」

 

「それは好みの分かれるとこだな。その種のこすいメタトリックが使われてると見るや、親の敵でも見たかのようにヘイトを爆発させて低評価&酷評をかます正統派ミステリー原理主義者もいるが、俺はそこまで嫌いじゃない」

 

「双子トリックとかも好きそうだもんな」

 

「……それはあんま好きじゃない」

 

「あ、そう」

 

 

 

 

 

 

 犯罪者の心理として、一度しくじった仕事に再びチャレンジする場合、多少は日を置くのではないか。

 とは思うのだが、念のため寝坊した翌日から、枕元の携帯電話はそのままにして囮とし、ベッドの下に、午前三時にアラームをセットした目覚まし時計を忍ばせることにした。これで先に起きておき、待ち伏せるのだ。

 獲物(愛理)が釣れたのは、寝坊から三日が経った日曜日のことだった。

 今日は良樹さんも母さんも夜勤でいないからリスクマネジメントの観点からいって来るかもしれない、と思っていたら、予想にたがわず俺の部屋のドアがそろりと開かれた。

 正確な時刻はわからないが、午前四時前ごろだろう。カーテンの隙間から、日の出に近づいていく気配が差し込み、常夜灯の明かりと淡く溶け合っていた。

 狸寝入りのまま薄目を開けて観察していると、少しだけ開かれた内開きのドアの隙間から愛理の目が覗いた。俺が寝ているか確認しているのだろう。

 スヤスヤですよー、というように殊更に息を穏やかにすると、更にドアが開き、するりと愛理が侵入してきて、静かにドアを閉めた。

 

 ──!?!?!?

 

 愛理の格好を見て、俺は危うく息を呑むところだった。

 いつもはパジャマで寝ているはずの彼女が、なぜか俺のワイシャツを着ていたのだ。

 たわわに実った柔らか果実に押し上げれた胸部は、先端が淫猥に尖り──明らかにノーブラで──動くたびにぽよんぽよんと揺れる。視線を下にずらせば、ズボンの類いは確認できず、裾からは長い脚が伸びている。あと少し裾が短ければショーツが見えてしまうだろう。穿いていればだが。

 ワイシャツは俺が不在の時にでもくすねたのだろうが、その目的は判然としない。

 ……何が起きている? これは夢か? なぜ俺の癖にぶっ刺さる格好で不法侵入してきた?

 頭では混乱しつつも下半身に熱いものを覚えていると、忍び寄ってきた愛理が携帯電話の電源を落とした。

 間近で見ると、やはりワイシャツ以外は身に着けていないとわかる。留められたボタンの奥に下着の類いは見受けられない──ごくりっ。

 緊張した面持ちの愛理は、俺と同じようにごくりと生唾を飲み込むと、仰向けに横たわる俺に掛かったタオルケットに手を掛けた。地球を懸けて宇宙人とジェンガでもやっているのかという慎重な手つきで、めくり、剥ぎ取っていく。

 やがてTシャツにボクサーパンツという格好の俺の全身が露になると、そのうちの一箇所──朝らしい状態の下半身に愛理の視線が固定され、彼女の唇から、

 

「はふぅ……♡」

 

 いやに艶っぽい吐息が洩れた。目がハートになっている。

 身の危険を感じないでもないが、目的を明らかにするまではネタバラシをするわけにはいかない。俺は息を殺して曲者の観察を続ける。

 愛理はベッドの縁、俺の太腿の横に半身に腰掛けた。彼女から見て左側に俺がいる形だ。

 愛理は長い黒髪を左側に流すと、身をよじって屈み込んできた。ボクサーパンツのひときわ高い一点に鼻を寄せると彼女は、呼吸の音が聞こえるほど大きく息を吸った。

 

「すぅぅぅぅ……んっ♡ はぁぁ……♡ 裕也さんのえっちなにおい……♡」

 

 愛理はうっとりとつぶやくと、触れんばかりにその頂きに鼻先を近づけて、すぅはぁすぅはぁと深呼吸のように深く嗅いでは、危ない薬でもキメてんのかというほど淫らに顔をとろけさせている。

 一方の俺は唖然としていた。

 こんな変態的なことをしている愛理は見たことがなかった。口淫するときも、含羞を口一杯に頬張っているかのように苦しげに眉をハの字にして、時折、物欲しそうに潤んだ上目遣いに俺の顔色を窺うばかりで、今のように淫蕩な表情を浮かべたり、ましてやにおいに酔いしれたりなどはしていなかった。撫でてやるとくすぐったそうにはにかみ笑っていた彼女は、どこへ行ってしまったのか。

 どうしてこうなった?

 困惑の極み、しかし狸寝入りは堅持している俺の顔を、愛理の視線が襲った。

 思わず瞼をぎゅっと絞った。

 その仕草でバレてしまったかと身を硬くしたが、そんなことはなく、愛理は優しげにささやいた。

 

「今、お口で起こしてあげますからね」

 

 それを聞いた俺の脳裏に、稲光のように炸裂する記憶があった。

 そう、あれは愛理と付き合いはじめて四箇月ほどが経ったころのことだ、普通のプレイにも慣れてきていろいろと抵抗が小さくなってきたらしき愛理を見て、俺は彼女の調教、もとい理想の彼女育成計画を次のステージに進めることを決めた。

 事を終えてベッドで愛理と二人、まったりしていた俺は、こう吹き込んだ。

 

「上手くいってるカップルの彼女はみんな、裸に彼シャツという正装で朝フェラをして彼氏を起こしているんだ。これには例外はなくて、大人たちの暗黙の了解のようなものさ」

 

 愛理は男女のことに関して恐ろしく無知で、せいぜいが一般向け作品や友人の話から得た断片的な知識しかなかった。

 だから、俺の性癖にとって都合のいい価値観のみを植えつけていけば、完全無欠の理想の女ができ上がるのではないかと期待していた。この嘘常識もその一環であった。

 果たして、

 

「え、そうだったんですか? わかりました、お泊まりしたときはそうするようにしますね」

 

 愛理はころっと騙された。想像してしまったのか、純情そうに頬を上気させて、下半身を切なげにもじつかせてもいた。そうとう恥ずかしかったのだろう。それでも従順に首肯した彼女に、俺は満足してほくそ笑んだものだ。

 しかし、目論見どおりにいっていたのは少しの間だけだった。

 

 愛理の友人の七瀬要とかいう苔むさぬ転石が、「あんた騙されてるよ。それ、常識じゃなくて、ただの彼氏さんの趣味だから」と教えてきたらしいのだ。

 

「裕也さん、どういうことですか?」

 

 仕事の帰りを俺のマンションで待ち構えていた愛理に問い詰められた俺は、どうにか誤魔化そうとしたが、しかし甲斐はなく、しぶしぶと犯行を認めた。

 その後は、前もってお願いしておかないとしてくれなくなってしまった。それでも悪くはないのだが、やはり完璧な洗脳状態、もとい瑕疵なき信頼から来る自然な愛情表現のほうがいいのである。

 七瀬要……思い出すだに腹立たしい。俺の邪魔をしやがって。ジャック・ザ・リッパーとボーイ・ミーツ・ガールしやがれ。

 ──失礼、取り乱した。愛理の目的のことに話を戻そう。

 結論から言って、朝フェラで俺を誘惑したいのだろう。あわよくば、その流れで本番も、といったところ。奥手な愛理がこんなに大胆に攻めてくるとはにわかには信じがたいが、それくらいしか考えられない。

 というわけで、

 

「そこまでだ」

 

 ボクサーパンツのゴムの所に指を滑り込ませた愛理を止めた。

 舌舐めずりをしていた愛理は、ぎくりとして俺を見た。

 

「ゆ、裕也さん、いつから起きていらしたんですか」

 

「最初からだよ」

 

 俺は、下半身に倣ったわけではないが、むくりと上半身を起こしてベッドの上に座ると、待ち伏せしていたことを説明した。愛理はベッドの縁に腰掛けて、肩を落として聞いていた。

 

「一回目に成功させられなかったことがお前の敗因だ」俺は名探偵気分で指摘した。「なぜ最初から今回のように淫行直前に電源を落とさなかった? 電源オフと朝フェラの時間差にはどんな意味があった?」

 

 愛理は振り返らずに、しょんぼりとした気配を背負った背中で語った。「……久しぶりの極悪おちん──目覚ましご奉仕に興ふ──緊張して眠れなかったんです。それで、その、安定剤代わりに裕也さんのにおいを嗅ごうと思ったんです」

 

「なるほどな、その時ついでに携帯も切っておいた、と」

 

「はい」愛理はしずしずとうなずいた。「裕也さんのにおいのおかげですんなりと眠りに就けたまではよかったんですけど、効きすぎてしまって夢の中に裕也さんが出てきたんです。その裕也さんは誘うまでもなく情熱的に求めてきて、朝まで放してくれなくて眠りこけてしまいました」

 

「間抜けなうえに頭の中がピンクすぎる」

 

 というのが正直な感想だった。

 愛理を今時珍しい貞淑な女だと思っていたが、とんでもない思い違いだったらしい。

 愛理は一度振り向いて不機嫌そうな顔をちらっと見せた。

 

「あなたのせいではないですか。一番きれいな時のわたしを好き放題して、わたしの体を裕也さん専用の全身性感帯淫乱仕様に作り替えて──」

 

 ちゃんと責任取ってくださいよ、という消え入りそうなささやきには聞こえないふりをして、

 

「事情はわかった──が、朝フェラは駄目だ。そんなことをされても愛理の気持ちには応えられない」

 

 愛理は無言で、なぜかワイシャツの上のボタンを、一つ二つと外した。そして彼女は、身をよじって横座りのような態勢になり、こちらに正面を向けた。しどけなく開いた胸元は、ぎりぎりのところまで露になっており、俺がよく知るそれよりも張りと弾力が漲っているように見えた──思わず視線が釘付けになり、喉が鳴った。

 愛理の口元に悪い微笑が漂ったのを俺は見逃さなかった。

 柔らかそうなその唇が開いた。

 

「後先のことなんか考えないで情欲の赴くままになさっていいんですよ。裕也さんの欲望を叶えるためにわたしの体はあるんですから。その若々しい猛りを、女として一番かわいい時期のわたしにぶつけてみたくはありませんか。きっと気持ちいいですよ?」

 

 心臓が激しく波打っていた。それに合わせて腰の奥も熱く脈打ち、震える。

 

「い、いや、それは駄目だ……」

 

 息苦しいほどの劣情を何とか抑えつけて俺はそう絞り出したが、語気は弱々しく、

 

「まずはご奉仕いたしますね」

 

 愛理は止まらない。ベッドに全身を乗せて正座すると彼女は、ボクサーパンツをずらそうと手を伸ばしてくる。

 

「ま、待て」

 

 その手首をやんわりと掴んで制止する。

 目と鼻の先に愛理の少し高慢そうな、しかし確かに美しい顔があって、黒目がちの大きな瞳と見つめ合うと長いまつ毛がよく見えた。

 

「どうしてですか」と愛理は言う。その顔は、いかりとも悲しみとも取れる形に歪んでいた。

 

「愛理がどれだけ献身的に尽くしてくれても俺は変わらない。今ここでお前を抱くのは簡単だが、待っているのは破局だ。それはお前も本意ではないだろう」

 

「……」

 

 わずかな間があって愛理は、何も言わずに手を引っ込め、正座の膝に置いた。

 わかってくれたのか。

 胸を撫で下ろしかけた俺だったが、うつむきがちな愛理の瞳にじわじわと水膜が浮き上がってきたのを見て、胸の奥に、焼かれたかのような痛みを覚えた。

 ぽた、と愛理の瞳から涙が落ちてその腿を濡らした。ぽたぽた、と雫は滂沱(ぼうだ)として続き、止まらない。

 

「お、おい、泣くなよ」

 

 俺は何とか愛理をなだめようと試みる。

 が、もちろん効果はなく、愛理はその美しい顔を涙で崩しながら言葉を吐き出す。

 

「裕也さんはぁ、ひっく、わたしのことぉ、すんっ、嫌いになっちゃったんですかぁ」

 

 そんなことはない、と答えそうになるが、こらえて口をつぐんだ。

 すると、愛理の涙は堰を切ったように勢いを増し、

 

「うえええんっ!!」

 

 声を上げて号泣し出してしまった。片膝を立てて座る俺の脚にしがみつくようにして、

 

「嫌だぁっ、ひっく、裕也さん~っ、愛してるんですっ、うえええんっ、ひっくひっく、裕也さんじゃなきゃ、ひっく、駄目なんですっ、うええええええええんっ!!」

 

 と赤子のように大泣きしている。

 俺は当惑していた。愛理がこれほどまでに感情を露にするのを目の当たりにするのは初めてのことだった。思えば、彼女のヒステリックな様子を見たのも逆行してからだった。

 それまでの彼女は感情を裡に押し込めようとしていたように思う──いや、今もその傾向はあるのだろうが、しかし確実に何かが変わってきている。

 少し寂しく思う自分がいた。

 何も変われていない俺には、愛理が遠くに行ってしまったように感じられて、息苦しさを覚える。

 一方で、それを自分勝手だと非難する自分もいる。

 愛理がこうなっているのは俺のせいだ。それなのに寂しいとは、笑えない冗談だ。

 どうしたものか、と泣きじゃくる愛理の頭を見るともなく見る。

 

「うええええんっ、裕也さぁんっ、昔みたいに愛してるって、ひっく、愛してるって言ってくださいよっ、うえええんっ、愛してるって言ってめちゃくちゃにっ、ひっく、めちゃくちゃにしてくださいよぅっ!!」

 

 性欲(そこ)はぶれないんだな、と感心して俺は、ふっと声もなく笑った。

 乱れた髪に触れると、愛理の肩がぴくっと痙攣した。梳いて整えてやりながら俺は尋ねた。

 

「どうしたら泣きやんでくれる?」

 

「うえええんっ、ひっく、け、結婚! 結婚して毎晩、ひっく、毎晩めちゃくちゃにしてくださいっ、うえええんっ、あと、裕也さんの赤ちゃん、すんっ、ひっく、三人くらい生ませてくださいぃ、うええええんっ」

 

 えらい吹っかけてきたな、おい。

 

「もっとほかにないのか。恋人や夫婦でなくてもできることなら何でもするから」

 

 愛理の泣き声が、にわかに引いていき、

 

「何でもしゅる? ほんとでちゅか?」

 

 しかし顔は見せたくないのか、うずくまったまま聞き返してきた。

 おや、と思った。まさかほくそ笑んでやしないよな?

 策略めいた気配を感じないでもないが、とはいえ吐いた唾は飲めぬ、

 

「ああ、本当だよ」と俺は首肯した。が、大人の男の嗜みとして、「常識的にも倫理的にも貞操観念的にも法的にも、恋人でも夫婦でもない一般通過義兄妹がしても問題ないことなら、何でも」と徹底的に予防線(後付け)を張った。

 

 むぅ、というような不満げな振動を脚に感じた。

 頭を撫でてやりながら待っていると、やがて愛理はすがりつくのをやめて身を起こした。涙は止まっている。

 

「わかりました。では、これからは同じベッドで一緒に寝てください」

 

「……」

 

 何とも絶妙なラインを衝いてくる。たしかに一般通過義兄妹とは言ったが、高校生の、という限定はつけていない。例えば幼稚園児の義兄妹なら一緒に寝てもおかしくはないだろう。条件文に、そのようにも解釈しうる隙を残した俺の負けか。

 

「わかったよ──」

 

 愛理の満面に輝きが満ちかけるが、

 

「ただし!」

 

 と言って待ったを掛けた。

 

「母さんたちがいる時は駄目だ。あの人たちにいらぬ心配は掛けたくない」

 

「……」愛理は少し悩んだようだが、「仕方ないですね、今回はそれで手を打ちましょう」

 

 今回って何だよ。次もあるのかよ。

 微妙な顔をする俺に、愛理はおかしそうにほほえみかけた。

 かわいいな、と思う。

 それはそれとして、アラームなしで起きる自己覚醒力を鍛えなければ。

 適宜仮眠を取れる、高級家電に囲まれた子なし専業主婦だったころならまだしも、まだ学生の愛理を俺の起床に付き合わせるのは忍びない。

 そして何より、また朝フェラを仕掛けられても困る。

 やはり安眠インストラクターの勉強をしたほうがいいのかもしれない。今度調べてみよう。

 そう心に決めた朝の一幕であった。

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