北塔から白み始めた空を見上げ、レギュラスはそっと息を吐いた。およそ一年もの間、ホグワーツを覆っていた霧は風に吹き流され、長い長い冬が終わった。
天から地へと視線を転じる。門から一台の馬車が出て行くところであった。
その後を追うように、闇色の影たちが宙を滑る。吸魂鬼はその数を大幅に減らしていた。とある魔法使いたちによって、狩られたのだ。
――正当防衛だ
致し方なかったのである。レギュラスたちだって死にたくはなかった。いいや、死ぬよりも惨い運命など御免であった。元を辿ればワームテールが悪いのである。十数年前に死んだふりをして隠れ、十数年後の今年、同じ手を使ったのだ。自らが裏切った、シリウス・ブラックの報復と、かつての「同志」たちの報復を恐れて。これからは臭い飯を食べることになるわけだが。
「――行ったようだな」
振り向きもせず、レギュラスは返した。
「監獄の食事はいかがでした?」
兄さん、と。
ふん、と鼻を鳴らす音。
「覚えちゃいないね」
本当に覚えていないのか、記憶を封じているのか定かではなかった。分かっているのは兄は生き延びたということだ。監獄の闇に沈められ、およそ十と二年の歳月を送った。正気を保ち、ものを口にし、諦めなかった。
「ワームテールは、早晩息絶えるでしょう。兄さん曰く、覚えちゃいない味の食事も食べられるかどうか……」
裏切り、逃げて、隠れ……どこまでも貪欲に生き延びようとした。ポッター夫妻を裏切り、罪を友人に着せて、ヴォルデモートが復活した暁には馳せ参じようとした。兄が脱獄しなければ、ワームテールは尻尾を出さなかっただろう。小狡く生きようとした薄汚い男は、夫妻、ひいては彼らの間に生まれた赤子の命を売り飛ばし、友人を裏切ったツケを払わされたのである。誰にって、悪戯な運命の女神に。
かつて一方は監獄に沈み、一方はのうのうと生き延びた。此度、一方が解き放たれ、一方が監獄に沈むことで、天秤は釣り合ったのだ。
「こんなにも、巧くいくとは思わなかった」
靴音。隣にやってきた兄は、壁にもたれかかる。白南風が、その黒髪を優しく撫でて行き過ぎた。
「そういう流れだったんでしょう」
ひとつひとつは偶然だ。
たとえば、ポッター一味がハグリッドに会いに行ったこと。動機は単純だ。学期末試験が終わったのだし、城に閉じこもるのもうんざりだし、ちょっと遊びに行くくらい構わないだろうと思った、とのことだ。分からないでもない。試験を終えた解放感は人を少しだけ無謀にするものだ。
神の御手は、鼠の姿をした真実を彼らの前に放り出してみせた。ハグリッドがポッター一味を招き入れ、いつもの通り豪快に扉を閉めた。その振動は、半開きになった戸棚から、茶器を滑り落とした。中でうとうとしていた鼠は、砕けた破片とともに転がり出た……。
「追いかけっこが終わってよかったじゃありませんか」
「俺はこの一年、なにをしていたんだか」
兄が嘆息する。その顔には、疲労の色が濃い。レギュラスと同じくほとんど眠っていないのだろう。レギュラスはちくちく言った。
「僕に感謝してほしいですね」
「ああ、ありがとう」
思ったよりも素直な返答であった。よくよく考えれば、兄はきちんと礼を言うし、良いと思ったものは良いと言う類であった。かつてのレギュラスのように相手が純血か否か、で判断するのではなくて。兄にとってそんなものはおまけでしかなく、だからこそグリフィンドール系と呼ばれる家門の一、ポッター家の嫡子と友人になった。人狼のリーマス・ルーピンとも友人になり、ワームテールことピーター・ペティグリューでさえも、兄の眼にはなにかしら良いところが映ったのだろう。それが仇になったわけだが。
「お前がいなければ、事態の収拾がつかなかったかもしれない」
「偶然ですけどね」
肩をすくめた。偶然が重なれば必然となる。レギュラスが脱狼薬を届けに行ったのは必然だが――魔法薬学の試験、その採点の手伝いをスネイプに頼まれていた。レギュラスは緊急事態につき、それをすっぽかしたのだ。本当にぎょっとした。ルーピンはいない、卓には地図があり、兄の名とワームテールの名があるではないか。しかもポッター一味と一緒。意味が分からない。
彼らが校庭の暴れ柳付近で消え失せ、ルーピンも遅れて駆けつけ消息を絶った。レギュラスは現場に急行した。トンネルを抜ければ叫びの屋敷。その後のことはあまり思い出したくない。ものすごく面倒だった。スネイプもやってきて事態は混沌とした。どうにか収まって、真実が開示され、兄とルーピンに怒り狂っていたスネイプは、一転してワームテールが真犯人であり、兄が濡れ衣だったことを「理解するしかなくなった」。
レギュラスはワームテールをきっちりと拘束し、失神呪文もかけた。脱狼薬をルーピンに飲ませた。途中で吸魂鬼に襲われるという躓きはあったものの、撃退した。ハリー・ポッターも火事場のなんとか力を発揮して、守護霊を出して貢献した。見事な守護霊であった。
「ワームテールは墓穴を掘った」
あなたは自由だ、兄さん。
レギュラスがそう言っても、兄は渋い顔をしていた。
「あわやだったけどな」
「なんとかなったでしょう」
冷や汗ものだった、とは言うまい。生け捕りにしたワームテールを城に連れ帰った。教師陣は絶句し、ダンブルドアは魔法大臣に連絡を取り……兄の処遇をどうするかで少々話し合い――なにせほぼ確定の真犯人がいようとも、ワームテールの自白を引き出していない。よって兄の容疑は完璧には晴れていなかった――隙に、ワームテールが逃げ出したのだ。鼠に変身し、肉を削ぎ落とすようにして拘束を破った。ダンブルドアはワームテールが変身したときのことも見越して拘束を編んでいた。が、生き汚い男の執念を甘く見ていたのだ。肉を削いでだめなら、骨を折っていただろう。腕の一本くらい犠牲にしていただろう。
恐怖と痛みがワームテールの判断を狂わせた。その手には一本のナイフがあった。このまま「我が君」のところへ馳せ参じるだけでは足りないと、ワームテールは小さな脳で考えた。なにか手土産がいるであろう。なにせ彼は闇の陣営からも裏切り者と見なされている……。
そうだ、医務室にはハリー・ポッターが眠っているではないか、と彼は思いついた。魔法族とはいえ、首を裂けば死ぬのである。手土産には十分すぎる。相手は無防備に眠っている子ども。そして、その子どもに「我が君」は敗れたのだ……。
「デルフィーニのお手柄だ」
ほんの少し、兄の声が弾む。レギュラスは沈黙した。ああ、脱走したワームテールを追いかけて、医務室に飛び込んだあの瞬間よ。レギュラスはうっかり死の呪文を放ちそうになった。悲鳴を上げる娘と、ほぼ全裸の変態だぞ? 始末するに決まっているではないか。変態が拘束され、魔法の環に放り込まれていること。仔狼に制圧されていること、娘に怪我がないことを見て取って、どうにか理性を取り戻した。
「……片づけなくてよかった」
「洒落にならないからやめろ」
真犯人死亡につき、事態はあやふやなまま終了。シリウス・ブラックの疑いは晴れずという展開もありえたのだ。ハリー・ポッター殺害未遂、猥褻物陳列罪の犯人に、スネイプが真実薬をぶち込んだ。ちょうどよい頃合いで魔法大臣コーネリウス・ファッジ、闇祓い局の長ルーファス・スクリムジョール、彼の部下キングズリー・シャックルボルトがやってきて、真実薬の仕事を見届けた。
私はリリーとジェームズを裏切った。ハリーのことはかわいそうだが、孤児として生きるよりはいいと思った。
秘密の守り人に選ばれたとき、してやったと思った。
私は悪くない。私を選んだのは彼らだ。私の裏切りを見抜けなかったのが悪い。シリウスにしておけばよかったのに。
大通りでマグルたちを殺したこと? 仕方なかったんだ。だって、大混乱を引き起こさないといけなかったから……手っ取り早かったんだ。私がしたのは道を吹き飛ばしたことだけだ。居合わせた連中が悪いんだ。私のせいじゃない。運が悪かった……。
ただの男の、自己保身にまみれた供述。己が生き延びるために他者を踏みつけにするその所業に関係者たちは青ざめた。騒ぎに起き出してきた――なにかが一つでもずれていたら、喉を掻き切られていたかもしれないハリー・ポッターは、ただ静かにワームテールを見ていた。意図せずに関係者となった娘、デルフィーニは吐き気をこらえるような顔をしていた……。
終わったことだ。死者は帰ってこない。時も戻らない。だが、間に合ったのだ。兄の罪は雪がれた。
自分のせいだと己を責める兄と違い、ワームテールは終生変わらないだろう。悔い改めることなどない。悔いたとしても、もっと巧くやればよかったという後悔。己可愛さの後悔であろう……。
「どうするんです? これから」
兄は、明るくなる空を眸に映した。少し考え込み、ぽつりと呟いた。
「リーマスを叫びの屋敷に迎えに行く」
そういう話じゃなく。兄にとっては当たり前なのだろうが。非合法の動物もどきになって、人狼の力になろうとしたくらいだから。レギュラスはそれを聞いて呆れ返った。呆れはしたが、まあ兄だしなで済ませた。そんな友情に篤い兄は、ワームテールの記憶を容赦なく改竄したようだ。非合法どうこうあたりを、魔法省に知られるわけにはいかない。
「……ハリーにホグズミード行きの許可証を書いてやらないとな」
俺は父親代わりだし。学期末試験終了の次の日が最後のホグズミード行きだろう? つまり今日だ! 堂々とホグズミードに行かせてやりたいじゃないか。
レギュラスは辛抱強く耳を傾けた。兄はいささか箍が外れているのだろう。無理もない。監獄で壊れなかったのが奇跡のようなものだ。
兄の横顔に、叔父のアルファードの面影が重なった。俺は叔父さんだからね、とかなんとか言っていた。デルフィーニのことも可愛がってくれた。レギュラスたち、本家の兄弟のことも可愛がってくれた。
「アルファードの墓参りに行きません?」
「それはもちろん」
兄の勢いが少し弱まる。ブラック家の星の眼で、レギュラスをそっと窺ってくる。
「墓参りに行って……用事を片づけて……ちょっと北米に行ってくる」
「なんで?」
いくらなんでも、急な話題転換だ。兄は眼を泳がせた。
「妻がいる」
「聞いてないですよ!」
「……正式には結婚していない。しようと思っていたがばたばたしてて」
「どこのお嬢さんで?」
「アスラン家」
「冗談ですよね」
北米の名門である。スカウラー狩りで名を馳せ、たしかMACUSAの設立にも貢献。たしかあちらの「はじまりの闇祓い」を輩出……だったか。つまり純血過激派ブラック家とは対極である。祖ははっきりしないが、数百年前英国を出た一族だとか。
「おめでとう。お前、実は叔父さんになっている」
なるほど。アスラン家の令嬢との間に一子あり。
「そういうことは早く言え」
言ってる暇がなかったんだ、と兄はぼそぼそと呟いた。レギュラスは頭痛をこらえた。さらなる爆弾が投下され、レギュラスは北塔から飛び降りたくなった。
「よろしくしないでくださいよ」
兄の妻。実はヴォルデモートの娘。つまり兄の子はヴォルデモートの孫にあたると。ちなみにヴォルデモートの記憶にはない、らしい。
「そんな軽々しく開示しないで」
「ベラトリックスの子をわざわざ引き取って育てるくらいだ。お前は血縁には甘い」
得意そうに言う兄。レギュラスは思わずこう言った。
「そりゃあ、あれの子ですけど……」
「なにを隠している?」
「デルフィーニは僕の子です」
「お前とベラトリックスの?」
「あれと番うくらいならマグル生まれと番うほうがいいですね」
さらりと返した……つもりになる。が、兄は容赦してくれなかった。
「吐いて楽になれ、弟よ」
レギュラスは観念した。こっちは兄の秘密を握っているのだし、もはや運命共同体みたいなものである。仕方があるまい。いざというとき、デルフィーニのことは兄に託そう。
「デルフィーニはね」
赤い眼の白いるかなんですよ。本当は。
ぼかして伝えても、兄は即座に理解した。ため息を吐いて天を仰ぐ。ややあって、彼は囁いた。
「もしもの時は俺……アスラン家が引き取る。話を通し――いや、」
その前に会いに行かなきゃだが。殴られるよなあ。
兄は星見ではない。そして先視でもない。が、しかし彼の言葉は現実となった。
数時間後、ホグワーツに来客があった。
北米の地よりやってきた、黒髪に群青色の眼をしたその佳人は、ブラック家の男の頬をひっぱたき、勢いのままに抱きついたのだ。
「大遅刻なんだから」
「悪い」
玄関ホールにて熱い抱擁を交わす、ブラック家の男とアスラン家の女の姿は多くの生徒、教師に目撃され――のちに詩歌となるのだけれど、それは別の物語である。
城にて劇的な再会がなされているなど露知らず、デルフィーニは燦々と陽が降り注ぐホグズミードを散策していた。
賭けに負けたからである。騒動のあと、吸魂鬼は去っていった。よって、セドリックとの約束を果たさなければならなかった。たとえ、シリウス・ブラックが冤罪だったと明らかになって数時間であろうとも、医務室に変態が侵入して騒動に巻き込まれようとも、約束は約束である。
「よかったのに」
色々あったんだろう? と尋ねてきたのはセドリックだ。窮屈なネクタイを外し、ローブを脱いで、いつもの優等生然とした雰囲気が薄らいでいた。
「ホグワーツでは色々あるものよ」
大通りを行く生徒たちが、デルフィーニたちをちらちらと見て、ひそひそとなにかを囁く。なにを言われているものやら。
「試験は終わって、吸魂鬼はいなくなって、いい天気。最高じゃない」
誘ったのはあなたでしょうと付け加える。二人の背後からそうだよね、と仔狼が吠えた。厳密にはこれは逢い引きではない。だって仔狼もいるし。ただの外出である。
「二年前は急に消えて、去年も急に消えて、今年は医務室にいたけど、死喰い人に侵入され!」
僕の寿命が縮む! とセドリックが吼えた。珍しいこともあったものだ。仔狼は楽しそうにきゃんきゃんと鳴いた。通行人の視線が痛いこと。
デルフィーニは答えずに、彼の手を引いた。
「お腹が空いてきちゃった」
『三本の箒』に行きましょうよと。
これはただの外出だ。だから、お洒落な喫茶店には行かないのだ。
デルフィーニは闇より深い黒の血の主。レギュラス・ブラックの子。そして怪物と怪物の子。
セドリックのようなまっとうな男には釣り合わないのだ。
「そうやって誤魔化す」
低い声。手を引かれ――いいや引き寄せられ、抱擁される。
「スリザリンのデルフィーニ」
レディ・ブラック。
「僕には君を心配する権利もないのか?」
セドリックは、ここがホグズミードで、大通りで、たくさんの観衆がいるのだと分かっていた。十分すぎるほどに理解していた。が、役にも立たない良識や、羞恥心は投げ捨てた。彼女のそばに誰かがいると伝えることが大事なのだ。惹かれ、苛立った末の衝動的な行いであることは否定しないが。噂になるのは大歓迎である。品行方正なセドリックという手札を喜んで使ってやろうとも。ブラック家のお嬢様だから妙な眼で見られ、一部のマグル生まれからは怖がられ……している彼女の悪評を払えるのならば、優等生の肩書きも無駄ではないのだ。
「私たち、ただの友達でしょう」
セドと彼女が囁く。初めて愛称で呼ばれたな……と記念すべき一回目をセドリックは噛みしめた。長かった。いつになったら鎧に隙ができるのかと思っていた。忍耐こそ力である。
「そう思いたいなら思えばいいさ」
デルフィー、とセドリックは返した。
周りで黄色い声が聞こえるが遮断した。離してと言われないのをいいことに、抱擁を続ける。彼女曰く友達の抱擁を。
さて、どうしようかなと考える。
たぶん、彼女の出自はややこしい。まね妖怪が化けていたその姿を、セドリックは見てしまったのだ。
黒い髪に赤い眼の男。そして黒い髪に灰色の眼の女。
子を憎み、殺そうとしていた。生み出してやったのにと詰り、出来損ないと責めていた……。
セドリックは聞いたことがある。
『名前を言ってはいけない例のあの人』が赤い眼をしていると。それはとても美しく、禍々しい色なのだと。
禍つ星の彩、と謳われるそれをセドリックは確かに見たのだ。
だが、それがなんだという。デルフィーニが『例のあの人』の子だろうと構うものか。
セドリックが惹かれたのは、なんてことないことを親切だと言い、丁寧に礼を言う子。病弱だろうがそれに甘んじず、誇り高く顔を上げる――。
デルフィーニ・ブラックという女である。