【完結】白いるかの眼は赤い   作:扇架

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十四話

 寒さと体調不良。この二つと戦っているうちに二月になっていた。その日、デルフィーニはクィディッチ競技場――観客席にいた。グリフィンドール対レイブンクロー戦を観るためである。デルフィーニの所属はスリザリン。よって、スリザリンの観客席にいるのが筋なのだが……黄色いと黒のネクタイを締め、裏地が黄色のローブを着た集団に周りを囲まれていた。

「お招きいただいて感謝するわ」

「どうってことないよ」

 隣に座るセドリックはさらりと返す。彼にとってはなんでもないことなのだろうが、デルフィーニにとってはありがたいことであった。単に「一緒に観ない?」と誘われただけである。渡りに船であった。デルフィーニは自分の寮に対し愛着などなかった。むしろクィディッチ杯最下位に落ちてしまえとさえ思っていた。それもこれもスリザリンの「振る舞い」のせいだ。

 先日スリザリン対レイブンクロー戦が行われた。僅差でスリザリンが勝った。強風のせいでチョウが少し飛ばされていなければレイブンクローが勝っていただろう、という僅差であった。なにせレイブンクローのチェイサーたちは流れるようにクアッフルを運んでいた。それこそスリザリンがスニッチを掴んで百五十点を獲得しない限り勝てないくらい、クアッフルを独占していた。

 あの試合の素晴らしい点はいくつかあるが――チョウがウロンスキー・フェイントでドラコをぺしゃんこにしたことだろうか。スニッチを見つけたふりをして急降下し、地面すれすれで急上昇する大技、らしい。彼女の箒はコメット260号で、ニンバス2001に比べれば劣るとされている。しかし、チョウの飛び手としての技量はドラコに勝っていた。ドラコは最新型ニンバスの速さにものを言わせすぎたのだ。制御が甘く、ひっかけられたと気づいた時には後の祭り。地面に激突した。

 スリザリンの観客席にいた面々は絶句。デルフィーニも絶句。パンジー・パーキンソンだけが「ドラコになんてことを」ときゃんきゃん吠えていたけれど。レイブンクローは一瞬絶句し、歓声を上げた。実況のリーはチョウの決めた技はウロンスキー・フェイントだと解説し、一言付け加えた。あいつをもっと地面にのめり込ませてやってもよかったんだぜ、チョウ・チャン! と。

 ドラコが飛行不能になり、マダム・ポンフリーが気付けを施す間にチョウがスニッチを掴めていればよかった。が、そうは巧くいかなかった。

 レイブンクローが点を入れ、スリザリンが点を入れ、しているうちにドラコが復活し、最終的にシーカー対決となり、二人の戦いの熱気が風でも呼び寄せたのか暴風が巻き起こり、チョウが吹き飛ばされた。スニッチはドラコの手に渡り、スリザリンが僅差で……十点差で勝利したのだ。

 どちらも頑張りましたね、で済めばよかったのだ。公平に見てスリザリンもよく粘った。が、スリザリンは根性悪の集まりであった。勝利に酔いしれ、調子に乗り「あんなオンボロ箒に乗った女に僕が負けるわけがない」発言をドラコがし、デルフィーニの機嫌は急降下した。ここで「僕も彼女を見習ってウロンスキー・フェイントを習得する」と言えばマイナス評価がゼロ地点に戻ったかもしれないというのに。なお、ドラコが危険な大技であるウロンスキー・フェイントを習得しようとする確率は太陽が西から昇らない限りない。怖いのも痛いのも危ないのも嫌いなのだ、彼。

 勝っても相手を貶すばかりの根性悪集団にうんざりし、デルフィーニはハッフルパフの観客席にお邪魔しているというわけだ。所属しているからといって寮に無条件で愛着が湧くとは限らないのだ。

 さて、ハッフルパフのキャプテンでシーカーと、スリザリンのレディ・ブラックが同席しても、ハッフルパフの寮生たちはなにも言わなかった。シリウス・ブラックの娘疑惑、さすがに鎮火したが、スリザリンの継承者疑惑などの噂があるデルフィーニが怖いのか、それともセドリックのお陰なのかは不明だ。デルフィーニは穏やかな気持ちでグリフィンドール対レイブンクロー戦を観ていられた。

 チョウがポッターにウロンスキー・フェイントを使うことはなかった。使ったところで引っかかりはしないと判断したのだろう。炎の雷をポッターは完璧に乗りこなし、我が物としていた。

 シーカー二人の対決を固唾を呑んで見守り、どちらが勝者になったにせよ、拍手で試合の幕が閉じられるはずであった。空中での熾烈な争いを観ていたデルフィーニは、競技場に出てくる影を眼の端に捉えた。背の高い――異様なほど高い影。真っ黒なローブを纏い、頭巾を被っている……ように見えた。デルフィーニはさっと立ち上がる。足下に伏せをしている仔狼があくびをした。奇妙に思いつつ、杖を振った。脳裏に浮かぶのは、チョウにぺしゃんこにされたドラコの姿であった。

「守護霊よ来たれ」

 囁きは白銀の影を生み出す。まっしぐらに地上へ向かった。同時にポッターも呪文を行使したようだ。立派な角の牡鹿の姿をしているようだった。吸魂鬼らしきものに守護霊たちに襲いかかる。

 やがて、守護霊が駆け戻ってきた。それは、赤い眼の白いるかであった。

「……狼だと予想していたんだけどな」

「いるかも可愛いと思うよ」

 セドリックは控えめに主張し「成功したんだねおめでとう」と付け加えた。デルフィーニは「幸せな記憶」がなんだったか絶対に言うまいと思った。この男に意地悪な側面を見せたくはない。守護霊が消える。デルフィーニはこれ幸いとばかりに、話を振った。

「私、いつもなら倒れるのに……耐性がついたのかしら」

「おかしいな」

 二人で首を傾げ、同時に競技場を見た。セドリックはため息を吐き、デルフィーニは仔狼を引き連れて、観客席を下ろうとした。そのとき、青い衣の影がやってきた。

「こっちのほうが早いわよ」

 チョウであった。デルフィーニは差し出された手をとって、彼女の箒に飛び乗った。ロジャーが「ああ! それは憧れのシュチュエーション! 箒に相乗り」と叫んでいた。どこまでもロジャーであった。

 なぜかレイブンクローチームとともに下へ向かったデルフィーニは、チョウに礼を言って箒から飛び降りた。同時に、グリフィンドールチームも合流した。

 ポッターが炎の雷を片手に持ち、まじまじと「それ」を見ていた。デルフィーニは顔をしかめた。ローブに絡まった「人間」が四人。吸魂鬼ではない。断じてない。

「ごきげんよう」

 ドラコ。

 デルフィーニの唇から漏れたのは、冷たく甘い声であった。じたばたともがいていた又いとこは、ぎょっとしたようにデルフィーニを見上げた。ドラコと取り巻きだけならわかる。嘆かわしいことにスリザリンチームのキャプテンも吸魂鬼の仮装に参加していた。

 十中八九、ポッターを脅かそうとしたのであろう。デルフィーニは本来の被害者のほうをちらりと見た。

「ポッター、あなたのところの首席を召喚する?」

 減点したいでしょうと言えば稲妻形の傷持つ少年は緑の眼を瞬かせた。

「十分、恥をさらしていると思うから」

 穏やかな声であったが、言っている内容はなかなかのものであった。気に入った。デルフィーニは小さく笑った。そして、怒りの形相で走ってくるマクゴナガルを片手で制し、呆れ顔のルーピンにも首を振った。

「自寮の恥は自寮で雪ぐべきよね」

 ひ、と声がする。もがきながら逃げようとする下衆を、デルフィーニは容赦なく拘束した。まとめて縛られた貴族の子弟どもの顔は、真っ青であった。そんな顔をするくらいなら最初からするな。

 スリザリンの観客席を睨めば、そそくさと首席が馳せ参じた。デルフィーニは四年生。首席は最終学年。が、学年など関係がなかった。なにせデルフィーニはレディ・ブラックであり、ブラック家の次期当主であり、凶悪犯の子ではないかと噂される人物であった。それに、この一件はあまりにも「恥さらし」であった。最終学年であるスリザリンチームのキャプテンが無分別な行動をしたのも致命的であった。

「適正な処分をお願いしますね」

 デルフィーニが首席に告げたのはそれだけであった。首席は嘆息し、怒り狂っているデルフィーニから眼を逸らし、スリザリンチームのキャプテン、つまり同期に「なにやってるんだよお前たちは」と苦言を呈した。そしてスリザリンから百点減点し、少し落ち着いたマクゴナガルに「罰則はお任せします」と言った。これにて一件落着、のはずだった。

 自ら恥をさらし、自ら災いを引き寄せた愚か者が余計なことを言ってしまったのだ。

「何様のつもりだデルフィー! お前なんてクィディッチもできないくせに! しょっちゅう医務室に行って、ひ弱なくせに!」

 勢い任せの暴言である。紛れもなく、侮辱であった。そしてデルフィーニ、レディ・ブラックの痛いところを突いていた。ドラコという名の蜥蜴は、夜闇の狼の尾を、思い切り踏んづけた。

 デルフィーニは眼を光らせた。腕を組み、じっと愚か者を見下ろし、息を吐いた。競技場の芝生がうっすらと凍り始めた。

「マクゴナガル先生」

 公正明大な副校長に呼びかけた。マクゴナガルはドラコのあまりの暴言に顔をしかめていた。淡い色の眼をデルフィーニに向けた。

「私がもう百点スリザリンから引きましょうか」

 ブラック、と呼ばれデルフィーニはにっこりした。深い深い黒の血統を持つ者の、寒気がするような笑みであった。

「どうしようもない子犬を指導したく」

 ちょうど試合が終わりましたし、延長して使わせていただきたいのです。

「私が、身体が弱くてクィディッチなんてできないと思っている者がいるので」

 

 その日、公式記録に載ったのは「グリフィンドール対レイブンクロー戦が行われ、グリフィンドールが勝利した」という記述だけである。

 試合の後にデルフィーニ・ブラックとドラコ・マルフォイが異例のシーカー対決をしたことは記載されていない。

 そして、箒置き場にあったぴかぴかのクリーンスイープに乗ったデルフィーニが、ニンバス2001に乗り、競技の経験もあるドラコより先にスニッチを獲ってみせたことも、記録には残っていない。

 グリフィンドール対レイブンクロー戦にたいした興味もなかったレギュラスは、その一報を聞いて鼻を鳴らした。

 炎の雷に呪いがかかっていないと、真に証明されたのはよいことだ。分解までして、それでも出てこなかった。レギュラスたちは打ち上げまでしたのだ。そして、再結合した炎の雷を製造元に持ち込み、事情を説明して見てもらった。その役目はレギュラスが担った。いくら魔法とはいえ、箒の専門家でもない素人集団の手による再結合だ。不具合がないか、結合に甘い点がないか専門家に見てもらうのが筋であった。製造元は当初渋い顔をしていたが、生徒の安全を強調すると仕方がないと頷いてくれた。炎の雷は傷ひとつない、磨き上げられた状態でハリー・ポッターへと返還されたのである。

 そう、炎の雷の件は解決した。しかし別の一件はいただけなかった。

「ドラコめ」

「……彼も悔しかったんだと思うよ」

 招かれた室、その主に眼を向けた。ルーピンは努めて穏やかな風を装っていたが、その琥珀の眼には隠しようもない怒りと、楽しげな光が躍っていた。

「優等生的な回答はそうでしょうね」

 茶器を傾け、卓に置く。かつん、と鋭い音が響いた。

「見苦しい真似をし」

「本当のことでも言ってはいけない。そんな基本的なこともできず……」

「ブラック家の娘に暴言を吐き」

「素人相手にスニッチを獲られるなんて」

 愚かの極みだ。

 冷たい声で言ったレギュラスに、ルーピンは笑んだ。

「君たちはそっくりだ」

 父子だねとにこにこされ、レギュラスは眼を逸らした。

「あくまでも、養父子ですよ」

 そうして、呟いた。

「……まあ」

 あれはスリザリンチームのシーカーだった僕の娘だ。

 ドラコに負けるはずがないんだ。

「――ほんと負けず嫌いだ」

 デルフィーニの飛びっぷりは見事だった。そう言われ、スリザリンチームの元シーカーは、人狼の茶器におかわりを注いでやった。

 ブラック家当主と人狼は知る由もなかった。

 数時間後にシリウス・ブラックが二度目の侵入を果たす、なんてことは。

 

 

 

 ドラコに一騎打ちで勝ったことを、デルフィーニは後悔した。ここで言う一騎打ちとは決闘のことではなく、どちらがスニッチを獲れるかというシーカー戦のことである。一つだけとはいえ年下なのだから優しくしてやればよかった、年上の余裕や寛大さを見せるべきであった……という後悔ではない。あんな暴言を吐かれて黙っていられるか。ああいうのは正面から叩き潰したほうがいいのである。ただでさえ甘やかされたお坊ちゃんなのだから、上位に立つ誰かが躾をしなければならない。庶民の言い方をすれば締めるというやつである。ドラコは純血過激派である。本人にとっては普通のことなのだろうが、世間的にはどう見ても過激派である。そして純血こそ尊い、穢れた血なんて滅びればいいのにとお思いのマルフォイ家の御曹司は、純血には甘い。仲間意識がある。だというのにデルフィーニにあんなことを言ったのである。

 純血主義、それも過激派ならブラック家のデルフィーニの靴を舐めるくらいの覚悟を見せればいいものを。舐められても困るが。とにかく、ドラコが純血だろうがなかろうが、その言動、態度が気にくわなかったのだ。

 後悔とは、派手にやりすぎたなの後悔である。ちょうどよいからとクィディッチ競技場を借りたら、観客がほぼそのまま残ってしまった。リーによる実況付きである。後戻りはできなかった。妙に盛り上がってしまったのだ。挙げ句、ドラコは「素人なんか」に負けて、優しい父上に買ってもらった大事なニンバス2001を地面に叩きつけ、走り去ったのである。

 ベンチ――補欠選手などの待機場――にいたグリフィンドールチームもとい双子は口笛を吹き、レイブンクローチームもといロジャーはすかさずデルフィーニをエスコートしようとし、どこからともなく降ってきた失神光線をステップを踏んで避けた。おそらく、ロジャーは踊りが巧いのだろうなと強いて意識し、失神光線がハッフルパフの観客席らしきところから飛んできた事実を考えないようにした。チョウは「あのバカ助に負けた屈辱が少しマシになった」と機嫌がよかった。

 名誉の問題である。デルフィーニは言われっぱなしにさせるわけにはいかなかった。よって正しいことをした。たとえ二月の戸外で、箒をかっ飛ばしてでもしなければならなかったのだ。外套を脱いで薄着。マフラーはなし。予備のスリザリンチームの衣装を着て、凍えながらであろうとも。

 案の定、シーカー対決の後、寝込んだ。その間に、シリウス・ブラックが二度目の侵入を果たし、なぜか逃亡した。

 あらゆる噂が流れた。デルフィーニは素晴らしい飛び手、逆らう者には容赦しない暴君、ドラコ・マルフォイをこてんぱんにした、あれがシーカーだったら脅威であった等々。シリウス・ブラックを手引きしたのではなどなど。ついでにレギュラスが元スリザリンチームのシーカーであったと噂が流れ、ブラック先生こと父は否定しなかった。やはり血筋でしょうかとどこかの生徒に訊かれた彼は意味ありげに口端を吊り上げるだけであった……という。

 純血、上流の家系はデルフィーニが養女だと知っているが、その他大勢は知らないのである。いちいち訂正しないのが父であった。たまたま、デルフィーニに飛び手の適性があっただけなのだけど。

 飛ぶのは楽しかった。うるさい子犬を黙らせることができたし、寝込んだことも、噂になったことも別にいい……とデルフィーニは思っていた。まったく甘かった。甘々であった。

 ちやほやされて、蝶よ花よと育てられ、安っぽい矜持だけを増幅させ、根拠もない自分は優れている、なぜなら育ちがよくて血筋もよいからと思いこんでいる者が、脆い矜持を滅多切りにされた。それも公衆の面前で。

 そういった者がどういう行動をとるか?

 すなわち自分よりも立場が弱い人間に牙を剥く。

 たとえば、マグル生まれの女の子に。

 ◆

 季節は春。だけれども吸魂鬼のせいで未だ冬。クィディッチ決勝戦が迫るとある日の図書館前の廊下。

 デルフィーニは水たまりを踏んだ。ぬるりとした感触。ドラゴン革の長靴、華やかに挿された銀糸とは対照的に、その水たまりは濁りきっていた。正体はインクである。赤に、緑に、青……黒。

 三原色である赤、青、黄を上手に混ぜ合わせれば黒に近いものはできる。しかし、まがい物の黒である。ましてや黄のインクがなく、まがい物の黒でさえ望めない。ただただ汚らしい芸術が広がるばかりであった。

 砕けた硝子、ぶちまけられたインク、散らばる羊皮紙に、本が何冊も。肩紐が切れた鞄が、力なく横たわっていた。その横っ腹は引き裂かれ、内に張られた紅の布が顔を覗かせていた。鮮やかなその色が、血のように思えた。思えて、ならなかった。

 デルフィーニは周辺に邪魔除けを施し、耳塞ぎ呪文も追加した。数分は稼げるはずだ。すべてを無言のうちに終え、息を吐く。さてどうしたものかなと一秒思案し、鮮やかで汚らしく、派手で無惨な光景の只中に両膝を突き、座り込む女の子を見やった。

「こういう神経症(ヒステリー)を起こすのは」

 五年生か七年生というのが通説なのだけど。

「学期末試験に気負いすぎなんじゃあないの」

 わざと軽く言う。俯いていた女の子が顔を上げ、茶色の眼がデルフィーニを捉えた。ハリー・ポッターの友人、三年生の学年一位、片や穢れた血と呼び、片やマグル生まれと呼ぶ魔女が唇を震わせる。

「レディ……」

 ブラック……と囁くように呟くハーマイオニー・グレンジャー。眼の縁が赤いのは、学期末試験の重圧のせいばかりではないだろう。髪はくしゃくしゃで、制服も似たようなものだ。明らかに余裕がなく、追いつめられている。

 仔狼がインクの水たまりに足を入れ、飛び跳ねるように廊下を走る。楽しそうで結構。ああ……可愛らしい足跡がところかまわず……。

 もう生後数ヶ月、デルフィーニが抱えて運ぶのは難しい大きさになっていた。が、中身はまだまだ子どもである。遊び道具を見つけてご機嫌であった。掃除が大変なのだけど……という憂いは押し隠し、手を振った。

「ブラックでいい」

 流れるように杖を振ろうとして、問いかけた。

「内輪もめか……どこかの愚か者が仕掛けてきたか?」

「証拠はないですし、不意打ちをされたから犯人も見ていません」

 デルフィーニの端的な問い――同情も哀れみもないそれに、グレンジャーは静かに答えた。顔はいささか青ざめていたが、声に芯が通った。感情的な問いかけでなかったのが、却ってよかったのだろう。三年生の才媛はそっと立ち上がる。途方に暮れたように廊下を見回し、ため息を吐いて鞄を拾い上げた。首にかかった金鎖がしゃらりと鳴る。その先には――輝く、小さな砂時計。

――馬鹿な

 デルフィーニは知らぬふりをした。グレンジャーがそっと砂時計を掴み、できうる限りさりげなく、襟の中に隠すのも見なかった。絶対に見なかった。跳ね回る仔狼を受け止め、インクまみれの足跡をつけられてしまったから。

 逆転時計なんてあるはずがない。こんな日常の一コマで遭遇していい代物ではない。神秘部にて厳重に管理されるべき危険物。もっと言えば管理なんて生ぬるい。破棄してしまうべきものである。どこぞの大悪が手にしたらどうなると思う?

 ああ、デルフィーニに矜持を傷つけられた後遺症か、ドラコがホグズミードでポッターの生首を見たと騒いでいたが……逆転時計に比べれば、ドラコの大騒ぎを信じるほうがたやすい。なんで一生徒が持っているのか。ありえない。

 逆転時計で犯人を特定して逆襲したら? と言い掛けて、寸のところでやめた。考えがまとまらない。散らかった思考を持て余し、考えるのが面倒になった。結局、こう言った。

「現場を保全して、マクゴナガルに言えば……どうにかしてくれると思うわよ。女の子相手にこんな……」

 声が尖る。男の子だろうが、女の子だろうが、と言うべきなのだが。体格でも力でも劣る者に対して、と思うと「女の子相手に」とどうしても言ってしまう。

「複数犯。男の子の声がしました。三人……」

 スリザリン寮に乗り込むわけにもいかず。マクゴナガル先生の手をわずらわせるのも本意ではありません。グレンジャーが唇を尖らせる。その双眸にふつふつと怒りがたぎる。

 デルフィーニは舌打ちしそうになった。十中八九ドラコどもである。いいや、クズどもである。なるほど? デルフィーニに立ち向かうのは怖いから、劣った穢れた血、ひとりぼっちの女の子を狙ったと。拘束して暖炉に放り込んでマルフォイの館に返送したほうがよいのではないか?

「じゃあ、いいのね?」

 証拠を消してもとまで言わずとも、グレンジャーは分かっているようだった。無言の了承を受け取って、デルフィーニは杖を振った。一、二、三でインクの溜まりも、仔狼の足跡という芸術作品も、砕けた硝子も消失した。散らばった羊皮紙や本はグレンジャーの膝元に馳せ参じ、行儀よく積み上がった。

 あとはグレンジャーが自分でなんとかするであろう。当の彼女は言葉を失っていたが。

「あの、今の無言……いいえ、ありがとうございます」

「どういたしまして」

 ちゃんとしている子である。ドラコよりよほど「きちんとした」両親に育てられたのだろう。スリザリンのレディ・ブラックにも礼を言うのだから。デルフィーニ様だのレディ・ブラックだの呼ばれ、敬遠され慣れていたので、素直な謝意は気持ちがよかった。礼を口にできるくらい、冷静さを取り戻したようであるし。なによりである。

 さあ、雑事は片づいたしとグレンジャーの横をすり抜けて、図書館に踏み入ろうとし――もちろん仔狼はついてこようとした。司書の許可はとってある。渋い顔をされたが知ったことではない――くるり、と身を翻した。鞄に応急処置を施し、持ち物を無理矢理に詰め込んだらしいグレンジャーが眼を丸くした。インク壷をいくつも割られたはずだというのに、鞄はいまにも裂けそうであった。

 デルフィーニはローブのポケットから大判のハンカチを取り出した。深い緑に黄金の花々があしらわれたそれを肩から掛け、前をブローチで留める。黒曜石。意匠は銀の狼といるか、そして星。金具は黄金である。

 訊かれる前に答えた。

「マダム・ピンスに絵の具遊びをしたと思われたくないもの」

 グレンジャーがデルフィーニの胸からお腹――ハンカチで隠されたあたりをちらりと見た。

「可愛らしいスタンプだと思いますよ」

「この世のなにものも、万人に受けるということはないのよ」

 特にマダム・ピンスにはね。

 精一杯重々しく言って、大事な用件を思い出した。

「なにかを勘違いしている純血の誰かだってそうよ」

 歩を進める。インクという遊び道具がなくなって、仔狼はくんくんと鼻を鳴らし、けれども主とは離れたくなくて、とことことついてくる。じゃあね、と言うようにグレンジャーに尻尾を振った。

 夜闇纏う双子の狼を祖に持ち、死をも喰らう死神犬と呼ばれた者どもの末裔は、マグル生まれの才女に許可を与えた。

「自称尊い者とは言うけれど」

 別に殴れないわけじゃないんだから。

 後日、父上にも殴られたことがないのに! と愚かな子犬が吠えたけれど、デルフィーニは一片の同情も寄せなかった。醜い穢れた血、勉強しかできない女、等々言って絡めば殴られるに決まっているだろう。馬鹿めが。

 

 

 さらに時が過ぎた。

 クィディッチ杯をグリフィンドールに奪われたスリザリンチームにも、炎の雷の尾を掴むというみっともない真似をしたのにもかかわらずポッターにスニッチを獲られたドラコにも、デルフィーニはお悔やみのひとつも述べなかった、とだけ言っておこう。

 クィディッチ杯の栄誉に値しなかっただけのこと、あまりの見苦しさにマーリンだって泣いている。

 お祭り騒ぎ、スリザリンもといスリザリンチームにとってはお葬式が終わり、学期末試験がやってきた。六月だというのに冬は続き、デルフィーニは朦朧としながらすべての試験をこなした。

 そして、医務室に入院した。

 疲労による熱、咳、倦怠感に苛まれ、ひたすらに休息をとった数時間。

 黄昏から夜に、星がきらめき、満月が冴えた光を落とすその数時間の間に、事態が進行しているなどと夢にも思わなかった。

 デルフィーニ、赤い眼の白いるかは、知らぬままに役目を果たした。まったくの偶然であった。

 月が中天に昇った頃――深更、デルフィーニは低い唸り声に起こされた。身体を休め、思考も澄んだ彼女は、寝台を囲ったカーテンを開いた。

「なあに、アル」

 鼠でも見つけたの、と囁く。片手に持った杖に灯りをともし、光の輪に浮かび上がった仔狼を見やる。伏せをして、前足でなにかを押さえつけていた。

「……猫じゃあるまいし」

 鼠と言ったが、言葉の綾だったのだ。まさか本当に鼠がいるとは思わないではないか……しかも、仔狼ときたら眼をぎらぎらとさせている。まるで外敵に対する態度であった。

 仔狼の尋常ではない様子。デルフィーニは用心することにした。寝台からそっと下りる。音もなく、夜よりも密やかに歩を進める。

 まずは鼠に全身金縛りをかけ、仔狼に前足をどけさせて、魔法の環を描いた。鼠が眼だけをぎょろぎょろと動かす。鼠にしては妙に人間臭いように思われた。

 時として、人間よりも動物のほうが優れている。己が抱いた違和感だけでは心もとない。よって、デルフィーニは仔狼に訊いた。

「ねえ、こいつ……ただの鼠じゃないの?」

 うん、と言わんばかりに仔狼が尻尾を振った。賢い狼。

 可能性を検討し、訊きたくないなあと思いつつ問いかけた。

「動物もどきかしら?」

 そうだよ、と仔狼が尻尾を振った。偉い狼。

 まったく事情は分からない。しかし、鼠が侵入者であり、賢い狼曰く動物もどきだという。医務室に侵入するような者である。眠っている患者が何人もいる場所だというのにやってきた、不審者である。変質者の可能性もある。

「なにかしようとしたら喉を咬み切ってやりなさい」

 仔狼に命じる。忠実な闇毛の彼は、眼を輝かせた。

 デルフィーニは捕らえた鼠に向かって杖を振った。

終われ(フィニート)

 輝きに包まれ、ねじれ、ふくらんだ影。出現したのは……。

 汚らしい、襤褸をまとった、ほぼ半裸の小男だった。縄の痕であろうか、あちこちに赤黒い筋がある。そこここの肉が削げていた。まるで、無理に拘束を解いたように。

 たまらずデルフィーニは悲鳴を上げ、主に無礼を働いた、と仔狼が獲物にのしかかり。

「――貴様」

 僕の娘になにをした。

 扉を叩きつけるように開け、杖を構えたレギュラスが星の眼を燃え上がらせてやってきた。

 仔狼に襲われ、出口を『双狼』紋持つブラック家の魔法使いに塞がれ、まさしく前門の狼、後門の狼。逃げ場を失った鼠ことワームテールは声なき声を迸らせる。

 仔狼にいたぶられ、もはや全裸秒読みの裏切り者の片腕には、闇の印が刻まれていた。

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