クリスマスの午前。大広間で朝食を終えたレギュラスは、マクゴナガルの室に招かれ、卓の上に置かれた国際競技級の箒を眺めていた。磨き上げられた柄には金文字で登録番号が記されている。一本一本小枝を整え、束ねた尾は完璧な流線型を描いている、炎の雷を。
仔狼を受け取った娘がひどく喜んだことも、トレローニーがルーピンが朝食に来ないのは重篤な病のせいだと言い放ち、マクゴナガルが冷ややかにあしらったことも頭から吹っ飛んでしまった。
ちなみに教師と理事にはリーマス・ルーピンが人狼だという旨の通達がされている。トレローニーは大嘘吐きのほら吹きであろうと教師である。もちろん事情は知っている。だというのにわざわざ生徒の前で重篤な病と言い放ったのはどういうつもりなのか……だ。マクゴナガルはルーピンが教師となることに反対していたはずだ。人狼で危険だからというよりも、もし生徒が知るところになればルーピンは心に深い傷を負い、職を追われることになるだろう。それは果たして彼のためになるのか、という論であった。セブルス・スネイプもまた反対していたと聞いている。人狼だからではない。ジェームズ・ポッターの「お仲間」であったからだろう。トレローニーは消極的賛成、もとい「どちらでもいい」である。心眼が曇らぬよう、なるべく俗世に関わらないようにしておりますの……だったらしい。
厳密に何人が賛成、何人が反対だったのか、レギュラスは知らないが、少なくとも全会一致ではなかった。理事たちのことはレギュラスが宥めたのである……少しでも雑音を減らしたかっただけであり、ルーピンと関わったことなどほぼなかった。レギュラスもルーピンも、監督生であった。それくらいだ。
そう、少しでもホグワーツを平穏な状態にしたかったのだ。だというのにこれか、とレギュラスは虚ろな眼で炎の雷を眺めた。
「……あれなら、十三回分の誕生日に炎の雷を贈りかねませんね」
あれはポッターの名付け親、後見人、父親代わりですから。
沈黙。フリットウィックは祈るように眼を閉じ、マクゴナガルは天を仰ぎ、マダム・フーチはため息を吐いた。
「――死喰い人からポッターに贈られたものです」
死喰い人、とマクゴナガルは強調した。彼女が「シリウス・ブラック死喰い人説」を信じているかはわからない。疑問には思っているだろう。まさか、ありえないと。しかし、ありえないことが起きたのが闇の時代であった。清廉篤実と評判だった魔法使いが実は闇の陣営に情報を流していたとか、魔法省の誰それが裏切り者だったとか、服従の呪文にかかっていたとか。誣告が横行し、子が親に罪を擦り付け、親が子を売るような時代であった。商売敵を陥れるなんてこともあった。
闇の陣営にいたレギュラスであっても、死喰い人全員の名は知らない。協力者に至ってはどれほどいたのか。ましてや、服従の呪文にかけられた者なんて……である。死喰い人だと名指しされながら逃れ、陽の下を悠々と闊歩する者たちが多数いる。一方で、誣告によっていわれなき罪を着せられ、監獄送りになった者も多い。
ヴォルデモートは世を乱した。屍を積み上げ、夥しい血を流し、人々に不信と疑念の種を撒き、混沌を作り出したのだ。この場にいる誰もが闇の時代を経験している。だから、シリウス・ブラックが死喰い人などありえないと思っていても……それを口に出すことはしない。ありえないなんてことはありえないのが先の戦であった。絶対などないのだ。
「呪いがかけられている可能性があります」
マクゴナガルが拳を握った。きつい眼で炎の雷を睨みつける。あの兄が、そんな回りくどい真似をするかな……と思ったが、レギュラスは穏和しく頷いた。本当に名付け親として、父親の真似事をしただけだろう。ポッターの箒が木っ端みじんになった件をどこで知ったかは不明だが、ホグワーツの敷地内にいるであろうし、なにかしらの手段を使って情報を得たのであろう。なければ贈ろう、どうせなら最高級の箒かつ最新型と行動に移したに違いない。兄が死喰い人の汚名を着せられていなければどうぞご勝手にと言うところだが。
「私は関与していませんよ」
卓の周りに集まった面々にひらひらと手を振ってみせる。無害な良家の子息もとい、名家の穏和な当主の顔をしてみせる。レギュラスはいくらでも誠実に、魅力的に振る舞える男であった。内心ではあの馬鹿兄がと罵倒し、何年も会っていない兄を殴り倒しているのだが。
「あなたには動機がないでしょう」
マクゴナガルがさらりと流した。ダンブルドア側の人間にレギュラス・ブラックは死喰い人だという情報が流れていてもおかしくないのだが……と首を傾げる。代わりに、こう返した。
「私はあれの弟ですよ?」
「死喰い人の身内を連座させるとなれば、どのような影響が出るものやら……」
ふう、とマクゴナガルが嘆息する。レギュラスは遠い昔に似たようなことを言ったような気がした。若かったから、勢いで言ったんだった。マッド・アイに。
「ブラック家のレギュラス。あなたは死喰い人として告発されたことはない。一方、シリウス・ブラックは現行犯で捕まり――」
マクゴナガルが顔をしかめた。薄い色の眼に、ちろちろと炎が躍った。
「裁判もなく、監獄に送られた」
状況証拠は黒です、と彼女は言い切った。つまり、マクゴナガルが抱いた印象は白なのだろう。
兄は潔白だというのに状況証拠で黒とされ、弟は真っ黒だというのに証拠らしい証拠はなく、あるのは証言だけ。
――皮肉なものだ
善なる者ばかりが苦難に見舞われ、悪しき者たちはせせら笑う。闇の陣営に身を投じておいてなんだが、不公平なものだ。
「加えて、ダンブルドアがあなたを雇用した。私にとってはそれで十分です」
「尋問でないのなら、休暇中の臨時講師を呼び出した理由は?」
低く呟いたレギュラスに、マクゴナガルが優雅に微笑んだ。大変嫌な予感がした。
「あら、あなたは学年首席で卒業したと記憶していたのですけど」
ホグワーツには監督生および首席制度が存在する。各寮の五年生と六年生のそれぞれ男女一人ずつ、監督生が任命される。最終学年である七年生は首席と呼ばれ、監督生をとりまとめる役割を担う。五年生二人、六年生二人の計四人の監督生、その上に首席が二人。総計六人がいわゆる寮の「選良」である。レギュラスは監督生、首席であった。マクゴナガルが言う「学年首席で卒業した」というのは文字通りの意味である。レギュラスはその代で最も優れた魔法使いとして卒業したのだ。
学年首席もまた男女それぞれから選ばれる。レギュラスの片割れ、学年首席の魔女はスリザリンではなかったはずだ。多少の箔が付くだけだが。レギュラスは純血名門の御曹司であったので、成績や品行が評価されたところで、おまけのようなものだ。魔法界に地盤のないマグル生まれ、あるいは困窮している混血にとっては有利に働くだろう。学年首席卒の称号は優れた能力の証である。魔法省に入り、高官の位を狙えなくもない。高官だからといってなにかしらの権力があるとは限らないわけだが。名ばかりの、お飾りの位を押しつけられる可能性もある。特にマグル生まれは。
「卒業時の話なんて……」
私は有閑貴族ですよ、と笑ってみせる。だが、マクゴナガルは誤魔化されてくれなかった。
「私たちにはやるべきことがたんとあります。それこそ猫の手も借りたいくらい」
「ブラック先生、あなたは呪い破りだとか」
「そこであなたです」
マクゴナガル、フリットウィック、マダム・フーチの三対の眼が、レギュラスを射抜いた。逃がすものかという眼であった。
「まず、ブラック家の紋は『双狼』です」
「呪い破りの狭義の定義は遺跡や打ち捨てられた古いお屋敷などの呪い、罠の解除人でしょう。なんならウィーズリーの長男でも呼び出せばよろしい」
私は怪しげな品の呪いを解いて、端金を得ていますが……と言い淀んだ。その血は闇より深い黒、と言われるブラック家。曰く付きの品も多い。何人も呪い殺した黒真珠の首飾りとか。暗殺用の品である。呪いを解き、お抱えの職人に渡し、留め具を付け替えて保管してある。ほかにも装飾品が多数。これも呪いを解いてある。その他、闇の品も整理し、使えそうなものは呪いを解き……していた。マグル生まれを拷問して皮を剥いで本の表紙にした……などの趣味の悪い品は処分している。その昔生け贄から搾り取った血が入っているらしい水晶の瓶は問答無用で廃棄した。
レギュラスはだいたいなんでもできる男で、純血――それも過激派の血筋、そして歴史ある名家には呪いの品があるものだ。よって、依頼が舞い込むことがある。当家の曰く付きの品をなんとか……呪いを解けないものでしょうか、とか。古い古い先祖の墓に入ったら呪われ、お恥ずかしい話ですが解いていただけませんでしょうか、とか。同じような格の家に頭を下げるのは嫌だが、ブラック家ならばよし、という者は多い。なにせ王族を自称できるだけの古い名門であるから。そしてレギュラスは困り果てた彼らに救いの手を差し伸べるのである。対価ははもらうが。
「私でなくともスネイプ先生がいるでしょう、マダム・フーチ」
まさかちょっとした暇つぶしの「呪い破り」がこんな事態を引き起こすとは。計算外だと思いつつ、抗議する。セブルス・スネイプは元死喰い人。ダンブルドアの庇護を受け、監獄行きを免れた。
レギュラスは死喰い人時代、彼と接触したことはなかった。彼が死喰い人だという話も聞いていない。しかし学年は違えど、彼と同じ寮であった。リリー・エヴァンズを穢れた血と罵ったと寮内で誉められていた。日刊予言者に掲載されていた「死喰い人裁判」の記事にセブルス・スネイプの名を見つけてもなんら驚かなかった。むしろ、レギュラスが「スネイプ先輩」と呼んでからかえば、嫌そうな顔をしていた男がよくもまあ監獄行きを回避したものだと感心した。感情を隠すどころか、あからさまに面に出していたというのに。兄とジェームズ・ポッターを筆頭とした一味としばしば衝突していると聞いて、どんな男だろうと思いちょっかいをかけたものである。
学生時代、レギュラスが彼に下した評価は、あまり体力はない、姓で呼ばれるのを嫌う、セブルス先輩呼びも微妙、呪いに詳しい、魔法薬学も秀でている……といったものであった。あとは、純血プリンス家の血筋をことさらに強調していた。スリザリンの血筋だと声高に自称していたヴォルデモートと同じように。
スネイプがなにを思って死喰い人になったのかは知らない。レギュラスが死喰い人であると知っていたのかも知らない。ダンブルドアの手元に「飼われている」のは真に改心したからか、間諜のつもりかも知らない。教師としての評判はあまりよくない。どうやらスリザリンを贔屓し過ぎている。反面教師に向いているのだろう。公平性に欠ける教師の見本である。が、性格はともかく有能である。性格と能力は必ずしも相関しない。善なる者が必ず優れているのならば、悪は栄えることなく滅びていたはずだ。
「彼をポッターの箒に触らせるわけにはいきません」
マクゴナガルはぴしりと言った。レギュラスは頭を抱えたくなった。死喰い人の弟、本当は元死喰い人はよくて、スネイプは駄目なのか。
「学生時代、仲が悪かったですからねえ」
フリットウィックがしみじみと言う。
「炎の雷が燃えては大変」
マダム・フーチが唸った。
レギュラスはこれ以上抵抗しても無駄だと悟った。炎の雷を恭しい手つきで仮の箱に納め、広い卓の隅に置く。兄が名付け子にこの箒を贈ったのもわからなくもない。なにせ銀の矢の系譜を継ぐ箒である。全体の均衡がとれていて、経年変化による空気抵抗の増加――速度の減少が抑えられるであろう。名品なのは間違いない。兄は腐っても貴族である。眼は肥えている。単に最新型の最高級品だから買った……というわけではないだろう。こういう騒動が起こることも織り込み済みだったに違いない。調べるならいくらでもどうぞ、といったところか。
いい加減な兄を恨みながら、レギュラスは卓に羊皮紙を広げる。
「思いつく限りの呪いを書き出しましょう」
誰がなんの呪いを調べるか、担当の割り振りはマクゴナガル先生にお願いします。
各自、杖を振る。たちまちのうちに羊皮紙が文字で埋まった。
「なるべく早く返してあげたいが……」
フリットウィックが眉をひそめる。
「分解を視野に入れるとなると」
クィディッチや箒に思い入れのない決闘者の言に、室の空気が凍り付いた。
「このような逸品を分解……」
マダム・フーチの目元が痙攣した。
「ですが、ポッターの安全のためです」
マクゴナガルが歯を食いしばった。
「孤児の少年の手から取り上げておいて分解はいかがなものか」
レギュラスは理でなく情の面から攻めることにした。もし、デルフィーニに贈った箒が分解されたら……なんて場面を思い浮かべ、しょっぱい気分になったからではない。断じてない。公私はちゃんと分けている。
「この箒に呪いがないと証明しなければなりません」
フリットウィックがぴしゃりと言う。普段の穏和さからかけ離れた、力強い口調であった。マクゴナガルが瞬き、フリットウィックを見た。
「……そうですね。この件はまだ間に合います」
私たちは私たちの仕事をしましょう。
きっぱりとマクゴナガルは宣言した。
レギュラスは再び杖を振る。羊皮紙に「分解し隅々まで調べる」と文字が加わった。
馬鹿な兄だが、恵まれていると思う。
口には出さないながら、かつての処分に疑いを持っている者たちがいるのだから。
炎の雷がただの贈り物だと証明できれば、兄の印象に多少の変化が生まれるであろう。冤罪を晴らすことは難しくとも、これ以上罪を被せたくないとフリットウィックたちが思っているのは確かだ。
彼らは学生時代のシリウス・ブラックを知っている。誰よりも闇の陣営を憎んでいた男を見ている。ブラック家を棄てた、烈しい性情も承知している。
裏切るはずがない、とどこかで思っている。いいや祈っている。
ありえないことなどありえないとわかっていても。
呪い調べと平行し、レギュラスはグリンゴッツの金庫に照会をかけた。シリウス・ブラック名義のものをいくつか。監獄に入っている兄の代わりにレギュラスが管理している。レギュラスの名で入出金は不可能だが、照会は可能なのである。
結果。
「……隠す気がみじんもないな」
某日に七一一番金庫から出金。支払先はクィディッチ用品店。
さらにクィディッチ用品店にも問い合わせをしたところ――当家の金庫から出金のあった件について――回答があった。
出金よりさかのぼること数日前、注文書が当店に届き――七一一番金庫から支払いとのこと――宛先はハリー・ポッター、注文者の名はアルファード・ブラック。
レギュラスは羊皮紙を握り潰した。
ちょっとは隠そうという気遣いをみせてほしい。お陰でレギュラスの仕事が増えたんだが。いいや、兄だって好きでこんな……本当なら堂々と炎の雷を贈っていただろう。
つまり、元凶は。
「ワームテールめ」
全部ワームテールが悪い。もっと言えばヴォルデモートが悪い。そして、ヴォルデモートが形はどうあれ生きているのだから、やはりワームテールも生きていると考えるべきだと思い至った。兄は無駄な行動はしない。デルフィーニが言っていたように「わざわざ」脱獄したのには理由があるはずだ。
「……であれば」
このホグワーツに。
ワームテールが潜んでいるのではないか? ひょっとしてハリー・ポッターの近くに。
いつでも喉を掻き切れる場所に。
「君が護衛になるのはいつのことになるやら」
アル、と呼びかける。隣をとことこと歩く仔狼は尻尾を振り、金色の眼を輝かせ、デルフィーニを見上げた。
闇毛の仔狼は元気いっぱいだ。一月の寒さ――吸魂鬼のせいでことさらに冷え込む――もへっちゃらで、大喜びでデルフィーニの「護衛」をしている。いっそのこと寮に置いていくか、抱えて運んだほうが早いのだが、くんくんと鳴かれれば冷たい態度をとるわけにもいかなかった。なので仔狼を道連れにゆっくりと歩くはめになっている。幸い、デルフィーニは選択授業を二つしか取っていない。古代語と魔法生物飼育学である。だからハーマイオニー・グレンジャーのように大荷物を持って飛び回る必要はなかった。
「……頭脳明晰、おまけに健康。向学心に溢れる」
魔法史の教室に向かいながら、デルフィーニは呟く。冬のホグワーツでのろのろと歩いている人間はいない。魔法族だって寒さは嫌だ。よって誰もが足早になる。古くて暗い廊下、ぽつぽつと空き教室がある一角を通っているのはデルフィーニくらいのものであった。
「神は何物もあの子に与えすぎだわ」
そう思わない? アル。
戯れに呟く。北斗七星の一、
別に構わない。ただ、口から出てしまっただけの言葉だ。冬は、デルフィーニの機嫌を悪くする。理由は色々ある。咳であまり眠れないから。スリザリンチームが打倒レイブンクローで盛り上がっていて、うるさいから。デルフィーニ様、レディ・ブラックは今年も冬の社交に出なかった……さすが深窓の姫君だという賞賛に見せかけた陰口が囁かれているから。
スリザリンチームが騒がしいのは仕方がない。クィディッチは人をおかしくするのだ。毎回のことだ。グリフィンドール戦の前なんてもっとうっとうしい。
深窓の姫君。これは……悪かったな深窓の姫君で、である。社交に出ていたのはホグワーツ入学前までだ。冬の社交は欠席することが多かったし、夏の社交は入学直前に催されたものには出なかった覚えがある。出自を知らされて動揺していたせいと、入学準備で忙しかったのだ。
入学してからは、主に体調面の問題で社交の場に顔を出していない。元々集まりが嫌いなせいもある。あれがブラック家の養女かと珍しいものを見るように見られるのは、気分のよいものではない。が、集まり「なんぞ」に顔を出さないのをお高く止まっていると思う輩は一定数いるのだ。デルフィーニ・ブラックが深窓の姫君どころか、怪物と怪物の子だと知れば悲鳴を上げるに違いない。
少なくとも、マグル生まれのハーマイオニー・グレンジャーの血は綺麗であろう。呪いともいえる血の濃さなどない。魔法界での地盤などないが、翻せば自由だということだ。存分に学ぶことができる。ドラコと取り巻きたちは彼女を穢れた血と呼ぶが、穢れているのはどちらなのか。
こん、と咳が出る。あまり咳をし過ぎると、しまいには喉が切れて血を吐くはめになる。気をつけなければ……。父に心配をかけてしまう。
父がホグワーツに残っているのはデルフィーニのせいだろうか。本当なら一旦帰って、冬の社交に顔を出していたはずなのに。十一月からこっち、城に留まっている。仕事はいくらでもあるようで、闇の魔術に対する防衛術の臨時講師に留まらず、教師たちの手伝いをしているようであった。箒置き場で見かけたという目撃証言もある。最近は、マクゴナガル、フリットウィック、マダム・フーチとよく話しているらしかった。謎である。ルーピンのために薬を煎じているようだ。父の室を訪ねれば、せっせとなにやら作っていた。曰く「ルーピン先生の持病の薬」らしい。なぜ父が、と訊いてみれば「スネイプ先生はお忙しい。僕のような有閑貴族にはぴったりの仕事だと仰せでね」とのことだった。デルフィーニはスネイプへの評価を下げた。元々、決して高くはなかったのだが。いくらデルフィーニがスリザリンでも、あからさまな依怙贔屓は嫌なものである。特にドラコが付け上がるので弊害が酷いのだ。
父が本当に嫌だったら、臨時講師の職など蹴り飛ばして帰っているはずだ。そういう人である。スネイプに押しつけられた仕事なんてしなくてもと思うが。だいたい、ルーピンは有能で、薬くらい煎じれるだろうに。よほど煎じるのが難しいのか。でも、持病だ。十一月、十二月と体調を崩し……たぶん、毎月……。
毎月、似たような期間に病気になって。
瞬く。規則性がありすぎやしないか。それともデルフィーニの気のせいか。デルフィーニのように身体が弱く、冬になれば臥せるくらい……というわけではない。教師ができるだけの能力があり、授業もそつなくこなしている。だというのに臨時講師が必要なくらい、体調を崩す。
くたびれた衣服。いままでまともな職に就けていなかったような。
煙を上げる杯、煎じるのが難しい薬。持病。市場に出回っていても手が届かない。作るにしても手に余る。誰かにも頼めなかったとしたら……飲み始めたのが九月からで、段々と副作用が表に出てきたのだとすれば。人によって症状の軽い、重いはあるだろう。多少のずれはありえる。
首を振る。病なんて星の数ほどある。煎じるのが難しい薬もたくさんある。考えすぎだ。
動揺を押し殺し、足を早める。急がないと魔法史に遅れる。多少遅れたところで、幽霊先生は気にもとめないに違いない。デルフィーニだって本当は欠席したい。なんとも素敵なことに、今日の授業は『例のあの人』についてだったはずだ。純血名門が滅ぼされたとか、十月三十一日に破滅したとか『例のあの人』の脅威を鼻で笑ったばかりに、大臣の座を失った誰かの話とか。闇の陣営の恐ろしさとか。デルフィーニの自称父が引き起こした、怪物たちの宴の話である。最高。
「アル、急ぐわよ」
仔狼を抱き上げる。デルフィーニのともだちは、黒い尾をぶんぶんと振ってご機嫌であった。まだ仔狼だものね。
ゆるめていた歩調を速めようとしたそのとき、仔狼が耳を動かした。デルフィーニは立ち止まる。金色の眼を追って、閉ざされた扉を見やる。空き教室のはずのそこから、かたん、と音がする。かたん、かたん……。
通り過ぎるべきだ、と理性は囁く。ピーブズが悪戯をしているだけだろう。どうだっていいことだ。だが、デルフィーニには一つの懸念があった。親愛なるスリザリンチームである。グリフィンドールが負けて有頂天になっている、頭の足りない愚か者どもが、たとえば勝利を確実なものとするために……レイブンクローチームに嫌がらせをしているなんてことはないか。シーカーを閉じこめるとか。そんなことをしたらチョウ・チャンが怒れる鷲になりそうだが。
様子を見るだけ、と言い聞かせ空き教室に入った。物置と化した室に、埃がふわりと舞う。デルフィーニは仔狼を下ろした。彼――雄なのだ――は、くしゃみをした。そして、興味津々とばかりに金の眼をそれに向ける。箪笥である。それががたがたと揺れていた。どん、と音がする。
――誰かが助けを求めているかのように
杖を構え、そっと近づく。開けてみるべきか迷っていると観音開きの扉に隙間が生まれた。軋みながら指一本分開き……闇が口を開け――白い手が出てくる。
骨のように白い手。長い指が。男の手だ。
デルフィーニは息を呑んだ。箪笥から誰かが滑り出てくる。赤い眼がデルフィーニを射抜く。凍り付いたように動けない。
ああ、これを知っている。
デルフィーニは知っている。
喉に伸ばされる手、食い込む指、その笑みを知っている。
出来損ないめ、せっかくこの世に生み出してやったのにと。
壊して、新しいものに取り替えるべきかと思っている。
みし、とどこかが軋む。低い唸りが聞こえる。デルフィーニは手を伸ばす。ぼやけた視界。白い手に爪を立てる。氷にように冷たいそれはびくともしない。隣にいるのは誰だろう。灰色の眼がぎらぎらと光ってデルフィーニを見て……。
産むのじゃなかったと、恨めしいと。こんなことのために身体を損なったと……早く我が君にお仕えしたいと言う。美しい人。だけれども醜い人。恐ろしい人。デルフィーニを産んだ、母。
吼え声、喉を掴む手が緩む。背後で、扉が叩きつけられるような音。
「デルフィー!」
叫びが聞こえる。視界は白と黒に明滅している。
気づけば、薄汚れた床にへたり込み、喘いでいた。咳が止まらない。涙が次々とこぼれ落ちる。
いったい何分経ったのか、ようやく意識がはっきりした。ハンカチで口を押さえ――これは誰のものだろう――と顔を上げる。灰色の眼とかち合って、後ずさる。母親。あの女の眼だ、と怖気が走った。
「デルフィー」
辛抱強く、その誰かはデルフィーニを呼んだ。男の声だ。そして、よく知っている声であった。
「……セド、リ……」
舌が回らない。首が焼けるように痛む。
「まね妖怪は箪笥に帰ったよ」
怖いものはもういない。
セドリックが音もなく距離を詰め、膝を突く。手負いの狼に対するように、そっと。なんでここに? まね妖怪? と、訊きたいことはあれこれあった。だが、デルフィーニにそんな余裕などなかった。ただ震えるばかりであった。
だから、そろそろと抱き寄せられてもぼんやりするばかりで、されるがまま。セドリックの手がデルフィーニの背をさする。
学年一位の優秀であるはずの頭脳は、緊急事態に弱かった。全身から力が抜け、セドリックの体温を感じ取る。なにをどこまで見たのか訊かないと……と頭のどこかが弱々しい声で囁くも、剥き出しになった魂の疵が、痛みを主張する。吸魂鬼が見せる幻よりも生々しい、突きつけられた現実がデルフィーニから気力を奪い取っていた。
「医務室に行こうか」
耳元で囁かれたそのとき、再び扉が開いた。
密着している二人を見て、その人は顔をひきつらせた。
「……頼むから、そういうのはホグズミードで」
「違います」
「セドリック、君はとても品行方正だと聞いていたんだが」
「誤解です! これは介抱です!」
仔狼が吼え、セドリックも吼え、ルーピンは嘆き、と現場は混沌とした。デルフィーニはうんざりして眼を閉じた。
◆
「たかがまね妖怪。されどまね妖怪」
デルフィーニ、君が悪いわけではないよ。
闇の魔術に対する防衛術教授の室。ルーピンの慰めに頷き、デルフィーニは出された紅茶――ミルクティーを口に運んだ。医務室行きを拒否したら、セドリックともども招かれたのだ。教師公認の「サボり」である。いいんだろうか。
「姿だけでなく性質も真似るからね」
「スネイプ先生に変な服を着せることもできる、と」
セドリックがすかさず言う。卓を挟んで向かいに座るルーピンはにやりとした。そして、デルフィーニのほうをちらりと見た。意味するところを察し、デルフィーニは素っ気なく言った。
「スリザリンの寮監はお世辞にも評判がよろしくないので」
彼が真っ赤な衣装を纏って、ハゲワシの剥製を付けた帽子を被ろうが、である。構いませんよと暗に言ったデルフィーニに、ルーピンはハーブティーを出した。
「ミルクティーの後はこれを」
「喉を痛めただけです」
「飲みなさい」
それともセドリック、君が医務室に連れて行ってくれるかい、とルーピンは困ったように言う。デルフィーニはため息を吐いた。隣に座るセドリックを見れば、必要とあらばデルフィーニを攫う気満々なのが窺えた。鍛えているクィディッチ選手とか弱いデルフィーニでは、前者が勝つ。魔法戦かつ短期決戦ならばわからないけれど、杖なしではデルフィーニが負ける。
ゆっくりとミルクティーを飲む。妙になじみのある味だと思えば。
「……うちにある紅茶の味です」
「ブラック先生がくださってね」
ルーピンの手が、背後の戸棚を示した。紅茶の缶がいくつかある。そして、戸棚の隣にある机には、水槽が置いてある、水魔を飼っているようだ。長い指で首を絞める……とまで考えて、眼を逸らす。拍子に、無造作に置かれた金属棒が眼に入った。
「父は気まぐれなところがあって。だから、先生はあまりお気になさらず……」
ルーピンの貧窮を見かねてではないだろう。本当に「余ったから分けた」くらいのものだ。たとえそれが高級茶葉でも。
父の気まぐれよりも、机に置いてある金属棒が気になった。L字型で、二本ある。ルーピンが教室に飛び込んで来たとき、両手に持っていた。少し自失していたデルフィーニであったが、奇妙な物体を見逃すほどその眼は節穴ではなかった。
「あれかい?」
再び、ルーピンの手が躍る。傷だらけの手だな、と改めて思った。彼はその手で足下の仔狼を撫でたようだ。デルフィーニのともだちは、ルーピンに懐いたのだ。卓の下を覗き込んでみれば、薄情な仔狼は主――ともだちの顔など忘れてしまったかのように、伏せをして撫でられるがままであった。
「探知機だよ」
昔、友達が作ったものだ。彼は飽きっぽかったから、作って満足する類で……押しつけられたのさ。
「目的のものが近づくと、振動が強くなる」
「じゃあ、先生がやって来たのは……?」
セドリックの問いに、ルーピンが頷いた。
「まね妖怪を探していたんだ」
「授業で使うんですか?」
「そんなようなものだね」
ルーピンは言葉を濁した。ややあって言葉を付け加えた。
「まね妖怪は姿だけではなく性質も真似る、と先ほど言ったね。つまり、場合によっては疑似的な吸魂鬼にもなり得る」
デルフィーニは顔をしかめた。わざわざ吸魂鬼もどきが必要なのはどうしてだろう。デルフィーニなんて吸魂鬼の側を通り抜けたくなくて、ホグズミードに行けていないのに。三年生の時に一、二度行ったきりになってしまっている。どうせ一人で村を回るだけだし、いいのだけど。吸魂鬼がいる限り、行けないのだから。
なぜ行けないか。倒れてしまうからだ。忌まわしい記憶がそうさせるのだ。幼稚なドラコは吸魂鬼で気絶するなんて、とポッターを……。
「守護霊の呪文を習得させようと?」
誰にとは言わなかった。それでも、ルーピンはデルフィーニが察したことを察したようだ。デルフィーニに小さく拍手し、返した。
「頼まれてね。君もどうだね?」
「呪文を教えてもらっていますから……」
曖昧に言う。父に教えてもらった。死喰い人は守護霊の呪文を使えない、というのが定説らしい。父曰く「吸魂鬼対策なんて普通は習得しなくていいから」らしい。加えて「吸魂鬼が魔法省側なんて幻想だよ。あれは闇の生き物だもの」とあまり知りたくない情報も聞いた。さらに「善人ならば守護霊が出せるなんていうのも迷信だよ。己が正しい、善だと信じている者なんて、ある意味誰よりも邪悪」と言った。結論。レギュラス・ブラックは守護霊の呪文を使える。デルフィーニは時間を見つけて練習しているが、巧くいかない。恵まれた育ちなくせに、吸魂鬼に呼び起こされた疵が邪魔をするのだ。軟弱なデルフィーニ。まだ朧な影しか出せていない。
「高等魔法試験級でしょう?」
セドリックが口を挟んだ。灰色の眼は暗い。吸魂鬼、守護霊習得とまで言えば、ルーピンが「誰を」教えるのか察するのは容易い。それでも名は出さないのがセドリックであった。
「まだ……来年、普通魔法試験というわけでもない子に」
今年、普通魔法試験を受ける男が言った。来年、普通魔法試験を受けるデルフィーニは目元を痙攣させた。ああ、あまり考えたくないのに。普通魔法試験のことなんて。
「私も無茶だとは思っているよ。でも、やってみなければわからない。ただ……魔法とは意志の力、思いの強さといってもいい」
倒れるほどの恐怖を味わいながら、敗北しながら、吸魂鬼に対抗しうる術を求め、私を頼ってきた。
「ならば私がすべきは、その手をとり、導くことだ」
ルーピンは厳かに締めくくった。
「……いい先生だ」
ロックハートよりもよほどいい先生だ。廊下を歩きながら、セドリックがしみじみと言う。教師公認のサボりもとい、お茶会を終え、次の授業に向かわなくてはならなかった。学年も寮も違うので、途中で分かれることになる。
「吸魂鬼が出ないことを祈りましょう」
「僕は、彼が箒から落ちるところなんて見たくないからね」
隣を歩く彼をちらりと見る。善い人とはセドリックのような者のことを言うのではないか。過去十回は思ったことを改めて認識する。
そして、馬鹿で意地の悪いドラコのことを思い出す。セドリックの爪の垢を煎じて飲ませたい。あの愚か者は、ポッターが吸魂鬼にやられて箒から落ちた真似を談話室や大広間で披露していたのだ。談話室、内輪でやる分には無視しようと思った。が、大広間でやらかしたので……デルフィーニは又いとこに贈り物をした。宙に浮かぶ蝋燭数本がなぜか凍り付き、鋭利な刃と化して、スリザリンの長テーブル、又いとこの席付近に突き立った。ただの事故である。魔法魔術学校に事故は付き物なのだ。
「……ねえデルフィー、君ってばグリフィンドールでもやっていけたんじゃないかな」
吸魂鬼、箒で思い出したらしいセドリックがにやりとする。デルフィーニは眼を逸らした。
「なんのことかしら」
「白々しいな……まあいいか。ところで、医務室に行かなくていいのかな」
「大丈夫よ。あのね、」
うん、とセドリックが返す。デルフィーニは大いに悩んだ。彼がどこまで見たのか。はっきりと『例のあの人』とベラトリックスだと認識してしまったのか。
いいや、ありえない。セドリックはデルフィーニを助けるのに無我夢中で、男の眼が赤いだなんて、それも『例のあの人』だなんてわからなかったに違いない。通りすがりで、仔狼の吼え声を聞いて飛び込んできたそうだから。もし『例のあの人』を見ていたのならば――こんなに平然としていない。そうに違いない。
言い聞かせ、デルフィーニは別の言葉を口にした。
「ありがとう」
「たいしたことじゃないよ」
「人助けが趣味なの?」
ついつい皮肉っぽく言う。なんだか助けられてばかりで居心地が悪いのだ。だが、年下の魔女の言を、セドリックは軽くあしらった。
「そうかあ、誰かが閉じこめられていたら大変、と助けようとした魔女もいるのにね」
お人好しだね。
突き当たり――分岐ににさしかかる。デルフィーニは答えずに右に曲がり、セドリックはくすくすと笑いながら左に曲がった。
「ねえ、お人好しのデルフィー」
背に投げかけられた声。先までに笑みの影は消え失せ、ひりつくような何かが籠もっていた。
「夏休み前にホグズミード行きの日があるだろう? 一緒に行かないか」
デルフィーニは振り向かずに答えた。
「それまでに吸魂鬼が退去するなんて奇跡が起こればね」
言ったな? と声が言う。デルフィーニは「なんで男の子って無謀な賭けが好きなのかしら」と返した。
遠ざかるやりとりは「男の子ってそんなものだよ」で締めくくられた。
「虚弱な不良物件を気にかけるなんて」
仔狼を引き連れ、デルフィーニは呟く。七変化で首の痣を隠した。人を欺くデルフィーニ。隠し事ばかりのデルフィーニ。
誰だって隠し事はある。秘密はある。ルーピンだってそうだろう。彼はきっと人狼だ。仔狼が懐いたことで疑いは確信に変わった。同族だからなのだ。そして、父が臨時講師を引き受けた理由も説明が付く。怪物と怪物から生まれたデルフィーニ。望んでもいないのに怪物になってしまうルーピン。なにか、父なりに思うところがあるのだろう。
「私も彼も」
怪物なのよ。
お人好しのセドリック。
ぽつんとこぼした呟きを、仔狼だけが聞いていた。