アン×アンハッピーマリッジ   作:虫野律

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 朝フェラ未遂事件から二週間ほどが過ぎ、七月になった。空を仰げば、夏の盛りへと駆け上がっていく日差しがまぶしい季節。

 母さんと良樹さんの夜勤が重なり同衾(どうきん)の条件が初めて満たされたのは、そんな暑い夜のことだった。

 俺は愛理のシングルベッドに横になり、頭の後ろで手を組んで天井を眺めながら彼女を待った。

 風呂やその他諸々の準備をすっかり済まして部屋に戻ってきた、半袖短パンのパジャマ姿に緩やかなツインテールの愛理は、ほんのりと桜色に染まった頬にはにかんだ微笑をたたえていて、ともすれば結婚初夜かと錯覚しそうになるが、これはあくまで義兄妹間の健全コミュニケーションの一環であって、性的なニュアンスはない。ないないない、ないったらない、と俺は自分に言い聞かせた。

 しかし、愛理がタンスから出した箱を見て、その自己暗示は儚く散った。

 

「な、何でゴム出したんだよ」俺は戦慄して尋ねた。ヤる気満々じゃないか、と。

 

 ふふ、と愛理は蠱惑的にほほえんだ。

 

「念のためですよ。裕也さんがその気になった時にすぐ気持ち良くなってもらえるように、です」

 

 そう言って、純潔を証明しているつもりなのか見せつけるようにして封を切ると、ベッドの頭の上にある小さな棚──ヘッドボードにそれを置いた。それから彼女は、ふと思いついたように、

 

「あ、でも、わたしを直に感じたいというのでしたら、どうぞ遠慮なくほしいままになさってくださいね。何が起きようとわたしは裕也さんを愛しつづけるだけですから」

 

「健全な義兄妹云々の建前どこ行った」

 

 愛理はそれには答えずに、男の劣情を挑発するようなしんなりとした所作でベッドに腰掛けた。

 俺は何とはなしに──あるいは愛理の術中に嵌まってしまったのか──そのパジャマの裾から手を差し入れた。

 愛理は敏感そうに肩を縮めて甘やかな吐息を洩らした。

 その細い腰を撫でさすって愛理(ver.JKH)のくびれ具合と肌のすべらかさを確かめていると──ふと気づいて手を止めた。

 

「てか、朝フェラ未遂の時は持ってきてなかったよな? ってことは、あの朝は本番行為まではするつもりはなかった、つまり号泣にほだされた俺が同衾契約を締結するところまですべて計画していたってことだよな?」

 

「んっふふ」愛理は淫靡なほほえみで誤魔化した。「わたしはそんなに計算高い女ではありませんよ。あの時の涙に嘘はなかったです」

 

「でも外連味(けれんみ)はあったんだろ?」

 

「もうっ、そんなことはもういいじゃないですか」

 

 愛理はおこったような、しかしあざとさのまつわりついたかわいらしい声色でそう言うと、ベッドにぬるりと体を滑り込ませた。

 薄着の肉体が二つ、狭いシングルベッドで密着すると、全身に伝わってくるうっすらと汗ばんだ火照り、シャンプーの香りにまじった生女体の甘いにおい、そして弾力のある瑞々しい柔らかさに、理性を激しく揺さぶられた。

 横を見れば、愛理の美貌が視界一杯に広がり、幸せそうにほほえんだ瞳を向けてくる。

 

「どんなことでもお申し付けくださいね」

 

「……安らかに眠らせてくれ」

 

 とは言ったものの、安らかでいられるかはわからない。

 

 

 

 

 

 

 というのはもちろん嘘で、睡眠について勉強した俺に死角はなく、ほんの五分もしないうちに夢の世界へテイクオフ、情愛のミステイクは無事、回避されたのだった。

 そうしてアラームなしで目覚め、ヘッドボードの置時計を見ると、予定どおり午前四時まであと少しというところだった。完璧である。

 ふと、愛理のふやけた声が聞こえた。

 

「うにゃうにゃ……ゆうやしゃん……♡ そんなにはげしくしちゃらめです……♡ あっ、らめぇぇっ……♡ そとにだしちゃやぁだぁ……♡ なかからこぼさないでぇ……♡ ふたりでいっぱいつくるんです……♡ てごねはんばーぐ……♡」

 

 どんな夢を見ているのか知らないが、愛理はスヤスヤである。

 俺は、愛理を起こさぬようにそろりとベッドから下りて部屋を出た。身支度を整えて自室で勉強しようというのだ。

 自室に戻ると、そういえば、昨日の夜、勉強している時から電源落としっぱなしで携帯チェックしていないな、と気づいた。

 携帯電話を手に取り、電源を入れた。

 と、未読メールのカウントにあきれた。今なお増えつづけており、三桁に届こうとしているのだ。完全にサイコホラー……無論、犯人は十六夜希その人である。

 メールを確認するのは怠すぎるので、いきなり電話を掛けた。すると、ワンコール、というより、ワンコ、ぐらいのタイミングで応じられた。やはり犬、間違いない。

 

『taejndajodng@6wlagtwm3j──!!!』

 

 初手怪音波は読んでいた。耳に当てずにたっぷり一呼吸置いてから、

 

「どうした、こんな朝も早くから」

 

『えぐっ、ぐすっ、ゆ゛う゛ぐん゛のこえやぁ~~』

 

 十六夜は涙声でぎこちなく、しかし安堵をにじませて笑った。

 用があるなら早くしてくれないかなぁ、と思いながらも急かさずに黙していると、彼女はご乱心(おヘラり)の理由を説明しはじめた。

 

『夢を見たんやぁ。ゆうくんがあたしよりおっぱいの大きいドスケベ女とシングルベッドでいちゃらぶえっちしとってぇ、ほしたら、その変態牛乳女にハマっておっぱい星人と化したゆうくんが、「もう希とは会えない」って言ってきよったんやぁ! 「希のおっぱいじゃ抜けない」ってぇぇ! うええええんっ、あたしだってDはあるのにぃ~~っ!! びえええええんっ!!』

 

 言われた瞬間の絶望がぶり返してきたのか、十六夜は激しく慟哭した。

 アホかな?

 と思ったら、

 

「アホか」

 

 と口に出していた。「それ、夢の話なんだろ?」

 

『うう、ひぐっ、やけどぉ、ひっく、めっちゃリアルやってん、あたし不安で不安であかんくて』

 

 幼児みたいだな。

 

『けど、ゆうくんも悪いねん。この前、奈瑞菜ちゃんのこと、こましとったやろ? 女の味を知った童貞君はみんな調子こくねん。ほんでどんどんわがままになってって、あたしみたいなめんどい女はいらんとか言い出すねん。したら、ぐすっ、あたし一人ぼっちに、ひぐっ、ぅぅ~~』

 

 再び泣き出しそうな気色が聞こえてきて、俺は慌てた。

 

「こますって、ヤってないからな? 前も言っただろ? 俺はロビン君の活躍を陰ながらサポートしてただけだ」

 

『せやけど、奈瑞菜ちゃん、ゆうくんのことえらい気に入っとるやん。あたしに隠れてこそこそ会うとるの、ちゃんと知っとるんやからな』

 

「一回だけだって。たまたまタイミングが合ったからちょっと愚痴に付き合ってやっただけだよ」

 

『嘘や! 奈瑞菜ちゃん、クッソウザい勝ち誇った目で見てきよるねん! マウンティングアイズやねん!』

 

「マウンテンバイクみたいに言うじゃん」

 

『奈瑞菜ちゃんを乗りこなしとるんやから一緒やろ!』

 

「でもあの酒カス、山ないじゃん」バスト的な意味で。

 

『ぶっはっ』十六夜は下品に噴き出した。『朝から上手いこと切り返すやん。しゃーない、ひと笑いに免じて奈瑞菜ちゃんネタでいじるのはこんぐらいにしたる』

 

 何て面倒くさい女なんだ。

 

「『めんどい女はいらん』から、切っていいか?」

 

『待ってや! 本題があんねん!』

 

「何」

 

『ちょっと待ってや。役に入り込まなあかんねん』

 

 役とは?

 十六夜は、よし、と小さく気合いを入れると、ガラッと雰囲気を変えた。しんみりとした口調で、

 

『なぁ……あたしらって、いつもおうちデートばっかやん?』

 

「まぁ、人目を憚りたいし」

 

『ごはん食べて、イチャイチャして、ゆうくんだけスッキリして、はい終わり。家族が心配するから帰るとか言うて、出した後はろくにぎゅうもしてくれへん。かわいいって褒めてくれるんも、好き言うてくれるんも自分がえっちしたい時だけ──ねぇ、ゆうくん。ゆうくんにとってあたしって何なん? あたしのことちゃんと想うてくれとるんか? 何か虚しいよ』

 

 十六夜が、台詞が終わった雰囲気を醸し出してきたので、

 

「ツッコミどころが多すぎてキャパオーバーなんだが、要するに何が言いたいんだ?」

 

『お外でちゃんとデートしたい。もっとほかの思い出も欲しい』

 

「えぇー」

 

『水着とか服とか、あと公認会計士やっけ? 何か鼻持ちならない資格の本も買わなきゃ言うてたやん。服とかはあたしが見繕ったげるから、買いに行こ』

 

「いつ? 希も忙しいだろ」

 

『今週末でも何とかなるで』

 

「まぁいいけどさ」

 

 

 

 

 

 

 日曜日、最寄り駅で十六夜と待ち合わせ、電車に乗って二つ先の駅で降りた。この近くにある某大型ショッピングモールが目的地なのだが、その前に昼飯だ。十六夜ご指定の店に向かう。ここからは徒歩での移動だ。

 と、改札へと続くエスカレーターに足先を向けたところで、十六夜に手を取られた。許可もなく指を絡めてくる。

 ええやろ? という目で見られ、仕方ないな、と軽く握り返して恋人繋ぎに応えた。

 

「えへへっ」

 

 変装用マスクを容易く貫通してくる魅惑の笑顔──アイドルオーラに、俺は咄嗟に辺りに視線を走らせた。

 が、駅のホームにごった返す人の群れは、皆、自分の人生しか見えていないかのように無関心に通り過ぎてゆく……十六夜希だと感づかれてはいないようだ。ほっと息をつく。

 

「どないしたん?」

 

 十六夜に訝しまれてしまった。

 

「何でもないよ。それより早く行こうぜ」

 

 俺は場都合の悪さを誤魔化すように促した。

 今日の十六夜は、デニム生地のオーバーオールと白のタンクトップを合わせたボーイッシュなカジュアルスタイル。ペタンコスニーカーが軽やかに歩を進めるたびに黒のキャップの後ろでぴょこぴょこ揺れる短めのポニーテールが、男心をくすぐってやまない。普段は隠れているうなじや耳元が露になっているのも、そそるものがある。

 容姿、仕草、声──十六夜の具える要素の多くが、本人が意識するとしないとにかかわらず男の劣情を強烈に刺激する。これでセックスが嫌いというのだから難儀なものだ。

 その店は、表通りから一本入った道の奥にひっそりと佇んでいた。いかにも敷居の高そうな、庶民お断りと言わんばかりに威圧的な門構えの寿司屋だ。もちろん回らない。ガチャポンもなければ、マヨコーンやハンバーグ寿司、フライドポテトもないだろう。子供と子供舌の大人はがっかりである。

 十六夜曰く、前に来たことがあって、味はもちろん、板前の人柄もよかったそうだ。値段が張るから客筋も悪くない。そのうえ、今回は運良く──電話したら、予約のキャンセルがあった直後だったらしい──個室を予約できた。マスクを外して顔をさらしても不躾な視線を向けられる心配はないという。

 流行り病におびえていた時期を彷彿とさせるピカピカのテーブル席の個室に案内されると、マスクを外した十六夜が言った。

 

「あんまお金持ってへんのやろ?」

 

「まぁ」学費用の貯金を除けば。

 

「ここはあたしが払うから遠慮せんと食べてな」

 

 何か負けた気がしたので、「安いファミレスでよかったんだがな」と返した。「イタリア風ドリアうまいし」

 

「アホ。そんなん自殺行為やろ。世間にネタを提供したいんか? どんだけお笑いに人生捧げとんねん」

 

 未来のネタ──初デートでファミレスありなし論争──が通用しないのは仕方ない。俺は寛容な心持ちで優しい顔を十六夜に向けた。

 気持ち悪がられた。

 何でやねん。

 

 

 

 

 

 

 おまかせコース+追加分の三万円足らずを十六夜に払ってもらった俺は、

 

「ありがとな、希。味も良かったし、何よりお前といるとホント楽しいよ。代金は、お前が売れなくなったころに出世払いで返すから安心してな」

 

 人として恥ずかしくないように誠実に感謝を述べた。

 十六夜は、

 

「いつもはそっけないのに、何であたしがお金出した時は欠かさず欲しい言葉くれるん? そのために貢ぎたくなってまうやん。ほんま何なん? ゆうくん童貞やのにヒモ男なん? 童貞高校生がヒモの素質開花しかけてるん、おかしない? どんな生き物やねん」

 

 などとぶつくさ言いつつも満更でもなさそうで、マジでちょろいな、と思う。普通は、素質のある女でも普段からの洗脳、もとい熱心な女心ケアの積み立てが必要だろうに、流石は十六夜である。

 愉快な気分でショッピングモールに乗り込むと、いよいよお買い物デートの始まりだ。

 まずは服屋が詰め込まれたエリアに赴いた。

 そも、俺はマネキン買いも辞さないファッション無頓着男で、最低限の清潔感があればいいだろ、という思想の持ち主だ。今回、服を買おうと思い立ったのも服の劣化が目立ってきたからという、それだけの理由しかない。流行がー、とか、どこどこの新作がー、といったことは関係ない。若者向けのブランドで適当に安いのを買うつもりだった。

 

「そんなんじゃあかんて。ヒモ男は見た目に気ぃ使うもんやで? 生命線の一つやからな」

 

 十六夜は、はぁやれやれ、とばかりにあきれた声でそう言い、

 

「ヒモになりたいわけじゃないんだが」

 

 という俺の反論は華麗に聞き流し、こなれた様子で男物の服を物色しはじめた。

 俺は着せ替え人形よろしくされるがままで、十六夜はあっという間にトレンドとおぼしき服を見繕った。

 

「やっぱり男の服にも詳しいんだな」

 

 率直な感想であって他意はなかったのだが、

 

「何や、焼き餅焼いとるん?」十六夜は、ちょっと楽しそうに目元をにやけさせて聞いてきた。「ほんま、ゆうくん童貞童貞しとってかわええなぁ」

 

 一回り以上も年下の小娘にかわいいと言われるおじさんの気持ちを一言で述べると、

 

「はいはい、何でもいいからさっさと会計して次行くぞ」

 

 こそばゆい、だろうか。腹の辺りがもにょもにょする感じ。

 

「照れとるん? 照れとるやんな?」

 

 レジに行こうとする俺に小走りに追いつき、からかいまじりにそうやって聞いてくる十六夜は、やはり楽しそうだった。とてもとても。

 なら、まぁいいか。

 次は水着を買いに行く。

 

 

 

 

 

 

 スポーツ用品店で有名ブランドの水着を買った俺は、十六夜に導かれて水着専門店を訪れた。

 

「あたしも、ゆうくんがムラムラする水着買わなあかんやろ?」

 

 ということらしい。かわいいやつめ。

 十六夜は、フリフリしていたり際どかったりする水着を手に取っては真剣な面持ちで、

 

「これとこれ、どっちがええかな?」

 

 と聞いてくる。

 知らねーよ、脱げば一緒だろ? 着るもんなんて何でもいいわ。

 なんて、男の本音をそのまま言うほどネンネではないので、

 

「俺はそっちのが好きだけど、希ならこっちのほうが似合うんじゃないか」「この水着、日焼けの痕がおもしろいことになりそう」「お前ならどっちを着ても世界一かわいいよ──え? めんどくさくなってきてるだろって? ソンナコトナイヨタノシイヨ」

 

 などと適当を言って凌ぐ。

 結局、十六夜が買ったのは、肩の出る短い袖の付いたオフショルダービキニと肩のストラップがフリルになっていて胸の下でクロスしているごちゃごちゃしたビキニの二着だった。いずれも谷間を強調するデザインだ。

 

「そういう水着ってすげー泳ぎにくそうだけど、どれくらい泳げるものなんだ?」

 

 店を出たところで俺は、ふと気になって尋ねた。水着が水着になっていない問題への野暮な言及である。

 

「知らん。あたし泳がへんし」

 

 引っかかる物言いだ。

 

「泳げない、じゃなくて『泳がへん』? 嫌いなのか?」

 

「嫌い……まぁせやな、泳がれへんわけやないんやけど、水が苦手なんや」

 

 歩きながら、ちらと横目で俺を見てから十六夜は続けた。

 

「あたしが三歳になるかならへんかの時、おかんに殺されかけたんや。冬場の冷水を張った湯船に、こう、首を絞めるみたいに掴まれて沈められたんよ。めっちゃくっちゃにもがいてもびくともせんくてな、幼心にも死ぬことへの恐怖が湧き上がってきてほんまにパニくった。おかんの気が変わったから助かったけどな、そん時の苦しくて怖い記憶が脳みそに焼きついてて、水に浸かるんはなるべくなら避けたいんや」

 

 いや重てぇな。たしかに親に殺されかけるのはメンヘラあるあるではあるが、聞いていて気持ちのいいものではない。

 返事に窮する俺を見た十六夜は、

 

「そんな顔せんでもええて」

 

 と微苦笑し、

 

「水が苦手言うても、いざってときはちゃんと泳ぐで? 昔、近所のおっきい川で茶トラの子猫が溺れとったのを助けたこともあるんやで? 偉いやろ?」

 

 と、おどけるように言った。

 たしかにそれは偉い。

 

「何や、しみったれとるな」すると十六夜は、「せや、ええこと思いついた」と悪戯っぽく笑った。「ゆうくんが今一番欲しいものプレゼントしたるでぇ!」

 

 

 

 

 

 

「これや!」

 

 モール内の大型書店に意気揚々と突撃した十六夜は、まっすぐに芸能関係の棚へ向かった。そして、ドールズの写真集を手に取った。総選挙トップファイブが揃い踏みの豪華版(?)だ。夏に合わせたのか、それは口実でとにかくオカズを供給したかったのか、水着姿がメインらしい。表紙の中央には当然の十六夜、その隣には小鳥居もいる。いずれも露出の多いシンプルなビキニを着ている。

 

「???」

 

 これが俺の欲しいもの? どういうことだ? どういうロジックでそうなった? 十六夜は俺がアイドルに興味がないことを知っているはずだ。なのに、なぜ?

 俺の頭の中には疑問符が溢れていた。十六夜の思考回路は、偏差値七十五オーバーの脳細胞をもってしても計り知れないことがしばしばあるのだから侮れない。

 十六夜は得意げな訳知り顔で語る。

 

「童貞シコ猿のゆうくんは、あたしが水着を選んでるとこを見て、こう思うたはずや。

〈うひょーっ! 希の水着姿でシコりてぇーっ!〉」

 

 十六夜は、変に低い声で特に声量を落とさずに言うと、

 

「あたしんちに来れるときなら実物見てシコればええけど、ゆうくんもあたしも忙しいからなかなかそうはいかへんやろ?」

 

「……」

 

「そこで、これや!」と十六夜は写真集を胸の高さに掲げた。「夏とか需要とか一切関係なく社長の趣味でシコリティ特化をコンセプトに撮られた、この実質エロ本があれば、うちに帰ってからも存分にシコれるんや!!」

 

「……」

 

「???」十六夜は、リアクションを返さない俺に不思議そうに小首をかしげた。「どしたん? うれしすぎてフライングアクメしてもうたか?」

 

「……ごめん、『希のおっぱいじゃ抜けない』んだ」

 

「なっ……!!」十六夜は、青天の霹靂に打たれたような驚愕の顔になった。「何でやっ?! それやと辻褄合わへんやろ!! いつもあたしのおっぱいでイきそうになっとるやろがい!!」

 

「実は俺──」俺は沈痛な面持ちを作った。「尻派なんだっ……!」

 

「!?!?!?」十六夜に二発目の雷が落ちた。

 

「お前にはわからんかもしれないが、おっさんになるにつれ尻のほうがよくなってくるんだ。悲しいことにな、あのころのトキメキは、もう、年々色褪せていく思い出の中にしかないんだよ……」

 

「高校生が何言うとんのや!!──いや待てほんならむしろ勝ち確や!! 何を隠そうあたしの売りはこのデカ尻や!!」十六夜は写真集(未購入)でデカ尻とやらを、ぺしんっ! と景気良く叩いた。「あたしの写真は社長の英断で尻アングルが多くなっとる!! どや?! 欲しくなったやろ?!」

 

 その時、十六夜の後ろに現れたエプロン姿があった。

 

「あのー、お客様」気苦労が絶えなそうな、薄毛のおじさん店員だ。「ほかのお客様の迷惑になりますので、お静かに願えますか」それから、と尻ぺしんぐ写真集を視線で示して、「そちらの商品は購入していただけるということでよろしいのですよね?」

 

 圧である。買わねぇとタダじゃおかねぇぞと目が言っている。

 俺と十六夜は間髪を容れずに顎を引いた。それはそう。常識的に考えて、すみませんでした一択。

 それはそうと、ちょうどいいから公認会計士の過去問の棚に案内してもらった。

 ……えっ? 図太い?

 それはそう。だっておじさん同士なんだもの。遠慮なくいくよ。

 

 

 

 

 

 

 服も買ったし本も買ったし、もう用は済んだ。

 俺はガラケーを開いて時間を確認した。午後三時半を回ったところだった。今から帰れば余裕で晩飯に間に合う。

 俺と十六夜はモール内の通路にあるベンチに座っている。十六夜は俺の左肩に頭をもたせかけ、両手で俺の左手を握っている。通り過ぎる買い物客の、〈うわ、バカップルだ〉〈あらあらいいわねぇ〉〈リア充死ね〉〈ウホッ、NTRれ映えしそうないいカップル〉というような視線が、煩わしい。

 パコッと携帯電話を閉じると、入れ替わるように十六夜の口が開いた。

 

「嫌や、まだ離れたない、まだ一緒にいたい」

 

 固く握られた左手に汗のぬめりを感じた。

 

「……いいよ、今日は一日空いてるし」

 

 十六夜の体から、ほっとするように硬さが抜けた。「あたし、ほんまあかんわ。思うてたよりずっとゆうくんを好きになっとる」

 

「ああ、そう」

 

「しょっっっぱっ! 何やねん、今こそヒモ男の本領を発揮して甘い言葉の一つでも掛けるとこやろ。そんなんじゃ一流のヒモ男になれへんで」

 

「そういえば、タピオカミルクティー流行ってるけど、俺飲んだことなんだよなぁ」もちろん嘘である。「このモールにもコーヒーショップチェーン入ってたよな?──いや、別に独り言みたいなもんなんだけどさ。希と初タピオカできたら思い出になるよなぁってちょっと思ってさ」

 

「ちゃうねんっ!」十六夜は地団駄を踏まんばかりにじれったがった。「そういうこっすいおねだりもヒモ男のやり口やけど今欲しいのはそれじゃないねんっ!」

 

「希って、ホントめんどくさいよなぁ──ま、そーゆーとこもかわいーんだけど☆

 あとよ、勘違いしてるみたいだから教えといてやる──俺の〈好き〉のほうがでけぇから☆」

 

「……ごめん、やらせといてあれなんやけど、正直しんどいわ。ゆうくんの場合、童貞顔なのが何よりあかん。少女漫画みたいな台詞は致命的に合わへん」

 

「やっぱ帰っていいか?」

 

「ごめんて」

 

「じゃあタピオカミルクティーな」

 

「どんだけ飲みたいねん?!」

 

 

 

 

 

 

 十六夜の金でタピオカしたり、雑貨屋を冷やかしたり、無駄に広いゲームコーナーでUFOキャッチャーに十六夜の金を寄付したりして過ごした。

 UFOキャッチャーの、特段欲しいわけでもない、リラックスした様子のクマのぬいぐるみを諦めたところで、十六夜が言った。

 

「プリクラ撮りたい」

 

 このゲームコーナーにもプリクラ機がたくさんあって、さっき目に入った時は若い女の子たちがきゃいきゃいしていた。

 

「うーん」

 

 俺はあまり気乗りしない。この時代はまだ令和ほど加工がきつくないが、それでも十二分にキャピキャピしていて、昔から少し苦手だ。

 

「ええやん、減るもんやなし」

 

 十六夜は恋人繋ぎの手を揺らしながら言った。

 ふ、と俺の鼻から微笑が洩れた。デジャブにも似た懐かしさにおかしみが込み上げてきたのだ。

 

「ゆうくん、今、ほかの女の子のこと思い出しとったやろ? そういうのわかるんやからな。あたしといる時はあたしのことだけ考えなあかんやろ」

 

 十六夜はおこったふりをしている。その頭──キャップをポンポンすると、 

 

「いいよ、撮ろうか」

 

 俺は応じた。

 

「さっすがゆうくん、話わっかるー!」

 

 おこったふりはどこへやら、花が咲くように十六夜は笑った。釣られて俺も口元を緩めてしまう。

 だがしかし、俺は撮影が始まると後悔した。

 べったりくっついたポーズで撮るのは予想していたから、それはまぁいい。いつものことでもあるし。

 問題はその後の落書き──文字や記号を書ける機能──だった。

 

「おいやめろ、そういうギャルギャルしいのはおっさんにはキツいんだ」

 

 一枚目──相合い傘の絵と『ラブ×②買い物デート♡』の文字。

 

「高校生なんやからええやん」

 

「心に飼ってるおっさんが、さめざめと泣いてるんだよ」

 

 二枚目──『清純派アイドル in LOVE with ヒモ彼氏』の文字。

 

「あからさまなミスリードやめろ。特に『清純派』のとこが真っ赤な嘘」と俺。

 

「みんながそう言うんや、あたしは悪ない」

 

 三枚目──『回らないお寿司からの~買い物デートからの~ラ・ブ・ホ♡』

 

「そんな予定はないが」 

 

「未来は変えられるんやで?」

 

 四枚目──『マジでリスカる5秒前』、そしてI字カミソリの絵。

 

「落差がすごくて風邪引きそう」

 

「ギャップ萌えやな。アイドルはかわいいだけじゃあかんねん」

 

 五枚目──

 

「最後はゆうくんが書いてや」

 

 突然、ペンを渡されても何を書けばいいのやら。

 しかし、早くしないと次の人が来てしまう。俺はペンを走らせた。

 

『When cats fly, you'll develop a crush on me.』

 

 あ、間違えた。書きおわってから気づいた。〈cats()〉じゃなくて〈pigs()〉とすべきところだった。十六夜の話に引きずられたのだろうか。とはいえ、がんばれば意味は通じるから、ま、これでもいいか。

 

「〈猫が空を飛ぶ時、あなたはわたしの上でクラッシュを開発する?〉──訳わからん。どういう意味や?」

 

 しかし、十六夜には理解できなかったらしい。

 

「たいしたことは書いてないよ」

 

 などと、はぐらかして俺は教えない。

 何やそれ、と訝りながらも十六夜は、シールが出てくると、ご機嫌になった。ニコニコだ。

 シールは二枚あり、一枚は俺のものとなった。

 どこに保管すればいいのやら悩ましい。俺の分も十六夜のマンションに置いておいてほしいところだが、そんなことを言ったら彼女のいい気分に水を差してしまうだろう。

 引出しの裏にでもテープで張りつけておこうか。そこなら愛理にも見つからないだろう──愛理に十六夜のことは話していない。その必要もメリットもないからだ。

 

「あーっ! またほかの女の子のこと考えてる!」

 

 十六夜は本当に鋭い。

 

「あたしに貢がせたお金でほかの子と遊ぶつもりなんやろ? 全部わかっとるんやからな! ゆうくん最低や! 童貞のくせにぃ~! 一生あたしだけを見てシコってればええのにぃ~!」

 

 ……いや、そうでもないか。

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