アン×アンハッピーマリッジ   作:虫野律

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⑰幕間四話

『男の人って、どうして浮気するんだろう。』

 

『本能だね

 わたしらが本能的に強姦を受け入れられないのと一緒』

 

『浮気するなっていうのは強姦するのと一緒だっていうの?』

 

『理屈で考えればそうなる』

 

『でも、浮気しない人もいるって聞くよ。奥さん一筋の人。』

 

『そういう人はモテなくてできないだけ

 その無能っぷりから目を逸らして自尊心を守るために愛妻家ってことにしてるのよ、奥さん共々ね』

 

『できるなら、みんな浮気するってこと?』

 

『普通はそう』

 

『でも、仕方ないからって割り切れないよ。』

 

『それも本能だね

 ほかの女が彼の本命になったら自分と自分の子供の生活が破綻してしまうっていう恐怖が、女のDNAに刻み込まれてるのよ』

 

『本能と本能の対立なら、どうしようもないじゃない。』

 

『男と女なんてそんなものでしょ?』

 

 わたしは自室のベッドに仰向けに寝転がって、顔も名前も性別も知らないSNSの友達とメッセージのやり取りをしていた。夜の十時を回っている。

 おそらくは高校生よりは年上であろうその友達は、ずいぶんと達観したことを言う。三十四歳のわたしは、恥ずかしながらまだその境地には至っていない。彼女──と仮定しておく──にはよく話を聞いてもらっていて、助かっている。

 

『そっちはどうなの?』

 

 わたしは尋ねた。彼女も恋をしている。ただ、ほとんど諦めているという。

 

『駄目ね

 上手くいく気配が一ミリもないわ(笑)』

 

『仲間だね(笑)』

 

『イエーイ!\(^o^)/』

 

『\(^o^)/』

 

 わたしは携帯電話を枕元に置いて溜め息をついた。

 裕也さんの卑劣極まりなき許しがたき不貞行為から一箇月が経っていた。もう学校が始まっている。

 裕也さんとは口を利いていない。

 わたしが拒絶していた。彼は言い訳めいたことを言いたげな様子だったが、避けていた。

 まともな恋愛は裕也さんとしかしたことがないわたしは、浮気されたのも初めてのことだった。怒りや悲しみ、寂しさ、嫉妬心、愛憎が入り交じり、胸の裡で渦を巻いていて、いまだ気持ちの整理がついていない。

 キスもセックスも結婚も裕也さん以外とは考えられない。本当を言うと、まだ愛している。彼への想いは変わらない。

 けれど、許せない。わたしを騙してほかの女をかわいがっていた。その指でわたしの中に触れ、その腕でわたしを抱いていた──想像するだけで、嫌悪感が喉の奥から突き上がってきて吐きそうになる。

 

「はぁ」

 

 電灯に手をかざした。広げた左手、その薬指が寂しい。

 

 

 

 

 

 

「聞いてる?」

 

 あきれたような要の声にハッとして答える。

 

「う、うん、聞いてるよ」

 

 昼休みの教室だった。今日も今日とて飽きもせずに要と向かい合ってお弁当を食べていた。

 

「絶対嘘じゃん」要は目を細めて断言した。そんな仕草でさえ彼女に掛かればアンニュイ色に染まる。「上の空じゃん」

 

「ごめんなさい」

 

 要は、はぁやれやれ、というようなニュアンスで、ふぅーん、と鼻から溜め息を洩らすと、

 

「どうせお義兄さんのこと考えてたんでしょ?」

 

「うん」

 

 別れたくはないけど許せない、という気持ちは要に話してある。

 それを理解したうえで要は言う。

 

「そろそろ自分の気持ちをはっきりさせたら?」

 

 いつまでもこのままではいけない、というのは、

 

「わかってはいるけど……」

 

 煮え切らないわたしにも要は、あきれはすれども苛立ちはしない。こりゃ駄目ね、とばかりに小さく肩をすくめて冷凍らしきミートボールを口に運んだ。

 

「けどさぁ」

 

 気怠さをまつわりつかせたいつもの口調を崩さないで要は、ふと思いついたように言った。

 

「実際、お義兄さんが浮気したとは断定できないんでしょ?」

 

「それは……」

 

 決定打となったプリクラがわたしと復縁する前のものだったならば、たしかに証拠不十分ではあるけれど。そのプリクラが撮られた日時を証明する証拠も、たしかにないけれど。

 

「じゃあグレーってことで飲み込んじゃえば? 疑わしきは罰せずよ」要は軽く言う。「真っ黒でなければ気の持ちようで白にもできるでしょ?

 お義兄さんは嘘をついてなくて、本当にレイプされた女友達を慰めていただけで、プリクラだってあんたと付き合う前に撮った。ラブホ云々の落書きは悪ふざけで、つまりそもそも恋愛関係になくて、蓋の裏に貼ってあったのもその女友達が悪戯しただけだった──そういうことにしちゃえば? そうすれば屈託なくお義兄さんの胸に飛び込めるでしょ? ぶっちゃけお義兄さんのが欲しくてムズムズしてるんでしょ? ちょこっと妥協すれば気持ち良くなれるよ?」

 

 そういう解釈もありうると頭では理解しているけれど、

 

「わたしは要ほどメンタルが強くないのよ」

 

 わたしにはできない。

 

「というか、わたしは別に性欲の強い女ではないのだけれど」

 

 淫乱女というイメージはぜひとも払拭したかった。

 が、

 

「はっ」要は鼻で嗤った。「デカマラ連続奥イキにハマって執着してるだけのくせによく言うわ」

 

「ちょ、ちょっと要! 教室でそういうこと言わないでよ!」

 

「でも事実なんでしょ? 認めたら許してあげる」

 

「………………それだけじゃないし」

 

「あーはいはい、性格とか価値観が合うとかって? あんたも強情ねぇ、ぽよぽよ愛理っぱいには性欲が詰まってるってみんなとっくに気づいてるのに」

 

 周りのクラスメイトが揃って、うん、とうなずいた。

 ううん、とわたしはかぶりを振った。

 

「それもだけど、一番は違うの。

 裕也さんに体を委ねるとね、奥も中も外も全身余す所なく全部同時に来て、彼が許してくれるまでずぅーっと続くの。

 ねぇ、知ってる? 人間って快感がすぎると死を覚悟するのよ。けど、それがたまらないの。初めてあの無限全イキに至った時は女に生まれて本当によかったと思ったわ」

 

「……あのさ」要は、彼女にしては珍しくおそるおそるというような自信なげな様子だった。「ちなみになんだけど、お義兄さんを一晩貸してくれたりは……?」

 

 周りのクラスメイトが揃って、うんうん、とうなずいた。

 頭が、カッッッ!! と熱くなって目の奥で火花が弾けた。

 

「要のことは早急に殺さなければならないようね。見せしめのためにも女に生まれたことを後悔させるような惨たらしいヤり方にせざるを得ないけれど、親友だもの、許してくれるわよね?」

 

 わたしの顔がよほど恐ろしかったのか、要は頬を笑みの形に歪めた。

 

「じょ、冗談よぉ」

 

 こうして昼休みは和やかに過ぎていく。

 

 

 

 

 

 

 何も解決しないまま十月になっていた。人恋しい季節が胸を締めつける。秋の空は高く澄んでいるけれど、わたしの空はどんよりと曇っていて晴れない。

 

「十月最初の土曜日、空いてる? いい感じのホテルの食事券貰ったから、一緒に行かない?」

 

 九月のうちに要に誘われていたため、その日に合わせて美容室に行っておいた。緩めのドレスコードもあるようなので、暗めのニットセーターとタイトなロングスカートをチョイスし、髪はコームで夜会巻きにした。

 夕暮れ時、家の前にタクシーが止まった。後部座席が開く。

 

「ん」奥の席に座った、着飾った要が、華やかさの皆無な挨拶を口にした。

 

 わたしは乗り込むと、

 

「今日は誘ってくれてありがとね」

 

「気にしなくていいよ。わたしらも高級タダ飯にありつけるしね」

 

 引っかかる言い方だったけれど、わたしは小首をかしげるだけで特には言及しなかった。何となく話してくれなそうな気がしたからだ。

 あれ? と思ったのは、地元の町を出てしばらく走り、見覚えのある摩天楼──高層ホテルが近づいてきたところでだった。

 今日の日だけはあのホテルには行きたくなかった。わたしはそわそわとした心地で要に尋ねた。

 

「ねぇ、わたしたちが向かってるレストランって、あのホテルの?」

 

「違うわ」

 

 わたしは安堵しかけたが、

 

「わたしたちが、じゃない。あんたが、よ」

 

 要は車窓の外に視線を流した。

 

「要、あなた……」裕也さん側に就いたの?

 

 要はわたしをちらと見て、

 

「勘違いしないで。わたしは中立よ。ただ前に進むきっかけ作りに協力しただけ。ムラムラ鬱々としたあんたとお昼を食べるのも、いい加減飽きてきたの」

 

 そのホテルの車寄せにタクシーが停まると、わたしだけが降りた。要は別のホテルでのディナーを家族で楽しむという。もちろん今回の報酬として。

 

「じゃ、報告楽しみにしてるわ」

 

 要はそう言ってタクシーで去っていった。

 宵闇に覆われた街のさざめきの中、わたしは胸に手を当てて一度深呼吸すると、ホテルに向かって足を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 入ってすぐのホテルラウンジに裕也さんはいた。ダークカラーベースのジャケパンスタイルで、ソファーでコーヒー片手に新聞を開いて寛いでいる。遠目には高校生には見えない貫禄だけれどよく見ると顔つきは年相応だから、掛け違えたボタンのような違和感と諧謔(かいぎゃく)がある。

 通りすがりのご婦人が、足を止めて裕也さんを二度見した。控えめながらしっかりと驚いている。

 裕也さんったら、困った人ねぇ。

 とはいえ、ミスリードを誘発しているのは、女子高生にしてはいささか大人びた格好のわたしも同じなのだけれど。

 

 ──カツカツカツ。

 

 彼に近づく一歩ごとに鳴るショートブーツの靴音が、心臓を打って急かす音のように感じる。

 わたしの気配にとっくに気づいているであろう裕也さんは、けれどわたしがすぐ近くに立つまで新聞から顔を上げなかった。

 何を言えばいいのか、何を言いたいのか、わからなかった。

 

「こんなのずるいですよ」

 

 だからこれは、思考を介さずに出てきた言葉だった。

 

「埋め合わせすると言ったろう。約束を守っただけだよ」裕也さんは英字新聞を畳みながら答えた。

 

 彼が言っているのは、仕事で反故になってしまった逆行直前の記念日のことだろう。

 今日は結婚記念日──わたしたちのそれはプロポーズの日──だった。そして、ここはそのホテル。わたしの心を掻き乱すには十分すぎた。

 まだ許してはいない。心はちくちくと痛む。

 けれど、たまらなくうれしい。裕也さんが、この日をこの場所でわたしと過ごそうと思ってくれたことが、約束を守ってくれたことが、そして彼とあの日の思い出に浸れることが──彼と時を遡れることが。

 だからわたしは、

 

「行こうか」

 

 裕也さんの誘いを拒めなかった。体が自然と動き、彼の左腕に腕を絡めた。胸が当たるが、嫌悪感はなかった。じくじくとした甘い熱が乳房に広がっていくだけ。

 しかしわたしは気を引きしめた。そう簡単に許して浮気のハードルを下げるわけにはいかないのだ。許すにしても、ぎりぎりのところでしぶしぶと、というふうを過剰に演出しなければ。

 

 ──ふふ。

 

 わたしは口元が緩むのを感じた。もう堕ちているのかもしれない。

 ──いや、まだよ! わたしはまだヤれる!

 わたしは自分に言い聞かせた。

 

 

 

 

 

 

 あら?

 違和感にも似た既視感を覚えたのは、レストランで、わたしたちを担当するギャルソンが、品の良い笑みをたたえてテーブルに案内してくれた時だった。

 そこが、思い出の席、あの日と同じ夜景の見える窓際のテーブルだったことに不思議はない。裕也さんが演出としてあえてそこを予約してくれたのだろう──とはいえ、心臓を直接に愛撫されたかのようだった。ドキドキと高鳴り、にやけそうにもなる。今すぐ抱かれたい。

 それはそれとして、わたしは内心で首をかしげた。腑に落ちない点がある。

 ギャルソンがプロポーズの日の人と瓜二つに見えたのだ。浅黒い肌の中年男性で、顔立ちも記憶の中の彼と同じだった。

 今はちょうど十年前。未来の彼がここにいるわけはない。まさか逆行者ならぬ時間旅行者(タイムトリッパー)なのだろうか、などというSF的空想がよぎりもした。

 

「どうした? 狐に化かされたみたいな顔してるぞ?」

 

 向かいの席に着いた裕也さんが、怪訝そうに聞いてくる。

 わたしは裕也さんの関与を疑った。目を細めて観察し、真意を探ろうと努力する。

 けれど、彼のポーカーフェイスからは何も読み取れない。それに、関与といっても方法(ハウダニット)はわからない。まさかタイムマシンを開発したわけでもあるまい。

 わたしは真相究明はいったん諦めて、このサプライズディナーを楽しむことにした。

 食前酒はまだ飲めないから、ミネラルウォーターを頼んだ。

 けれど、それ以外はあの日とまったく同じメニューだった。アミューズ、オードブル、スープ、パンと、そこまで食べたけれど、見た目も味も何もかも同じ──これも裕也さんの仕込みだろう。懐かしい気持ちをスパイスにした美食は、心躍るおいしさだ。昔のデートの失敗談で話も弾む。

 だが、パンを食む食むしている時に、隣のテーブルに案内されてきたアベックを見て、疑念が再燃してきた。

 そのアベックが、あの日に同じテーブルで和やかに舌鼓を打っていた老夫婦と同一人物に見えるのだ。

 あの日に戻ったかのような錯覚に陥りかける。

 ──いやそんなわけはない。

 直前まで一緒にいた要も、今、目の前にいる裕也さんもあどけなさを残した顔つき──間違いなく高校生だった。

 とすると……

 

「センター現代文の奇問悪問に遭遇したような顔して、どうした? どれだけ考えても理屈では択が二つから絞れないときみたいな」

 

 懐疑心に満ち満ちたジトッとした眼差しを裕也さんにそそいでいると、すっとぼけた顔でそんなことを言われた。

 

「現代文は直感で解けるのでその喩えはよくわかりませんけれど……裕也さん、何をしたんですか?」

 

 裕也さんは含みのある微笑を口元に漂わせた。

 

「何って、ディナーと部屋を予約して、お邪魔転石──七瀬さんに愛理を連れてきてもらっただけだが」

 

「お邪魔転石? いえ、そんなことよりも、なぜあの日と同じシチュエー……え?」と気づいてわたしは、目をしばたたいた。「部屋も予約してあるんですか?」

 

「ああ、そうだよ」

 

 当然だろ? 今夜お前を抱くが、何か問題でも? とでもいうような堂々とした男らしい物言いだった。

 瞬間、確かに存在する目くるめく官能の記憶が脳裏に溢れ出し、体の隅々まで甘い期待感が行き渡った。否応なしに、じゅん♡ とする。

 はぁ……好き。

 ……???

 

「!?!?!?」

 

 わたしは恐るべき事実に気づいてポワゾン──スズキのポワレを切り分けるフィッシュスプーンを取り落としそうになった。

 どうやったかは不明だが、裕也さんがプロポーズの日を再現しているとしたら、この後は当然、プロポーズ!!

 ──勝った!!

 わたしは内心で拳を握った。

 裕也さんはわたしを選んだ!! 千年に一人の最高傑作と謳われる最強アイドルに、わたしは勝ち切ったのだ!!

 この時点で、浮気のハードル云々の駆け引きのことは頭から抜け落ちていた。ただただうれしくて舞い上がっていた。

 

 

 

 

 

 

 しかし、食事を終えてレストランを出たところでわたしは思い出した。

 よく考えなくても結婚後も浮気は困る。やはり、まだおこっています、許せません、というポーズはしておいたほうがいいだろう。

 だからにやけてはいけないのだが、あの日と同じ最上階のスイートルームまでエスコートされると、我慢できずに、はにかみ笑いを零してしまった。

 頭をポンポンされた。

 はぁ……好き。

 裕也さんがドアを開けた。

 消えた電灯にLEDキャンドルの光の道。

 

「さ、入って」裕也さんが促す。

 

 涙が込み上げてきそうなほどの夢見心地の一方で、しかし計算を働かせるずるいわたしも健在だった。

 よし、一度は迷うそぶりを見せよう。

 そして裕也さんの心に危機感を植えつけ、二度と浮気はしないという誓いを引き出す。ついでに、営みの頻度アップも婚約条項に盛り込む。

 演技に自信はないけれど、必要なことだろう。気分は一世一代の大芝居だ。

 一回目のときのように無条件の二つ返事とはいきませんからね! という決意を込めた強い眼差しを裕也さんに送ってわたしは、部屋に踏み込んだ。

 歩を進めて寝室にたどり着くと、ベッドにはハートの輪郭を描く深紅の花びらがあり、そしてその中央にはバラの花束が置かれていた──記憶と寸分たがわぬ光景だった。完璧主義の裕也さんらしい。

 だから、その花束の下には当然、わたしの大好きなジュエリーブランドの婚約指輪の箱が隠されているものだと確信していた。

 ベッドに歩み寄って花束を手に取ったわたしは、しかし固まった。

 婚約指輪がなかったのだ。花束の下には何もなかった。

 ここに来て原作を改変してきた? どうして? ここまで期待させておいてプロポーズしてくれないの?

 手が届きそうで届かない、そういうモヤモヤが胸を満たした。

 わたしは、早く安心させて、という気持ちで裕也さんを振り返った。無言の瞳に切実な想いを込めて見つめる。

 一歩引いて見守ってくれていた裕也さんが、優しげな微苦笑を洩らした。

 

「俺たちには、この先のチャプターに進む前に解決しなければならない問題がある──そうだろう?」

 

 例の浮気疑惑のことを言っているのは明白だった。手のひらの上で踊らされているような気がしてきてぞくぞくしたのだけれど、わたしはうなずいた。

 すると、裕也さんは続けた。

 

「愛理は、俺と十六夜希との間に継続的な不貞行為があったと思っている」

 

 わたしが再びうなずくと、

 

「今までは検察側に有利な証拠ばかりが提出されていたから、愛理が不貞行為を疑うのもやむを得ないとは思う。

 だが、無実だ。十六夜希とは一度も寝てないし、キスすらない。したがってあのプリクラの落書きは悪ふざけで、しみ真実、ただの友達だ。今日はそれを証明する新証拠を持ってきた」

 

「新証拠?」

 

 それが本当なら一番だけれど……。

 裕也さんは壁にある電灯のスイッチを押して部屋を明るくすると、リビングに行き、時を交わさずして雑誌を持って戻ってきた。いわゆるゴシップ誌と呼ばれるものだった。付箋紙が貼ってある。

 そのページを開きながら裕也さんは言う。

 

「愛理は十六夜希について一つ勘違いしている。彼女は、俺がどれだけ望もうと、そもそも浮気相手にはなりえない。なぜなら──」

 

 裕也さんは付箋紙のページを見せるようにしてゴシップ誌をわたしに差し出した。

 

「──十六夜希はレズビアンだからだ」

 

 そのページには、十六夜希と同じくドールズの小鳥居奈瑞菜が、夜の街で十六夜希とキスしている写真が掲載されていた。二年ほど前の雑誌──そのころに撮影されたものらしい。

 

「……」

 

 わたしは思案する。

 言われてみれば、そんな噂を耳にしたことがあった。暗黙の了解としても知れ渡ってはいないが、それは事務所が守っているからと考えれば整合性は取れる──事務所が、「あれは合成だ」「小鳥居奈瑞菜が酔った勢いでしてしまったものだ」などと言い、忖度し、あるいは圧力を掛けられた主要メディアが真実を報道しなければ、大半の一般人は浅く信じてそういうものとして流すだろう。

 なるほど、もしかしたら同性愛者というのも事実かもしれない。

 けれど、けど、こんなゴシップ誌の記事一つでは信じ切れない。

 

「愛理の言いたいことはわかる」裕也さんは先回りするように言う。「たしかにこれだけでは証拠不十分だ」

 

 ほかにも証拠があるという口ぶりだった。

 

「小鳥居奈瑞菜の証言でも用意しているのですか」

 

 今度はわたしが先回りしてみせた。十六夜希と深い関係の裕也さんなら、小鳥居奈瑞菜を証人として召喚することも可能だろう、と見込んでの問いだった。

 

「ああ、小鳥居奈瑞菜は、愛理が望むなら証言すると言ってくれている」

 

「けれど、それも……」

 

「納得できないか」

 

「はい」

 

 小鳥居奈瑞菜は十六夜希側の人間。わたしからすれば偽証の疑いは拭えない。

 それは裕也さんもわかっているのだろう、食い下がることもなく、すぐに別の証拠、今度は状況証拠を提出してきた。

 

「ほかには、〈今回のサプライズの演出──費用の支払いや役者の手配に十六夜希が協力しており、したがって彼女は俺と愛理を応援してくれているから浮気相手ではない〉というロジックもあるが」

 

 わたしは小さくかぶりを振った。「騙すための共謀共同正犯の可能性が否定し切れない」

 

「だが、これだけの証拠が揃っている以上、十六夜希が同性愛者であることも否定し切れない」

 

 そのとおりではある。

 つまり、この議題は水掛け論だ。現状、十六夜希が異性愛者だと立証する証拠がこちらにない以上、〈十六夜希は同性愛者だから不貞行為はなかった〉というロジックは崩せない。

 一方で裕也さんも、これ以上の証拠は出せないようだから完全な証明はできない。

 そもそも他人の性的指向を証明することは容易ではない。

 それなのになぜ、裕也さんはそれを反駁(はんばく)の材料にしようとしたのだろう? 合理的な裕也さんらしくない。何を考えているの?

 裕也さんは困ったように後ろ頭を掻いた。

 

「全部事実なんだが、やっぱり信じてくれないよなぁ」

 

「まぁ」わたしは罪悪感めいたものを感じながら首肯した。「疑いたいわけではないのですけれど」

 

「そうか。なら、仕方ないな」

 

 裕也さんはあっさりと言って、一人掛けソファーに身を沈めて横の丸いテーブルに雑誌を置いた。

 

「……」彼は口を閉ざして、その態勢から動こうともしない。

 

 わたしは当惑した。あれ? プロポーズは? と。

 そして、

 

「!?!?!?」

 

 ハッとして戦慄した。

 今、わたしの頭の中はプロポーズとその先の無限全イキへの渇望に占有されている。思い出の襞々(ひだひだ)を丁寧になぞられることで期待感を煽りに煽られたからだ。

 けれどこの盤面……おそらく裕也さんは、わたしが彼の言葉を信じて〈浮気はなかった〉と認めない限り、次のチャプターに進めてはくれない。わたしの胸裏を見透かしているだろう裕也さんからすれば、ただわたしが折れるのを待てばいいだけだからだ。つまり、被告人側の最終奥義の一つ、完全黙秘(かんもく)を続ける心算に違いなかった。

 ソファーに深く座る裕也さんの口角が、悪そうに吊り上がった。

 間違いない、彼はこう言っているのだ。

 ──俺の妻になりたければ、俺に抱かれたければ、つべこべ言わずに俺の言葉を受け入れろ。

 

「くっ」

 

 屈服すれば楽になれる。誰もが羨む裕福で円満な家庭と極上の官能が約束される。

 なぜ裕也さんが信憑性に欠ける証拠を列挙したのか、今わかった。

 彼の優しさだ。

 つまり、わたしに、わたしが自分を説得する材料を与えるためだったのだ。たとえそれが不確かなよすが、あるいは幻想だったとしても、意思さえあれば口実にはできる。十六夜希は同性愛者なのだから裕也さんは無実だ、と自分の疑心を騙せる。

 でも、そんな無理やり自分を納得させるようなことなんてしたくない。

 ……いっそ、わたしから交渉のテーブルに着く(プロポーズする)

 いや駄目だ。それでは裕也さんに十分な危機感を与えられないし、こちらに有利な条件を引き出すことも難しいだろう。こちらから結婚をお願いしておきながらあれやこれやと条件を付けるのは、いかにも滑稽だし、道理にかなわない。そんなふうに醜態を演じて大切な日を汚したくない。そもそも、裕也さんがうなずいてくれるかも不明だ。

 それに、せっかくの記念日プロポーズ、やっぱりあの日と同じように裕也さんから求めてほしい──

 

「!?!?!?」

 

 わたしは再び戦慄した。

 わたしが人並み以上に記念日を大切にする女だと知っている裕也さんは、わたしがわたし自身の理想に縛られて膝を突くのを狙って今回のサプライズを仕掛けたっ……!!

 シチュエーションを整えてわたしの欲望と乙女心を煽り、理想で自縛させ、状況証拠という逃げ道を用意する──あまりにも鮮やかな犯行だ。熟練の拷問官に近いものさえ感じる。

 ……ああ、これは駄目だ。

 わたしは肩の力を抜いた。どう考えても詰んでいる。

 結婚記念日にこのホテルに連れ込まれた時点で、すでに勝敗は決していた。

 いや、と別の可能性に思いを馳せる。

 裕也さんの愛に囚われた、ずっと未来(かこ)のあの日から、すでに決まっていた過去(みらい)だったのかもしれない。

 いずれにせよ、心が裕也さんとのクライマックスを求めてやまない以上、わたしの選択肢は一つしかない。

 

「むぅ」

 

 わたしは年甲斐もなく拗ねた。それはもう全力で拗ねた。「やっぱりずるいですよ」

 

 裕也さんは、くっくっと喉の奥で笑って悪役めいた。「だが、悪いことは何もしていないぞ?」

 

「悪い人はみんなそう言うんです」

 

 わたしはおもむろに裕也さんに歩み寄り、丸テーブルを挟んで隣の一人掛けソファーにストンッと腰を下ろした。

 

「わかりました」わたしは正面を向いたまま答えた。「浮気の事実はなかったと認めます」

 

「うん、じゃあ移動しようか」

 

 裕也さんはそう言って立ち上がった。

 

「えっ」

 

 驚きつつもわたしも立ち上がった。「どこに行くんですか?」

 

 プロポーズしてくれるのではないの? まさか騙された?

 裕也さんが悪戯心を含んで目を細めた。

 

「せっかくだからプラスアルファしようと思ってね」

 

「何をプラスしたんですか?」

 

「ま、とりあえずついて来て」

 

 おとなしく追従して部屋を出るとわたしは、裕也さんに腕を絡めた。

 エレベーターに乗り、裕也さんが五階のボタンを押したのを見て彼のやろうとしていることを察した。

 胸が甘くうずく。鼓動が高鳴り、トクンットクンッと音が聞こえる。それを裕也さんに伝えたくて、ぎゅっと胸を押しつけた。

 頭をポンポンされ、わたしは陶然とした吐息を洩らした。

 そして到着したのは、わたしたちが結婚式を挙げたチャペルだった。

 よく磨かれた大理石のバージンロードは白く輝き、その左右の長椅子には色ごとのバラの花束が飾りつけられている。空気は凜として静謐。

 記憶とは違い、二人きり。

 けれど、だからこそ幻想的だった。

 物語の中に迷い込んだかのような非日常が満ちていて、心がきらきらと輝き出す。

 裕也さんに導かれるままに、奥にある講壇──牧師が立つ場所──の前に来た。その講壇には、見覚えのある箱が置かれていた。

 箱を見て、裕也さんを見て、わたしの口元がによによと波打った。

 裕也さんは苦笑めいて、

 

「まさかこの台詞を二度も言うことになるとは思わなかったよ」

 

「わたしも、二度も聞くことになるとは思いませんでした」

 

 わたしもほほんだ。

 裕也さんの顔に、場都合が悪そうな色が少しだけ浮かんだ。

 

「これで最後だと約束するよ」

 

「はい、信じています」

 

 腕を解いてわたしは、かつて誓いの言葉を交わした時と同じように裕也さんのほうを向いて立った。彼も向かい合う。

 裕也さんは箱を手に取るとわたしのほうに差し出し、パカッと開けた。一度目とよく似た、けれどわずかに違うデザインの指輪があった。

 裕也さんは優しげにわたしを見つめて、一度呼吸すると、静かに、しかしはっきりとした口調で言った。

 

「俺と結婚してください」

 

 その言葉が鼓膜に触れた瞬間、心の輝きが弾けて温かな感情の奔流が溢れ出した。

 泣くつもりなんてなかったのに、裕也さんの輪郭がにじむ。彼の少し筋張った指が、そっと涙を掬ってくれた。

 涙まじりの声でわたしは答えた。

 

「……はい、よろし、くお願い、します」

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