家に帰り着いた時には、午前の九時半を過ぎていた。
深い理由もやる意味もないが息を殺して、合鍵で解錠し、音が立たないようにゆっくりと玄関扉を開けた。
と、愛理が玄関マットの上に正座して待ち構えていた。
なんてことはなく、玄関には誰もいなかった。生活音も聞こえてこない。誰もいないのかもしれない。
小さく唾を飲み込んで、靴を脱いだ。
自室で普段着に着替えると、携帯電話片手にリビングダイニングへ向かう。喉が渇いていた。
リビングダイニングのドアを開ける。
と、テレビもエアコンも点けずにダイニングテーブルに着いてその天板をじっと見つめる愛理がいた。母さんたちはいない。
思わず息を呑んだ。
しかし俺は瞬時に平静を繕って、
「暑くないか? 冷房点けるぞ」
「……」
一瞥もしてくれず返事もなかったがリモコンを操作し、当初の予定どおり冷蔵庫のほうへ行く。喉の渇きが尋常ではなかった。
スポーツドリンクをグラスにつぎ、一気に飲み干した。二杯目を入れると、覚悟を決め、愛理の向かい側の椅子を引いて座った。グラスと携帯電話は手元に置いている。
「いったいどうしたというんだ?」俺は涼しい顔で冷や汗を隠して尋ねた。
十六夜とのことが原因なのはほぼ確実だろうが、どの程度把握しているか、あるいはどのように解釈しているか探るのが先決、俺は唇を舐めて注意深く愛理を窺う。
「……」ややあって、愛理はうつむきがちなまま暗い口調で答えた。「昨日は海羽ちゃんのおうちに泊まったそうですね」
「ああ、海羽には会ってないけどな」
海羽は、前回同様たまたま外出していたことになっている。実際にはそんなことはないのだが、海羽の携帯で俺の声を聞かせろ、などと言われて厄介なことにならないように自発的に気を利かせてそういうことにしてくれていた。高校生ながら優秀なアリバイ工作員だ。
「七瀬要」
愛理は突然、自分の友人の名を口にした。
その響きが、どうしてか死神の鎌の風切り音のように聞こえ、俺は不安を押し流すようにスポーツドリンクを飲んだ。少しぬるい。氷を入れておけばよかった。
愛理は俺を見ようともせずに続ける。
「要は顔が広いんです。裕也さんの星屑高校にも友達がいます」
そこまで聞いて、怖気が背筋を駆け上がった。
「わたしが海羽ちゃんに掛け合って裕也さんのアリバイを確かめようとしても、どうせかわされてしまいます。彼女とは仲良くやらせてもらっていますが、裕也さんとのほうが付き合いが長いのですから当然ですね。彼女は悪くありません」
「心配しすぎだ。偽装工作なんてしていな──」
しかし愛理は俺の白々しい抗弁を遮って、
「ですから、まずはわたしが海羽ちゃんに電話を掛け、彼女から『今は友達の家にいて自宅にはいない』という偽証を聞いてから、要を介して彼女の友達に動いてもらいました。その友達に海羽ちゃんに連絡してもらい、たわいのない会話の中で『今は自宅にいる』という証言をさりげなく引き出してもらったのです」
そこで初めて愛理は俺を見た。泣き腫らした目が痛々しい。
「これはどういうことでしょうね、裕也さん? なぜ海羽ちゃんの証言は矛盾しているのでしょう? 頭のいい裕也さんにならわかるのではないですか?」
「愛理が電話でその証言を聞いた時とその友達が聞いた時で居場所が変わったからといって、矛盾とは限らないだろう? 単に移動しただけかもしれないじゃないか」
苦しいな、と思う。
「その可能性を潰すために、要の友達に、わたしが電話した時間の海羽ちゃんの行動も彼女から聞き出してもらっています」愛理は一呼吸置き、「……自宅にいたそうです。加えて、浮気推定時刻に誰かが海羽ちゃんの家に遊びに来ていたという事実も確認できませんでした」
「……」言い逃れる上手い言葉は見つからない。
ふふ、と愛理が笑った。冷たく、儚い笑いだった。
「わたしだって馬鹿じゃないんです。同じ手は何度も通用しません──そろそろ自白していただけませんか」
俺は、警察署の埃っぽい取調室で、それはそれとしてカツ丼をおいしく平らげた容疑者のように項垂れた。
俺がヤりました。
そう口走りかけて──いやいやヤってねぇし! これはとんでもない冤罪だ!──すんでのところで言葉を飲み込んだ。危ないところだった。自白調書を取られたら不起訴に持ち込む難易度が跳ね上がる。
「わかった、ちゃんと話すよ」
観念して俺が言うと、しかし愛理の表情は和らがなかった。黒と確定したと思ったのか、むしろ険しくなっている。
俺はグラスを口に運んでから弁明を始めた。
「たしかに陸人の家には泊まらなかった。別の友達の家に泊まったんだ」
「そのご友人というのは──」
「女だよ」
愛理のまなじりが決した。
「だが」と、そのいかりを制するように素早く言葉を継ぐ。「誓って恋愛関係ではない。当然、セックスもしていない」
「泊まっておいて、信じられません」
「その気持ちはわかるが、事実だ。
泊まったのには訳がある。その子は昨日、性被害に遭ったんだ。俺だってバイトが終わったらまっすぐ帰るつもりだった。
だが、想像してみてほしい。愛理は、レイプされた友達が泣きそうな顔ですがってきて、冷たく突き放せるか? 俺にはできなかった。それで、話を聞いて慰めていたんだよ」
「……」愛理の満面に疑わしそうな色が浮かんだ。「そんな三文小説みたいな話をされて、そうなんですね、それなら仕方ないですね、と信じて許す妻がいるとお思いですか?」
「言いたいことはよくわかるが、それがすべてだよ。だから、浮気の類いではない」
「……」愛理は深い深いしわを眉間に刻んでしばし考え、「その友達というのは、どこの誰なのですか」
やっぱりそう来るよな。だが、それは──
「ごめん、事情があって彼女の個人情報は明かせない」
愛理を信用していないわけではないが、どんなきっかけで情報が洩れないとも限らない。事務所の圧力が効かない相手に伝わったら大惨事である。スキャンダルは神経質なくらいに警戒しておいたほうがいいだろう。
「何ですかそれ」
愛理は、いよいよ堪忍袋の緒が切れかけていた。
「馬鹿にするのもいい加減にしてくださいっ!!」
というか、切れた。ぷっつりと。逆行前の愛理からは考えられないほどの激昂だ。
「馬鹿になんて──」
俺の言葉は、当然のごとく押しのけられた。
「してるじゃないですかっ!!」愛理はバンッとテーブルを叩いた。「全部嘘なんでしょうっ?! 本当はその女と──」涙に彼女の声が詰まった。「ひどいっ、あんまりですっ、わたしは裕也さんだけなのにっ、二回も純潔を捧げたのにっ、ひっく、泣かさないって約束してくれたのは何だったんですかっ、本当に全部嘘じゃないですかっ、もう嫌っ!!」
ヒステリックに叫ぶと愛理は、突っ伏してしまった。しくしくと泣きつづけている。
「……」俺はグラスを傾け、空にした。
さて、どうしたものか。本当はもう一枚、身の潔白を証明するカードがあるが、それこそ十六夜の許可もなく使用すべきではないだろう。モラル違反だ。
今、十六夜に電話して聞いてみるか?
しかし、許可が下りたとして、そのカードの内容を愛理が信じてくれるとも限らない。それはたしかに証拠ではあるが、その証拠の真実性を証明する補助証拠がないと証明力が弱くなってしまう類いのものだからだ。
かといって愛理を納得させられるほどの隙のない補助証拠などないだろうし、ほかに、無実自体を証明する実質証拠もない。
などと頭を痛めていると、ふと愛理の泣き声がやんだ。そして、
「面食い……」
と、ぽつり。
俺は、愛理の異様な雰囲気にたじろいで思考がうやむやになった。
どうした、と俺が尋ねるより先に愛理は言葉を続けた。
「関西弁の女……興味のないはずのドールズの写真集……解散しないドールズ……明かせない個人情報……ドールズ唯一の関西出身……殺されるはずだったのになぜか生きている……」
うわぁ。
愛理の中で推理のパズルが急速に組み上がっていく音が聞こえ、俺は頬を引きつらせた。
愛理(ver.Holmes)はゆっくりと顔を上げた。
「
瞳孔の開き切った、涙に濡れた瞳に見据えられ、
「……トップアイドルが一般の高校生を相手にするわけないだろ」
情けないことにそんな言い訳しか出てこなかった。
その時、愛理の視線がゆらりとずれた。その先には俺の携帯電話。
「無実というなら携帯を見せられますよね」
「……仕方ないな」
俺は携帯電話を開いて画面ロックを解除しようとする。
電話帳の十六夜の登録名は〈
〈井上ゆい〉からメールが来た。
肝に氷柱を突き刺されたかのような悪寒──嫌な予感が走った。いつもの戯れ──肉体関係をにおわすようなツッコミ待ちのボケた内容だったら、まずい!
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
俺はメールを確認しようとするが、
「待ちません!」
何かを察したらしき愛理の手がシュッと伸びてきて、携帯電話を掴んだ。
常ならば愛理に握力で負けることなどありえないが、不運なことに汗で手が滑ってしまった。
携帯電話がぐいと奪われ、しかし思いのほか抵抗がなかったからか勢いが付きすぎたようで、愛理のほうまで手を滑らせてしまった。
「「あっ」」
すっぽ抜けた携帯電話が宙に投げ出され、愛理の後ろの壁にぶつかった。床に落ちて硬い音を立てた。
「ごめんなさい」
しおらしく謝った愛理は、席を立って携帯電話を拾おうとする。と、その目を見開いてフリーズした。
「ど、どうした」
愛理は何を見たのか。俺も席を立ってテーブルを回り込もうとすると、彼女はさっと携帯電話を拾った。
そして、
「裕也さん、これはどういうことですか」
ぶつかった、又は落ちた衝撃でバッテリーの蓋が外れたのだろう、その裏に貼られたプリクラ──例の買い物デートの時の──を俺の眼前に突きつけた。
愛理の声は真冬の夜闇のように冷たく暗かった。言葉の一つ一つが肌を凍えさせる。
「い、いや、違うんだ、これは……」
バッテリーの蓋のカップルプリクラのあまりの懐かしさに、ではなく寒さに舌がもつれて上手く話せない。
俺が自分で貼ったものではない。おそらくは昨夜、俺が寝ている隙に十六夜が仕込んだのだろう。こうなることを狙っていたか、それとも単に俺との繋がりを感じたかっただけなのか判然としない。が、神懸かり的に最悪なタイミングで発覚してしまった。
そのプリクラの中では、輝かんばかりの笑みを浮かべた十六夜が、優しげな微苦笑の俺に頬を寄せている。その下には女の子らしい丸文字で『回らないお寿司からの~買い物デートからの~ラ・ブ・ホ♡』と書かれている。
一方、プリクラの向こうでは、愛理の黒目が小刻みに揺れ、瞬く間に潤んでいく。
「裕也さん……どうして……ひどすぎる……最低……切り落とす……ミキサー……」
「お、落ち着け。いったん落ち着こう、な? まずは座っ──」
俺は愛理に着座を促そうとするが、
「触らないでっ!」
その手をしたたかに弾かれた。
愛理は涙目でキッと俺をにらみつけると、携帯電話と蓋をテーブルに叩きつけるように置いてリビングを出ていった。
たんたんたんと階段を上る足音、ドアの乱暴な開閉音。自室に行ったようだった。
「はぁ」
俺は全身で溜め息をつくと、どうしたものかな、と考えながら蓋を嵌めて十六夜のメールを開いた。そこには、
『ごめんな』
とあった。
再び溜め息が出た。