七月最後の夜、午後九時を過ぎたころ、俺は愛理の部屋のドアをノックした。
「愛理、ちょっといいか」
ドアはすぐに開けられた。愛理はポロシャツとワンピースを足したような服を着ている。まだ普段着のままだ。彼女は不思議そうに小首をかしげて、
「どうされました?」
「八月になるとこの町でも夏祭りが開かれるだろ? 割と大規模なやつが」
「そうですね」
「一緒に行かないか?」
「ふぇ?」愛理は呆けたように口を半開きにさせ、三度まばたくと、「夏祭りデートということですか?」
「ああ、誘ってるんだよ」
愛理の顔にじわじわとうれしみの笑みが広がっていき、
「もちろんいいですよ!」ふわっと弾けるように声を高くした。「でも、裕也さんから誘ってくれるなんて、どうしたんですか? 逆行してからは初めてですよね?」
俺は、
「……お前と屋台巡りをしたくなったんだよ」
頬を赤らめて愛理は、えへへっ、と笑った。
「お待たせしました」
夏祭り当日、そう言ってリビングに現れた愛理は、青の下地に白と赤の花柄の浴衣を着て、巾着を提げていた。メイクもばっちり決めて、濡羽色の長髪はゆるふわ無造作シニヨンに結われている。これぞ日本の夏祭り、といった趣だ。
「おおっ」
と感嘆の声を上げたのは良樹さんだ。
「すごくきれいだよ。
などと前妻の名を口走ってしまい、後妻に微妙な顔をされている。
ちなみに俺も浴衣だが、ありきたりな濃紺のもので、これといったおもしろみはない。
時刻は午後四時前、少し早いが、足元は慣れない下駄だ、そろそろ出よう。
商店街通りが夏祭りの会場だ。屋台がずらーっと並んでいて、すでにやっているところも多く、夏休み中の暇な学生や風物詩に釣られて暇を捻出した大人たちで溢れている。
いつものように左側で腕を絡めてぽよぽよおっぱいを押し当ててきている愛理が、わくわくとした色を浮かべた。
散歩感覚で手前の屋台から順に見ていくことにした。
最初の店はチョコバナナ屋だった。
「まいどっ!」頭にタオルを巻いた兄ちゃんが、笑顔で言った。
早速の買い食いである。二本受け取ると、一本を愛理に渡す。
愛理は、一度、赤く濡れた舌先でチロッ先端を舐めてから、かぷっと咥え込んだ。そのまま上目遣いに俺を見つめて瞳で悪戯っぽくほほえみながら、パキッと噛みちぎった。
ちょっとひゅんっとした。
次に足を止めたのは射的屋だった。
カウンターテーブルの向こうの棚に安手な玩具が並んでいる。それにコルクの銃弾を当てて倒せれば獲得となる。
「この日に備えてアニメでガンアクションを予習しておきました。わたしに任せてください」
愛理は自信満々にそう言って、当然のように惨敗──かすりもしなかった。
俺もやってみたが、当たってもピクリともしなかった。
これも夏祭りの醍醐味、俺たちは店を後にした。
愛理は若干不貞腐れながらフランクフルトをかじった。
輪投げ屋を見つけた。これなら不正の余地はないだろう。俺たちは店主のおじさんに小銭を渡した。
愛理は獲物を狙う猫のような真剣な表情で輪っかを投げた。
果たして、シュッと飛んでいった輪っかに的の棒が入った。その瞬間、やった、と控えめに手を叩いて愛理は、顔を綻ばせた。
見惚れかけた俺は、誤魔化すように目を逸らした。
その後も割高の物を飲み食いしたり、期待値の低すぎるゲームに挑戦して財布の風通しを良くしたりして楽しく過ごした。
気づけば、空に青みがかった宵闇が広がっていた。
そろそろ帰ろうか、という段になると俺は、
「せっかくだから花火やってかないか?」
輪投げの景品の花火を示して近くの河川敷公園に誘った。
愛理は二つ返事で了承した。
河川敷公園に先客はおらず、しんと静まり返っていた。都会の中に不意にぽっかりと空いた森閑な穴のような寂寞が漂っていた。
バケツ代わりの紙パック飲料の容器に水を入れて点火用キャンドルを準備したら、花火開始だ。
線香花火の赤い雫を眺めていると、愛理がぽつりと言った。
「また、こんなふうに過ごせる日が来るなんて、あのころのわたしには思えませんでした」散る火花の向こうに過去の面影を見ているかのような懐旧のニュアンスがあった。「あのまま、ただ一緒に暮らしているだけの夫婦で終わるのだと思っていました」
実際は夫婦から義兄妹になってしまったんですけどね、人生はわからないものですね、と愛理は少し笑った。
「……ごめんな」
俺が言うと、雫がぽとりと落ちた。
「?」愛理は疑問符の色を見せた。
線香花火の残骸を紙パックに差し込んで俺は、軋む心臓を煩わしく思いながら重い口を再び開いた。
「ずっと怖かったんだ」
今度は愛理の雫が落ちた。ふっと音が消える瞬間があって、俺は愛理を近くのベンチに座らせた。その隣に腰を下ろすと、言葉を待つ彼女に応える。
「愛理は俺を強い人間だと思っているようだが、それは違う。あまり裕福ではない育ちだったり、本当の上澄みの中では秀でた部分なんて一つもない平凡な頭脳だったり、コンプレックスを挙げれば切りがない。
だが、俺は自分がそんなことに囚われて気を病んでいることを認めたくなかった。
愛理ならわかると思うが、プライドの高い人間なんだ、俺は。弱い自分を認めたくない。人にも見せたくない。勝ちつづけて常に優位に立たないと不安でならない……そんな、どうしようもなく弱い人間なんだ。
だから俺は、徹底的に自分を追い込んで努力しつづけてきた。勉強も仕事も……劣等感の裏返しだ。ときどき虚しくなることもあるが、やめられなかった。
愛理のこともそうだった。
育ちが良くて美しいお前は、俺にとって憧憬であり、劣等感の対象だった。
俺が愛理に惹かれたのは、だからなのだろうと思う。お前を手に入れて支配することで自尊心を満たそうとしたんだ」
「愛してる、と、そうおっしゃってくれていたのは嘘だったんですか」それまで静かに聞いていた愛理が、言葉を差し挟んだ。責めるような、泣き出しそうな声音だった。「わたしは、裕也さん自身に対するトロフィーにすぎなかったというのですか」
「自分に対するトロフィー、その点は否定できない──だが、愛していたのも事実だよ」
張りつめつつあった愛理の気配が、ふっと緩んだ。
安堵した内心を隠しながら俺は、続ける。
「愛していた、それが問題だったんだ」
「なぜですか、好きなだけ愛してくれればいいじゃないですか」
「愛理への愛が深まるにつれ、反比例して愛理への劣等感と愛理を失う恐怖──愛理に捨てられるんじゃないかという不安が大きくなっていった。程度の低い人間の俺なんか今にも愛想を尽かされるじゃないか、そんな不安がまつわりつくようになっていたんだ。
だから、仕事で結果を出して自分を安心させようとした。昔から変わらないいつものやり方だ。劣等感やそれに由来する不安を圧倒的な実績で誤魔化す──要するに、逃げていたんだ。劣等感そのものを受け入れることができないから、実績という名の絵の具で塗り潰そうとした。
だが、上手くいかなかった。
いくら成果を挙げても安心できなかった。それどころか劣等感と不安はどんどんエスカレートしていった。
そんな時だ、逆行したのは。
正直に言うと、助かったと思う自分もいた。これでもうがんばらなくてもいいんだって。
再会するまでの一年で、愛理がいなくても生きていけることを理解した。
そして、俺はお前に別れを切り出した。仕事だ何だと言い訳して、愛理を愛していたからこそ、愛理を愛することから逃げた」
沈黙が俺たちを覆った。川のせせらぎや風の音が、鮮明になる。夏と水のにおいのまじったぬるい風が、頬を撫でていく。
愛理はうつむきがちな様子で、思案げにも見える。
「幻滅したか?」
俺は尋ねた。平静を装っているが、心臓はおびえていた。
愛理は小さくかぶりを振った。
「気が楽になりました」
予想外の反応だった。
「裕也さんはいつも自信満々で、怖いもの知らずのように堂々としていて、孤独なんて何とも思っていない──そんなふうに思っていました。ネガティブな思考に陥りがちでいつも受け身なわたしでは釣り合わないのではないか、と不安になることも少なくありませんでした。
裕也さんと出会ってから少しして抑えがたい恋情を自覚すると、わたしは自分を厳しく律するようになりました。
裕也さんがあまりにも強くて優秀な人だから、わたしもそれにふさわしい立派な女性でなければならない、完璧な恋人でなければならない、良妻でなければならない、と考えていたんです。
本当を言うと、それを息苦しく感じることもありました。裕也さんとわたしが全然別の世界を生きている遠い存在のように思えて寂しくもありました。
だから、ちゃんと弱いところのある、わたしと同じ普通の人間だとわかって安心しました」
これで安心して手を抜けますから、と少しおどけてみせた愛理は、「それに」と話を転ずる。
「いつも裕也さんに甘えてばかりいたわたしにも責任はあります。人を傷つけたくないから、などともっともらしい理由をこしらえて受け身でありつづけたわたしも悪いんです。自分が傷つきたくないから、あなたの言葉を、優しさを待つばかりで、自分から愛を伝えることはありませんでした。
もしもわたしが、自分の気持ちをもっと積極的に言葉にしていたら、勇を鼓して行動に移していたら、裕也さんをそれほどまでに不安にさせて追いつめることもなかったはずです。……本当にごめんなさい」
「……」いい女だな、としみじみ思う。「いや、愛理が謝るようなことじゃないよ」
愛理は困ったように眉を寄せてほほえむと、
「聞いてほしいことがあるんです」
と言う。そして愛理は、実母との悲しい思い出──死別の一部始終を語った。
「ひどい娘だと思いましたか」愛理は夜を見つめながら聞いた。
俺は、いや、と首を振った。「仕方ないことだよ。俺も昔、父親がいないことで母さんにつらく当たったことがある。幼いころは誰しもそんなものだよ。それこそ逆行者でもない限りな」
愛理は、ふふ、そうですね、と品よく微笑を遊ばせた。
それから愛理は静かに深く呼吸すると、ふいと両手で俺の手を取った。彼女の温かな手のひらは少し湿っていて、見つめ返すその美しい瞳はうっすらと潤んでいた。
「裕也さん、愛しています。たとえどれだけの時を越えようと、世界が変わろうと、この愛は永遠です。あなたに信じていただけるまで、あなたの不安が消えるまで何度だって言葉にします。わたしはあなたを愛しているのですから、これからも
まっすぐに見つめられて言われたものだから気圧されたような心地がして、同時に先を越されたことを悔しく思った。
今度は俺が両手で愛理の手を包み込んだ。
「もう十分に伝わっているよ。こんな情けない話をしようと思ったのは、逆行した愛理が変わったからなんだ。愛理が自分から俺を求めてくれるようになったから、俺も愛理を信じようと、自分の弱さを認めて乗り越えようと思えた」
愛理の手のひらから伝わる脈動が強くなるのが、彼女の瞳に期待の光が浮かぶのがわかった。
俺は愛理にほほえみかけ、照れくささを飲み込んで気持ちを言葉にした。
「愛してる。今度は泣かせないと誓う。仕事も常識の範囲内に抑える。だから、俺とやり直し──」
てほしい。そう言いおわる前に愛理が抱きついてきた。
「はいっ、はいっ、やり直しますっ」感涙のまじった声だった。「もう放しちゃ駄目ですからねっ、ちゃんと最後まで責任取ってくださいねっ」
俺は愛理の背に腕を回した。
一度ぎゅっと抱きしめると、唇を重ねた。
浅く、深く、より深く、彼女とまじり合う。