「あなた、どこから入り込んだの?」
十一月のとある日。ホグワーツ――禁断の森。泉の近く。デルフィーニは切り株に腰掛け、汚れ、みすぼらしい毛の塊に話しかけた。それは真っ黒で、痩せている大きな犬であった。
授業が終わり、デルフィーニがちょっとした散歩に出かけたところ、偶然見つけたのである。多少の息抜きのつもりが、まさか野良犬に出会うとは。禁断の森は広く、一角獣やらセストラルやらが生息しているし、森の賢者と呼ばれるケンタウルスたちも住んでいる。だから、犬くらいいてもおかしくはないのかもしれないが……。
「生徒の誰かが持ち込んで捨てたんじゃないでしょうね」
ありえる話だ。飼いきれなくなって森に放つとか。拡大呪文をかけたトランクや鞄に詰めて持ち込めなくもない。
黒犬はきちんとおすわりし、眼を細めて――灰色だった――デルフィーニを見た。きちんと洗って食べさせれば、さぞや見栄えのする犬になりそうだし……抱きつけばあたたかそうだ。吸魂鬼のせいもあって、ホグワーツおよびその周辺はもはや冬となっていた。デルフィーニが嫌う季節である。城に籠もっているのが賢いのだが、出かけたい時はある。
飼い主探しをすべきか、いっそのことデルフィーニが引き取るか。それならば寮監のスネイプに話を通さないといけない。それは嫌だ。彼はハロウィンからこっち、ご機嫌斜めであった。たとえスリザリン生であろうともデルフィーニの頼みを却下しそうである。ついでにふらふら出歩いてと叱られそうでもあった。よって、デルフィーニが城に連れて行って飼うこともできないし……飼い主探しも無理だろう。不用意に出歩いたことが露見する。
考え、デルフィーニはポケットに手を突っ込み、包みを取り出した。開けば香ばしいかおりが広がる。ビスケットである。ためしに一枚、手のひらに乗せて差し出す。黒犬は鼻を鳴らし、そっとビスケットをくわえた。どうかな、と見守っていたがお気に召したようだ。ちいさく鳴かれたのでまとめて下に置く。黒犬は黙々と平らげていく。
「よく食べて寝て、運動するのが一番よ」
黒犬は大きい。ビスケットくらいでは足りないだろう。厨房に行ってなにかもらって……天気次第だが――黒犬に会ってやらねばならないだろう。ビスケットをあげておしまいでは無責任だ。
手を差し出せば、黒犬は礼のつもりか親愛の情を示しているのか、ぺろりと舐めた。
「うちに来る?」
わかるはずもないと思いながらも黒犬に囁いた。
「狼犬やら大狼やら飼っているから……たしか犬も」
馬の方が有名なんだけど、と続ける。行儀良く座った黒犬の口に手をのばし、ビスケットのくずをとってやった。なぜだか黒犬が凝固しているように見えて仕方がない。
「紋は『双狼』だし」
初代当主はね、とデルフィーニは囁いた。レギュラスによると言い伝え、おとぎ話を口にする。
「狼たちを引き連れて、どこからともなく現れた。夜闇を纏う双子の狼、と呼ばれていた……」
嘘か本当かわからないけれど、とレギュラスは言ったものだ。
「二人は一つだった。二人で一人だった。双子だから……初代当主たちではなく、初代当主。子孫は死をも喰らう死神犬と呼ばれ、恐れられた」
「だから、犬にも縁があるのよ」
死神犬のあなた、とデルフィーニは囁いた。
狼たちを連れた双子。ただのおとぎ話。それでよいのだ。濃すぎる交わりの話などしなくてもいいだろう。
幼い時から聞かされたものだ。そのときはなんとも思っていなかった。なにせあまりに古い話で家紋の『双狼』の由来を無理矢理こじつけたのだろうと軽く考えていた。ブラックの貴色は黒――と言われているが、正確には黒と銀である。第一の貴色が黒、第二が銀といった具合だ。だから、黒い双子の狼の眼は星の色なのだと……。
その思いこみに疑問が生まれたのは、デルフィーニが『分霊箱』、スリザリンのロケットを破壊したあと。寝込む彼女に付き添って、レギュラスが次々とおとぎ話を聞かせてくれた時のことだ。幼い子どもでもあるまいし……と夢うつつで思いながら、彼がそばにいてくれて安心した。
耳になじみのある双子の狼の話を聞いて、ふと口走ったのだ。耳になじみすぎて、自然と受け入れていたはずのおとぎ話への……ささやかな疑いを。疲労のために理性がすり減っていたのか、レギュラスならば笑ったりしないと信じていたからか、それとも両方か。理由がどうであれ、問いは投げられてしまった。
今までは、片方がブラック家を興し、片方がどこかへ消えたか分家を立てたのだろうと思っていた。
本当に二人が一つになったのでは? 初代当主の名は、ファーストネームとミドルネームではなく、二人の名を合わせたものであったら? ならば初代当主から伸びた金の糸は――濃い交わりを示すものなのではないか?
そう言えば、レギュラスはため息を吐いた。おとぎ話だからこそ美しいものはあるのだと言った。
ただ、君の推測は当たっているだろうとも言った。
純血を謳うブラック家ならばありえると。血族の交わりを越え、いとこの交わりも、異母のそれも凌駕する……同母の交わり。双子の交わり。
黒犬を撫でる。純血が尊いものか。なんの箔にもならず、幸福を約束するものでもない。
「私の父親はレギュラスなんだから」
純血を誇るブラックと、純血に執着するゴーントの交わりのことを、頭から締め出した。
少女の背を見送って、黒犬こと輝ける一等星、シリウス・ブラックは伏せをした。
ささやかな贈り物――ビスケットのありがたみが身にしみる。スリザリンには一部を除いてろくなのがいないと思っていた。親切なのは結構だが、身の安全を考えたらどうだ……凶悪犯がいるであろうホグワーツ、人目のない森だぞ? と、己のことを棚に上げた。学生時代に色々やらかし、反闇の陣営を掲げる組織に身を投じ、まんまと嵌められて十二年の監獄生活。挙げ句に脱獄までしているというのに。
どうしたものか、とシリウスは考える。獲物はホグワーツにいるのだけれど、だからといってそう簡単にことは運ばない。相手は砦の中である。しかも小さくすばしっこい。あれには悟られたはずだ。シリウスが自分こそを――裏切り者こそを――狙っていると。せっかくホグワーツに侵入したというのに、しくじってしまった。『太った貴婦人』に交渉しても無駄であった。ハロウィンの日、生徒は大広間に行っているはず。食事の席に鼠を連れて行くはずもなく、やつは寮にいるだろうと踏んでいた。邪魔が入らない、絶好の機会であった。だというのに寮に入ることもできず、逃げ出したのだ。腹立ちまぎれに『太った貴婦人』――ではなく、壁を切り刻んで。
やつは震え、どうしようか考えているだろう。逃げるか留まるか。ダンブルドアに身の潔白を訴えに行く度胸はあるまい。いっそそうしてくれれば話は早いのだが。ダンブルドアならば「死んだはずの男」が現れたとなれば……察するだろう。真実を。シリウスの過ちを。シリウスがそう信じたいだけなのかもしれない。
『君を信じよう』
シリウス。無二の親友はそう言って、軽やかに笑った。
『僕は、君のこともリーマスのことも……』
ピーターのことも信じたい。
掠れた声でそう言った。信じているではない。信じたい。祈りのような言葉であった。
『頼んだよ、ピーター』
君はかくれんぼが得意だからね。期待しているよ。そっと言って、くしゃくしゃな黒髪と榛の眼を持つ親友は、裏切り者の手をぎゅっと握ったのだ。つなぎ止めるように。
ピーターが。ワームテールが裏切り者である可能性をジェームズは考えていたのではないか。ふっとそんな考えが浮かび、いっそう悲しくなってしまった。信じたいと言った。そして親友はシリウスを信じた。だからこそ、秘密の守り人の入れ替えに同意したのだ。
俺が裏切り者かもしれないぞ? 茶化して言えば、ジェームズは肩をすくめた。もしそうならば、僕の見る目がなかったのさ。それか君にも事情があるのさ……。なあ、裏切り者かもしれない君、僕の友達。信じて、信じ抜いて裏切られたのなら仕方ないさ。
でも、リリーとハリーだけはどうか。
僕の命なんてくれてやるからさ。
おどけて言った親友。一抹の不安もなかったはずがない。考え、疑い、それでもシリウスの提案に乗ったのだ。
シリウスは親友夫妻の背を押してしまったのだ。死へと向かって。生の果てへと。
――必ず
しとめてやる。
決意とともに唸り、シリウスは、すんと鼻を鳴らした。
思うだけならば簡単だ。問題は山積みである。飢え――は森で食料を調達すればどうにか……人の姿をさらすのは得策ではなく、つまり犬の姿で頑張るのが無難ではあるが……杖なしで狩りは正直厳しい。この姿だと杖なしの魔法は制限される。やはり森の奥で地道に狩りをするべきか。人の姿で。叔父のアルファードの杖を手に入れることができて助かった。よけいな寄り道になるかもしれず、無駄足になるかもしれないと思っても、叔父から譲り受けた邸に足が向いた。彼はシリウスを可愛がっていたし、死喰い人になんてなるわけがないと思っていただろうと信じていた。それか信じたかった。まだ希望があるのだということを。
果たして、杖なしの魔法使いに幸運の女神は微笑んだ。あっさりと邸に入れたのだ。手紙は大事にポケットに仕舞ってある。旅の途中、ゴミ捨て場から拾った服を繕って、綺麗にして着ているのである。金銭面で不自由したことがなく、服も同じくだったというのに、落ちぶれたものである。
――ひとまず
生き延びることだ、と目標を定めた。機会を見つけて鼠狩りをしよう。逃げるだけならばいつでもできる。最悪、ハリーのそばからあの鼠を引きはがせればよい。本当は一緒に暮らせればよいのだが……。なにも期待しないほうがいいだろう。シリウスは死喰い人の汚名を着せられた身なのだから。
死喰い人で思い出した。シリウスには死喰い人の弟がいた。レギュラス。よい子で、優等生。両親に可愛がられていた、非の打ち所のない純血主義者の弟。
ヴォルデモートに憧れ、死喰い人に身を投じたと風の噂で――というか、忌々しい従姉、ベラトリックスと対峙したときに教えられた。驚きはしなかった。馬鹿かよと思ったけれど。どの道ブラック本家はヴォルデモートへの恭順を強いられていただろうし、レギュラスがヴォルデモートに心酔していようがいまいが、死喰い人になる確率のほうが高かった。あれは両親が人質にとられれば、見捨てられないだろうから。かといって、シリウスが連れて出て行っても――危険は半々であっただろう。どうせならこっち側に付けばよかったものを。馬鹿者め。なんであんな頭がおかしい男に心酔するのだ愚か者。家を出るとき――あの時点では弟はまだ死喰い人ではなかったが――なんとなく嫌な予感がして、ポート・キーをくれてやったのだが。使わないに越したことがないと思いつつ、ころりと死んでしまいそうな気がしたのだ。
ポート・キーの出番があったのか、なかったのかはわからない。ただ、馬鹿な弟がなぜかルシウス・マルフォイを蹴り落とし、ホグワーツの理事になったのは把握していた。日刊予言者の記事には「ルシウス・マルフォイ氏がホグワーツの理事を辞任、レギュラス・ブラック氏が新たに着任」と簡潔に書いてあったものの、確実に弟がルシウスから理事の地位をぶんどったのだろう。
――そんな弟に
娘がいるとは知らなかったが。十三、四くらいだろう。顔立ちはブラック家の系統だ……が、成人後に授かったとして……かなり若い父親ではないか。そもそも弟の婚約、結婚等々の話は聞いたことがない。いくら腐っていようが純血名門ブラック家の婚姻だ。噂にならないはずがないのだ。過激派が言うところの穢れた血と結びついたならば、レギュラスは家系図から消されているはず。これもまた噂になるはず。正式な婚姻でない場合も消される可能性が高い。
シリウスが投獄された後に婚約、婚姻、子を儲けたならばありえるが。
『私の父親はレギュラスなんだから』
己に言い聞かせるようにしていた娘。もしかして、弟の実子ではないのかもしれない。
ブラック家の顔立ち。整った容貌というものは、どこか似通うものであるが……強いて言えばドロメダやナルシッサに似ているか。あの二人は一目で姉妹だとわかる容貌をしていた。ベラトリックスから険を取り除いたらああなるだろうという。
――ベラトリックス
犬の姿だというのに冷や汗が背に滲んだ。
可能性は高い。あの娘はベラトリックスの娘だ。シリウスの後にベラトリックス一味は投獄された。あの狂った女はロングボトム夫妻を壊してやったと高笑いし、消え失せた我が君を求め叫んでいた。
あの娘はたぶん、ベラトリックスとロドルファスの娘であろう。
狂った犯罪者どもの子として生まれたなんて、かわいそうなことだ、とブラック家に生まれたせいで、見せしめに裁判もなしで投獄された男は思った。
どうにか暇を見つけ、こっそりと森に通っているうちに日々は過ぎていった。犬を洗ってやりながら、ぽつぽつと話しかけた。今の時点でこんな気温では、十二月になれば出てこられないかもしれない。ごめんねと黒犬には言った。わん、と彼は応えた。まるでデルフィーニがなにを話しているかわかっているようだった。ニーズルと猫をかけあわせた種がとびきり賢いように、黒犬も賢い種なのかもしれない。
「クィディッチ開幕戦は、いつもならグリフィンドール対スリザリンなんだけど、今回は……あの軟弱者で」
せこいドラコのせいで、グリフィンドールとハッフルパフになるみたい、とデルフィーニは言った。黒犬相手ならば愚痴もいいだろう。どうせわからないのだから。ちなみに「せこい」とは双子が言っていたことだ。卑怯卑劣というよりもせこいがぴったりである。所詮感性の問題であるけれども。たしかとんずらがどうこう言っていた。文脈からして逃げるの意味だろう。とんずらするドラコ。いいや、彼の腕の怪我を口実にとんずらしたスリザリンチーム。ニンバス2001が泣いているに違いない。あまりの情けなさに。
「ポッターが勝つかセドリックが勝つかで賭けになっているみたい」
あとはデルフィーニ・ブラックがシリウス・ブラックの娘であるかどうかの賭けもあるらしい。馬鹿らしい。誰だ言い始めたのは……と口にしかけ、やめた。言ってもどうしようもない。聞き手は犬だし。
ぴく、と黒犬が耳を動かした。そういえば、とデルフィーニは彼の耳をタオルで覆った。お湯が入ったら大変だ。片手で杖を構え湯を出して、片手でその毛並みを洗いながら、デルフィーニは呟いた。
「……試合の日は悪天候になる見込みなんだけど」
セドリックにお世話になっているし、双子にもお世話になっているし、さすがにクィディッチの試合を観に行くべきよね?
今でさえ雨が降ったり止んだり、風も強いのに。試合の日はどうなっているのか。デルフィーニはため息を吐いた。人間関係というものは大事である。いくらスリザリンのお仲間と距離をとり、好き勝手しているレディ・ブラックとはいえ……だからこそ、いわゆる義理人情は大事にしなければならない。つまり、雨だろうがなんだろうが試合を観にいくべきである。
たぶん、試合の後に寝込むだろうけど。
試合前日、雨が降り、雷鳴が轟き、風が唸り、廊下はじわじわと冷え、デルフィーニは明日試合を見に行ったら、凍死するかもしれないと危惧した。防寒着を身に纏い、防水呪文をかけ、試合がはやく終わるのを祈るしかない。
――試合を観に行くつもりだと言ったら
セドリックの眼がきらきらしたから、もう行くしかない。「無理をしなくていいよ」「寒いだろうし」「観てもつまらな……いや、おもしろいけど」等々言っていたが、眼の輝きが言動を裏切っていた。
なにかがセドリックに火をつけたのだ。急遽試合相手が変更されたのにもかかわらず、勤勉なセドリック・ディゴリーは「対グリフィンドール」「打倒ハリー・ポッター」を軸としたチームを編成、作戦を組み立てた……そうだ。オリバー・ウッドも「セドリック・ディゴリー、ディゴリー、ディゴリー、あいつをどうにか片づければ……」と、狂ったようにつぶやきながら廊下を歩いていたが。狂気の男である。スリザリンチームは「あんな頭のいかれた男がキャプテンのチームとぶつかるなんて嫌だ」と怯えていた。「あれはもはやディゴリーに恋してやがるぜ」と誰かが言っていた。
恋はともかく、安心してほしい。今年は狂った男が二人いる。まさかセドリックまでおかしくなると思わなかったが。オリバー・ウッドの狂気が伝染したに違いない。
狂ったキャプテンどうしの対決か……と戦慄しながらデルフィーニは闇の魔術に対する防衛術の教室へ到着した。考え事をしながら歩いていたから、遅刻すれすれだ。
扉を開く。そっと入り――ふと前を見て、それまで考えていた諸々が吹き飛んだ。
「……レギュラス?」
なぜか、養父――レギュラス・ブラックが教壇に立っていた。彼はちらりとデルフィーニを見て、早く寝なさいと言う、いつもの口調で言った。
「先生と呼びなさい。授業を始めるよ。着席しなさい」
天気は悪い、しかも寒い、シリウス・ブラックの娘疑惑がかけられている、クィディッチの日は絶対に暴風雨。
挙げ句に養父が教師になっているなんて。
いったい誰が書いた筋書きだ。