アン×アンハッピーマリッジ   作:虫野律

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 破局を迎えた息子夫婦とは対照的に、親たちのほうは順調に話が進んでいたようで、ゴールデンウィークに入ると結婚式を挙げた。

 当然、愛理とも式場で顔を合わせたわけだが、非常に気まずい空気だった。目が合うたびに静かに逸らし合う様は、傍から見たら恥ずかしがっているウブなティーンエイジャーそのものだったかもしれない。実際はそんなきらきらしたものではないというのに、おかしな話だ。

 そしてその場都合の悪さは、良樹さんの家──顔合わせをした例の一戸建て──で今日から始まった義兄妹としての同居生活でも継続中である。

 与えられた二階の部屋──愛理の部屋の隣──で引っ越しの片付けをしていると、開け放たれたドアをノックする音が聞こえた。顔を向けると、デニムにTシャツというラフな格好の愛理が立っていて、

 

「お手伝いするよう、お父さんに言われて来ました」

 

 深海から聞こえてくるような静かで冷たい声だった。

 

「あー、そんなに荷物ないから一人でも問題ないけど」

 

 俺が答えると、硬い無表情を張りつけていた愛理の柳眉の片方がピクリと痙攣した。

 

「わたしの立場も考えてください。形だけでも手伝わないとお父さんの言いつけを無視してサボっているように思われてしまいます。それに、義兄妹仲が悪いと心配するでしょう」

 

 きれい系の顔立ちの美少女が凍てつく無表情で淡々と話す様は、かなりの威圧感があり、色白というのもあってか、どことなく雪女を連想させる。

 春だというのに背筋に悪寒が走った。思わず身震いする。

 が、凍えていても始まらない。

 

「じゃあ本棚に本、並べんの手伝ってくれ」

 

「はい」

 

 愛理は口元だけで答えると、本棚の前、段ボール箱を挟んで俺の隣に膝を突いた。

 

「並べ方は適当でいいから」

 

 こういうことに関してはザ・O型男の俺は、収まれば何でもいいというスタンスだが、良くも悪くも愛理はザ・A型女だ。

 

「それでは使いにくいでしょう? ちゃんと並べましょうよ」愛理はいくつかある段ボール箱の中へ次々に視線を走らせると、「今回も東大を目指してるんですよね?」

 

「まぁ、コスパいいし」

 

「では、一番使うであろう参考書類は一番取り出しやすい中段に、専門書は上段に、その他は下段に仕舞いましょう」

 

「お、おう」

 

 一瞬で主導権を持っていかれた気がするが、とにかく共同作業が始まった。

 

「……」「……」

 

 二人して黙々と本を並べていると、段ボール箱に伸ばした手がぶつかった。

 

「あ、わり」反射的に謝る俺と、

 

「……ごめんなさい」触れた手を胸元に引っ込めて一呼吸置いてから謝る愛理。

 

 再び沈黙が降りるも、愛理は、取ろうとしていた文庫本を手に持つとささやくように言った。

 

「……これ、懐かしいですね」

 

 愛理が表紙を眺める小説は、二人が初めて一緒に観た映画の原作だった。映画館ではなく自宅マンションでだった。

 レビューはいまいちだったが、俺の好きな小説の映画化作品なら観てみたいと愛理がいらぬ好奇心を発揮してしまった。

 案の定、改変の出来が悪くて見れたものではなかったが、映画は口実にすぎなかったから不満はなかった──いや嘘だわ。あれはひどかった。いくらなんでも限度ってもんがある。原作ファンがキレるのもうなずける。ほとんど別作品、タイトル詐欺と言っても過言ではないだろう。

 

 ──くすくす。

 

「そうでしたね、あの時はすみませんでした」愛理が口元に微笑を漂わせながら言った。

 

「いいさ。今となればいい思い出だよ」

 

 その日の光景が脳裏に蘇る。

 映画を観て、愛理の料理を食べて──ああ、そういえばあの日に初めて愛理を抱いたのだったか。処女だというからかなり気を使った。快感どうのより気疲れが勝ったのを覚えている。

 

「……」「……」

 

 ちらと横目で愛理を見やれば、頬にじんわりと朱がにじんでいた──そんなふうにされると、こっちまで恥ずかしくなるんだが。

 

「……片付けましょうか」愛理がやおら口を切った。

 

「そうだな……」

 

 

 

 

 

 

「えっ、裕也さんって料理できるんですか?」愛理が目を丸くして言った。

 

「まぁお前ほど上手くはないけど、最低限の最低限くらいは」俺は答えた。

 

「本当ですか?」愛理は疑わしそうにまじまじと俺を見る。「そんな姿、想像できないですね」

 

 独身時代はコンビニか外食で、結婚後は愛理に任せっ切り。たしかに彼女に見せたことはなかったが、

 

「これでも母子家庭の一人っ子だからな」

 

 引っ越しの片付けを粗方終わらせた俺たち織笠家の四人は、晩ごはんを近くのハンバーグレストランで食べていた。

 俺の隣でハンバーグを切り分けていた母さんも口を出す。

 

「まぁまぁ食べられるわよ。高校のお弁当を自分で作ることもあるし」

 

「へぇ……」愛理はなおも信じ切れないようだったが、「では、ごはん係はどうしましょうか?」

 

「わたしと良樹さんは夜勤次第だからねぇ」

 

 病棟勤務の看護助手の母さんは、医師をしている向かい側の良樹さんに視線を送った。

 

「そうだね、できる時ならやるのも吝かではないけれど、この曜日は誰々というふうにあらかじめ決めておくのは難しいね。シフトが出るたびに当番を決めるのも悪くはないが、その都度手の空いてる人が作る、誰も作っていなければ自分の分は自分で何とかする、という程度でいいんじゃないかな」

 

「俺もバイトがあるんで、そっちのがいいですね」

 

「わたしもそれくらい緩いほうがやりやすいわね」と母さん。

 

「わかりました。では、そういうことで」と愛理がまとめた。

 

「ところで」良樹さんがおもむろに言った。目の奥に探るような光をたたえている。「裕也君はいつ愛理の手料理を食べたんだい? そんな機会はなかったはずだが」

 

「……夢の中で、ですかね」

 

 ふふ、と愛理はナイフを持った手を口元にかざした。「そうですね、夢の中であなたはおいしそうに食べてくれましたね」

 

「それはいったい……?」良樹さんは困惑げに眉間にしわを寄せた。

 

 

 

 

 

 

 というわけで、翌朝、俺は台所に立っていた。全員分の弁当と朝食を作るためだ。

 そして、隣には愛理もいる。念のため様子を見たいらしい──まったく信用されてないの流石に笑うって。

 

「嘘じゃなかったんですね……だいぶ雑ですけど」

 

 精神年齢三十四歳の壮年男性が味噌汁の具材──キャベツとエノキタケ、にんじん──を切ろうと包丁を握るだけでハラハラしていた同じく壮年女性の愛理だったが、一応は形になっているのを見てようやく自身の杞憂を認めた。

 そして、手持ち無沙汰に耐えかねたのか、

 

「わたしも手伝いますよ」

 

 と腕まくりをした。

 二人で肩を並べて料理するのは初めてのことで、どこか気恥ずかしい。

 

「こんな日が来るとは夢にも思いませんでした」

 

 彩り用のしらすにんじん──にんじんの千切りとしらすの炒め物──を弁当箱に詰めながら愛理がぽつりと言った。

 味噌を溶き入れた鍋をまぜるともなくまぜながら俺は答える。

 

「夢の中では食べる専門だったからなぁ」

 

 ふふ、と愛理は品よく笑った。記憶の残り香をいつくしむように、「あれはあれで悪くなかったですけどね」

 

「俺もあっちのほうが楽でいいな」

 

「もうっ」愛理は、しかし満更でもなさそうに、「すぐそうやって甘えようとするんですから」

 

 キッチンに漂う空気が甘やかに香った時、

 

「……新婚夫婦じゃない。新婚夫婦はわたしたちのほうなんだけどなぁ」

 

 とリビングのほうから母さんの声がした。入り口のドアの所に、あきれ顔で緩く腕組みをして立っている。起きてきてこっそり様子を窺っていたらしい。

 愛理の頬がいよいよ赤く染まる。

 

「嫌ですよ、お義母さん。あまりからかわないでください」

 

「家族として認めてもらえるのはうれしいけど、何かニュアンス違わない? 気のせい?」

 

 俺と愛理は視線を見交わし、同時に微笑を零した。

 

「わたしはいったい何を見せられてるの……?」

 

 母さんがぼやくように言った。

 

 

 

 

 

 

「織笠君、最近楽しそうだね」

 

 レジに立っている店長の大橋(おおはし)が、客が途切れると、弁当を品出ししている俺にやおら話しかけてきた。笑うとまぶしそうにくしゃっとなる浅黒い顔をしている彼は、三十路過ぎのバツイチ仲間だ。

 

「そうですかね」俺は内心で首をひねった。「あんま変わらなくないですか」

 

「そんなことないよ。五月に入ってから雰囲気が柔らかくなった──彼女でもできた?」大橋は半くしゃくらいの笑みを向けてくる。

  

 愛理の顔が浮かぶが、彼女は彼女ではない。元妻で義妹である。

 

「いえ、できてないですよ」

 

「そりゃあそうだよなぁ」

 

 俺の隣で棚におにぎりを並べていた葉山(はやま)が、揶揄めいた言葉を投げてくる。彼女は地元で有名なヤンチャ高校の三年生で、しつこく脱色した髪と耳につけた複数のピアスが威圧的な、有り体に言えばヤンキーギャルである。が、働いているので間違いなくいい子である。

 

「ガリ勉の星高生に彼女なんてできるかよ。どうせまだ童貞なんだろ?」葉山は言う。

 

 十六夜といい、

 

「俺ってそんなに童貞くさいですかね?」

 

 きゃっはぁあっ。葉山は怪鳥めいた甲高い声で笑ってバシバシと俺の背中を叩いた。

 

「まるで童貞じゃねぇみてぇな言い方してんじゃねぇか。ええ? おっぱいもまんこもまだ見たことねぇんだろ? 素直に認めたら一分一万で見せてやってもいいぜ?」

 

「貞操観念って言葉知ってます?」

 

「知るか」

 

「でも、意外と葉山さんみたいな子のほうが一途ですよね。二、三人しか男を知らないで結婚までいくみたいな」

 

「はぁあ?」葉山の語尾が喧嘩腰に跳ねた。「イカくさいガリ勉君が調子乗んなよ!」

 

 ゴスッ!

 今度は脇腹を殴られた。乱暴者すぎる。

 

 

 

 

 

 

 今日は日曜日ということで午前から出ていたため、午後五時にはバイトを終えて家路に就いた。

 帰り着いて玄関扉を開けると、

 

「あら、裕也さん、おかえりなさい」

 

 廊下を歩いていた愛理が、足を止めて出迎えた。今日は緩く束ねた髪を肩に流してルーズサイドテールにしている。

 

「ああ、ただいま」

 

「こんな時間におかえりなさいを言えるなんて不思議な感じですね」

 

 愛理がほほえんで言う。当初の剣呑さは鳴りを潜め、和やかな表情だった。

 その夜のこと、夕飯の片付けを愛理と二人でしていると、彼女が、俺の顔色を窺うような慎重な声色で尋ねてきた。

 

「誕生日に欲しいものはありますか?」

 

 ああ、そういえばもうそんな時期か。

 年を取ったからか、自分の誕生日に関心がなさすぎてすっかり忘れていたが、来週の二十五日(日)が俺の誕生日だ。

 

「何もないな。俺のもの買うくらいなら自分の服でも買えよ。そっちのが価値的だろ」

 

 愛理は目をじとっとさせた。「そういう問題じゃないです」

 

 そう言うだろうな、とは思っていた。

 愛理は誕生日や記念日といったものを大切にする。その日にふさわしいことをすること自体に意味を見出だしているようだった。

 

「そう言われても欲しいものなんて本当にないんだよなぁ」

 

「それが一番困るんですよ」

 

 洗い物をしながら考え、絞り出した答えは、

 

「じゃあ、久しぶりに愛理の本気が見たい」

 

「何ですかそれ」愛理はきょとんとして聞いてきた。

 

 その顔がおもしろくて頬が緩みかけたら、愛理は、わたしおこってます、と言わんばかりにぷくっと頬を膨らませた──その表情は、いくら女子高生の体だといっても、おばさ……淑女にはちときつくないか?

 

「笑ってないで早く意味を教えてください」

 

「お前の本気の料理を食いたいってこと」

 

 愛理はぱちぱちとまばたきしてから、含羞を漂わせて口元を緩めた。

 

「いいですよ、覚悟しておいてくださいね」

 

 決闘かな?

 

 

 

 

 

 

 時は流れ、誕生日当日。

 今日も午後五時までのシフトで、帰ったら愛理との対戦(?)にちょうどいい時間になる。

 しかし、あと少しで終わるというころ、困り顔の大橋が、弱り切ったような、それでいておもねるような声で言ってきた。

 

「織笠君、折り入ってお願いがあるんだけど」

 

「何ですか、お金なら貸せませんよ」

 

「あはは、違うよ」と空々しい笑いを飛ばして大橋は、ふっと深刻そうな表情に戻した。「実は葉山さんが体調を崩しちゃったみたいで、悪いんだけど、織笠君にはこのまま彼女のシフトに入ってほしいんだ」

 

「えぇ……」

 

 何でよりにもよって今日なんだよ。

 

「ごめんよ」大橋はこれきりというほど眉尻を下げている。「ほかに頼める人がいないんだ。時給に色つけるから何とかならないかな」

 

「うーん……」

 

 愛理との約束もあるし、本来なら断りたいところだが──。

 俺に葉山の尻拭いをする義務はない。彼女の自己管理の甘さが招いた結果は、すべて彼女個人が負うべきだ──基本的に俺は成果主義かつ自己責任論を採用している。

 今回のケースに当てはめると、シフトの穴によって発生した損失は葉山が一人で補填すべき、となる。

 しかし、俺の胸裏には報告書の改竄をした部下のことが引っかかっていた。

 俺は上司として彼を追いつめていたのだろうか、と思うことがある。

 成果主義も自己責任論も間違ってはいない。

 だが、強者の論理だ。ついてこられない者にとっては、底なし沼で足掻きつづけるようなものだろう。

 弱者や無能は淘汰されて然るべきだ。そうでなければアンフェアだ。

 しかし、人間はそんなに強くはない。どんな人間にも必ずつまずく瞬間が来る。ちょっと失敗しただけで切り捨てていたら社会は回らない。だから、フォローし合わないと非効率的だ。

 この年になってようやくその事実を実体を持った現実として理解しはじめていた。

 まぁ、五千億円のM&A案件と時給千円のコンビニバイトを同列に語るのも、それはそれで違うような気もするが。

 

「仕方ないですね、いいですよ。でも、貸しですからね」

 

 結局、俺はうなずいた。

 

「いやぁ、助かるー。ありがとね」

 

 大橋は顔をくしゃっとさせた。

 

 

 

 

 

 夜に覆われた住宅街は、密やかな営みの気配だけが漂っていた。

 たっぷり働いてコンビニを出たのが二十二時過ぎ、今ようやく帰り着いたところだった。

 織笠家の玄関扉は閉ざされている。母さんと良樹さんは夜勤で愛理しかいないからか、とても静かだ。

 携帯を見れば、現在時刻は二十三時を回っている。

 愛理には代役が決まってすぐにメールした。

 

『わかりました。下ごしらえと作り置きをしておきます。』

 

 という返信だった。

 おこっているとは思うが、どの程度のものかは判然としない。とはいえ所詮は元旦那の誕生日だ、そうたいしたことはないだろう。そのはずだ。

 大丈夫大丈夫。

 そうささやきながら玄関扉を開けた。

 廊下の先、リビングダイニングへのドアの曇りガラスからぼやけた光が洩れている。リビングにいるようだ。

 

「ただいま」

 

 リビングのソファーでテレビ──組織的宝石強盗のニュースを観ていた愛理の後頭部に声を投げかけた。

 愛理は、たっぷり一呼吸分の間を置いて──この瞬間、彼女のいかりが本物であることを悟った──上半身だけで振り返り、

 

「おかえりなさい」

 

 それからテレビを消して立ち上がり、「ごはんはまだなんですよね?」

 

「あ、ああ、ペコペコだよ」

 

「お疲れ様です。先に食べますか?」

 

 シャワーか飯か、と聞いているのだ。

 本音を言えばシャワーを済ましてしまいたいが、

 

「そうだな、まずは食べたいな」

 

「ではすぐに用意しますので、あなたは座っていてください」

 

 息が詰まるような重圧を感じ、爆弾を処理するかのような、あるいは宿怨にも似た積年の不満がパンパンに詰まって破裂寸前の風船に触れるような心持ちで、

 

「い、いや、さんざん待たせておいてそれは悪いから、俺も手伝うよ」

 

「いいえ、わたし一人でやります」愛理は無表情で静かに答える。「あなたの誕生日なんですから、あなたはゆっくり構えていてください」

 

 ぷいと顔を背けてキッチンのほうへ行こうとする愛理に、

 

「本当に悪かった。俺から頼んだのに約束守れなくて」

 

 愛理はダイニングテーブルの横で足を止め、振り向かずに言った。

 

「慣れてますので気になさらなくて結構です」

 

 そうとうお冠だ。愛理は静かにキレるタイプなのだ。

 やらかしたなぁ。でも店長も困ってたしなぁ。一社会人として助け合いは大事だしなぁ。仕方ないよなぁ。

 そういうやるせない気持ちが、図らずも溜め息となって洩れ出た。

 

「はぁ」

 

 歩き出そうとしていた愛理が、再びピタリと足を止めた。そして、棘々しい声で、

 

「ごめんなさいね、かわいくない女で」

 

「そんなこと思ってないって」

 

 しかし俺の言葉は愛理に届いていないようで、彼女はすっと音もなく振り返ると、

 

「疲れて帰ってきてこんな女がいたら溜め息も出ますよね、わかりますよ。別れて正解です」

 

「別れたのはお前のせいじゃない。俺の都合だよ」

 

 愛理は、ふ、と小馬鹿にするように、あるいは自嘲的に鼻で笑い、

 

「いいんですよ、捨てた女に優しくしなくても。わたしのことなんか本当はどうでもいいんでしょう? 無理なさらないでください」

 

「どうでもいいって……そんなわけないだろう」

 

「どうだか」愛理の形のいい瞳に水膜が浮き出てくる。「いつもいつも仕事仕事って言って、本当は違ってたんじゃないですかっ」

 

「はぁ?」売り言葉に買い言葉ではないが、苛立ちが声になってしまう。「どういう意味だよ?」

 

「外に女がいたんじゃないかって言ってるんですっ!」

 

 愛理は喚くように言った。空気が震えるようだった。

 

「被害妄想やめろって。外銀のIBDがどういうところかは何度も話したろ」

 

「そうですけどっ! でもあなたならやろうと思えばできたはずでしょ。いつも忙しいから嘘をつかれてもわたしには判断できないもの」

 

「はぁ」溜め息が出る。「そんなこと考えてたのかよ。してないって。開き直るようでこういう言い方はしたくないが、そんなことにリソースを割くくらいなら俺は仕事を取るよ。そっちのほうが有意義だ」

 

 愛理は自身を落ち着けるように深呼吸してから、うつむいて、「ごめんなさい」と小さく言った。「そうですよね、あなたはそういう人ですよね」

 

「──いや俺もごめん。大きな仕事をこなすのが楽しいってのももちろんあったが、あと数年勝ちつづけてディレクターになれれば人並みに時間に余裕ができるはずだったんだ。それで必要以上に前のめりになってたのも事実だよ」

 

 いたたまれない沈黙に時計の針だけが音を刻む。

 やがて愛理は、

 

「少し頭を冷やしてきます」

 

 そう言って自室に引っ込み、そのまま戻ってくることはなかった。

 結局、料理は自分独りで用意した。

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