こちらは特に問題もなく。ひげのお方も動かず。特派員は再びポッターを標的にしたようです。
便せんに報告を連ね、黒の封蝋――呪いをしみこませたもの――を捺す。父以外が封印を破れば呪いが降りかかるように。なおかつ手紙が燃えるように仕掛けてあった。他愛もない報告だが、念のためだ。
――別に嘘は書いていない
カルカロフにこれといった動きはないし、リータ・スキーターという記者がポッターで荒稼ぎしているのは事実である。彼女はクリスマス以降に森番のハグリッドが半巨人だという「告発文」を書いたが、たいして読者の心を掴めなかったようで、手堅くポッターを題材にしている。
手紙をローブのポケットに入れ、狼を促して立ち上がる。三月に入り、いささか寒さはやわらいだ。しかしデルフィーニにとってはまだまだ寒い。よってマフラーをゆるく首に巻いた。エメラルド色の綺麗なそれを。そろりと上等な毛糸を撫で、唇を引き結ぶ。じわじわと顔が熱くなるが、努めて無視した。姿見に身を映し、顔が赤くなっていないか確認する。大丈夫だ。どこか冷たい美貌……と評される魔女の内心は表に出てはいない。
「……セドが悪いんだから」
小さく呟いて、息を吐く。唇に触れそうになって、かろうじて思いとどまった。
自室を出て、談話室に向かい、寮の外へ。ふくろう小屋へと行く途中、何人かの男子に声をかけられたがかわし、時に隠し通路も使い、やっとのことでふくろう小屋へ到着した。森ふくろうに手紙を託し、薄汚れた壁にもたれた。
「――頭の悪いやつが多いこと」
主の呟きに、狼だけが尻尾を振って応えた。デルフィーニは彼の首をかいてやり、重いため息を落とした。父に送った手紙を思い返す。特に問題はない。細かい問題はある。嘘は言っていない。と、いうより言っても仕方がないのだ。
デルフィーニとセドリックが交際しているのは明らかなのに、交際を申し込んでくる馬鹿がわいているとか。湖底から助け出された「姫君」としてデルフィーニは見られており、一部の「見栄えのいい女」「守りがいのありそうな女」を欲しがる頭が空っぽな連中が群がっているのである。やつらをまとめて湖底に沈めるかどうか、デルフィーニは迷っている。三月の湖では。少しぬるいだろうか……。血も凍るほど冷たい水に沈めても、ばちは当たらないだろう。
――どうしてこうなった
頭を抱えたくなる。この展開は予想していなかった。ダンスパーティのパートナー、おまけに第二の課題の人質だったのだ。勝算――略奪の可能性など万が一にもないと諦めるし、恥知らずにも交際を申し込まないだろう。ありえない。おまけにデルフィーニは「セドリックは本命でよそに何股かかけている」とか「代表選手を陥落させた目立ちたがり屋」とか「純粋なセドリックをだましている」とか陰口を叩かれている。おそらく振られた腹いせに男子があることないこと言い、一部の女子が便乗しているのだと思う。それこそ、せいぜい一割、それかもっと少ないだろう。男子も女子も、平等に頭が悪くて陰湿な連中はいるのである。
デルフィーニとセドリックの交際を快く思っていなかった連中の一部、もっといえばハッフルパフ生の一部は第二の課題を経てさすがに黙ったようなのに。もっとも、ザカリアス・スミスはまだなにか言っているらしい。ハンナ・アボットとスーザン・ボーンズ情報である。彼女たちは交際反対派ではなく、以前からアーニー・マクミランやマグル生まれの男の子あたりを諫めていたようだ。だから彼女はいい人だってネビルが言っていたんだから! いい加減にしたら? と彼女たちがマクミランたちに吠えているのをデルフィーニは目撃してしまい、いたたまれなくなって、とある廊下から離脱したのである。それ以来、廊下ですれ違えば挨拶くらいはするようになってしまい……ハッフルパフ情報をもらっている。ザカリアス・スミスは寮内でも嫌われ者だとか。どうでもいい話である。
一方ではデルフィーニへの態度が軟化し、一方ではあることないこと言いふらし、といささか面倒なことになっている。声の大きい一部のことはやり過ごすしかないのだろう。反論材料などいくらでもある。デルフィーニが何股もかけるような――嫌だな下品で――やる気と体力の持ち主かどうか、とか。デルフィーニはセドリックを陥落させた覚えはないとか。セドリックが純粋な男か? とか。
――あんな
あんな……酸欠になるような……口づけをするような男のどこか純粋だ。温室育ちのお坊ちゃんではないし、火をつけると拙い類の男なのである。
第二の課題の後、医務室でデルフィーニは失神した。呼吸を忘れるほどの激しい接吻のせいだ。酷い男である。後にお見舞いに来たセドリックに言わせれば「君があんなことを言うから」らしいが。ふざけている。眼を逸らし、妙に恥ずかしがりながら言うな。外面はいかにも優等生、品行方正、人畜無害だが、中身はとんでもない。ただの人畜無害男なら、代表選手に選ばれていないだろうが。
偽優等生のところにも交際希望の女たちが群がっているようだ。デルフィーニとセドリックはそのあたりのややこしい話をしていないが、だいたいの動向は掴んでいる。嫌でも目撃するのだから仕方がない。
セドリックから明日のホグズミード行きのお誘いがあり、デルフィーニは受けたけれど……色々なことにうんざりしたセドリックが、二人の仲を見せつけようと大通りで接吻なんて仕掛けてこないだろうな、と危惧している。第二の課題で十分見せつけただろう。
第二の課題だって、とデルフィーニはしゃがみこんだ。人質になったのは不可抗力である。前夜に急に呼び出された時点で逃れようがない。ダンブルドアから「魔法の眠り」について聞いて、ああ校長が出張ってきたということは、人質確定だなと観念した。マクゴナガルはデルフィーニを心配して「もし気が進まないのなら……ハッフルパフ生の誰かを」と言ってくれたが。
――冗談じゃないと思った
それは確かである。ただ「引き受けます」と言えばよかったものを、うっかり「人質として最も価値があるのは私ですから」と口が滑ったのが最悪だった。グレンジャーと、フラーの妹のガブリエルが――ガブリエルは多少は英語を解するらしい――きらきらした眼でデルフィーニを見るものだから、居心地が悪かった。たぶん、ロン・ウィーズリーと張るくらいに。なにせ人質三人が女の子で、一人だけ男の子なものだから。
デルフィーニは間違ったことは言っていない。家族は別として、現在のセドリック・ディゴリーが死力を尽くして救出するのはデルフィーニ・ブラックである。彼のことだからその他大勢のハッフルパフ生が人質になったとしても義務を果たすだろうが……セドリックの箍を外せるのはデルフィーニで、誰にもその座を奪わせるなど、考えただけで腹が立った。
まさか水魔に騎乗して課題に挑むなんて思っていなかったし、あらゆることをそっちのけでデルフィーニを医務室に運ぶなど予想外だったが。挙げ句に……挙げ句に……あれであるし。
なんにも問題はないとも。父に報告することはない。第二の課題の後、三日ほど入院したことも言っていない。知らなくていいことだ。もちろん人質になったことも言っていない。交際のこの字も言っていない。セドリックの家出騒動で察しているだろうけれど、知ったことではない。デルフィーニとセドリックが週刊魔女や日刊予言者に書き立てられれば、父もなにやら動くかもしれないが――あれらの標的はポッターである。
デルフィーニは立ち上がる。目眩をこらえ、よろよろと歩き始めた。あと三ヶ月もすれば普通魔法試験だというのに、勉学に集中するどころか、である。幸い、ポッターのように世間の注目を集め、ああだこうだ言われているわけではない。彼よりはマシである。ただ、その原因が愚かな又いとこにあるのが、頭の痛い問題である。
そろそろと階段を下りる。パーキンソンの誇らしげな顔ときたら。昨日、デルフィーニは『週刊魔女』を彼女から渡された。なんでも献本としてもらったとかで、寮生に配り歩いていたのだ。なぜ献本を受けたかは下品な記事を読めば明らかであった。
十四歳の密やかな胸の痛みに関する、下劣な内容であった。ポッターの心臓が不規則に脈打っている話ではない。恋の話であり、実質は十四歳のポッター少年……へ注目しているように見せかけた「マグル生まれ」のハーマイオニー・グレンジャーを貶める記事であった。
パーキンソンはインタビューに答えただけだという。彼女はこう言った。「レディ・ブラック。あなたとディゴリーはそりゃあお似合いですけどね。グレンジャーとクラムじゃ釣り合わないわよ。おまけに代表選手のポッターといつもグレンジャーはべたべたしているじゃない。なんだか怪しいって言ってなにが悪いの。以下、五行ほどグレンジャーに関する悪口」と。パーキンソンの隣で愚かなる又いとこが力強く頷いて「君とディゴリーが世間の冷たい風にさらされなくてよかったじゃないか」とほざいた。デルフィーニは確信した。記者に接触したのか、記者が接触してきたのか定かではないが、パーキンソンにインタビューに答えるように促したのは又いとこだと。
デルフィーニは壁を殴った。かすかな音とともに、亀裂が入った。ふくろうたちが騒ぎ、狼が一声吠えた。デルフィーニは拳の痛みに呻き、その気になれば石壁に拳大の穴を空けられる可能性を見い出して、戦慄した。なぜ神はデルフィーニにいらない力を授ける一方で、か弱い白いるかをお作りになられたのか。蛇語の力や無駄にある魔力よりも、健康がほしかった。
すりむいた拳をさすりつつ、階段を降りきった。ドラコとパーキンソンの意地の悪い顔が浮かんでは消える。考えなしにもほどがある。ポッターで稼ぐ記者も、ポッター憎しなあまり馬鹿をするドラコも、ドラコに好意があるから、彼の意に沿うように動くパーキンソンも。幼稚な振る舞いに苛ついているのもある。それに加え、やつらが――やつらでいいだろう――なにもわかっていないのに嫌気が差す。
現在、ホグワーツ――ひいては英国主催で三校対抗試合が開催されているのだ。だというのに開催国が、自国の代表選手についてあれこれ書き立てるわ、マグル生まれを貶めるわ、そのマグル生まれがおそらくダームストラングの代表選手と交際しているわ、ダームストラングの代表選手がよりにもよってブルガリアのクィディッチ選手だわ……なのだ。外から見れば「自国の選手は守らない、マグル生まれ差別が激しく、他国の選手のことも書き立てるどうしようもない国」だろう。頭の悪いドラコたちはともかく、記者ことスキーターは大人だ。自分の記事がどういった影響をもたらすかくらい、考えてもいいだろうに。稼げればいいのだろう。下品なことだ。そして週刊魔女やら日刊予言者やらを読んで喜び、あるいはポッターに同情し、グレンジャーを悪女と思う者は軽蔑の対象である。
拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込むほどに。
「……一番、蔑むべきなのは」
デルフィーニ自身だ。
ポッターにばかり注目が集まって、安堵している。生き残った男の子は本来もっと健やかに育っているべきなのに、こんな風にあることないこと言われているというのに。
助かった、とどこかで思っているのだ。
デルフィーニは。己の安寧を手放したくないと思っている。たとえ罪のないポッターを踏みつけにしてでも。
本当はセドリックと別れなければならないとわかっているのに、思い切れない。彼の安寧を願うのならば、道は一つだというのに。
デルフィーニの肉は『例のあの人』とベラトリックスからつくられたもの。流れる血は悪徳の色。
セドリック・ディゴリーを巻き込んでいいわけがないのだ。
デルフィーニは間違った道を進んでしまった。引き返すのならば今だというのに。
どうしても、正しい道を選べない。
きっと息をひそめてひっそりと生きて、ひっそりと死ぬのが正解だというに。
ひとりぼっちは嫌だと心が訴える。
真っ暗闇に浮かぶ、導の星を求めてしまう。
正しさだけでは、人は生きてはいけないのだ。
いくらなんでも素っ気なさすぎないか。
森ふくろうから手紙を受け取ったレギュラスは、簡にして要なそれを一瞥し、ため息をこらえた。
問題ないわけがないだろう。第二の課題の顛末は知っている。マクゴナガルから手紙を受け取った時は、どうしてくれようかと思った。が、しかし。マクゴナガルに罪はないわけで、彼女はきちんと――事後であるとはいえ――報告をよこしてくれたわけだ。八つ当たりするのは筋が違う。ダンブルドアに吠えメールを送ったところで、柳に風と受け流されるであろう。代表選手の人質になるか否か確認した。君の娘は是と言った、と。
だからといって虚弱な娘を二月の湖に沈めていいわけがあるか。しかもその後入院しただと? 事前に話を持ちかけられてさえいれば、レギュラスは断固として断ったのに。それこそエイモス・ディゴリーかその奥方をホグワーツに放り込むくらいはしたのに。
レギュラスが第二の課題からこっち、勝手なことをする校長に苛立っているというのに、娘ときたら「問題ありません」で済ませた。もはや、なにに怒ればいいかわからない。おそらく、ほぼ確実にセドリック・ディゴリーと「親しい」のだろうが、レギュラスが口を挟んでいい問題ではないだろう。少なくとも、ヴォルデモートの娘としてどこぞの後継者候補と無理矢理に番わされるよりはマシである。そんな未来もありえたのだ。
――いいや
レギュラスは眉根を寄せた。ありえた、と言うのは尚早だ。この十三年、事態は膠着し、懸念事項は凍結状態だっただけだ。
ヴォルデモートは生きている。アスラン家からの情報によれば――アスラン家から兄のシリウスに、シリウスからレギュラスにと伝達された――どうやら英国に戻ってきているようだ。どういった状態かは不明。目的も不明。中途半端な、人間未満が帰還したところで……ハリー・ポッターを殺せるとも思えない。
三校対抗試合に乗じて、生き残った男の子を亡き者にするつもりか、というのが兄の意見である。断定はできないが、とこれまた慎重に兄は言ったが。
――何かが妙なんだよな
かすかなひっかかりを覚え、けれども名付け子の活躍が誇らしい。そんな彼は北米と英国を行ったりきたりしている。クリスマス頃は北米に行き、第二の課題が近づいて一旦英国に戻り……三月現在、またもや北米に行っている。結婚式の準備のためである。ヴォルデモート、ひいては闇の陣営との戦いで結婚式が延びてしまい、息子を先に授かることになり、おまけに冤罪でアズカバンに放り込まれ、無期限の延期となっていた。レギュラスは祝いの品をルーピンに託すつもりでいる。兄の晴れ姿に興味はない。さっさと式を挙げていればよかったものを。親友のジェームズ・ポッターはもとより、友人一同にもレディ・アスランとの付き合いは秘密にしていて、息子の誕生も知らせていなかったそうだ。
断琴の交わりも脆いものだ、とレギュラスは皮肉った。兄は苦い顔をした。
――あの当時
誰が敵で誰が味方かわからなかった。たとえジェームズでも、リーマスでも……あいつの出自を知れば……。不死鳥の騎士団に亀裂を入れるわけにはいかなかった。
皮肉ったことをレギュラスは後悔した。兄の懸念はもっともであった。それに、気持ちも分かったのだ。レギュラスとて「ヴォルデモートの娘」の関係者である。
「どういうつもりか」
かつて、誇らしさとともに口にしていたその呼称を囁いた。
我が君、と。
わざわざ英国に帰還した。三校対抗試合をひっかき回した。すべてはハリー・ポッターを始末するためか。
レギュラスは眼を瞑る。
「それにしては」
あの兄がひっかかりを覚えたのだ。なにかがあるのだろう。それがわからないのが困るのだが。
「……それにしては」
もう一度呟く。無意識の領域に思考をゆだねる。考えても仕方がないときは、勘に頼るべきだ。
「彼は巧くやりすぎている」
十四歳。他の代表選手より若く、修得している呪文も少ない。途中で脱落するか、怪我――事故に遭う確率が高い。
単に、事故を警戒して事に当たっているから……とするのが順当だ。不安、懸念というのは知らずに回避されているものだ。心配事の八割、九割は実際には起こらないと言われている。故に、ハリー・ポッターが第一の課題、第二の課題をやりとげ、現在一位なのも不思議ではない、と理屈を組み立てることはできる。
兄は名付け子のことを可愛がっている。親友の忘れ形見なのだから当然だ。だからこそその可能性を口にできないし、意識の端にも上らないのだろう。
ハリー・ポッターを導く誰かがいるのでは、と。
「――いや」
レギュラスは首を振る。平仄が合わない。ヴォルデモートの目的は、生き残った男の子を殺すことだ。優勝に導いてどうする。幽霊でも人間でもない存在が、彼を殺そうとするのならば事故の体で始末するのが手堅い。ハリー・ポッターを始末したその後で、復活への道筋を辿るのが妥当である。アスラン家から、ヴォルデモートは仮の肉を得ているやもと聞いている。肉を継ぎ接ぎにして器をつくることは可能だ。ただし、不完全で不安定な代物になるだろう。魂を裂いてまで生き延びた男は、完全な肉体を求めるであろう。つまり……デルフィーニも危険ではないか? ハリー・ポッターはダンブルドアの管轄だから放置である。娘のことが心配なあまりわけのわからない妄想に囚われているのかどうか、レギュラス自身にも判別がつかない。
レギュラスは悩んだ。三十秒ほど悩んだ。
こんな危惧をダンブルドアに話したところで……。そもそも、レギュラスはあの男のことをあまり信用していない……。今更デルフィーニの正体を明かすのは……。諸々の経緯を――レギュラスが元死喰い人だと明言したところで、庇護が得られるとは限らない。兄もダンブルドアに告げていないようだし。レギュラス・ブラックは死喰い人だと公になっていないだけの存在である。なにせ悪の功績もとい、証拠がなにもない。ただヴォルデモートの話し相手をしていただけの、いわばトロフィーであった。兄としても実の弟を売り飛ばしたところでしょうがない、とわざわざ言っていないのだろう。仮にレギュラスが殺しの一つや二つをしていれば、問答無用で捕まえてダンブルドアのもとへ引きずって行っただろうが。
レギュラスは兄にわざわざ己が元死喰い人だなんて言っておらず、兄もまたわざわざ訊いてこない。下手に触れられない問題である。なので、レギュラスがダンブルドアのローブの裾に接吻して助けを求めることはない。むしろ、情報を握っているのはレギュラスだ。庇護を求めるのならば『分霊箱』の情報と引き替えだ。スリザリンのロケットの残骸を突きつければ、ダンブルドアも納得するだろう。レギュラスがヴォルデモートに反したと。
「念のためだ」
いますぐ何かが起こるとは限らない。この不安は当たらない。それでも、もしもは起こり得る。
違法だろうが関係がない。姿くらましを仕込んでおいたほうがいい。
レギュラスは便せんに字をしたためた。
そろそろ顔が見たいから、イースター休暇に帰ってきなさい、と。
「よくできました」
時はイースター休暇。処はブラック本家の邸――デルフィーニ・ブラックの室に、それはもう満足そうな声が響いた。
デルフィーニは寝台に横たわり、声の主を横目で見た。拍子に、額に置いた濡れタオルがずれる。彼は手を伸ばし、そっとタオルの位置を直した。
「……来年には姿くらましができるようになるのに」
受講料が惜しいの? と皮肉を言う。寝台脇の椅子に腰掛けた父は、鼻を鳴らした。
「たかだが十二ガリオンを惜しむものか」
父は淡々と言った。杖一本分と少しのガリオンなど、端金と仰せだ。ブラック家は富裕である。おそらくマルフォイ家よりも。純血名門ブラック家。王族を自称できるだけの格がある。昔々に比べれば落ちているが……とは父の言である。
後継者争いで沈みかけ、子ができずに断絶しかけ、女ばかりが生まれ嫁いで、あるいは病で倒れ……等々、家が沈む理由など数多ある。ブラック家はあらゆる手を使って障害を乗り越え、断絶を回避してきた。
約六百年前に起こった「名前のない戦」あるいは「封じられた戦」と呼ばれる大戦で深い傷を負っても生き延びた。英国は荒廃し、ブラック家より上位にあった「王」は滅んだ。「王」が戦を仕掛けた相手も滅亡し、父曰く「泥沼になった挙げ句、誰も得をしなかった最悪の戦」であった。ブラック家及びいくつかの名門が生き残ったのが奇跡である、とのことだ。
何歩か後退し、時に停滞しながらもブラック家は血を繋ぎ、本日まで健在である。
「逃亡手段を持っておくべきだ」
心配しすぎでしょう、と鼻で笑う。その途端に咳き込んだ。忌々しい、虚弱な身体め。姿くらまし――正確には姿くらまし・現しの練習をしただけでこの有様。帰ってこいと言うからその通りにしたら、待っていたのは特訓だった。数日、みっちり仕込まれて転移の術をものにした。本来ならば三ヶ月ほど――約十二週間はかかる修得への道筋を、父は顔色一つ変えずに縮めてみせた。これだから優秀な親を持つと苦労するのだ。
「ダンブルドアはマッド・アイを呼び寄せて配置しているのよ」
三校対抗試合でポッターが選ばれるという事故はあったけれど。デルフィーニはぶつぶつと呟いた。妙なことは多い。だが、デルフィーニに直接害があるかといえば、ない。
「あれが英国に戻ってきている。たぶん、それなりに動ける……。バーサ・ジョーキンズの血を一滴残らず抜いて、力を付けたんだろう」
アスラン家から耳打ちされた、と父は言う。彼らに耳打ちしたのは各地に潜ませた草……ではなく『妖女シスターズ』だとか。
「よりにもよってなんでアルバニアの旅籠……」
経緯がおかしい。世界を股にかける『妖女シスターズ』。もちろんアルバニアにだって行く。たまたま泊まった旅籠にて、亭主に頼まれた。あなたがたはさぞかし名のある騎士……実は行方しれずの者が……いいや、これでは冒険ものの小説になってしまう。
実際のやりとりはこうだ。
まさか『妖女シスターズ』がここに泊まるなんて。あのおしゃべりな魔女がいれば、噂があっという間に広がって、ここは満員御礼になっていたに違いない!
そこで『妖女シスターズ』はこう答えた。否、訊いた。噂が広がるのは大歓迎。その魔女はどこにいる?
亭主は答えた。荷物も置いて、行方をくらましたんで。やたらと顔色の悪いのと、連れ立って行っちまって。
あとは「行方不明の魔女」を探しに行った『妖女シスターズ』が歌うであろう。アルバニアの森にて、と。
「『妖女シスターズ』は名のある家から荒屋まで、どこにでも出入りするからね」
父は肩をすくめた。彼らはいわゆる吟遊詩人、それか道化。身分の外にいる者たちさ、と。
「……バーサ・ジョーキンズから血を抜いて?」
デルフィーニはげんなりした。親愛なる自称父親はどんなことをしても生き延びたいらしい。魔女をひっかけた「顔色の悪い男」は亡者を動かしたか、はたまた不幸な誰かを乗っ取ったかしたのだろう。つまり、中身は『例のあの人』である。そして新鮮な血を搾り取った……。
「できれば純血の血を抜きたかったに違いないが」
ヴォルデモートは泥水すらもすするくらい追いつめられている。父は実にさらりと言った。純血主義を掲げながら、いざとなればマグル生まれだか混血だかわからない「泥水」だって口にする。誇りのために死にはしないと。あれに誇りだの矜持だのはないだろうが。
「そして私に会いに来る」
乾いた笑いが漏れた。実の父娘の感動の再会ではないだろう。デルフィーニは『例のあの人』の予備、都合のよい器だ。二年生の時、乗っ取られかけた恐怖は忘れようにも忘れられない。デルフィーニのことを娘だなんて思っていない。ただの駒、使えるかどうかが大事なのだ。
「もう入り込んでいる可能性もある」
少なくとも、手の者はホグワーツにいるだろう。炎のゴブレットを騙した者が。
「ポッターねえ……」
呟く。じわじわと熱が上がる。彼に関してはまあまあ他人事である。競技中の事故に見せかけてポッターを殺そうという算段なのだろう。それくらいしか考えつかないといったほうが正しいか。
「審査員の誰かが服従の呪文にかけられていて」
ポッターに死の呪文を……。病気で弱っているらしいクラウチなんて、いかにも操られそうじゃない。デルフィーニは皮肉っぽく口にする。名門クラウチ家の魔法使い。息子は死喰い人。ロングボトム夫妻を壊した連中の一人で、獄死したと聞いている。よくもまあ、犯罪者を身内にもった男が、デルフィーニに冷たい眼を向けてくれたものだ。はっきり言うと嫌いである。高所恐怖症のウィンキーに酷なことを強いたし……そのくせ貴賓席に現れなかったし。いくら主従関係を結んだからといって、あの仕打ちはないだろう。挙げ句にウィンキーを放逐したのだ。
ウィンキーのほうは未だに「ご主人さま」に未練があるようだが、あんな男のことは早く忘れろと言いたい。どうせ言い聞かせたところで妖精の心まで好きにはできない。ブラック家の「お嬢様」に仕えているうちに、クラウチ家のことを忘れてくれればよい。ウィンキーはよくやってくれている。クリーチャーとは大違いだ。
クリーチャーは父の前ではいい顔をしているが、その中身は醜悪そのものだ。どこが屋敷「しもべ」妖精だと言いたい。ただの意地悪な爺である。デルフィーニがウィンキーを拾ったことだって気に入っていない。直接ウィンキーになにかをするわけではないが。クリーチャーとウィンキーの仲はけして良好ではないとだけ言っておこう。ブラック家の主たる父は、妖精たちの関係なんてどうでもいいようである。もし父があの夜、闇の印が現れた現場にいたら、ウィンキーのことを拾わなかったろう。命令を果たせなかった妖精で、その所有権はクラウチが握っている。つまり、クラウチが所有物をどういう扱いをしようが、それは当然の権利である、と。転じて、マルフォイ家に仕えていたドビーに多少の慈悲を示したのは、見知った妖精だったからと気まぐれが少々であろう。けして妖精全般に優しいわけではない。伯父のシリウスのほうが懐が深い――もとい、妖精を対等に見ている節がある。ドビーのことを愉快な妖精だと評し、快く引き受けたし。
「先のことは見通せない。なにせ手元にある情報が少ない……」
だから、姿くらましを仕込むくらいしかできないわけだ。
父の静かな言に、思考の渦から引き戻された。タオルを取り替えられる。そっと髪を梳かれ、デルフィーニは眼を閉じた。倦怠感が身を包む。眠りに滑り落ちようとしたそのとき。
「……学生の
それとも明かすか、じっくり考えておきなさい。
温度のない声が告げる。デルフィーニは瞼を押し上げた。身を乗り出し、デルフィーニを見つめる眼は星の色。涼やかに煌めく灰の色彩。セドリックの灰とは違う。厳しく、デルフィーニの内まで見通すようなまなざしだった。
「付き合うなとは言わないのね」
「父親に命令されてやめるくらいなら、最初から「お付き合い」とやらをしていないだろう」
父は吐き捨てるように言った。デルフィーニはなにも言い返せなかった。誰かのせいにはするな、ということだろう。自分が選んだ道なのだから、責任を持てということだろう。怪物と怪物の娘を引き取って、愚痴のひとつも言わず育てた男なのだ。その言葉には芯が通り、重みがあった。耐え難いほどの重みが。
「どうせ、私の正体を知れば――駄目になるに決まっている」
戯れを続けるか。それとも関係を絶ち切るか。後者のほうがいいのだ。わかっている。それでも、考えただけで……。
「駄目だったらそのときはそのときだ。忘却呪文だけはきっちりかけておきなさい」
そして穏便に別れるんだね。
父はまったく甘くなかった。希望的観測すら口にせず、ひたすらに現実的だった。
「君の出自を知っても大丈夫そうな男なら、僕が見繕って引きずってくるから安心しなさい。君もそろそろ十六歳だ。適当な婚約者がいてもいいだろう」
最低な発言であった。デルフィーニは自棄になった。
「北米のゴーントでも引っ張ってくる? それともアスラン家の若君とか? ゴーントと仲がいいものねアスラン家!」
戯れを飛び越して、婚約者、夫候補ならば父が言うとおりいるのだろう。無難なのが。別にセドリックである必要などないのだ。デルフィーニは選び放題なのだ。夫を。最低な気分であった。
「――若君は駄目だ」
父が真顔になった。断固拒否らしい。年齢的にも釣り合いがとれるのになぜ? 見つめると、父が眼を泳がせた。
「ブラック家次期当主を支える表の顔として誰かを夫に迎え……そんなにディゴリーが恋しいなら、愛人にでもするか? デルフィー」
無茶苦茶なことを言い始めた。デルフィーニは凍り付いた。愛人って。
「そもそも、私たちは……まだ学生なわけだし……お付き合いなわけだし……」
「大丈夫だ。男だろうが女だろうがブラック家当主が愛人を囲っていたどうこうはある。ちょっとややこしいことになって、何度か後継者争いが勃発したようだが」
「遠慮します」
目眩がする。父は、デルフィーニがまだ十五歳だということを考慮しているのか? いやまったくしていない。
デルフィーニはなにもかも嫌になった。横を向き、壁を見つめる。
「――そもそも」
正体を明かす、明かさない以前に破綻する可能性はあるじゃない。小さく呟けば、呆れたようなため息が落ちてきた。
「ブラック家だからといって君のことを色眼鏡で見ず、あまつさえ君が疑いをかけられたら怒り、家出までした子だから」
僕だって困っているんだが。
「ねえ、レギュラス」
壁を見つめたまま、問いかける。
「セドのこと、けっこう気に入ってるでしょ」
「僕が育てた娘なんだ」
人を見る目はあるはずだ。
そう、父は言った。なにを当たり前のことを、と言わんばかりに。
イースター休暇後半、デルフィーニはどうにか体調を立て直し、ホグワーツに戻ることになった。
娘をキングズ・クロス駅に送り、ホームで見送って、レギュラスは踵を返した。停めてある馬車まで戻って、馬たちを撫でる。彼らはレギュラスをじっと見て、頬をそっと舐めた。
「……大丈夫だ」
囁く声はわずかに震える。耐えきれず、左腕を掴んだ。
かつて、肌に同化せんばかりに褪せていた印が、息を吹き返した。黒々とまではいかずとも、濃く、はっきりとレギュラスに過ちを突きつけている。血も涙もない男に膝を突いた愚かさを。心酔していた幼さを。
そして、脈打つ――鈍い痛みは、ヴォルデモートの怒りの証。
不忠者たちへの、警告なのだ。
レギュラスは小さく笑う。今頃、かつての同胞たちは震えているに違いない。誰もが「ご主人様」の帰還を望んではいなかった。だからこその不忠者である。真に忠実なる者など、ベラトリックスくらいだろう。ヴォルデモートを崇め、一つになりたいと願い、不義の果てに子を産み落とした。子への情などなかったのははっきりしている。名前すら付けようとしなかったのだから。ベラトリックスにとって、子はただの証である。ヴォルデモートと交わった、という。寵愛を証す、
ヴォルデモートにとってはただの戯れで、女の肉を貪りたかっただけだろうに。哀れなベラトリックスよ。けして寵愛などではない。ただ、都合よく使われているだけだ。
彼らの間にどういった感情があるのかなんて、どうだっていいか。問題は、子を成したくせに、責任を果たさなかったことだ。
一つ息を吐き、天を見上げる。
曇り空の果て、居ますは赤い星。
その輝きは――どこまでも禍々しい。