【完結】白いるかの眼は赤い   作:扇架

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二十六話

「言葉にできないほど」

 恐ろしい目に……。

 ホグワーツ城の一室、闇の魔術に対する防衛術教授にあてがわれたその場所に、かすれ、震える声が響く。

「ブラック家のご令嬢が」

 お労しいこと。

 高く、ねっとりした声に背筋が粟立つ。ブラック家の令嬢ことデルフィーニは「ありがとうございます」と涙声を出した。我ながら、吐き気がする猫かぶりっぷりである。こんなところをセドリックに見られようものなら、デルフィーニは窓から飛び降りるしかなくなる。それか、セドリックに忘却呪文をかけるか。

――好きでやっているんじゃない

 相手の出方がわからない以上、か弱い令嬢に化けたほうが無難なのだ。なにせ、ドローレス・アンブリッジこと「ジェーンと呼んで」と馴れ馴れしく言ってくる女は、魔法大臣の駒である。おもねるつもりはないが、わざわざ反抗的な態度をとるつもりもない。好き勝手やっていいのなら、縛ってポイしているのだけど。

「もうあんなことは起こりませんとも」

 ホグワーツは安全です。

 まるで幼児をあやすような声。デルフィーニは鼻をすすり、イニシャルを刺繍した美しいハンカチで目元を拭う。涙を出したり引っ込めたりはできないが、七変化で目元を赤くしているので……あの夜の恐怖を思い出し、震えている臆病な兎に見えることであろう。

「そう思いたいものです」

 デルフィーニは震える手で茶器を手に取る。愛くるしい子猫の、青い眼がデルフィーニを見返してきた。そっとミルクティーを飲むふりをして、片手をポケットに突っ込み、杖に触れる。東洋龍の角は、主の要請に応えた。ミルクティーから色が失せていく。ただの水に変わったのだ。用心するに越したことはない。たとえば、ブラック家の令嬢を意のままに操って、ダンブルドアに不利な証言をさせるために薬を盛る……なんてこともしかねない。アンブリッジもとい魔法大臣は、ヴォルデモート復活は虚言だという姿勢を崩さない。そう思いこみたいのなら勝手にすればいいが、ホグワーツに干渉を始めたのだから面倒なことになった。新学期の宴で、アンブリッジがぺらぺらと無駄におしゃべりしていたが、要するに魔法大臣は、ダンブルドアの持ち場、つまりホグワーツを支配下に置きたいらしかった。

 アンブリッジはやる気に満ちあふれている。ただのそれなりにやるふりだけのお役人ならばよかったのだけど、彼女は無秩序をもたらす者ダンブルドアのことが大層お嫌いらしい。ダンブルドアをどうにかホグワーツから放り出したい。ゆくゆくは自分が校長になりたい……といったところか。壮大な夢というべきか、身の程知らずというべきか、ミネルバ・マクゴナガルに勝てると思っているのかこの女というべきか……である。

 夢見がちなアンブリッジは、手近なところから仕事に取りかかっている。たとえば「ブラック家の令嬢」とお茶をするなんていうところから。質も趣味もよくない便せんに、やたらと丸っこい文字で「お茶を飲みにいらっしゃらない?」と書かれた招待状がデルフィーニに届いた。拒否するわけにもいかなかった。デルフィーニは選択授業を二つしかとっておらず、つまり時間割に余裕があり、その日の――九月の第一週のとある日――午後三時は不幸なことに空いていた。アンブリッジがデルフィーニの時間割を把握していることは明らかであった。デルフィーニは有閑貴族を気取って、ブラック家秘伝の黒で染めたローブを身にまとい、優等生らしく監督生バッジを付け、きっちりとスリザリンカラーのネクタイを締め、白銀の髪をおさげに編むか、流したままにするか、それともハーフアップにするかでいささか迷った。

 先学期末に断ち切られた髪は元通りになっている。歯だって伸ばしたり縮めたりできるのだ。ましてやデルフィーニは七変化で、髪の長さなど自由自在だ。好みは肩甲骨の少し下くらいの長さである。

 結局、ゆるいおさげに編んで背に流し、狼を引き連れてアンブリッジの室に向かった。狼は外で待機させてある。護衛もなしに「闇の魔術に対する防衛術」の教師のもとへ赴くのは、先学期末の記憶を――青い光に包まれたあのときのことを――思い出し、甚だ不愉快であったが仕方がない。護衛もなしできましたよ、信頼していますよという姿勢を示さなくてはならないから。

 表面上は和やかなお茶会である。実態は「攫われたとされるブラック家の令嬢」を探るためのものである。魔法大臣は一連の「ゴタゴタ」をダンブルドアの狂言ということにしたいのだ。よって、デルフィーニから「私は攫われてなんていません」という証言がほしい。あわよくば「ダンブルドアに言われて」とも言ってほしいようだ。そうすればハリー・ポッター拉致事件およびヴォルデモート復活説が揺らぐ。

 デルフィーニにはつつかれては面倒なことがそれなりにあるので、狂った死喰い人に攫われた令嬢役に徹するしかない。幸い、ポッターはデルフィーニの出自について漏らすつもりは毛頭ないようだ。

『僕と君は敵同士じゃない』

 夏休み、ポッターはそう言った。ブラック別邸、不死鳥の騎士団本部で開かれた宴の、間隙でのことだった。

 風に当たりたくて露台に出れば、ポッターがやってきたのだ。わざわざ世間話をする仲ではないし、ポッターに正体を知られたのは確実だしでデルフィーニは身構えていた。ポッターのほうも眼を泳がせていた。挙げ句に「レモンチーズケーキがまだ残っているよ」とクアッフルを投げてきた。デルフィーニは「もうお腹がいっぱいなの」と返し……そう、ポッターが無罪を勝ち取った祝いとウィーズリーとグレンジャーの監督生就任祝いだけだと聞いていたのに、デルフィーニの退院祝いが追加されていたのだ……正直、かなり狼狽えた。退院してよかったねなんて言われる資格があるのかといえば、ないだろうと思っていた。私がすべて悪いんです殺してくださいなんて思わないし、私なんて生まれてくるべきでは……なんてことは死んでも思いたくはないが――デルフィーニという存在は、結局のところ厄介の種でしかないわけだ。ブラック家に引き取られたからなんとなしに丸く収まっただけなのである。たとえば叔母であるナルシッサが多額のガリオンと引き替えにろくでもない死喰い人に押しつける可能性もあっただろう。一応、ナルシッサもといマルフォイ家に良識の欠片があったから、デルフィーニは養い親に疎んじられることもなく、ぬくぬくと育てられたわけである。

 デルフィーニは幸運だったといえる。ろくでもない死喰い人に育てられ、父母はすばらしい人だったどうこうを吹き込まれ、進んで父親を復活させようとした可能性だってあったのだし、闇の帝王の後継者として逆らう者は皆殺しの暴君になっていた可能性だってあった。まともに愛情を向けられず、愛し方を知らない可能性だってあったのだ。

 マグルの家庭で虐げられて育ったポッターと違って。ポッターに与えられるべきものを奪ったのはデルフィーニの肉の父である。それを忘れてはいけない。ポッターにはデルフィーニを憎む理由がある。肉の父が積み上げてきた屍の数だけ、デルフィーニ憎む者はいるだろう……。だというのに、ポッターは慎重な――薄氷を踏むようなやりとりを経て、こう言った。「怪我はどう?」と。 

 まじまじとポッターを見た。そしたら、ポッターは気を悪くしたのか「僕と君は敵同士じゃない」と言い切ったのだ。絶句ものである。

『ポッター、正気? ほらほら、死の呪文を放つなら今よ』

 デルフィーニは笑った。心臓のある位置を手のひらで叩いた。ポッターは唸った。

『僕の仇はヴォルデモートであって君じゃない』

『ちょっとは溜飲が下がるんじゃない』

『やだよ悪趣味な。僕はヴォルデモートみたいな狂った男じゃない』

 あのねえ、あいつにあんな目に遭わされてるのを僕は見たんだから、君が敵だと思えるわけがないだろう。

 ポッターはぴしゃりと言った。残念ながら復讐のためなら狂った真似をできる者はいるのだが。ベラトリックスとかいう肉の母なんて、復讐もとい八つ当たりでロングボトム夫妻を破壊したのだが……ポッターには想像もつかないことだろう。それでよいのだ。

『いいのね?』

『くどい』

『ありがとう』

 当たり前のことだ、とポッターは言って、くるりと踵を返した。デルフィーニはふとこぼした。

 私もあなたも稲妻を刻まれた者よ。

 足音が、止まった。

『……どこに?』

『背中。遠慮なくやられたわよ』

 最悪だ、あの男。ポッターの声は震えていた。赤ん坊の顔に杖を突きつけるのも最悪なのだが、ポッターはその事実に気づいていないようだった。おそらく、自分のことを後回しにしがちなのがハリー・ポッターなのだ。彼は何度もそれを証明してきた。

 ポッターは振り向く。緑の眼が、ちかりと光った。

『君とお揃いだなんて』

 セドリックに焼き餅を焼かれそうじゃないか。

 大丈夫よ、まだ教えてないし見せていないから……と答えかけ、彼に見せるということはつまり――? とはしたないことを思い浮かべた。デルフィーニはポッターに「さっさと戻ったら?」と言った……。

 ポッターとのやりとりおよび、かなりはしたない想像を押し込めているデルフィーニを、アンブリッジが現在に引き戻した。

「かわいそうに」

 ぎゅっと手を握られ、デルフィーニは硬直した。病弱で、先学期に大変な目に遭ったらしい「令嬢」を労る「慈悲深い女」の図である。が、いかにもとってつけたような表情と、ぎらぎらと光る眼が演出を裏切っていた。ついでに言ってしまうと、アンブリッジの手はねっとりしていて、なぜだか蛙に触れられたような心地がした。指は短く太く、大変趣味の悪い指輪が嵌まっていた。

 それから、デルフィーニの記憶は曖昧だ。あまりにも気持ちが悪くて。好きでもない、むしろ嫌いな相手から向けられる媚び、あるいは好意というものは醜悪な臭いがするものだ。

 重要なことは漏らさず、しらばっくれた。アンブリッジはデルフィーニを味方に付けたいようだけれど、それもかわした。優雅な早足で退出し、気持ちを落ち着かせるために校内をさまよった。途中、セドリックを見つけ、空き教室に引きずり込み、抱きついた。蛙に触れられた忌まわしい記憶を浄化したかったのだ。セドリックは無言でデルフィーニの背を撫で、するりと身を離した。彼の眼は泳いでいた。曰く「誰もいない空き教室なんて危険度大だぞ」とのことだった。アルとミザールがいるじゃないと言っても、セドリックは首を振り、デルフィーニの頬に軽く口づけて、そそくさと去っていった。

 デルフィーニはため息を吐き、空き教室を出た。なるほど? 頬に口づけでなんとかこらえたと。そんなまさか、セドリックが空き教室で口づけ以上を……することなんて……。

 ぶんぶんと首を振る。ヴォルデモートが復活したというのに、こんなことでいいのか。

 デルフィーニは「口づけ以上問題」を思考の奥の奥に封印した。図書館にでも行こうかどうしようかと迷う。そうこうしているうちに、とあるグリフィンドールの五年生が教師に暴言を吐いたという噂が流れてきた。ポッターか。ポッターなのね。

――ヴォルデモートが復活したって大嘘を

――優勝杯がポート・キーに

――拉致されたって

――目立ちたがり屋だ

――でも、レディ・ブラックも攫われたらしいし

 気まぐれな散歩をしつつ、情報を集める。アンブリッジは学生たちから牙なんて「危険な」ものを除去したいらしい。魔法省に、ひいては大臣に弓引かないように、というところか。

「よほどダンブルドアが怖いらしい」

 デルフィーニは密やかに笑う。白銀の髪に赤い眼に「なって」しまったレディ・ブラックを、怖々と見る者が多いこと。没落したゴーントが、すなわちスリザリンの血筋が纏う色を、知っている者は知っている。白銀の髪と赤い眼が多かった、と。デルフィーニのことを疑い、しかし黙しているのだろう。指摘されたところで、デルフィーニはにっこり笑って「ブラック家の遠い遠い祖の血が表に出てきたようなのよ」と返すだけだ。

 どうとでもなる問題を棚上げにし――なにせブラック家にスリザリンの血が混じっていてもなんら不思議はないのだ――魔法大臣が危惧している妄想に思いを馳せる。吸魂鬼を怖がる子どもじゃあるまいし。ダンブルドアが学生を使って軍団を結成するつもりだと思っているようだ。学生を使わなくても、魔法省に殴り込みくらいできるだろう。なにせダンブルドアはグリンデルバルドを倒した男である。テセウス・スキャマンダーとかニュート・スキャマンダーとか、当時の「対ゲラート・グリンデルバルド」の面々を召集もできる。おまけに教師たちだってダンブルドアのお供をするだろう。そして、魔法大臣の座に恋着しているファッジは失念している。

 わざわざファッジを蹴り落とさなくても、ダンブルドアは魔法大臣の座に手が届くのだ。何度も何度も就任を要請され、何度も何度も辞退している。ダンブルドアは権力の座を望まない。ファッジのような俗物にはわからないようだけれど。

 安心安全なホグワーツをつくりあげたいらしいが、それほど巧くいくとは思えない。現時点で、アンブリッジは学生の不興を買っている。少なくともハリー・ポッターとそのお仲間、あとはグリフィンドール生が何人か……なにせ指定教科書が防衛術理論である。呪文集などではなく。スリザリン六年生の授業はまだだが――あまり期待できないだろう。

 本当に理論だけの授業だとしたら、今年普通魔法試験を受ける五年生と高等魔法試験を受ける七年生は、特に反発するだろう。あとは来年に普通魔法試験を控える四年生、高等魔法試験を控える六年生か。つまり、四年生から七年生はアンブリッジに対していい感情を抱かないだろう。

 理事権限でどうにかできないだろうか。デルフィーニだって、来年に高等魔法試験を控えているのだ。今年はとても大事なのだ。普通魔法試験の結果はすべて優だったし。こうなれば高等魔法試験も優を目指したいではないか。

 そのためにはアンブリッジは邪魔である。病弱設定どころか本当に病弱なので、アンブリッジの授業を欠席し、どうにか勉強にあてるしかないだろうか……面倒だな……父に手紙を書こう。アンブリッジが気持ち悪いと。本当に気持ち悪い。生理的に無理。

 そうと決まれば、と図書館へ向かう。狼が駆け出す。落ちているなにかを器用にくわえ、戻ってきた。羊皮紙である。見て、と言わんばかりに差し出される。それは、髪飾り――冠のようだった――の絵だった。魔法生物飼育学で、生き物のスケッチを描くことはあるけれど、と首を傾げる。ホグワーツには音楽や絵画の授業なんてないのだけど。よく描けていると素人ながらに思った。落とし物だろうから、届けてやったのほうがいいだろうとも思った。狼に探させればいいか、と決めたとき誰かが前から走ってきた。金髪に、淡い――銀色の眼の女の子だった。その子は、あっと声を上げる。

「レディ・ブラックだ」

 そうよ、と答える代わりに羊皮紙をひらりと振った。あなたの? と。女の子はありがとうと言って羊皮紙を受け取る。レディ・ブラックを恐れるどころか「黒髪と紫の眼も素敵だったけど。その色もいいね」と大変素直に言った。

「何の課題なの?」

 あんまりにも素直な賞賛に、デルフィーニは女の子とおしゃべりする気になった。媚びも恐れもしない相手というものは楽なものだ。たとえカブの耳飾りを付けていようと、コルクを連ねたような首飾りを付けていようと。うん、レイブンクローはよくわからないな。秀才と変人が混在していることしかわからない。

「これはレイブンクローの失われた髪飾りなんだ」

「失われたのに描けるの?」

「寮にロウェナ・レイブンクローの像があるの」

 よかった、スリザリンの寮に、サラザール・スリザリンの像がなくて。デルフィーニは心から思った。嫌すぎる。

「本物がどこかにあったら面白いのに。失われた、壊された、隠された……色々な説があるんだ」

 女の子は宝探しに胸をときめかせていた。夢見がちなその子の名はルーナ・ラブグッドというらしい。デルフィーニはなにげなく返した。

「あったら見てみたいわね」

 あったらいいな、くらいの気持ちで放った言の葉。口にした瞬間に、無意識に脳裏に刻まれた。レイブンクローの髪飾り、と。あるいは、気まぐれな神が白いるかの頭をそっと撫でたか。

 

 数日後、父から「末裔特権」について教えられた白いるかは、戯れに階段を操った。階段はデルフィーニの無意識の願いを聞き届け、彼女を八階まで運んだ。

 あれ、ちょっと上まで行くつもりだったんだけどなと白いるかは眉を寄せた。末裔特権どころか、階段が暴走したじゃないのと。

 八階はあまり馴染みがないなとせっかくだから廊下を歩く。あれこれと考え事があって、往復する。視線がうっとうしいから隠れたいな。そしてふと兆したのはレイブンクローの髪飾りが実在していたとして……もしロウェナが髪飾りを失ったことにしたかったのだとしたら……。

 ホグワーツに隠すのではないか。

 戯れ、仮定にもならないそれに、ホグワーツが応えた。気づけば扉が出現していた。

 そろりそろりと「そこ」に足を踏み入れた白いるかは、数多の隠された品、堆積する時の中に、銀色の髪飾りを見つけた。

 ルーナ・ラブグッドのスケッチによく似たそれに、息を呑む。そうして、狼が髪飾りを警戒し、唸っていることにも気がついた。デルフィーニは呻いた。

「スリザリンのロケットやペベレルの指輪がそうだったんだもの」

 レイブンクローの髪飾りが餌食になっていてもおかしくないわよね。

 間違っていたらいいのにと願ったが、狼どころか指輪――『星屑の剣』も主の願いを否定した。左手中指に嵌った指輪は、燃えるように熱くなっている……。

 赤い眼の白いるかは、いずこかにまします神、あるいは偶然に従った。

 澄んだ輝きを宿す、星の一族の剣は、堕ちた冠を打ち砕いた。

 

 

 

 九月某日――ハリー・ポッターが罰則を言い渡された日の、深夜。魔女はどこか冷ややかな眼をして、廊下を歩いていた。優雅に、しかし早足で。

 すっと背を伸ばし、髷に結った髪はただの一筋も乱れていない。深い色のローブ。三角帽子もそろいの色で、余人に落ち着いた、威厳のある印象を与える。ホグワーツ副校長、グリフィンドール寮監、変身術教授ミネルバ・マクゴナガルを地味、あるいは野暮ったいなどという者はいなかろう……仮に干からびた老女等々言われたところで、女史は鼻で笑うだろうが。

 もし、これが昼日中であれば、行き交う生徒たちは、ちらと女史を見て、すぐに眼を逸らしたことだろう。ああ、彼女がどこか近寄りがたく、氷の薄衣を纏っている風なのは、きっとハリー・ポッターが馬鹿をやらかしたからだ、と解釈したに違いない。だってハリー・ポッターはグリフィンドール生で、女史が自寮の生徒だろうと減点するのは衆知の事実。よって虚言だろうが真実だろうが、無用な騒ぎを起こしたポッターにお怒りなのだ。それか、ぺらぺらしゃべる蛙だという評が囁かれつつあるアンブリッジにお怒りなのか……と。

 しかし、生徒はとうに寝静まっている。女史に関してひそひそと何事か言う者など、どこにもいなかった。

 軽い靴音。廊下に影が躍る。魔女と影は、密やかに、滑るように歩を進める。そうして、一対のガーゴイル像の前で立ち止まった。女史の淡い眼が、像を見やる。唇を震わせようとして、眼を瞬いた。ガーゴイル像が道を開けていた。

「――よいのですか」

「貴女様の魔力を見誤るわけもなし」

「どうぞ、お通りを」

 女史は一つ頷いて、門番の横をすり抜ける。影もついてきた。現れた螺旋階段を上り、静かに扉を叩いた。

「先生。夜分に申し訳ありません」

「お入り」

 扉が開かれる。女史は背後――影に向かって手を振った。そうして、室の中に踏み入った。

 壁に何枚もの肖像画がかかっている。設えられた止まり木には霊鳥とも神鳥ともいわれる、不死鳥がいる。黒真珠の眼が女史を見ている……。不可思議な道具がたくさんあり、その中でも女史の眼を惹いたのは、硝子ケースに納められた剣であった。柄に紅玉が嵌められた、澄んだ輝きを放つ業物。

「マクゴナガル先生――」

 柔らかな風を思わせる声が、女史の意識を剣から引き戻す。深夜だというのに机に向かっていた魔法使い――かつて大悪を討った彼は、客人をまじまじと見て、ぱちぱちと瞬いた。

「手にとってみるかね」

 デルフィーニ。

 いるか座の名で呼ばれた「女史」は肩をすくめた。すっと手を伸ばし、髷を解く。はらりと落ちたその髪が瞬きよりも速く白銀の色に「戻った」。女史――戦と知恵の女神の名を冠する者は消え失せて、赤い眼の白いるかが出現していた。状況の変化を感じ取ったのか、狼が静かに入ってくる気配がした。

 デルフィーニは囁いた。

「先生にはなにも隠せませんね」

「なに、儂でもなければわからんよ」

 ダンブルドアはさらりと言う。淡い青――ライトブルーの眼を、デルフィーニに向ける。デルフィーニは杖を振って、衣の「変身」を解いた。女史の衣から、ホグワーツの制服へと戻す。七変化は肉体を自在に変身させられるが、身につけているものにまで適用されない。別に魔法をかける必要があるのだ。動物もどきならば、肉体だけではなく身につけたものごと変身させることができるのだそうだ。非合法の動物もどきである伯父情報である。肉体だけ、衣ごと、と任意に変身できる。たとえば、肉体だけ変身し、血塗れの衣を置いておけば敵の眼をくらませることもできる……と彼は「七変化」の姪に言った。動物もどきになったとしても、きっといるかなんだよなあとデルフィーニは聞き流した。

 最も有力な説によると、守護霊と動物もどきは同じらしい。たとえば伯父は大きな犬の守護霊で、動物もどきの姿も大きな犬だ。これまた伯父いわく「そもそも守護霊と動物もどきの両方を習得している魔法族は多くない」らしい。加えて「俺は用途が用途だから、犬にしたわけで」とのことだ。守護霊と動物もどきが一致する説には懐疑的だった。今となっては昔の話だが、脱獄犯がいかに脱獄したかの詳細はなあなあで済まされたようである。真犯人が捕まったので「まああのブラック家の男でアスラン家の婿だしな」で終了。魔法省も失態をほじくり返すのが嫌だったようだ。伯父が非合法の動物もどきだと露見しなかったのは嬉しいが、なあなあの事なかれ主義が、ホグワーツを厄介事に巻き込んでいるのは確かだった。

「グリフィンドールの剣は、ハリー・ポッターのような子にふさわしいでしょう」

 変身、七変化、動物もどき、ことなかれ主義の罪から意識を戻す。デルフィーニの遠回しな返事にダンブルドアは頷いた。

「君にも資格があると思うがの。日記帳――」

「ポッターが朦朧としながら、グリフィンドールの剣で切り裂いたんですよ」

「レギュラスからだいたい聞いとるから。今更隠さなくてよろしい」

 わかっているが、とっさに隠すのがデルフィーニという魔女なのだ。『分霊箱』について開示済みであるし、レギュラスはダンブルドアの目の前で、『星屑の剣』を使ってペベレルの指輪を破壊したそうだし――隠す意味などないのだけど。

「……特別功労賞を今更やれんしなあ」

 ダンブルドアが真っ白い髭を梳く。そうして、杖を振った。座り心地良さそうなソファと、古びた卓が現れた。促され、デルフィーニは腰かけた。傍らに、狼がそっと伏せる。ダンブルドアが立ち上がり、向かいのソファに座った。

「ココアか、珈琲か、紅茶か?」

 紅茶で、と答えた。ダンブルドアがなにごとか呟くと、たちまちのうちに卓の上に茶器が現れた。ホグワーツの厨房は深夜でも稼働中らしい。そして、妖精は喜んでお茶を淹れ、転移させたと。

 冷えた身に、茶のあたたかさが染みる。今度厨房に顔を出して、なにか差し入れよう。

「特別功労賞はそれこそ、今更いりませんけど」

 デルフィーニは少し考えた。名誉などたいしてほしくない。ならば……。

「個人用の浴室がほしいですね」

 ああ、とダンブルドアは頷いた。いちいち細かいことまで言わずとも、察してくれるから素晴らしい。

「傷跡はどうだね」

「……形こそ稲妻ですが」

 ただの傷ですね。デルフィーニはダンブルドアの様子をそっと窺う。なるほど、傷跡の形についても情報が渡っているのか。ダンブルドアに驚いた様子はなかった。もちろん、父が背中――傷跡の写真をダンブルドアに見せるなんてことはしていないだろうが。

「妙なことがあれば、すぐに言いなさい。急に痛むだとか……」

 君の場合は、呪いの傷というわけではなかろうが、とダンブルドアが情報をくれる。ポッターの傷跡は急に痛むことがあると。デルフィーニは眼を細めた。墓場での一幕を思い出す。親愛なる肉の父が嬉々として語っていたところによると、ポッターには母親の――リリー・ポッターによる守護が宿っているらしい。我が子の前に身を投げ出した、リリー・ポッターによる最期の魔法だ。そしてその愛、あるいはヴォルデモートへの怒りの発露は、無垢なる赤ん坊に降りかかる死の運命を撥ね除けた。呪いは、報いとなってヴォルデモートを喰らい、人でも霊でもない存在にしてしまった……。

 そして、ヴォルデモートは恥知らずにも、自ら手をかけた魔女の守護をその身に取り込んだのだ。「敵の血」を奪い、復活の材料とすることで。勝ち誇った顔をして、ポッターに触れていた。ポッターは手負いの獣のように叫んでいた……。きっと、傷跡が痛んだのだろう。死の呪文による呪いの傷跡だ。ポッターが蛇語を話せるらしいのは、もしかして、死を願った者と、死を免れた者の間に繋がりがあるからではないか。傷跡がその証だとしたら……。

 ヴォルデモートは謎めいた繋がりを強めてしまったのではないか。リリー・ポッターの守護を取り込むことで。蔑んでならない「穢れた血」の一欠片を取り込んで……。まともな神経ではない。まともだったら、その才能を生かして魔法省に入って高官になるなり、名家に婿入りしてそれなりの地位を得たりしただろう。ヴォルデモートは進んで道を踏み外したのだ。正気なはずがない。

 正気でない男と、狂気とともにある女から生まれたのがデルフィーニだ。逃れようのない事実に、デルフィーニの気持ちは沈んだ。たとえば、ヴォルデモートこと肉の父がデルフィーニを殺そうとしても、肉の母はデルフィーニを庇って死ぬなんていう、美しい自己犠牲など払わなかっただろう。泣かせる話だ。もちろん、リリー・ポッターだって死にたくなかっただろう。追いつめられ、どうしようもなくて、せめてもの足掻きか時間稼ぎかで、行動したのだ。勇敢に。きっと震えながらも。

――ヴォルデモートは

 肉の父は間違えたのだ。あまりにも「魔法族らしさ」にこだわりすぎた。赤ん坊の首をきゅっと絞めてしまえばよかったものを。赤ん坊だったデルフィーニには、実の娘にはそうしたくせに。よほどポッター家の子を確実に始末したかったか、直接触れるのも嫌だったか、それとも恐ろしかったのか。

 肉の父の奇妙な行動、赤ん坊ごときを殺そうとし失敗した不思議から、己が傷跡に思考を割く。本当に、ただの傷跡なのだ。死の呪文を受けたか、悪霊の火が掠めたかの違いはあるが。なんらかの特別な印ではあるまい。

「力の象徴を授かったとでも思っておきましょう」

 もしくは、神の聲がお告げになったのかもしれませんね。

「彼の大悪を」

 神の剣(いなずま)にて切り裂けと。

「豪胆だの」

「めそめそ泣いているほうがお好みですか?」

「あれならば、傷跡を最大限に利用したじゃろう」

 同情を買い、周りを操るためにの。

 ああ、いかにもやりそうだとデルフィーニは鼻を鳴らす。トム・マールヴォロ・リドルが哀しげに眼を伏せてみせれば、参ってしまう輩もいただろう。

「私のやり方じゃありませんから」

 想像上のトム・マールヴォロ・リドルを八つ裂きにしながら返した。誰かをたぶらかしたり、つけこんだりするのは性に合わない。そもそも、肉の父は出自の知れない孤児で、孤児なのにもかかわらず優秀、面相も悪くないという評で、じわじわと周りを毒で侵したのである。後にスリザリンの末裔という「箔」を発見し、純血お友達倶楽部こと死喰い人なる組織を構築したわけだ。対して、デルフィーニはブラック家の娘である。どこかのリドルのように影から影へ隠れるような、弱きもののやり方など必要がないのだ。

「どうせファッジに傷跡を見せびらかしたところで、黙殺されるでしょうし、ファッジの子飼いのあれに対しては、穏和しい兎で通していますので」

 言いながら、わずかに声が尖る。無駄に弱々しい演技をするのは骨が折れる。アンブリッジの嘗めくさった眼よ。仮に、彼女に背をさらせば「傷物の令嬢」の噂は千里を駆けることであろう。もしくは、スリザリン寮でぽろっと「私、拉致されて……」と涙とともにこぼせば、多少は悪意ある噂が流れるであろう。スリザリンの面々は、差別主義者だがお仲間には甘いところがある。よって、デルフィーニの傷跡に関して、同情すれども意地悪くなにかを言う、という可能性は低い。せいぜい「お怪我をしたんですっておかわいそうに。傷跡は治らないのだとか」くらいで済むだろう。

 気にしても仕方がない。逆転時計はないのだし、よしんば時を戻せたとして……なんらかの形でデルフィーニは傷つけられていただろう。デルフィーニが生まれ落ちた時点で、確定していたともいえる。それこそ、デルフィーニが「父上」を慕い、尊敬し、忠実なる僕にでもならない限りは。

――そうして

 道具として使い捨てられていただろう。ヴォルデモートという男は、愛を知らない獣だから。ねだりやで、嫉妬深い、どうしようもない生き物だから。

 背中の傷跡(いなずま)は、あの男の罪の証だ。実の娘を傷つけたという。

 そして、決別の証だ。デルフィーニはあの男を、父とは呼ばない。

 この傷跡は、デルフィーニに力を授けてくれる。必ず、大悪を討ち滅ぼしてやると。稲妻を印された者だと、心に灼き付けるのだ。

「それで、なんのご用かな」

 ダンブルドアに水を向けられ、用件を思い出した。見咎められても問題ないように、マクゴナガルに化けてまで訪ねた理由。

 卓の上にそっと、布包みを置く。ことん、と軽い音がした。包みを解けば、現れたのは砕けたなにか……煤けた金属片であった。

 ダンブルドアの眼が見開かれる。デルフィーニは黙って、その破片たちを組み合わせた。瞬間的に記憶した髪飾りを、なるべく復元する。

「なんと」

「失われたとされる、レイブンクローの髪飾り」

 デルフィーニは歌うように言う。

「あの男が冒涜したようです」

「よくやった」

 ダンブルドアの声は掠れていた。デルフィーニは大変満足した。大魔法使いと呼ばれる男を驚かせるのは楽しいものだ。

 経緯を、と促されたので掻い摘んで説明する。ダンブルドアはため息を吐いた。

「強運だの」

 ヴォルデモートにはなかったものだ。

「あれは正道に背き、数多の罪を犯し……一角獣の血を飲み、呪われたものじゃからな」

 デルフィーニは眼を瞑った。正義感が強いとは思わないし、規則を守るべきとも思わない。むしろ、露見しなければいいと思っているくちである。それがスリザリンである。もっといえば、規則を守る子羊ではなく、都合のよい、柔軟性のある規則を作る側に回るのがスリザリンである。結局、ペンは杖より強しなのだ。

 よって、デルフィーニにとって、道に背いたとか踏み外したとかなんて、たいした問題ではない。正しい道がいつも報われるとは限らない。畢竟、ヴォルデモートはしくじり続けているのだ。快楽に身を任せ、娘をつくって放置して、殺そうとして、傷つけて、背かれたのはあれの業だ。

 娘に「スリザリンの血」を伝え『分霊箱』への道を開いたのもあれの業といえる。

「先生、あれの所業なんて一言でまとめられますよ」

 因果応報、と言うんです。

 にやりとしたデルフィーニに、ダンブルドアは肩をすくめた。そしてスリザリンに二十点くれた。

「レギュラスには連絡しておくぞ」

 デルフィーニは、眼を逸らしながらはあい、と返した。

 翌日、ふくろうがやってきた。

 案の定、父からの説教の手紙であった。なにかやるときは誰か立ち会いの下やりなさい。危ないから。内容はぼかしているが、字が乱れていた。最後の最後にこう書かれていた。

 君のことを誇りに思う、と。

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