アン×アンハッピーマリッジ   作:虫野律

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 まどろみが引いていく。

 瞼を開けた。ガラケーで時間を確認する。まだ午前の三時半にもなっていない。アラームが鳴る前に覚醒してしまった。

 ぼんやりと暗い天井を眺めながら、今さっきまで見ていたのに急速に忘れていく夢を思う。

 愛理にプロポーズする夢だった。昨日のことのようで、もう七年も前のことだ。

 時の流れの速さに慄然としつつ、愛理との記憶をたどる。

 彼女との出会いは、非常にありきたりで何のおもしろみもないのだが、大学時代からの友人に誘われて参加した合コンだった。

 その日はいくつもの奇跡が重なった結果の暇な週末で、仕方なく勉強して時間を潰していたらスマホが鳴った。初めは上司からの呼び出しかと思ったが、

 

『今夜、時間ない? 合コンで欠員が出ちゃってヘルプで入ってほしいんだ』

 

 その友人からだった。

 東大を卒業しておきながらギャンブルやヒモ稼業でゆるりと生きている──座右の銘は〈楽して楽しく〉らしい──彼は、いつも間がいい。たとえ予期せぬハプニングに見舞われたとしても、何だかんだで神に愛されているかのようにスムーズに事が運ぶ。まさに幸運の申し子。周囲の人間がその恩恵に与ることもしばしば。

 だからというわけではないが、あるいは久しぶりにその友人の顔が見たかっただけなのかもしれない、俺はヘルプとやらを了承し、頃合いになると会場の創作居酒屋へ向かった。

 

「裕也さんって、ゴールデン・サックスなんですか?!」

「あの外資系銀行の?」

「どの部門なんですかぁ?」

「ええっ、投資銀行部門(IBD)?!」

「すごーい」

「花形じゃないですか!」

「たんまり貰えるんですよね? 実際のところ、どれくらいいくんですかぁ?」

 

 などと姦しくはしゃぐ女の子たちの横で、ぎこちない愛想笑いを浮かべていたのが愛理だった。

 彼女も数合わせで参加されられた口かもしれない、と思った。

 きゃいきゃいしている女の子たちの相手をしつつ、目の端で愛理を窺っていると、ちらちらと腕時計を気にしていることに気がついた。

 何か予定があるのだろうか。

 しかしどんな?

 現在時刻は午後八時半前。これ以降にある用事とは何だろう?

 見たいテレビ番組か配信でもあるのだろうか。

 そういえば、と思い当たったものがあった。

 というのも、この当時、ある深夜アニメが社会現象一歩手前ぐらいになっていたのだ。見たことはないが、特に若年層の女性に人気だと聞いていた。彼女はそれに間に合いたいのかもしれない。

 その推理擬きの正否を確かめたくなった俺は、愛理に水を向けた。

 結婚後は専業主婦となった愛理だが、当時は出版社に勤めていた。そこから小説や漫画のほうへ話を転がし、そのアニメのことに繋げた。

 すると、その受け答えは、「おもしろいみたいですよ」などというような無難なものであったが、目の色は明らかに変わっていた。もしかして語れる相手かも、というようなオタクっぽい期待の色が見て取れた。

 愛理にとっては高収入であることよりもアニメの話ができることのほうが重要らしかった。

 凜とした顔立ちに上品な仕草──いかにもお高く留まっていそうなお嬢様然とした風采の割にごりごりのオタクじゃないか。

 そう思うと、何だかおかしく思えてきて噴き出してしまったのを覚えている。

 

「どうして笑うんですか」

 

 ちょっとむくれながらも愛理は、しかし不機嫌そうには見えなかった。

 相性が良かったのか、その後も話は弾んだ。

 そして合コンから一箇月もしないうちに交際が始まり、気がつけば夫婦になっていた。

 順調だった。

 殺人的に多忙な仕事ゆえ家庭を犠牲にしてばかりだったにもかかわらず、愛理は文句も言わずによく支えてくれた。

 しかし、それも俺がヴァイス・プレジデント(VP)──一般企業で言うところの中間管理職──に昇進したころまでだった。結婚から三年が経ち、俺も愛理も三十歳になっていた。

 更に上を目指していた俺は、立場上やろうと思えば、若手(ジュニア)のころよりも残業を減らせたにもかかわらず、より仕事に精を出すようになった。愛理にいい暮らしをさせたいという思いももちろんあったが、本音を言うと、給料というスコアを上げていくゲームが楽しくて仕方なかったのだ。シビアな成果主義で、上手くやれば正しく加点(ボーナス)が付き、一方でミスをすると容赦なく首を切られるというハイリスクハイリターンの環境が最高に心地よかった。ある種の中毒になっていたのだと思う。

 愛理は相変わらず不満を口にすることはなかったが、その胸裏には黒い感情が澱のように溜まっていっているようだった。

 しかし、俺はそれに見て見ぬふりをした。

 やがて彼女の声に棘のようなものがまじりはじめた。家の中の空気はギクシャクしていき、会話も減っていった。彼女を抱くこともなくなっていった。

 それでも、不思議と、離婚という言葉が出てくることは、どちらの口からもなかった。

 愛理を愛していたのかと問われたら、確かに──俺なりにではあるが──愛していたと答えられるが、離婚を切り出されていたら拒否することはなかっただろう。

 推測するに、それは彼女も同じだったのではないか──あるいは彼女の場合は、初めて体を許した男への執着心をこじらせていたのかもしれない。

 そんな、薄氷の上で踊るかのような結婚生活が三年も続き、三十三歳の夏、夕食の食卓で愛理がぽつりと言った。

 

「今年の結婚記念日、どうしましょうか」

 

 例年なら──直近の三年は半ば惰性的にだが──プレゼントを送り合ったりどこかに食事に行ったりといった程度のものだったが、この時の俺は、何を思ったのか、こう答えた。

 

「ホテルに泊まろうか。君にプロポーズしたあの部屋がいいな」

 

 狐につままれたように呆ける間があって──不意に、ふふ、と愛理はほほえんだ。しばらく見ていなかった、以前の彼女はよく浮かべた、そして俺が好きだった、はにかむ少女のような笑みだった。

 

「いいですよ、楽しみにしていますね」

 

 そして、その日が訪れた。

 有給を取り、あの日と同じように、愛理には内緒でプレゼントを用意し、ホテルと事前に打ち合わせをして、レストランで食事をしている間に部屋の飾り付けをしてもらうようにも頼んでおいた。

 しかし、神に愛されているあの友人とは違い、おそらくあまり関心を持たれていない俺には、不運なことも当たり前に起こる。

 タクシーから降りてホテルの正面玄関口に立ったところで、出社の呼び出しがあった。

 顧客国内企業が約五千億円を投じて買収した某海外医薬品メーカーの不祥事──生産や管理に致命的な問題があった──が発覚したというのだ。まだ報道はされていないが、表沙汰になればそのメーカーの製品に対する輸入禁止措置を取る国も出てくるだろう、それほどの火種だった。

 つまり、業績悪化に株価暴落は必定。損害賠償訴訟だってありうる。

 これが、その医薬品メーカーの積極的な隠蔽によるものだったらこちらへのダメージはないに等しかったのだが、現実は違った。

 案件の破談(ブレイク)を恐れたM&Aチームのアソシエイト──つまりは俺の部下──が、各種買収監査(デューデリジェンス)チームが上げてくる報告書の一部を改竄し、問題点がないように偽装していたというのだ。

 なぜそんなすぐにバレてしまうようなことをしたのか。

 推測するに、第一には功を焦ったからで、第二には精神的に参っていたからだろう。

 思うように成果を挙げられずにいたそのアソシエイトは、激務とプレッシャーに耐え切れずに通常の判断力を失い、安易な解決策に飛びついてしまった──こんなところだろう。心や体を壊す行員は常に一定数いる。だから驚きはない。

 が、控えめに言って、最悪な事態だった。

 通話を終えてスマホを下ろすと、愛理が、困ったような、あきれたような、泣き笑いのような複雑な表情で俺を見ていた。

 新作だというリップを塗ったその朱唇が開いた。

 

「わたしは大丈夫ですよ、いつものことですから」

 

「悪いな、必ず埋め合わせはするから」

 

 そう約束し、タクシーをつかまえようと身を翻し──しかし愛理に手を掴まれた。

 何だよ、と若干の苛立ちを覚えながら振り向くと──言葉もなく唇を重ねられた。

 やがてそっと離れると愛理は、困り眉のままほほえんだ。

 

「ごめんなさい。でも、今日はわたしたちにとって一番大切な日なんですよ? これくらいは許してください」

 

 ずきりと胸が痛んだ。もう一度、「すまん」と言い訳のように口にし、逃げるようにタクシーに乗り込んだ。

 日本支社の場所を告げ、

 

「急いでくれ」

 

 無愛想な運転手はルームミラー越しにこちらを一瞥し、「承知しました」とだけ低く返した。

 

 それが良くなかったのか、はたまた好き勝手に生きてきたことへの天罰が下ったのか、その夜、俺を乗せたタクシーは、対向車線から飛び出してきたトラックとぶつかる事故を起こしてしまった。

 それが一回目の俺の最期だった。

 死の瞬間に思ったのは、巻き込んでしまった運転手や愛理への謝罪でも、まして愛の言葉でもなく、もう金融で遊べないことへの無念だったのだから我ながら救えない。

 

 

 

 

 

 

 ところが俺の悪運も案外捨てたものではなかったらしく、次に目を覚ました場所は三途の川ではなく、昔、暮らしていたボロアパートの自分の部屋だった。

 

「???」

 

 訳がわからない。なぜこうなる。

 速やかに状況を把握しなければ、と思ってスマホを捜し──枕元にずいぶんと懐かしいものを見つけた。折り畳み式のガラケーがあったのだ。

 開くと、日付が表示された。十七年前──二〇〇八年の四月九日とあり、訝った。壊れてるのか? と。

 しかし、結論から言って携帯は壊れてなどいなかった。その日は間違いなく十七年前で、高校の入学式の日だった。

 どうやら俺は事故を機に時を遡ってしまったようだった。三十路過ぎのおじさんだった俺は、十五歳の俺に戻っていたのだ。

 逆行……まるで愛理の好きなSF小説のようではないか。

 入学初日をやり過ごして学校から帰ってきた俺は、狭苦しいリビングで寝転がりながらそんなことを考え、ハッとして飛び起きた。

 そうだ、愛理は? 愛理は今どこいる?

 そして、すぐに自嘲の笑いを零した。異常事態に咄嗟(とっさ)に求めてしまうとは、思いのほか彼女に依存していたのかもしれない。

 しかしどうしようもない。彼女は今はただの高校生だろう。俺のことなど知るはずもない。

 それに、と更に思考を進める。

 よしんば愛理も逆行してきていたとしても、もう彼女とは関わらないほうがいい。せっかく逆行して他人に戻れたのだ、また同じことを繰り返して彼女につらい思いをさせて何のメリットがある? 

 ない。

 確かに愛してはいた。今も愛しているかもしれない。

 だからこそ、愛理のことは忘れるべきだ。

 そうと決まれば、ただちに切り替える。過去は過去と瞬時に割り切るのは得意だ。今後のことについて考えを転じる。

 といっても、選択肢は少ない。

 なぜなら、できることなどほとんどないから。

 未来を知っているのだから株でもやればいいのではないか──その提案は却下させていただく。

 アンフェアだからだ。マネーゲームは好きだが──大学時代は投資系サークルに所属していた──ズルをして勝っても何も楽しくない。倫理観云々ではなく、ゲーム性の問題だ。チートはすぐに飽きる、つまりはそういうことだ。

 そもそもうちは貧困母子家庭──母一人子一人の──で、資金などない。高校と大学の学費を稼ぐために高校時代から部活を諦めてバイトしなければならなかったほどだ。母さんだって投機など許可しないだろう。

 ……うん、やっぱ普通に前回と同じことをするだけだな。

 バイトと勉強、たまに友人、稀に女──我ながら味気ないというか、スレた青春だったな、とあきれるが、まぁいいだろう。

 決まりだな。はい、脳内会議終了。

 

 

 

 

 

 

 さて、この手のSFに頻出の単語にバタフライエフェクトというものがある。もはや一般常識の範疇だろうから詳細は省くが、ちょっとしたことが思いもよらぬ大きな事態を招くことを指す。

 何でこんなことを述べたかというと、知らないうちに逆行前とは明らかに別のルートに入っていたからだ。母さんが前回にはしなかった行動を執ったのだ。

 

「母さんね、実は結婚を考えている人がいるの」

 

 無事、高校二年生に進級した春の夜のことだった。コンビニバイトから帰った俺をリビングの座卓に着かせた母さんが、やおらそう告げてきた。

 御年四十二歳になる母さんは、しかしまだまだ女だったらしい。ちょっと照れくさそうにしてらっしゃる。

 

「へぇ~」

 

 改めて──というか人生で初めて女として母さんを見てみれば、なるほどたしかに太っているわけでもなければ、俺と同じで少し冷たい印象を与える顔立ちだが不器量というわけでもない。多少のしわやたるみは気になるが、起伏に富んだ体つきは女性的な魅力に溢れていて、これを抱きたいと思う男がいてもおかしくはないだろう。

 俺は一つうなずくと、

 

「よかったじゃん」

 

 と軽く返した。

 

「そんだけかい!」母さんはすかさず突っ込んできた。「落ち着きすぎでしょ。普通はもっと動揺したり驚いたりするんじゃないの?」

 

「リーマンショックに比べれば、どうということはないよ」

 

「比較対象おかしいって」母さんは疲労をにじませてそう言うと、はぁ、と溜め息をついて肩を落とした。「わたしには、あんたが、高校生になった途端いろいろすっ飛ばしていきなり大人になったみたいに見えるんだけど、本当に何もなかったの?」

 

 何か衝撃的な出来事があって俺が変わってしまったのではないか──以前にも聞かれた質問だった。

 

「ないってば」と答え、気づいた。「それで男か」

 

 理由は不明だが、子供が精神的に成熟して親を必要としなくなったぞ!

 よし! それなら自分のことの優先順位を上げよう!

 という思考から真っ先に色に走る辺り、なかなか自分に正直に生きてるな、この人。

 

「まぁそのとおりなんだけど、何か言い方やらしいわぁ」

 

「──で、話はそれだけ?」

 

 母さんは若干の緊張の色を浮かべた。

 

「その彼と彼の娘さんに会ってほしいの」

 

「了解。日時が決まったら早めに教えて」

 

「軽いし、話早いなぁ」

 

 母さんの緊張は一瞬で霧散した。少しだけ寂しそうにも見えた。

 

 

 

 

 

 

 そして週末の昼前、民間病院で産婦人科医をしているその彼氏と都内でも有数の女子高に通う娘が二人で暮らしているという家を母さんと共に訪れたのだが、見覚えしかない立派な外観の一戸建てが目に入った時点で確信した。母さんの旦那候補は俺の元嫁(?)の父親だと。

 玄関で出迎えたのは、果たして、五十手前ほどの優しげな印象の中肉中背の男性──織笠良樹(よしき)と、

 

「!?!?!?」

 

 口元に手を当てて瞠目した、幼さの抜け切らない面差しの愛理──若草色のワンピースを着ている──だった。

 この反応ということは彼女も逆行していたようだ。どんな世界線から来たのか知らないが、動揺を露にするその瞳を見据えて小さく顎を引く。

 すると彼女も察したのか、こくこくとうなずいて答えた。彼女の、胸元まである艶やかな黒髪も揺れた。

 

「ね、ねぇ」母さんが横からおずおずと声を掛けてきた。「何でいきなり目で会話してるの? あんたたち知り合いだったの?」

 

 愛理を一瞥すると、彼女は俺に任せるとばかりに口をつぐんでいる。

 俺は答える。

 

「ああ、共通の友人がいて、前に何回か遊んだことがあるんだ」

 

「そうなのか?」今度は良樹さんが、横に立つ愛理に意外そうに尋ねた。

 

「は、はい」硬い声音。しかし久しぶりに聞く愛理の声は、やはり清らかなせせらぎのようで、「ゆ、裕也さんとは、子供はまだですが、ちゃんと上手くやれています」

 

 いきなり氾濫したな、おい。

 

「……え?」良樹さんは憮然として聞き返し、

 

「子供?」母さんは怪訝そうに眉の片方を吊り上げた。

 

「あっ」

 

 愛理は再び口元を隠し、助けを求めるように俺を見た──残念ながら助けてほしいのはこちらも同じである。

 内心で溜め息をついて俺は、それらしい言い訳をひねり出す。

 

「きっと緊張されているのでしょう。よく知らない同学年の男子が義理の兄になるかもしれないとなれば、動揺して妙なことを口走ってしまうこともあるかと思います」

 

 ちなみに、俺は五月、愛理は十二月生まれだ。

 

「な、なるほど、そういうこともあるかもしれないね」

 

 良樹さんは、どちらかと言うと自分を納得させようとしているようなニュアンスで首肯した。

 

「よく知らないくせにアイコンタクト、スムーズすぎない? ねぇ、本当はどういう関係なの?」

 

 しかし母さんは、良樹さんの気持ちより好奇心を優先させたようだ──こりゃあすぐにご破談かもな、などと仕事優先で愛理に我慢させてばかりだった自分を棚に上げて思いつつ、

 

「友達の友達以上友達未満くらいだな」

 

 要するに、ただの知り合いである。

 

「ふうん、ま、言いたくないなら無理にとは言わないけど」

 

 母さんはまったく信じていない。

 が、その嫌疑は悪魔の証明である。証拠など、この世界線には存在しないのだから。

 

 

 

 

 

 

 などと勝ち誇っていられたのも束の間、顔合わせとしてみんなでランチ──テイクアウトしてくれていた回らない寿司──を食べようとダイニングテーブルに着いた時までだった。

 俺と母さんが並んで座り、その向かい側に愛理と良樹さんが座ったのだが、愛理はさっと醤油を差し出してきた。

 

「どうぞ」

 

「ん」

 

 その仕草があまりにもいつもの彼女だったため、俺もいつものように受け取ってしまった。

 まぁこれはまだセーフだった(?)のだが、次に愛理は自身のミス(?)に気づいた、これが良くなかった。

 

「あ、裕也さん、ごめんなさい、今出しますね」

 

 愛理は静かに、しかし素早く席を立つと冷蔵庫からポン酢を取り出し、食器棚からそれ用の小皿も出した。俺の横から、すっと小皿を置くと、

 

「おつぎしますね」

 

 愛理は神経質なところがあって、ポン酢はすぐに冷蔵庫に仕舞いたいというのだ。俺が使う量を把握しているのもあって、自分がささっとついでしまったほうが効率的だと判断したのだろう。よくあることだった。

 

「ん」

 

 と俺が答えるのを待たずに愛理は、適量を小皿につぐと、ポン酢を定位置に戻して席に座った。

 目が合うと、彼女ははにかむような微笑を口元に漂わせた。

 思わず俺も頬が緩みそうになり──しかしピキリと引きつった。ポカンとした顔で母さんと良樹さんが俺たちを見ているのに気づいたから。

 母さんが口を開いた。

 

「いやいやいや亭主関白か!?──じゃなくてっ! 何なの、その結婚六年目みたいなしっとりこなれた夫婦感?! 謎の敗北感があるんだけど!?」

 

 鋭いなぁ、と思いつつ愛理に目を戻すと、彼女のほうはちょっと得意そうな澄まし顔をしていた。マウンティングの一種だろうか──アホかな?

 

「ほ、本当に何回か遊んだことがあるだけなのか?」良樹さんも疑わしそうに尋ねる。震え声で。

 

 大切に育ててきた一人娘が、知らぬ間にどこの馬の骨ともわからぬ輩の色に染められていた──とでも思っているのだろうか。ほぼNTRものである。

 かわいそ。

 俺は気持ちいつもより優しめの声色で、

 

「本当ですよ。複数人でカラオケに行ったりファミレスで駄弁ったりしたことがあるだけで、ほぼ初対面の他人です。お互い、携帯にも登録してないくらいですし。心配なら確かめてもいいですよ」

 

 良樹さんの表情に安堵の色が広がり、

 

「いや、それには及ばないよ」

 

 威厳らしきものを取り戻した。

 

 その一方で愛理の表情は(かげ)っていた。彼女は妙に思わせぶりなしっとりとした仕草で左手薬指をさすると、「……そう、ですね……わたしたちは今はもう他人ですから……」

 

「『今はもう』?」

 

 良樹さんがすかさず突っ込み、その先を母さんが引き継ぐ。

 

「あんたまさか、愛理ちゃんにひどいことしたんじゃないでしょうね? さんざん甘い言葉で夢を見させておいて都合が悪くなったら冷たくしてポイなんてことするような鬼畜外道に育てた覚えはないんだけど」

 

 だから何で見てきたかのように当てるんだ、この人?

 

「あの浮気男の血かしら……」母さんは右の頬に手を当てて悩ましげにつぶやいた。

 

 顔合わせは完全なる失敗に終わったかに思われたが、少しして正気(?)を取り戻した愛理の懸命な弁明により何とか和やか(笑)なランチと相成った。

 

 ──これが、現在に至るまでの、愛理との物語のすべてだ。そして本日の放課後、また一ページ増えるのだ。

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