【完結】白いるかの眼は赤い   作:扇架

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十話

 九月一日の天気はぱっとしなかった。いいや、なんだか出だしから不穏であった。

「魔法省はシリウス・ブラックが」

 キングズ・クロスからホグワーツ特急に飛び乗るとでも思っているのか?

 いつものように、それか惰性でコンパートメントに集った面々。口火を切ったのはロジャーであった。いつもはぺらぺらしゃべる男が、不意に眼を光らせたのだ。ついさっきまで「やあ本当に心配したよ。君を横抱きにして廊下を颯爽と駆け抜けていったのは君のお父上かな。僕は負けたと思った」「『秘密の部屋』事件そっちのけであの男は誰だと騒ぎになっていた」等々いらない爆弾を落としたと男と同一人物とは思えなかった。デルフィーニは「養父なのよ」とだけ返した。横抱きだの廊下を疾走だのには触れなかった。ロジャー……だけではなく「クィディッチ同好会」の面々とは手紙をやりとしりしていたが、体調はどうだとかそういう話しかしていなかったのだ。手紙で訊かれても困るけれど。

「生徒を人質に」

「ホグワーツ特急乗っ取り!」

 明るい声で洒落にならないことを言ったのは双子であった。間髪入れずに「あのね、数の理屈っていうのがあるのよ。乗っ取りしようとしたって制圧できるでしょうよ」とチョウが返した。そしてセドリックが「魔法省も一応、念のためなんじゃないかな」とそっと妥当な答えを出した。デルフィーニは、数では優るとはいえ、通路は狭い。たとえば新入生を人質にとられてコンパートメントに立てこもられたら……と考えて口をつぐんだ。数で勝てるのならば、とっくの昔に『例のあの人』は細切れにされていてもいいはずではないかとも言わなかった。

「ブラックが、デルフィーに接触するとか思ってるんじゃないか?」

 実にさらりと言ったのは双子――フレッドのほうであった。暗に、シリウス・ブラックとデルフィーニ・ブラックはどういう関係なのかと問われているのだと察し、ありがたく話題に乗った。

「私はブラックの遠縁……いわゆる分家の出で。養父がシリウス・ブラックの弟なのよ。つまり私は義理の姪なの」

 分家の出であるが、遠縁というほど遠くはなく、本当は母親の従兄弟なのだが言う必要はない。ブラック家の系譜は大変ややこしく、血もそれなりに濃いので単純に従兄弟といっても実質はもう少し近いかもねとも言わない。

 表向きどういう関係かをさっさと開示できたのはありがたい。いちいち訊かれるのも嫌であったし、好奇の目で見られるのも不愉快だった。

 ダイアゴン横丁での買い物の時も「ブラック家の兄弟」を知る者の眼が鬱陶しかったものだ。レギュラスは涼しい顔をしていたものだけど。有象無象の視線など端から認識していないのかもしれない。それか、クィディッチ用品店に心が向いていたのかもしれない。彼は炎の雷(ファイアボルト)に試乗し、二本買ったのだ。一本ではなく、二本。レギュラスのものが一本、デルフィーニのものが一本。デルフィーニはとても居心地が悪かった。最高級の箒なんて過ぎたものだと思った……のではない。店に入るとき、ハリー・ポッターを見かけた。そしてポッターは焦がれるような眼で炎の雷を見ていたのだ。そんな子の目の前で、軽々と超高級箒を買ってしまうレギュラス。そして誕生日でもないのにそれを贈られてしまったデルフィーニ。デルフィーニの誕生日は五月二日で、とっくに誕生日の贈り物はもらっていたのだ。

 売買契約なのだし、孤児の少年が焦がれるような眼で炎の雷を見ていても問題はないだろう。ないのだが、デルフィーニの良心らしきものが多少は痛んだのである。

――どちらも孤児だ

 本当ならばデルフィーニは虐げられていてもおかしくなかったのに、保護されてぬくぬくと生きている。片や生き残った男の子は、マグルの親戚の家で暮らしているとか。ぶかぶかの服を着て、あまり大事にされていなさそうであった。理不尽なものだ。

 後ろめたい記憶をそっと封じ込め、デルフィーニは締めくくった。

「シリウス・ブラックは私の存在を知らないと思う」

 私が養女になったのは、彼が逮捕、投獄された後だもの。

 少し重い話の後は、チェスをしたり、爆発スナップをしたり、今年の闇の魔術に対する防衛術の先生は誰だろうという無難な話をしたり、双子がエジプトに行ったときの話を聞いたり「ウッドのやつ、今年が最後なもんだから……かっ飛ばしそう」という双子の懸念を聞いたりで時は過ぎていった。

 昼になり、めいめいに持たされた昼食を口にした。デルフィーニはサンドイッチを持たされていた。クリーチャー作である。彼は「レギュラス坊ちゃま」には忠実である。よって不義の子に持たせるお弁当であろうとも作りはした。親愛なるレギュラス坊ちゃまに命じられたので。しかし、あまりやる気はなかったようだ。具がレタスばかりだった。

「……去年も似たような感じじゃなかった?」

 チョウが恐る恐る訊いてきた。デルフィーニは向かいのチョウから眼を逸らした。毎年である。トマトばかりとか、レタスばかりとか。作ってくれるだけありがたいし、毒が盛られてないだけいいだろうと文句は言っていない。

「うちの妖精は、お嬢様が脂っこいものを食べられないとでも思っているみたい。年寄りだから」

「俺たちはお嬢様志望だから、サンドイッチを寄越せよ」

 フレッドが言い

「リンゴ何個分の体重と、プロフィールはヒミツ♡を目指す」

 とジョージが続けた。

 と、いうわけでウィーズリー家のサンドイッチとお嬢様のサンドイッチを交換した。

 デルフィーニは彼らの親切がありがたいやら惨めやらであった。コンビーフ入りのサンドイッチはとてもおいしかった。

 セドリックは気遣わしげにリンゴを一切れもらってくれないかと言い出し、ロジャーもパイナップルをと言い、チョウは梨をくれた。デルフィーニはますます惨めな気分になった。人の優しさが痛いことはあるのだ。彼らが善意で言っているのがわかるだけに。こういう善意は、ハリー・ポッターのような子に与えられるべきだろう。デルフィーニにではなく。

 炎の雷を熱心に見ていた少年の姿が脳裏を過ぎり、デルフィーニを悩ませた。彼はニンバスを持っている。しかし、そのニンバスは両親から贈られたものではないのだ。もし彼の両親が生きていたならば、初めての――子ども用ではない箒は両親から贈られていただろう。そして炎の雷がほしいと言って、両親を困らせていたかもしれない。かもしれないだ。その可能性は万に一つもない。ポッター夫妻は殺された。デルフィーニの肉の父によって……。親の因果が子に報うなんて信じたくもないし、デルフィーニの責任ではない。が、だからといってなにも感じないわけではない。

 どうせデルフィーニ・ブラックとハリー・ポッターの道は交わらないのだ。ブラック家の娘――闇の帝王とベラトリックスの娘と生き残った男の子。立場が違いすぎる。

 考えてもどうしようもない。過去は変えられない。流れる血を抜き出すことなんてできず、生まれも変えられない。親は子を選べず、子も親を選べない。

 心の靄を振り払う。お礼にと言って、デルフィーニはチョコをみんなに配った。なぜかレギュラスが持たせてくれたのだ。一年分くらいあるのではという量で、友達に配ってもいいよと言われたので巾着に分けて持っていた。甘さ控えめな板チョコである。

 なんでチョコ? という顔を皆がした。デルフィーニは肩をすくめた。そういえば双子にはきょうだいがいたなと思い出し、双子には追加で板チョコを何枚か渡した。ウィーズリー家の「ロニー坊や」が蛙チョコをたくさん食べたという話をデルフィーニは覚えていたのだ。

「君はけっこういいやつなのになあ、デルフィー」

「もう沈静化してると信じたいけど、『『秘密の部屋』』事件の真犯人は君だ説が……」

 双子がさりげなく言った。情報提供をありがとう。聞きたくなかった。

「あれってどういう結末になったの?」

 うーんと双子が唸った。

「うちのロニー坊やとハリーが『『秘密の部屋』』事件を解決した」

「闇の品が悪さをした、みたいなことになっていたよね」

 セドリックが言う。ロジャーとチョウも頷いた。

 双子とデルフィーニは視線を交わした。デルフィーニはそっと言った。

「あなたたちの妹は無事に救出された。めでたしめでたし」

「――が、表向き」

「めでたしではあるけど」

 双子が慎重に言った。

「闇の品を使って悪さをしたのはデルフィーニ・ブラックだ」

「うちの妹が消えた騒ぎで紛れていたが、レディ・ブラックの姿がないじゃありませんか」

 怪しくない? と。

 『秘密の部屋』事件解決直後に、ブラック家の人間がルシウス・マルフォイを蹴り落として理事になったのも怪しくない? 利益得てない?

「……とかなんとか」

「私はたまたま……体調が……」

 デルフィーニは言い掛け、双子が「俺らだいたいの事情を知ってるから吐いてしまえよレディ・ブラック」と促され、観念した。デルフィーニは「言っていいの?」と双子にお伺いを立て、彼らが頷いたのを受けて、ため息を吐いた。

「真犯人は闇の品。ジニー・ウィーズリーは操られていた。そして私は『『秘密の部屋』』に攫われた」

「闇の品だってそれだけじゃ悪さはできない。純血ブラック家のお嬢様の魔力を欲しがったとか」

 だいたいそんなところ、とロジャーの言に頷いた。チョウが顔をしかめた。

「攫われたジニー、それを助けたハリーたち。あなたも思い切り被害者じゃない」

「いいのよ。知っている人が知っていれば」

「だから君のお父さんはルシウス・マルフォイを蹴り落としたんだね」

 セドリックが天を仰いだ。

「娘にいらないことをされたら親は怒るって、俺たちは知っているさ」

 双子は遠い眼をした。デルフィーニは誰の顔も見ないようにした。闇祓い局がマルフォイ邸に踏み込み、多数の闇の品を押収し、罰金を科したと日刊予言者の隅にいつだったか書いてあった。双子の父、アーサー・ウィーズリーが根回ししたのであろう。

「ウィーズリー家は一件落着だけどさ」

 ジョージがかわいそうなものを見る眼をデルフィーニに向けた。

「君、今年は大変かもしれない」

 シリウス・ブラックの娘だとか噂されそうだ。

「そんなまさか」

 小さく笑って否定した。

 

 デルフィーニたちが報告会あるいは現状確認会を兼ねた昼食を終えても、ホグワーツ特急に休みはない。紅の特急は粛々と北へ向かって走り続ける。

 デルフィーニは座席にもたれ掛かり、窓の外を見た。空が段々と暗くなり、銀色がちらちらと覗いている。ホグワーツ周辺は土砂降りだろうと予想できた。しかも寒さが増している気がする。いくらなんでもまだ九月だ。なんで指先がじわじわと冷えるのか。

 ひとまずトランクから冬用のローブを引っ張り出そうか。立ち上がりかけた時、特急が速度を落とした。

「下ろそうか?」

 セドリックが立ち上がる。デルフィーニは荷物棚を見て、自分の背丈を考え、セドリックの背丈を考慮し「お願いできるかしら」と頼んだ。浮遊呪文か呼び寄せ呪文を使えば早いのだが、九月一日の新学期前である。魔法使用禁止に引っかかるかどうか微妙な線であった。

 じゃあ、とロジャーも立ち上がる。ホグワーツへの到着は間近なのだろう。だったら、チョウのトランクを下ろそうということだ。チョウは「もう少し背が高ければ」と少し悔しそうであった。デルフィーニはほぼ毎年セドリックの世話になっている気がする……と唸った。いいんだろうかこれで。ホームから特急へ、特急からホームへは上げ下げ可能になったものの――デルフィーニは十四歳になっていた――荷物棚への上げ下げはまだ厳しいのだ。ブラックの血統は背が高いほうらしいので、今後の成長に期待している。

 セドリックとロジャーがトランクに手を伸ばした時、特急が軋むような音を立て、つんのめるようにして停車した。デルフィーニはよろめくようにして席に尻もちをついた。セドリックとロジャーはクィディッチで鍛えた体幹をいかんなく発揮し、よろめくこともなく、トランクを支えた。荷物棚の奥にロジャー、セドリック、双子のトランクが、手前にチョウ、デルフィーニのトランクがあった。結果としてどのトランクも落下を免れた。

「おいおい」

「特急もホグワーツに行きたくないとみえる」

 双子が茶化した。チョウが時計を見て眉をひそめた。

「また到着には早いわ……故障?」

 その疑問に誰かが答える前に、不安定に明かりが明滅し、ふっと消えた。闇が訪れる。ほとんど同時に「光よ」と皆が唱えた。五つの光が灯り、闇を祓った。

 様子を見てくる、と双子が出て行った。吐息が白く凍った。

――まだ秋だというのに

 ありえないことが起こっている。セドリックとロジャーが杖を構えたまま、席に戻る。

 なにかがおかしい、と誰もが思っていた。デルフィーニはちらりと窓の外を見た。かつん、と固い音がした。かつん、かつん……。雨は霰に変わっていた。

「どうなっているんだ」

 セドリックが呟く。ぱきん、と窓が凍っていく。デルフィーニは息を殺し、咳をこらえた。見つかってはいけないとどこかが囁いていた。見つかってはいけない。見つかってはいけない。隠れないといけない……。

「――まさか」

 ロジャーが立ち上がる。コンパートメントの戸を叩きつけるように開き「おいフレッド、ジョージ戻れ」と叫んだ。双子はそこに切迫した響きを聞き取ったのか、速やかに戻ってきた。

「どうしたよロジャーちゃん」

「トイレについていけばいいのかな」

「こんな時によくふざけてられるな? シリウス・ブラック脱獄。キングズ・クロスの警備強化、突然の停車、急激な気温の低下」

 ちょっと噂になっていただろう。

「あれが配備されるとかされないとか――ここには生徒がたっぷりいるんだ」

 吸魂鬼の獲物がな!

 ロジャーが悲鳴のような声をあげた。

 名を呼ぶことは魔を引き寄せる、と言われている。いわゆる言霊。不用意に口にすればそれは現実となる。だからある大悪のことを子羊たちは『名前を言ってはいけない例のあの人』と呼ぶ。

 ロジャーが魔を引き寄せたのか否か。すうっと戸が滑った。戸口に背の高い影があった。杖明かりに浮かぶのは闇……。すり切れた外套からぬらぬらと光る手が見えた。

 冷気がコンパートメントを包み込んでいた。デルフィーニは耐えきれずに咳をした。湿った、重い咳に吸魂鬼はみじろぐ。

 すっぽりと頭巾に覆われた顔が――デルフィーニのほうを向いた。

 吸魂鬼が息を吸い込んだ――。

 

 

 出来損ないだ、と誰かが言った。

 どこともしれないどこか。デルフィーニは眼を見開いて「それ」を見上げている。赤い赤い眼が、デルフィーニを見ていた。燃えるような、禍つ星の色彩。

「この俺様とベラの子が」

 かろうじて生まれてきただけの、弱々しい存在だとは。まともに育つまい……。

「そのくせ、俺様が持たない色を持っている」

 うつくしい白銀(しろがね)よ。手が伸ばされる――頭をなでるのではなく、掴んだ。獲物を狩る猛禽のように、蝶をからめ取る蜘蛛のように。長い長い指を広げ、自らの子の柔らかな頭を潰しかねないほどの力で。

 たまらずに悲鳴を上げる。上げようとする。救済を求めて……。だが、力を持たない脆弱な子の、悲痛な泣き声は実の父の手によって封じられる。ひんやりとした手が、小さな小さな口を、鼻を覆った。

「ああ、うるさい」

 俺様はお前のことなどいつでも始末できるのだ。

「 なぜならば、俺様がいなければお前は存在すらしなかった」

「お前は俺様のもので、俺様が自在にできる命なのだ」

 喘ぐ、もがく。手足をばたつかせる。それは情のない、残忍な笑みを浮かべた。

「そうかそうか苦しいか。ならばお前の首を絞め」

 楽にしてやろうか……緩慢な窒息か、一息に絞められるか。どちらもたいして違いはないが。

 頭から片手が外れ、口と鼻を覆った片手も外れた。ほっと息を吐く。ぽろぽろと涙がこぼれた。

「後継あるいは予備にするのもいいか、と思ったが――」

 愛おしむように、再び手が伸ばされる。細い、柔い首に添えられる。

「ベラは悲しむまい」

 お前を産んだせいで弱ってしまったと恨んでいた。

 知っている、と思った。知っている。恨まれているのだと。灰色の眼で睨まれたのだと……。せっかく産んでやったのにと……。

「次の子は丈夫であればよいが」

 甘い囁きが聞こえた。凍り付いたようにそれを見上げることしかできなかった。

 ぐっと、首にかけられた手に力が籠もった瞬間、轟音が響いた。手が外れる。影が飛び退いた。きらきらとしたものが、それがいた場所を駆け抜けていく……。

「ほう」

 それは喉を鳴らす。双眸に、楽しげな光が閃いた。

「我が君、なにが……」

 誰かの声がする。聞き覚えのある声だった。

「シャンデリアが落ちた」

 それだけを言って、禍々しい気配をまとったそれは去っていった。代わりに、誰かがやってきて、身を乗り出す。灰色の眼を見開き、息を呑み、デルフィーニを掬い上げ、そっと抱きしめた。

「……なにをされた」

 白いるか。

 そんなに泣いて、首に痣が……とまで言って、誰かは震えた。まさか……と呟く。

「非情なお方だ。でも、そんな……」

 実の子を、なんて。

「そんなはずはない」

 大丈夫だ。

 どうせ忘れる記憶だ。覚えてもいないだろう記憶だ。

 知らなくていいんだ白いるか。

 忘れておしまい。

 大丈夫だ、と誰かは何度も囁いた。途方に暮れたような声だった。

 こんなに可愛らしいのに。

 なんであの方は……君を愛さないのか。

 慈しみの籠もった声に、デルフィーニは眼を閉じた。

 

 それは本来ならば奥底に眠るはずの記憶。

 吸魂鬼によって呼び覚まされた、魂の疵。

 実の親によって殺される寸前だったという――真実。

 

 


 

 

「僕は臆病なんかじゃないんだからな」

 聞いているのかデルフィー、おいデルフィー。きゃんきゃん。くんくんとうるさいことである。

 時間と労力の無駄だと無視を決め込んでいたが、あんまりにもうるさいので一睨みした。

「坊や」

 口の利き方をお母様に習わなかったのかしら。それともお父様は坊やをちゃんと躾なかったのかしら。

「な、」

「おい、なんてよくもまあ」

 デルフィーニの手はよどみなく動く。ナイフでトーストを真っ二つにし、厚いベーコンも両断し、果ては皿まで切った。いや、割れたに違いない。九月二日、朝食――スリザリンの長テーブル周辺には吹雪を通り越してダイヤモンドダストが舞っていた。

 坊やが黙り込んだ。顔を真っ赤にしている。これで口を閉じなければ「私たちのコンパートメントに駆け込んできた挙げ句におもらししかかっていたくせに」と音響呪文で声を増幅させ、大広間中に響くように言い放ち、精神的に抉ってやっていただろう。

 ドラコの振る舞いはデルフィーニの尾を踏んづけたのである。『双狼』を紋とし、黒を貴色とする純血名門ブラック家の次期当主の、毛並みのよい尾を。

 デルフィーニだけではなく、双子、ロジャー、チョウ、セドリック……つまり四寮の面々を怒らせたのである。まず、デルフィーニが倒れ、首をかきむしり、ひっかき傷から血が滲み出し、大混乱のコンパートメントに駆け込んできたドラコは率直に言って邪魔であった。吸魂鬼は移動していて、脅威は去っていた。双子がドラコを叩き出した。ここで邪魔な軟弱野郎(双子談)という汚点がついた。

 さて、デルフィーニが意識を取り戻し、けれども朦朧としていて、咳をして震え、首に爪を立てようとするものだから大慌ての面々は、それでもなんとかデルフィーニを介抱してくれた。ロジャーが板チョコの存在を思い出し、セドリックが黙々と板チョコを割り、チョウがデルフィーニに食べさせてくれたらしい。双子は吸魂鬼がまた来ないか警戒していたようだ。

 少しは正気に戻ったデルフィーニだったが、彼ら曰く「死人のような顔色」だったようで、ホグズミード駅に着いてからも世話を焼かれた。あまり覚えていないが。馬車に一緒に乗って、彼らは真剣に話し合い「デルフィーニを医務室に連れて行くべきだ」という結論を出した。デルフィーニはこの検討会議あたりから、正気度十段階のうち六か七になった。呆然と席に座っていたものの、耳は機能していた。

 デルフィーニが意識を失っていたままならば、ドラコに対してここまでの怒りを抱かなかっただろう。しょうがない子犬ちゃん、と嘲るくらいで済んだはずだ。

 しかし、セドリックに支えられるようにして馬車を降りたデルフィーニは聞いてしまったのだ。

 ポッター、気絶したんだって? というドラコの言葉を。続けてウィーズリー、君もあのこわーい吸魂鬼で縮み上がったのかい? とまで言った。

 もちろん親愛なる又いとこ、ドラコ・マルフォイの攻撃対象はハリー・ポッターとロン・ウィーズリーであった。とはいえだ、吸魂鬼によって失神したのはデルフィーニも同じで、しかもドラコはそれを見ているのだ。坊やの意地が悪く、頭も悪いと思わない者がいれば聖人君子である。デルフィーニがあまり回らない頭でなにやら言おうとしたけれど、双子がすかさず「おもらししかかっていた坊ちゃんがなんか言ってら」「負け犬」と言い、チョウが「へえ、あなたは去年ハリーに負けた腹いせをそういう形で返すんだ、へえ……」と嘲笑し、ロジャーは「レディ・ブラック。君は僕たちの寮にくるべきだった。思いやりも賢さに含まれると思うんだ。僕は(ぺらぺらとしゃべり続けたので省略)」と反撃と売り込みを同時にし、セドリックは無言であった。が、デルフィーニの肩を掴む手に力が籠もっていた。

 そして、負け犬おもらし野郎ことドラコは、逃げ出したのである。翌朝――つまり現在、挽回しようと必死である。あれはポッターたちに言ったんであってとか、臆病なんかじゃとか。素直に謝ればいいものを、汚点を重ねる愚か者である。確かにロジャーの言うとおり、思いやりも賢さに含まれるのかもしれない。つまり、ドラコは頭が足りない。学力ではないほうの。

 デルフィーニはドラコを徹底的に無視した。元々学年も違うのだし、食事時になぜか近くの席を確保しようとするのはドラコが勝手にやっていたことだ。朝食をさっさと食べてドラコを置き去りにした。首に薄手のマフラーを巻き、冬用のローブを着ていた。セドリックから贈られたエメラルドグリーンのマフラーは真冬用である。九月だというのに異常に寒いので、着けていても問題はないのだが……あまり汚したくなかった。同様に、チョウやロジャーからの贈り物も真冬まで出番はないだろう。ないと思いたい。いくら洗浄呪文や修復呪文があるとはいえ限界がある。

――つまり

 闇の魔術に対する防衛術教授、リーマス・ルーピンは丈夫で長持ちする服を買うだけの余裕がなく、安価なものを何度も繕って着ているのだろうと予想できる。デルフィーニは問答無用で一晩入院したので、ルーピンについてなにも知らないも同然なのだけど、噂では吸魂鬼を追い払ったそうだ。ロックハートのように口ばかりではなく、ロックハートのように派手ではない。それだけでルーピンに対する印象はよかった。ロックハートと比べるのは失礼だろうけれど。ミスター・顔だけは呪文の逆噴射により聖マンゴ行きとなったらしい。詳細不明だ。どうでもよろしい。

 一旦寮に戻り、紅茶の一杯でも飲んでから一限目へ行こう。そう決めて歩を進める。地下は冷え冷えとしていた。息が薄い白になるくらいには。爪が毛糸をひっかける。デルフィーニは手を握り込んだ。無意識のうちにひっかこうと――正確には見えざる手を外そうとしていたらしい。

「……ただの幻よ」

 囁く。吸魂鬼が見せた夢だ。きっとそうだ。デルフィーニは『分霊箱』を破壊した。蛇語でスリザリンのロケットを開き――出てきた靄がなにを言う暇もなく『星屑の剣』を突き立てたのだ。やればできるのである。レギュラスは大喜びで――他人が彼に化けたのかと思った――デルフィーニの腰をつかみ、ひょいと抱き上げてくるくると回るくらいには喜んだ――よくやった、と言ったのだ。

 だから、たかが夢に怯えるものか。

 わかっていたではないかという声を聞かないふりをする。とっくにわかっていたではないか。実の親たちが非情な人間だと。あまり考えないようにしていただけだと。

 首を振る、お黙りと呟く。言葉がこぼれた。

「大丈夫だって」

 いつだったかにレギュラスが言ってくれたもの。どこで聞いたのかもわからない、都合のいい記憶かもしれないけれど。

 寮に戻り、指を鳴らせば紅茶が現れた。姿なき妖精に礼を言ってあたたかいそれをひとくち飲む。

 ほっと息を吐き、手紙の内容を検討する。吸魂鬼に遭遇して倒れた話はしなくていいか。ドラコの言葉を気にしているわけではない。断じてない。

 だいたいの内容が決まったというのに、追加で書く項目が増えることをデルフィーニはまだ知らない。

 

 

「……なんで重要なことを書かないかな」

 ロンドンはブラック邸、先祖伝来の、由緒正しい古びた邸――当代当主によって明るく整えられた居間に、唸り声が響いた。

「ドラコなんてどうでもいい」

 ただのルシウスの息子である。いいや、いらないことをして娘を巻き込んだ愚民の、その息子である。子に罪はないとはいえ、レギュラスにとってマルフォイ家の父子は無価値、いいやマイナス評価に近い。よってドラコ・マルフォイがヒッポグリフに怪我をさせられようがどうでもよろしいのである。たかがひっかき傷でぎゃあぎゃあと。軟弱者め。デルフィーニは「私がちょっと虐めたから勇敢なところを示そうとしたらしいの」と書いていたが。知るものか。娘は無駄に突っかかる類ではない。なぜならば年下で、マルフォイ家の坊やだから。突っかかる、あるいは張り合う対象ではないのだ。無駄吼えは負け犬の特性である。『双狼』――双子の狼と星を紋とするブラック家、高貴なる純血貴族は負け犬、それか蜥蜴を相手にはしないものだ。

 事件の報告は受けていて、十一人の理事が『例のあの人』に仕えていたとされる、狡猾にも裁きを逃れ、恐喝をも辞さないルシウス・マルフォイに遠慮して、もとい憚り「ルビウス・ハグリッドは教職に向いていないのでは」と意見書を送る中、レギュラスだけは「ホグワーツではよくあることでは? それならクィディッチも中止しないといけませんよ。どこかの代にそんな校長がいましたね」と送ったが。

 理事たちは意見のすり合わせをしたりしなかったりだが、今回のくだらない事件に関してはすり合わせをしたのである。事件の当事者がマルフォイ家の子息であったので。ちなみに、クィディッチを中止した校長とはレギュラスの高祖父のことである。理事たちは「ブラックジョークですな」と下手くそな冗談を飛ばしていた。

 まったく、どうでもいい話である。ルシウスが息子の怪我をとっかかりにダンブルドアの停職か辞職を狙っているのならば愚かの極みである。レギュラスは根に持つ類の男なので、ルシウスの邪魔をする気満々であった。

 僕の娘をいらないことに巻き込むからだ。鼻を鳴らし、レギュラスは紅茶をひとくち飲んだ。困った娘の手紙を読み返す。

「言うべきことがほかにあるだろうに」

 吸魂鬼と遭遇して倒れたとか。倒れたとか。入院したとか。なんで強がるかな。

「……理事の権限でやつらを追放できるならそうするよ」

 倒れた等々を言う代わりに「レギュラス、あれをどうにかできない?」と訊いてくるのだから性質が悪い。ハリー・ポッターが失神したらしいのとさも他人事のように書いてこなくても。君も倒れたんだろうが。

 レギュラスは苦い吐息をこぼし、眼を瞑った。さすが副校長。デルフィーニの一件を素早く知らせてくれて感謝である。それがなければレギュラスはまったくなにも知らないままで、デルフィーニは寒さに震えるばかりだと思っていた。ちゃんと防寒着をたくさん仕立てて持って行かせたが。ホグワーツは晩秋から冬の気候が続くと考えたほうがよいだろう。

 兄のせいだ、とレギュラスは吐き捨てる。のこのことホグワーツに行ったらしい。レギュラスも黙認したようなものだけれど。兄所有の別邸。所有者が投獄中につき、レギュラスが管理していた――叔父のアルファードが持っていた邸の一つ――の防備を少しゆるめた。箱に入れた杖と手紙を置いておいた。アルファードの遺言である。あいつがもし出てくることがあって、なにかしたいようなら自分の杖を使わせろ、と。レギュラスはそれに従ったまでだ。死者の願いは重いのである。兄がアルファードの手紙……巧く使えと書かれたそれを見て、なにを感じたかは知らない。ある日、兄の別邸を訪ねれば杖と手紙は消えていた。レギュラスは素知らぬふりで別邸の防備を元に戻した。

「さっさと用事を済ませて出て行け」

 レギュラスは吐き捨てた。なにをしたいか不明。もしかして、冤罪を晴らしたいのかもしれないが……難しいであろう。やるだけやればいいが。レギュラスは、兄に命の借りを返せていないのである。

――と、殊勝に思っていた

「なにをやっている……あんの」

 馬鹿兄。

 デルフィーニからの手紙、そしてホグワーツから理事に宛てた「シリウス・ブラック侵入について」という報せを読み、レギュラスは目眩をこらえた。

 そうとも、星見はおおまかな流れや、兆しがわかるだけであって、あらゆる意味で規格外、一等星の中でも最も明るい天狼星のことなどわかるはずがないのだ。

 積まれた手紙や書類をちらりと見る。一通の手紙を指で弾く。リーマス・J・ルーピンと記されたそれが卓から落ちた。

「……仕方ないな」

 一等星の中で最も暗い星の名を冠した男は呟いた。

 幸い、満月が近い。請われてもいる。

 つまり、口実はあるのだ。

 確かめないといけない。

 レギュラスの娘がどうして倒れたのか。単に身体が弱くてあてられただけならば――それもよくないが――いい。

 しかし、覚えていたならば?

 首の痣。戯れか、本気か、小さな子の――当時一歳にもなっていなかったと思う――首を、絞めようとしたであろう痕跡。

「覚えていなくていい」

 まだ小さかった。物心もついていなかった。なにが起こっていたかわかるはずもない。ただ本能のままに、シャンデリアを落とし――その破片を実の、情のない父へ飛ばした。あまりに恐ろしかったから。生きたかったから。

 現場の状況を見ての推測だ。そのときはありえない、事故だと思おうとした。己が心酔したお方があまりに非道な振る舞いをするのだと信じたくなかった。けれど、わかってもいた。ほとんど、自覚はしていなかったが。

 あのお方はなににも情を抱かず、憎しみと嫉妬、怒り……あらゆる負の念で構成されているのだと。

 その怒りを己より純血である、スリザリンの血筋であることが明らかな娘に向けかねないことを。

 誰かが守ってやらねば、ちいさなちいさな白いるかは命を落としていたであろうことを。

 そっと、囁いた。

「……どうか」

 忘れたままでいますように。

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