デルフィーニには心配事がいくつもあった。
一つは、このまま一生入院するはめになるのではというもの。一つは、果たして、夏休みの課題を片づけられるのかというもの。一つは、もしかするともしかして、デルフィーニを拉致もしくは暗殺しようとする誰かが侵入してくるのでは、というもの。
誰も分かってくれないんだから。デルフィーニは歩行杖を突きながら、愚痴をこぼす。背中はひりひりと痛み、まったく体調は思わしくないが――いい加減、病室に籠もっているのは飽きてしまった。六月後半、三校対抗試合の最終日から数えて、一ヶ月と二週間ほど。気づけば八月上旬になっていた。
意識を取り戻した後、セドリックがあんな気障な真似をするものだから、熱を出した。癒者の見立てでは、身体が回復しきっていないせいだとのことだが、あれはセドリックのせいである。あの男はデルフィーニを失神させた前科があるのだ。入院が長引いているのはセドリックのせいだ。そんな前科二犯の男は、なにやら忙しくしているようで、ここのところ顔を見ていない。手紙によると「君のお父さんのところで勉強させてもらっている」そうだ。なにがなにやらである。詳細を書かれても、今のデルフィーニはものを考える力が大幅に下がっているからよいのだけど。「頑張って」とだけ書いて返事をした。
デルフィーニといえば、頑張るどころか原状回復に務めるくらいしかできなかった。うつ伏せ寝から解放されたのはいいが――聖マンゴという監獄に囚われたままである。癒者はまだ駄目の一点張り。父はもう退院したのにと言っても「あなたのほうが重傷です」で終わり。味の薄い、得体の知れない流動食から固形物に切り替えられたのに駄目。一人で手洗いに行けるようになったし、入浴も可能になったのに退院不可。もっとも、デルフィーニは風呂と手洗い付きの個室に入院しているのだけど。
見舞いに来た父に「自宅療養でいいでしょう」と言ってみたが首を振られた。挙げ句に紙切れをひらりと振られた。それは「れぐのおねがいをきくけん」であった。拙い字は幼いデルフィーニのものらしく、父曰く「僕の誕生日にたくさんくれたことがあって」とのことだ。後生大事にとっていたらしい。デルフィーニは、幼い時分の愚かさを呪った。
宿命の杖のごとく「れぐのおねがいをきくけん」を突きつけられ、デルフィーニは敗北した。退院したいと言うことはもはやできなかった。一生入院なんてことはない、と軽くあしらわれ、夏休みの課題がしたくとも却下され、普通魔法試験の結果が届いているはずなのに「退院してから」で教えてもらえず、代わりに大量の本が病室に届けられた。拉致や暗殺については「あれが優先的に狙うのはハリー・ポッターだ」で済まされた。病室に敵鏡や警報器を置いていったから、一応心配はしているのだろう。
懸念事項を潰され、デルフィーニは苛立ちを持て余した。そうして、病室を出て廊下を往復したり――五階は呪文性損傷の階である。デルフィーニは一般病棟に入院していた――六階の喫茶室に行ったり――とできる範囲で出かけるようにした。階段の上り下りだけでかなり辛いが。
この日も、デルフィーニは六階の喫茶室に向かっていた。杖は病衣のポケットに入れ、一時的に父に貸していた『星屑の剣』は手元に戻り、左手中指に嵌まっている。本当は狼も連れて行きたかったが、聖マンゴへの持ち込みは許可されなかったのだ。偽マッド・アイことバーテミウス・クラウチ・ジュニアに傷つけられたと聞いているが、無事に回復したらしい。今頃寂しがっているだろう。
歩くたびに、杖を入れているのとは別のポケットがちゃりちゃりと鳴った。巾着に入れた硬貨たちが存在を主張しているのだ。
一段、一段そろそろと階段を上る。背後から襲撃されれば対処できないな、いや上――前から襲撃されても厳しいな、と思いつつ、どうにか上り終える。その気になれば少々の杖なし魔法を使えるし、中でも杖なし飛行は得意だけれど、こんなに弱り傷ついた状態でどこまで助けになることやら。
喫茶室はがらんとしていた。デルフィーニはリンゴジュースを注文し、追い払い呪文で奥の席に着地させ、追って自分も席に着いた。背もたれ背をつけないようにして――クッションがないと辛いのだ――リンゴジュースを飲む。本を持ってこればよかったかな、でもポケットには入らないな、やっぱり拡大呪文――拡張呪文ともいう――をかけた巾着を、父に持ってきてもらえればよかった、とつらつら考える。
「夏休みの課題は終わったのかい」
威厳たっぷりな、誰かを叱りつけているような声が聞こえ、デルフィーニは考え事を中断した。ふっと声のほうを見てしまったのは、自分の心配事の一つに「夏休みの課題問題」があったからだ。なにを考える間もなく、眼をやってしまった。喫茶室の入口へと。そうして、後悔した。
「……デルフィーニ?」
少し頼りなさそうな声。黒髪に、丸顔の男の子が眼を丸くしてデルフィーニを見ていた。その隣にいるのは老婦人である。痩せていて、眼は厳しく、衣装は独特であった。
人違いです、と言おうかと思った。なにせデルフィーニ・ブラックは黒髪紫眼の魔女である。怪我をしてからこっち、デルフィーニは銀髪赤眼の、生来の姿に戻っていた。父に「もう七変化で隠す必要はない」と言われたせいである。見た目の変化は大怪我の影響で説明がつく、と。ブラック家にスリザリンの血が流れていることにしたってよい。いい機会だから、止めてみなさいと。それに、セドリックに綺麗だと言われたせいも……多少はある。多少。少し。ほんのちょっと。
黒髪と銀髪、紫眼と赤眼では、随分と印象が異なるであろう。言い抜けられなくはないが――老婦人の眼に射すくめられ、デルフィーニは白旗を上げた。勘違いでは通せまい、と観念した。
「ごきげんよう」
ロングボトム。
デルフィーニはにっこりしてみせる。ひとまず愛想良くしておけ、が父の教えであった。デルフィーニはその気になれば魅力的に振る舞えるのである。
ロングボトムことネビル・ロングボトム――古い古い、大名門と呼ぶにふさわしい、ロングボトム家の嫡子に軽く手を振って、彼の隣に立つ老婦人に軽く礼をする。本当ならば席を立つべきなのですけど、と断りを入れた。
「ごきげんよう。お初にお目にかかります」
ロングボトムの大奥様。
挨拶だけして、さっさと逃げるべきであった。デルフィーニは己の判断を悔やんだ。しかし、なにができただろう。挨拶をしてさようならという雰囲気ではなかったのだ。それもこれもロングボトムが悪い。
もちろん、彼に悪意があったわけではない。意地悪という言葉はロングボトムの辞書にはないのだろう。わかっていますとも。ロングボトムは純粋に仰天していた。学期末に姿を消していたデルフィーニがどうしてここに、しかも見た目も変わっているし、と。そこからは坂を転げ落ちるように事態が悪化……いいや、どこかへ向かって暴走した。デルフィーニにはどうしようもなかった。ブラック家の華やかな悪行の数々を承知だろうに、大奥様は「貴女のことはネビルから聞いていますよ」と右ストレートを放った。デルフィーニは呆然とした。ネビルの眼を通すと、デルフィーニ・ブラックという魔女は「大変優秀で心が広く、曲がったことが嫌いで親切」ということらしかった。誰だそれは。優秀なのは認めよう。謙遜しても仕方がない。謙遜も過ぎると嫌味となる。が、曲がったことが嫌いなのではなく、気にくわないもの――主に愚かな言動をするドラコ――を叩き潰して躾ているだけである。正義の委員長ではない。まったくない。親切……はそうしたいからしているだけで、誉められるようなものではない。
ネビルは両の眼に心配をいっぱいに湛え……誰だこの子を鈍くさいとかスクイブだとか言ったやつ――確かドラコだ――デルフィーニの「怪我」を案じた。デルフィーニはなにをどこまで話すべきか悩んだ。そしたら大奥様が「ここでは込み入った話ができない」と言って、デルフィーニを招いた。
五階、特別病棟に。
デルフィーニはかろうじて表情を取り繕った。もはや拒否はできなかった。運命の女神を呪っているうちに、病室に着いていた。そこにはなんとギルデロイ・ロックハートがいたが、どうでもよろしい。ひとまず元気そうだ。
デルフィーニは出された椅子に腰掛け、カーテンに囲われた一角を見ないようにしつつ、必死で口を動かした。背には汗が滲み、傷に染みて燃えるように痛んだ。そんな痛みなどなんてことなかった。早く病室から逃れたかった。
ロングボトム家ならば間違いがない。あの夜のことを話しても、信じるだろう。第三の課題の真実、ポート・キーとなった優勝杯、転移させられたハリー・ポッター。偽マッド・アイによって同じく転移させられたデルフィーニ・ブラックの話をする。ハリー・ポッターは敵ゆえに血をとられ、デルフィーニ・ブラックは「極めて純血」の令嬢ゆえに血をとられたのだと……。
「あの人……いえ、ヴォ、ヴォルデモートは」
復活しました。
戦慄く声で言う。息は荒くなり、手は震えていた。ロングボトムは口を開けていた。孫よりも大奥様のほうが冷静で、先を見据えていた。
「ハリー・ポッターの証言、そして貴女が傷を負ったという事実があるのにもかかわらず、ファッジの馬鹿者は現状を無視していると。対して、ダンブルドアはわかっていると」
省も堕落したものだ、と大奥様は吐き捨てるように言う。その双眸は燃えるようで、口から火を吐いていないのが不思議なほどであった。デルフィーニは縮こまった。
「息子たちが」
今の省のあり方を見ればなんと言うことか。
深い嘆きが込められた声。デルフィーニは身の置き場がなかった。唇を引き結んだデルフィーニに、大奥様は首を振った。
「貴女がブラックでも、思うところはありませんよ」
家の名で差別はしない、と実に寛大であった。デルフィーニは叫びたくなった。違うんです、と。私はブラックだけれども。本当はレギュラス・ブラックの娘ではなくて――。
諸悪の根元である男と、あの女の娘なのです、と。
デルフィーニは磔刑の呪文を知っている。嫌というほど味わった。殺してくれと思うような痛みであった。手軽で簡単な拷問。惨い惨い拷問であった。
そんな「手軽で簡単」な呪文を使って、何時間も何時間もロングボトム夫妻を苛んで、壊してしまったのがデルフィーニの肉の母であった。ベラトリックス・レストレンジ――いいや、ブラック。戦星の名を持つ女。ヴォルデモートに心酔し、あらゆる悪を成した。
彼女は、高名な闇祓い夫妻を――廃人にした。
理由などあってないようなものだ。消え失せた「我が君」をお捜し申し上げようと、手がかりを求め――ロングボトム邸を襲撃したのだ。誰にも「我が君」の居場所など分かるはずがないのに。あの女だってそれをわかっていたろうに。
狂った女の、単なる八つ当たりで。
ネビル・ロングボトムは両親を喪ったのである。
永遠に。
自分の病室にどうやって帰ったのか、デルフィーニはまったく覚えていなかった。気づけば布団に潜り込み、身を丸めていた。この世のなにものをも、拒むように。片手には薄い銀紙――ガムの包み紙を握りしめて。
顔が熱かった。心は冷えていた。身の内から溢れたものが、滴となって頬を濡らしていた。
だから、ロングボトムと関わり合いになりたくなかったのだ。罵倒でもなんでもして、最悪の印象を残して去ってしまえばよかったのだ。デルフィーニ・ブラックとロングボトム家の人間は相容れないのだ。傷つくだけなのだ。デルフィーニは八つ裂きにされても文句は言えないのだ。そういう立場なのだ、本当は。
だというのに、どうして。
アリス・ロングボトムは……壊れてしまった魔女はどうして。
カーテンの隔てから滑り出て、震えるデルフィーニの手をさすって「なかないで」と言ったのか。デルフィーニは泣いていなかった。しかし、アリスは「泣いている子」を慰めようとしたのだ。壊れていても、傷ついていても、心の一部は残っていた……。
ガムの包み紙をくれた。とびきりの宝物を「ともだち」と分け合うみたいに。きっとふっくらしていただろう頬は削げ、眼は落ちくぼみ、痛々しくてならなかった。かつての闇祓い――狭き関門をくぐり抜けた闇を祓う者の面影はどこにもなかった。
あれほどに惨いものを、デルフィーニは見たことがなかった。
あれほどに尊いものを、デルフィーニは見たことがなかった。
獣の子のように身を丸くして、ひたすらに息を殺した。泣く資格などないのだ。だから、病室では泣かなかった……はずだ。これは安っぽい同情の涙である。なんの価値もない。害悪ですらある。泣いて、泣いて、それでロングボトム夫妻が元に戻るのならば、いくらでも泣いてやるのに。
どれほどの時が経ったか、薄闇が祓われた。まぶしさに眼を細める。
「デルフィー?」
布団を剥がし、灰色の眼を丸くしたセドリックがいた。
獣の子を――怪物と怪物の子の背を、そうっと彼の手が撫でる。
「誰かになにかされたのか?」
ちがう、とだけ囁いた。セドリックは小さくため息を吐き、言ってごらんと促すこともしなかった。ただ、デルフィーニの額に接吻を落とした。
軽い音を立てて離れる熱。デルフィーニは口を開いた。ネビル・ロングボトムに会ったことを。彼の祖母オーガスタに会ったことを。特別病棟に招かれたことを……怪物が成した所業を見てしまったことを。
「君のことだ、割り切れはしないだろう」
抱えるには重い荷物だ、と彼は言う。デルフィーニは小さく笑った。ひび割れた笑みであった。あまりに重くて重くて、耐えられないような荷がたんとあるのだ。生きている限り、背負うしかないものが。たとえ出自を隠そうが、関係がないと思いこもうが、神は、己は分かっている。逃れられはしないのだ。最後の最後には、デルフィーニは荷に押しつぶされて壊れるだろう。セドリックの言うとおり、割り切れるような問題ではないのだ。
デルフィーニは疲れ果て、混乱して、ひょいと口にしてしまった。投げやりに、戯れに、少しだけ期待して。巻き込んではいけないと思うのに、飽き飽きして。
なにも望んではいけないと思うのは寂しすぎて。
「……少しでいいから」
背負ってくれない?
言葉の緒が虚空に消え、セドリックの手が止まった。衣を通して彼の熱が染みていく。
「いいよ」
望むところだ。
明るく、喜びに満ちた声であった。デルフィーニは自分から言い出したくせに、呆けてしまった。言葉を失った彼女の代わりに、セドリックは告げた。
「頼られたんだからいいだろう」
婚約しよう。デルフィーニ。
「わかった」
グリモールド・プレイス十二番地、ブラック本家の邸――応接間にて、レギュラスは頷いた。向かいに座る黒髪の青年をじっと見つめる。ディゴリー家のセドリックを。
「……本当にいいんだな」
デルフィーニと婚約しても?
「まだ早い、娘はやれないと反対するのは男親の仕事では」
セドリックはさらりと答えた。レギュラスは視線を宙にやった。男親と言っても、一口に括れるものではないだろう。
「むしろ、父君が反対しそうだが」
うちの息子はやれないと。
軽く言えば、セドリックが小さく笑った。僕は攫われる花嫁だったんですか、と。花嫁は冗談としても、君はかなり狙われているのだがな……と、レギュラスは言い掛けてやめた。
若く優秀、父方がディゴリー、母方がグリーングラス、それも本家の血筋。容姿は整っており、浮ついた噂もないとなれば、悪くないのである。下手なマグル生まれや成り上がり、それか血を裏切る者と番わせるくらいならば……と、いわゆる貴族階級において、セドリック・ディゴリーは悪くはない婿候補である。マルフォイは鼻にもひっかけないだろうし、ブラック本家先代当主夫妻が生きていれば、これまた同じくだったろうが。二十八族と呼ばれる「純血」家系、その中でも上の上と結びつくのは難しくとも、それより下は十分に狙えるのである。レギュラスとて彼を社交の場に放り込むにあたって、多少は予想していたが……思った以上にセドリックは鵜の目鷹の目で狙われている。もっとも、将来婿になる予定の彼は、社交界を巧く泳ぎ渡っているようだ。感心なことによそになびく様子もない。
よくもまあ、娘は当たりを引き寄せたものだ。もちろんデルフィーニの婚姻は必須ではないが……できることなら、誰か理解者に側にいてほしかった。難しいと承知していた。一生独りで生きていくか……伴侶すら騙して、心を殺して生きていくしかないのではと思っていた。それが、望みうる限りの理想的な男が現れたのだから、レギュラスも驚いた。せっせと縁談を集めていた日々は無駄になったけれど、それでよかったのだ。
「
セドリックは歯切れよく言った。両性ではない。両姓。ふたりの合意。
「父が口を挟んできても、知ったことではない」
「なんで君はグリフィンドールに入らなかった?」
穏やかで誠実な好青年に見せかけて、その意志は堅固だ。向こう見ずに思えることもある。易き道を選ぶこともできたろうに、あえて茨の道へ踏み入った。
「誉め言葉ですか?」
「君がスリザリンに入っても合わなかっただろう」
セドリックはにっこりする。
「デルフィーと同じ寮でも悪くなかったと思いますよ」
実は娘、組分けの時にグリフィンドールかスリザリンをすすめられたのだが、ハッフルパフも少し検討したと言っていた……なんてことは教えてやらなくていいだろう。なんで検討したって? おそらくセドリックがいたからだろう。罪な男である。
「ディゴリー家に一報だけ送っておきなさい」
話を戻した。娘とセドリックの関係がどのようにして変化していったかなんて、どうでもいい話である。重要なのはデルフィーニ・ブラックとセドリック・ディゴリーに婚約の意志あり、ということだ。娘はもっと渋ると思っていたのだが……まあいい。
「送らなければ……?」
「法律の上では「両姓」の合意であるが」
その実態は両姓すなわち両家の意も含まれている、とレギュラスは噛んで含めるように言う。上流では未だに主流の考えだ。婚姻すなわち両家を結ぶもの、と。
「一応、筋だけは通しておいたほうがいい。僕も君の父親が反対しようがどうだろうが、だが」
いくらなんでも息子が出奔して、ブラック家――兄のもとに転がり込んで、挙げ句にブラック本家の娘と婚約なんて、外から見たら「婿を強奪したブラック家」にしか見えないだろう。悪いブラック家である。婿強奪より洒落にならないことをたんとしているが、それは棚上げにしよう。それに、いくらエイモス・ディゴリーが喚こうがひっくり返せまい。ディゴリー家とグリーングラス家ではグリーングラスのほうが家格は上である。つまり、レディ・ディゴリーことグリーングラス本家の娘が諾と言えば仕舞いであるし、彼女ならばエイモスを丸め込むか黙らせるかするだろう。
「家族は仲良く、なんて言わないんですね」
「そんな陳腐な台詞が吐けると思うか?」
レギュラスは壁を覆う織物――夜空と星々を示す。ブラック家の歴史そのものを。
「身内同士で争っているようなものだぞ」
不死鳥の騎士団入りした、ニンファドーラ・トンクスは僕の従姉の娘だ。そして僕も成り行きで騎士団に入っているし……兄は創設メンバーだし。
「ポッター、ブラック、ウィーズリー、モリーの旧姓はプルウェット、彼女の従妹はロングボトムに嫁いだアリス、そしてロングボトム――フランク、マッキノン、ボーンズ、シャックルボルト……」
純血貴族。すっかりやせ細ってしまったものだ。
プルウェットは死に体ながら生き残り、ボーンズもまた深く傷つきながらも生き残り、マッキノンは滅び、先日クラウチが滅び……その邸と財はブラック家が受け継いだ。ポッターは、純血リストへの記載を拒否したので入っていない。しかし血の繋がりはある。
純血――貴族は遡れば血が繋がっている。敵も、味方も。セドリックだってどこかで繋がっているだろう。彼の母方はグリーングラスに連なるのだから。
「対してあちらは僕の従姉にあたる女がいるし、あの女の夫――レストレンジもいるし、もう一人の従姉の夫もいるし」
言って、うんざりしてくる。闇の帝王に憧れてあちら側に行っていたレギュラスにはなにも言う資格がないけれども。
「まとめてしまうと、血族同士の喧嘩だよ」
デルフィーニの母親は僕の従姉、ベラトリックスだと告げる。ああ……とセドリックが呻いた。
「よりにもよって」
ベラトリックスなんて。片眉を上げて見せれば、セドリックは手短にあらましを話した。デルフィーニが動揺していたこと。それはオーガスタ・ロングボトムとネビル・ロングボトムに会い……壊された夫妻にも会ってしまったからである、と。
「……父親だけでなく、母親まで」
セドリックはため息を吐く。父親のことを察しただけでもかなりの偉業なんだがな、とレギュラスは遠い眼をした。聞く限りでは――なにせレギュラスは死にかけていたから――デルフィーニが白銀の髪に赤い眼に「戻って」も、セドリックは動揺していなかったらしい。兄の目撃情報である。そんなことよりも、デルフィーニの命の心配をしていた、と。
「訊き忘れていたんだが」
いつ気づいた?
セドリックは瞬く。うーんと言って天井を見つめた。
「おおまかに、二年前くらい……あなたが先生をやっていた年ですね」
まね妖怪が、とセドリックは言う。その灰色の眼に煮えたぎるような熱が宿った。
「――あれは、本当に?」
そうだ、と肯定する。レギュラスはセドリックがおしゃべりな考えなしでなくてよかったと感謝した。知ったことを隠すくらいの頭はあったし、隠していることを悟られないだけの頭もあったのだ。中途半端な馬鹿ならば、レギュラスじきじきに処分するか、忘却呪文をかけるしかなかっただろう。
「デルフィーニはすぐ熱を出す子だったし、月足らずで生まれた。おまけに純血のゴーントの血が濃く出てね」
あれにとっては不良品で、しかし誰よりも「純血」の見た目をしていたから……。
「首を絞めてもおかしくはない」
僕は現場を直接見たわけではないが。
なるべく感情を排する。怒りに呑み込まれてはいけない。今は事実を話すべきときだ。
「一方、母親は愛する「我が君」にお褒めの言葉はいただけない、出てきたのはすぐ死にそうな虚弱児、己も産後で弱る……で」
デルフィーニをどうでもよいものとして扱った。向けたのは愛ではなく憎しみであった。
「二人とも、名前を付けようともしなかった」
囁く。重い沈黙が応接間を満たした。セドリックの眼の縁が赤くなっている。
「ただの……もの、だったと」
「所有物、予備、生み出してやったもの、まあそんなところだ」
一度取り憑こうとしたことや、『秘密の部屋』での一件も教えてやる。墓場でのことも。といっても、レギュラスは途中までしか知らないのだが。
「デルフィーの父が」
あなたでよかった。震える声で言われ、レギュラスは眼を逸らした。ただの成り行きだ。ハッフルパフの男に言われると、いささか面はゆくなる。
「娘は見る目がある」
幸いなことに、と言う。
「君の星が墜ちなくてよかった」
「なにを……?」
灰の眼が戸惑いに揺れる。さて、考えないようにしているのか。本当に考えていないのか。レギュラスはゆっくりと言の葉を紡いだ。
「もし君が、ハリー・ポッターとともに優勝杯を掴んでいたら」
目撃者は消されていた。
「無論、ダームストラングもボーバトンも可能性はあった。墓場に運ばれるか、ジュニアによって消されるか……」
ハリー・ポッターの善意により死ぬか、ジュニアの衝動的な行為により死ぬか。三人の代表選手のすぐそばに、死神はいたのである。
「危なかったんだよ、君たちは。特に、ポッターと同点一位だった君は」
「生き残ったんだからいいでしょう」
「結果論だがね」
相手は――闇の陣営を率いる男は、赤子に杖を向けることも躊躇しない。
「額の稲妻形の傷」
額、を強調する。セドリックが唇を震わせた。そうか、と唸るように言う。
「ヴォルデモートは、赤ん坊の……ハリーの顔を」
いとけなく、無垢な子の、小さな小さな顔を正面から捉えながらも、その呪文を紡いだのか。
「あれにとっては、他人の命など玩具みたいなものだ」
娘の命も似たようなものだ。
「君が婚約しようとしているのは、そんな怪物の娘だ」
否応なく、巻き込まれることになる。
しつこいほどに念を押す。娘にとって最良の相手だとは思う。互いにまだ若いが――若すぎるほどだが、レギュラスはこの縁を逃したくはなかった。だからこそ、衣を仕立ててやり、社交の場に放り込んだ。ブラック本家の当主が後ろ盾なのだと示すために。あと、上流の流儀に馴染んでもらうために。本質は――将来の婿の囲い込み。
同時に、惜しい男だとも思った。巻き込んだ結果、死なせでもすれば多少の良心の呵責を感じるであろうとわかっていた。よくできた男なのだ。
「賽は投げられました」
僕はとうに巻き込まれています。セドリックは強く言い切った。なにをいまさら、と言わんばかりに。
「バーテミウス・クラウチ・ジュニアを捕縛した時点で邪魔者で敵対者でしょう。レギュラス、あなたも人が悪い」
名代に任じてあちこちに送り出し、僕が逃げられないようにしているくせに。
「それを承知で舞台に上がっているのだから、たいしたものだよ」
「逃げるなんて選択肢は端からないので。あと、彼女の隣は僕のものです」
「恥ずかしいくらいにまっすぐだな」
「エルドリッチ・ディゴリーの末裔なのでね」
彼よりは巧くやりたいものです。
さらりと言うセドリックに、レギュラスは手を叩いて喜んだ。どこが穏やかなだけの好青年か。鋼の意志と――おそらく、その気になれば強かにもなれるであろう。およそ二年もの間、レギュラスに「秘密を知っていること」を気取らせなかったのだから。ひょっとしたらスリザリンにも適性があったのかもしれない。
「君があちらに行かなくてよかったよ」
「誉めています?」
「僕なりにね」
軽い戯れの後、レギュラスは招待状を差し出した。
「ルーファス・スクリムジョールからノグテイル狩りのお誘いだ。行ってきなさい」
「……乗馬はそんなに得意じゃないのですけど」
「水魔を連れて行け」
ホグワーツで捕らえたのを、連れて帰ってきたと聞いているぞと言えば、セドリックは肩をすくめた。
「乗馬服は仕立てさせる」
「……いくらなんでも僕に投資しすぎでは」
「必要な投資と……うちの仕立て屋が張り切っているから、我慢してくれ。あと、狩りにアルたちも連れて行けばいい」
承知しました。セドリックは苦笑して、立ち上がる。くるりと踵を返し、一礼して去っていった。立ち居振る舞いは合格か。
開いて閉じた扉の外で「お待たせ」と狼たちに声をかけているのを聞くともなしに聞く。一匹は娘の狼で、もう一匹はレギュラスが「未来の婿」に譲った狼であった。アルのきょうだい。闇毛に銀の眼。名を北斗七星の一、
セドリックは狼二匹の信頼をなんなく勝ち取ったらしい。末恐ろしい男である。
「敵に回していたら面倒だったかもな」
息を吐く。ただの可能性が脳裏に過ぎる。ハッフルパフ生。人柄のよい好青年。その能力は炎のゴブレットが認めている。
もし、だ。
もし、ジュニアがセドリックを妨害せんとして――真っ先に排除すべきと考え、その心を折る方向に物事を進めていたら。
たとえば、全校生徒の前で辱めるなんてことをしていたら。
セドリック・ディゴリーは良い青年だ。それは生来の気質と、環境によるものであろう。きっと挫折らしい挫折をしていないのだろうし、暗がりを知らないがゆえのもの。
そんな彼が屈辱的な挫折を経験したら?
四人目の、異端の代表選手こそが怪しいと思ってしまえば。生き残ったあとも疑いを捨てきれず――闇の陣営に下り、その左腕に印を賜っていれば?
優れた好青年の顔をして、不死鳥の騎士団に入り込み、胸の内を秘めたまま、辛抱強く機を窺い、目的を果たしたかもしれない。
ハリー・ポッターの殺害を。あるいは、すべてを崩壊させる契機となっただろう。
それができるだけの力はある……。
「あの魂が堕ちて」
腐り果てるようなことにならなくてよかった。
レギュラスは、悪戯な神に心から感謝した。
気まぐれだろうが、戯れだろうが、あの青年を――ほんの少し何かが違っていれば、死の淵から滑り落ちていただろう彼を、闇に堕ちていたかもしれない彼を。
掬い上げてくれたことを。
ミザール
レギュラスがセドリックに贈った狼。闇毛の銀の眼の狼。名前は北斗七星の武曲、ミザールからとられた。