十一月に入り、風は冷たさを増した。しかし、一年ぶりのクィディッチシーズン開幕とあって、競技場は熱気に溢れていた。
「……無理しなくていいよ?」
ハッフルパフの観客席でセドリックは囁いた。ぴったりと身を寄せている恋人――婚約者へと。ちなみに、身を寄せているのは愛情の現れではない。二人とも、公衆の面前で「いちゃいちゃ」する類ではないので、こういった展開は織り込んでおくべきではあった。デルフィーニは恋人を湯たんぽかなにかとお思いらしい。競技場の熱気ですら、彼女をあたためることはできないのだ。クィディッチ観戦という名目の逢い引きに誘っておいて、一応ひっついているわけだし、残念に思うセドリックがおかしいのか。それともセドリックを湯たんぽにするデルフィーニがおかしいのか。
「寒くたってなんだって、出てこなきゃいけないときはあるのよ」
デルフィーニは眼をぎらつかせる。その意気やよしだが、甘い雰囲気は欠片もない。まったくない。セドリックは黙って外套を脱ぎ、デルフィーニに羽織らせた。もはやクィディッチ観戦にかこつけた逢い引き作戦は崩壊した。デルフィーニがちょっと嬉しそうな顔をして、素直に外套を受け取ったからよしとしようではないか。まあ婚約しているしな、で諸々を飲み込んで、セドリックは首を傾げた。
「なにを心配しているのかな?」
「――なにかやらかしそうなのよね。こそこそしている気配があったし」
やつら、とデルフィーニは切って捨てるように返す。やつら、とはスリザリン生のことであろう。極一部の、性質の悪い「やつら」。
「君がいる限り、そうそう事は起こせないんじゃないかな」
セドリックは常識を説いた。デルフィーニは六年生である。最高学年でこそないが、それだけともいえる。しかもブラック家の令嬢で、監督生である。吸魂鬼のふりをして乱入、などの馬鹿げた真似は彼らもしないだろう。懲りているはずである。
「甘いわねセドリック。喉元すぎればなんとやら、と言うでしょう」
デルフィーニは顔をしかめた。きゅっと寄った眉間の皺を、セドリックは伸ばしてやりたくなった。我慢した。一応、周りにはハッフルパフ生たちがいるのである。防音呪文と耳塞ぎを使っているし、意識を逸らす系統の魔法――いわゆるマグル除けなどの応用――を使っているので、レディ・ブラックとホグワーツの代表選手だった男の逢い引きに、意識を向ける者はいない。人間以外――二匹の狼は、彼らの足下で伏せをしている。席には、
「……王冠のバッジくらいじゃあ」
なんとも。言いつつ、セドリックも顔をしかめた。監督生バッジ――セドリックは首席バッジ――は別として「バッジ」にいい思い出はない。
「セドリック・ディゴリーを応援しようバッジ」は迷惑な代物であった。百歩譲ってセドリックを応援するだけだったらよかったのだ。スリザリン――ドラコ・マルフォイの意図は純粋にセドリックを応援するなんてかわいらしいものでなかったのは確かだ。あのバッジの本質はハリーを貶め、あざ笑うためのものだった。
「なにかあるかもね」
つい、苦い思いが舌に乗る。白く細い指がセドリックに――眉間に――触れた。
「そうでしょう?」
デルフィーニの手つきは優しかったが、その言の葉は雷のごとき鋭さと激しさを帯びていた。
そうして、彼女の予想は当たった。
「とんでもないお嬢様の婚約者になっちゃったな」
かつて魔法大臣を輩出した、一応貴族、一応名家の男は呟いた。恋人の姿は既にない。振られたのではない。デルフィーニことレディ・ブラックは、さっそうと空に飛び出したのだ。最高級の競技用箒、炎の雷に飛び乗って。なにをしに行ったか? 躾である。レディ・ブラックはお怒りなのである。
足下の狼――銀の眼のミザールが、セドリックを見上げる。澄んだその眼は言っていた。そんな「とんでもないお嬢様」が好きなんでしょう、と。そうなんだけどね、とセドリックは返した。やることがなかなか豪快である。彼女は「ウィーズリーは我が王者」という下品な歌を止めさせた。手段は簡潔だ。沈黙呪文でおしまいである。問題は沈黙呪文の範囲である。ハッフルパフの観客席からスリザリンの観客席へと呪文を放ったのだ。たとえば、廊下の端から端まで呪文を届かせる、ならば可能だろうと思う。しかし観客席から観客席は想定していなかった。デルフィーニはそれをやってのけた。距離の問題をものともせず、呆れたことに合唱団あるいは応援団を標的にし、まとめて黙らせたのだ。要となる合唱団が抑えられてしまい、共に祭りを楽しんでいたスリザリン生たちは総崩れになった。
応援の声が止んだからか、それとも勝てない運命だったのか、スリザリンは負けた。そこで終わっていたならば、レディ・ブラックが出陣する必要などなかったのだ。試合が終わったというのに、見苦しくもスリザリンはあがいたのだ。スリザリンのビーターが、グリフィンドールのシーカー……ハリーにブラッジャーを打ったのである。
この時点で、レディ・ブラックは狼を放った。見ているぞ、許さないぞという警告のために。狼が黒い矢となって観客席を駆け下ると同時に、レディ・ブラックも箒に飛び乗ったというわけだ。
上から万眼鏡で様子を見守った。ドラコ・マルフォイに狼が「じゃれついて」、レディ・ブラックが又いとこ――本当は従弟らしいが――を拘束、引きずっていった。ピンクの蛙がしゃりしゃり出てきたが、レディ・ブラックはにっこりと微笑んだ。珊瑚色の唇が「家庭内の問題ですのであしからず」と言った……。
又いとこに容赦なく沈黙呪文をかけ、拘束し、スリザリンのベンチに叩き込み、レディ・ブラックはなにごともなかったかのような顔をして戻ってきた。輝く競技用箒から飛び降りた婚約者を、セドリックは受け止めた。
「見事な裁きだったよ」
強いて穏やかに、おどけて言ってもデルフィーニの怒りは冷めないようであった。けっと言わんばかりに鼻を鳴らす。彼女の父、レギュラス・ブラックにそっくりであった。父子である。
「性根の腐ったマルフォイめ」
狼のように唸るデルフィーニを宥め、手を引いてその場を退散する。校庭を歩きながら、現場でなにがあったのか、その詳細を聞き取った。ドラコ・マルフォイは人の生まれをけなすようなことを言っていた。
「途中でやめさせたけれど」
アルが、とデルフィーニは言う。狼が誇らしげに尾を振った。
「スリザリンの一部が……」
言葉を選ぼうとする。だが、たまには率直に言うのもよいだろう、と思うままに告げた。
「品のない「振る舞い」をするのはいつものことだろう」
今回は特にマルフォイに対して辛かったね、と言えば、デルフィーニは歯を食いしばった。
「やつは」
しゅっ、とデルフィーニは息を吐く。蛇の王の苛烈な息を思わせた。
「……聖マンゴの……特別病棟にいる患者を、揶揄するようなことを」
言っていたという噂があって。たぶん、本当で。
「許せなかったのよ」
なんで、そんな惨いことができるのか。
デルフィーニが呻く。セドリックはなにも言えなくなってしまった。聖マンゴの特別病棟が、彼女に昏い影を落としているのだとセドリックは知っていた。君には関係がないことだと言ったところで、君の罪ではないと言ったところで、影を拭えはしないのだ。マルフォイはあまりに幼く無知である。言っていいことと悪いことも知らないのさ、と擁護できなかった。「純血」の家系に生まれ、レディ・ブラックと敬われ畏れられる魔女との差異が浮き彫りになるばかり。痛みを知り、傷ついているブラック家の令嬢と、なにも知ろうとしない、真綿にくるまれるようにして育ったマルフォイ家の嫡男と。しかも、二人はいとこ同士なのである。本当は。
「……お陰で」
ウィーズリー家の面々や、ハリーがなにかをやらかさなくて済んだよ。小さく言って、細い身体を抱き寄せた。空が陰り、ちらちらと風花が舞う。セドリックは白いるかの背をそっとさすった。もっとなにか……慰めになるようなことを言えたらいいのに、と思いながら。
代わりに、陳腐な台詞を吐いた。
「僕は、君の行いを見てきたんだ」
血筋がどうだろうと、身に纏う色彩がなんだろうと。
「……心があり、痛みを知る君だからこそ」
僕は婚約したいと思った。
他人のままじゃ嫌だったから。
悪夢のようなグリフィンドール対スリザリン戦の後、デルフィーニは寝込んだ。いつものことである。虚弱な身体が悪いのである。よくもまあ、この年齢まで生きられたものだ。あと一年足らずで成人である。
高熱が出たのはきっとセドリックのせいである。デルフィーニの心をひっかき回す原因の第一位はセドリックなのである。他人のままじゃ嫌だって、もはや殺し文句だろう。
「あの場面」を脳内で再生しては悶え、そのせいか一向に熱が下がらず、デルフィーニは数日の間、寝台とべったりであった。よって、ハグリッドが帰還したことを知らなかった。もちろん、彼が怪我をしたことも知らず……アンブリッジがハグリッドの小屋に偵察に行ったことも知らなかった。
事の次第を知ったのは、恒例行事のようになっている療養を終え、魔法生物飼育学の授業を受けた後である。
「ハーマイオニーも言っちょったよ」
そんなにセストラルは駄目か……とハグリッドは肩を落とした。あたたかな小屋で、デルフィーニは振る舞われた茶を飲んだ。
「五年生以下には早かったと思う」
デルフィーニは、ハグリッドの黄色と緑がパッチワークされた顔を見た。なんでも巨人を取り込もうとして遙々旅をしていたのだ、といきさつを聞いた。巨人と交渉して帰還するだけにしては、随分と時間がかかったものだ。それに、戦闘に巻き込まれたわけでもないだろうに――ハグリッドとマダム・マクシームは傍観者であった――色鮮やかな痣をこしらえるほどのなにがあったのだろう。疑問は渦巻いていたが、無理に聞き出そうとはしなかった。「ハグリッド担当」はダンブルドアである。担当という言い方が不適当ならば、監督でもよい。ハグリッドがなにを隠していようが、デルフィーニが干渉する問題ではない。よって、わざわざ隠し事を暴いたりはしない。なにせ、デルフィーニ自身が秘密まみれである。しかも、ハグリッドはデルフィーニの肉の父のせいで罪を着せられ人生の大半を奪われたようなものだ。遠慮もする。
「いいやつらなんだが……」
「アンブリッジはお気に召さなかったんでしょう」
「所詮役人だぞ」
「そこらの役人じゃなくて、邪悪な役人よ。背後にはファッジもいるもの」
ふん、とハグリッドが鼻を鳴らす。デルフィーニだって同じ気持ちだ。役人なにするものぞと言えるものなら言いたい。ただ、その役人は己が汚らしいと思ったもの……例えば人狼や半巨人がお嫌いだ。そして人ならざるものの中には「ヴォルデモートの娘」も含まれるであろう。大悪は人にあらず。その血を引く娘も、人にあらず。役人の基準は主観的なもので、どうとでも変動する。気に入らないものは人にあらずなのだきっと。「穢れた血」も人にあらずと思っていることだろう。ご立派な出自でもないくせに、そんなことは棚に上げるのだ……ヴォルデモートのように。
こみ上げてくるものを茶で飲み下す。
「私は、セストラルが危険とは思わないわよ。そもそも、見えないんだけど」
「美しいぞ」
ハグリッドが眼を輝かせた。善人なんだけどなあとデルフィーニは嘆息した。冤罪をかけられて、道を外れなかっただけ立派なものである。しかし、善人であり、立派なことと「安全基準」の問題は別である。
「私だってそろそろヒッポグリフを出してほしいわよ」
「実は考えちょった」
「……ただ、あれを刺激しないほうが無難なのよ」
ハグリッドがしょんぼりした。デルフィーニはやむなく手札を切った。
「あなたのお友達のグレンジャーが警告したんでしょう?」
「ハーマイオニーはだいたい正しいからなあ……」
はあ……とハグリッドは息を吐いた。
「火蜥蜴とか、考えておくか」
グレンジャー効果よ。何歳も年下のただの女の子、それも生徒の言うことを素直に聞くハグリッドが賢いのか、グレンジャーが賢いのか。なんにせよ、アンブリッジの毒牙にかかる人間は少ないほうがいいだろう。
滑り落ちるように晩秋から冬へと季節が移った。デルフィーニは慌てず騒がず防寒し、身体を労るようにし、粛々と授業に臨んだ。アンブリッジは相変わらず鬱陶しかった。デルフィーニを味方につけようという腹なのか、なんなのかお茶の招待が複数回あった。渋々、体調不良を押して彼女の室に赴けば、労るふりをして「令嬢、か弱いのは承知しているけれど、授業の出席率がこれでは」と暗に文句を言われた。デルフィーニはアンブリッジと同じ寮だという事実を呪った。暴言の記録も書き留めた。女の破滅も願った。そして、寮監のスネイプに頼った。生徒対教師だと分が悪い。つまり、教師には教師、アンブリッジにはスネイプである。「来年に高等魔法試験を控える身の上だ、彼女は……のみならず六年生は忙しい」「あなたもホグワーツの出身ならばご存じのはずだが」「なんと蒲柳の質の生徒を引きずり出してお茶とは」とスネイプが嫌味たっぷりにアンブリッジに言った結果、お茶に招かれることはなくなった。スネイプは「あの女は好かん。死喰い人でない「だけ」で、性根は邪悪だ」と断言した。彼の室で事の次第を聞き、デルフィーニはにっこりした。スネイプもアンブリッジを鬱陶しいと思っていたと知れたのは収穫である。お礼に、と上等な茶葉を贈った。
体調が悪いのはいつものこと。しかし、アンブリッジとの接触を回避でき、この冬はまずまずだ……と思っていた。そう、白いるかは安全であった。
なぜならば、蛇が標的としていたのはハリー・ポッター。詳細に言うならば、魔法省の地下――神秘部に眠る予言。「ハリー・ポッターの殺しかた」が記録されているであろう、ちっぽけな硝子玉……その奪取を阻む邪魔者であった。
冬期休暇の足音が間近に迫ったその日、その晩。
毒牙が、赤毛の男に突き立てられた。
「アーサーは強運だ」
魔法省――神秘部付近の廊下でアーサー・ウィーズリーが襲われた翌日。レギュラスはブラック邸に客人を招いていた。
「レディ・シメーレ、あなたのお陰だ」
私は最後の一押しをしただけよ、とレディ・シメーレと呼ばれた魔女は答える。黒髪に暗い紅藤の双眸を持つ彼女は、茶器を傾けた。
「聖マンゴはもちろん、北米にドイツにフランスに、中国に日本に……で」
そうそうたる顔ぶれがそろっていたんだもの、と言われ、レギュラスは肩をすくめた。本当にアーサーは強運だ。いや、豪運だ。「たまたま」 「英国主催で」「癒者連盟の学会」が催されているなんて。そこに北米に名高い癒し手一族、シメーレの魔女がいるだなんて。蛇の毒牙を何度も突き立てられれば、命はないものと思ったほうがよい。たとえ魔法族でもだ。ハリー・ポッターが現場を「視て」、迅速に情報が伝わり、アーサーが発見され聖マンゴに運び込まれたのも大きいが、学会が終わって疲れを知らぬ癒者たちが真夜中の懇親会を――きわめて健全なそれを――催していたのも大きい。
「気にするな。癒者たちがおおはしゃぎで、この毒はなんだ新種かとかなんとかしていたんだろうよ」
レギュラスの隣に座る兄がさらりと言った。
「癒者をなんだとお思いかしら。アズカバン帰りを定期検診してあげているこの私に」
「頼んでない」
「あなたの妻が心配しているからよ」
「あんたの妹は心配性なんだよ」
くだらないやりとりが繰り広げられる。卓を挟んで向かいに座る兄の妻レディ・アスラン――レディ・シメーレの妹――は、頭が痛そうな顔をしていた。姉さんが学会だって言うし、自分は夫に会いたいしで英国まで来て「事件」が勃発したら頭も痛くなるだろう。
「バジリスクの牙――毒で血清を作って……も必要ないわ」
レディ・シメーレが話を戻した。彼女は手首を翻す。そこには黄金の輝きがあった。癒し手一族の宝。黄金の『
「ウィーズリー家のご当主は、無意識のうちに防御の魔法を使ったんでしょうよ。抵抗もしたはずで……あちこちに牙を喰らっていたし、毒も入っていたけれど」
幸い、首はやられなかったし、発見から応急処置、搬送までの時間も極めて迅速だった。
「『螺旋杖』で後押しするだけで用は足りたの」
毒は綺麗に抜けるでしょう。牙はそちらで引き続き持っていなさい、とレディ・シメーレは告げる。よろしいので、とレギュラスは問いかけた。
「本来はあなたか……アスラン家か、ゴーントが持っているべきでは」
いらない、とレディ・シメーレが返す。彼女の隣に座るレディ・アスランも同様であった。古い古い血を継ぐ二人。祖は同族でありながら分かれ、やがて宿敵となった。レディ・シメーレは『忘れられた幻獣』の末裔で、レディ・アスランは『去りし魔法騎士一族』の末裔なのである。そして二人は姉妹である。腹違いの――父にヴォルデモートという大悪を持つ同胞なのだ。つまり、デルフィーニの姉たちである。
「私は『螺旋杖』や他の宝を受け継いだから」
牙は末の妹のものよ。そう、レディ・シメーレは断言した。
上階――末の妹こと、デルフィーニ・ブラックの室に赴いた。中に踏み込めば、末妹付きの屋敷しもべが一礼し、さっと姿を消す。レディ・シメーレ、深い森の魔女、癒し手と呼ばれる女は、寝台に歩み寄った。椅子に腰掛け、手を伸ばす。年の離れた――親子ほどに離れた妹の額に触れた。
「かわいそうなこと」
英国のゴーントは、異常なまでに血が濃いという。加えてブラック家も血が濃いほうだ。妹は濃すぎる血の弊害、業と呼んでもよいそれに絡め取られてしまったのだろう。蒲柳の質。大事に大事にしてやらないと、すぐに死ぬ……か弱い白いるか。
姉たちと違って「父」と関係などないと切って捨てるわけにもいかない身の上。大悪に向き合うしかなく、傷だらけにされても立ち向かう。
――強い子だ
身体ではない。魂が。レギュラスは良い名を付けた。海原を――荒れる世を泳ぎ渡るもの。ぴったりだ。
ふっと息を吐き、レディ・シメーレは末妹を探る。外ではなく内を……深い深いところを。不純物がないかどうか……。
――たとえば
魂の欠片。
サラザール・スリザリンは優れた癒し手であった。殊に壊れた心を癒すことに長けた、と伝わる。忌まわしい記憶を封じ込め、なかったことにした。あるいは書き換えた。言うならば――魂に精通していた、と。
魂に関する知見を悪用し、はじまりの『分霊箱』を作ったのが『忘れられた幻獣』である。これまた言い伝えでしかないが、サラザールはオブスキュラスを救う術を模索していた。その一環として魂の歪み――オブスキュラス「だけ」を切り離す術を編んでいた。『忘れられた幻獣』は、救済のための術を変質させ「魂を裂く術」に貶めたのである。
ヴォルデモートとかいう愚か者は、ホグワーツにて『分霊箱』の作製法の一つを発見したらしい。ただし『忘れられた幻獣』が編み出した『分霊箱』も、派生であろうホグワーツに眠っていた術も、ほかの枝分かれしたおとぎ話も、魂を裂くのは一度、つまり二分割を前提にしていた。魂などという魔法の粋にみだりに手を出したその上で、本体と六つ――七つの『分霊箱』をつくるなどもってのほかである。正気の沙汰ではない。
レギュラスによる情報共有により判明した事実にレディ・シメーレは頭を抱えた。上の妹はただ眼を瞑り、妹の夫は「あのなレギュラス。仮にお前もダンブルドアもデルフィーニも死ぬなんて事態になったら詰んでたろうが。なんで早く言わないかな!」と怒っていた。レギュラスは鼻を鳴らしていたが。そりゃあ僕は秘密主義のスリザリンですよ、と。
スリザリンの秘密主義はどこかにおいておこう。問題は魂である。切り裂かれた魂、脆くなった魂の欠片。
本人は――先代のシメーレ家当主と一夜の関係、行きずりの交わりをしたらしい馬鹿者――は、魂を七つに裂けば最強になれると思っているらしいが、多ければいいというものではない。死を回避し、復活を果たした男は、最も脆弱な魂の持ち主である。なんらかの衝撃で魂が欠けて、どこかに付いてしまう可能性は十分にあるのだ。たとえば、末の妹、ヴォルデモートの娘の一人にとか。蒲柳の質はひょっとして、魂の不協和音のなせる技かもしれない、と探ったが無駄であった。デルフィーニに魂の欠片はない。一つの身体に一つの魂だ。
「……じゃあ」
ポッターかしら。彼は蛇の内側から現場を視ていたという。ナギニに馬鹿者の魂が息づいていて……ポッターがそれに引っ張られたとしたら……ありえる。魂の
馬鹿者の魂は、あのハロウィンの夜の時点で脆くなっていた。少なくとも『秘密の部屋』の鍵である日記、ペベレルの指輪……それにレイブンクローの髪飾り、スリザリンのロケットを『分霊箱』にしていただろう。本体と四つ、魂は五つに裂かれていた。
さらに、無垢な赤子の死で以て『分霊箱』を作ろうとしていたら。魂に刃を振り下ろす心づもりであったとしたら……。
杖に死を歌わせたその瞬間、魂に亀裂がはしり、脆くなった。報いが降りかかった。肉体は消滅し、魂が欠け――無垢なる命に憑依したとすれば。
「やっぱりポッターだわ」
レギュラスに可能性だけ伝えておこう。ポッターは蒲柳の質でもないし、なかなか気骨があるし、塵のような魂がついたところで……問題はないだろう。
レディ・シメーレは悩んだ。腕輪となって己に寄り添う『螺旋杖』を見やる。約六百年前の争乱の最中、祖がホグワーツから取り戻した杖を。癒し手一族の粋たるそれを。
強引に問題を解決できなくもない、かもしれない。しかし……二つの魂の欠片ならばともかく、複数の欠片だ。押し通せるか否か。いいや、癒せるか否か。下手をしなくともなにか捧げる必要が生じそうである。
――英国に任せたほうが
安全か。
所詮、自分はレディ・シメーレである。英国を捨てた末裔である。できるかできないかわからない解決法を使うよりは……ダンブルドアのことだから、なにやら腹案があるだろうし。
スリザリンにはあまり関わりたくないのよね、とレディ・シメーレは――北米で最も古い「スリザリンの末裔」は思った。
なにせグリフィンドールとスリザリンの対立、それによる軋轢を端緒とした泥沼に翻弄されたのがシメーレ……『忘れられた幻獣』だ。宿敵である『去りし魔法騎士一族』が滅亡したので祖■■■■■の怨念というべき呪いは薄らいだ。とどめに『螺旋杖』を行使し、数百年にもおよぶ呪いから解放されたのである。
今更、スリザリン――没落したゴーントであり、父親らしいが――に巻き込まれたくない。さっさとくたばればいいのだ。
巧くいっている、とレディ・シメーレは呟く。――の時よりも、と。
ふっと、意識に空白が生じる。刹那に満たない
曇った空を見上げて、はらはらと降る風花の白さが染みるようで……寒さが凍みる、ようで。
青い、青い、ほんの少し紫が混じった至高の青色があまりにかなしそうで。もう、そんなことには……。
かなしい顔をさせたいわけではなかったのに……。
「大丈夫よ白いるか……」
そっと、末妹の額を撫でてやる。『螺旋杖』を通じて、ささやかな癒しの力をそそぎ込んだ。
その瞬間、魂の記憶は泡沫のように消えていく。音もなく、意識すらさせず、魂という海の奥底に沈んでいった。
時の一枝にて。
寒い寒い、雪の日に死んだことなどレディ・シメーレ――■■■■は覚えていない。
青い眼を持つ妹に、姉と呼んでほしかったなどと願ったことなど覚えていない。
心臓が爆ぜて事切れたことも。
どこまでも白いその
姉と呼ばれたい、という願いは。
しあわせになりたい、と同じことなのだ、ということも。
◆レディ・シメーレ
シメーレ家当主。深い森の魔女。癒しの手持つシメーレ。黒髪に暗い紅藤の眼を持つ。
北米はイルヴァモーニー卒。
虹彩シリーズ世界の、いわゆるIFの存在。
ヴォルデモートとシメーレの魔女との間に生まれた。レディ・アスランの異母姉。
『忘れられた幻獣』
去りし魔法騎士一族に戦を仕掛けた一族。去りし魔法騎士一族が切り落とした影であり、ゴーントとも同根である。戦を仕掛けたはいいものの、長引いた戦により疲弊、滅亡した。
※追記※
この一族は後にシメーレと名乗り、北米に根付く。
『シメーレ家』
数百年前――約六百年前に英国を捨てて出て行った一族。宿敵の滅亡とともに祖の呪詛が薄らいだことに加え、ホグワーツ城の地下から持ち出した「スリザリンの杖」の力により、呪いを解く。自由の身となり流浪の果てに北米にたどり着く。
北米における「スリザリンの末裔」の中で最も古い一族。
癒し手の一族。ゴーント、アスランと根を同じくする一族。頻々にアスランの青、ゴーント――スリザリンの赤の虹彩を現す。
『ゴーント家』
かつて、忘れられた幻獣と正統なるスリザリンの末裔の座を争い、敗れた。しかし落ちぶれながらも生き残った。
北米に複数の末裔が存在する。