【完結】白いるかの眼は赤い   作:扇架

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三十一話

 赤と、金色。空が眠りに落ちる間際の(いろ)

 終わり(Ragnarok)の色だ、と思う。

 誰でもない誰か、愛をねだる獣、愛し方を知らなかったそれは、ぼうと立ち尽くす。

 ざあ、と風が吹いて、黄金に染まった野原を撫でていく。ざあ、ざあ……と海鳴りにも似た声を響かせて、去っていく。

 終わってしまったのだ。

 いついつまでもあそこにいたかったのに、駄目だったのだ。

 「それ」は俯く。ぽろり、とこぼれた涙も黄昏の空に染められていく。

 どこに行けばいいのだろう。

 それは、くるりとあたりを見回す。ひとりぼっちだ。孤独を埋めてくれたひとはいなくなった……。

 側にいると言ってくれたあの人はいなくなった。誰もいない。それと一緒にいてくれる人はいない。

 では、とそれは思う。どこにいけばいいのだろう。それにはなにもわからない。それの世界は満ち足りていた。導いてくれたひとがいた。守り育ててくれた人がいた。なにも考えなくてよかった。

 自らの足で、踏み出さなくてもよかった。

 なにをすればいいかわからず、なにを悔いるべきかわからず。ただただ、涙をこぼした。ずっとずうっとここでさまようのだろうか? 薔薇の香が満ちるここで。

 狭間、という言葉が浮かぶ。どこでもないどこか。神の見る夢のごとき、あいまいで、けれども在って、あらゆる時間が交わるところ。誰に教えてもらったわけでもなく、それの頭にすとんと落ちてきた。

 次の場所に行かなければならないのだ、とふと思う。

 一歩、踏み出す。あてずっぽうに。なんだか心惹かれるほうへと。

 悪い子はいらっしゃい、となにかが囁く。ひょう、と風音にも似た声で。

 さらに一歩、もう一歩、柔らかな草を踏む。距離の感覚などない。時間の感覚などない。囁きに心惹かれ、ぼうやりと輝くものを見る。

 まだまだ遠くにあるはずなのに、妙にはっきりと見えた。大きな怪物の口が。

 いつの間にか、黄昏の空がくすんでいる……。どこでもないどこかから、暗く寂しい場所に来てしまったようだ。足下でかさかさと鳴っていた草は失せて、荒れ果てた大地が広がっている……。

「……君も行くのかい」

 気が付けば、その口の側に、誰かが立っていた。朧ににじみ、揺らぐ影。

「ぺろりと食べられて」

 どこかに行くことになるよ。

 影――すり切れ、裂けたローブを着た男は気だるげに言う。ちかり、と灰色の眼が輝いた。すぐそばに、銀色の仮面がある……飽き飽きとして、放り出されたように転がっていた。

 あなたも行くの、とそれは問いかけた。男は肩をすくめた。

「待っている人がいてね」

 僕は悪い子だから、と男は笑う。なんだか寂しげな笑みだった。

 私も悪い子よ、とそれは返す。

 みんなみんな悪い子なのだ。それはとびきり悪いことをしたのだ。

 愛し方を知らなかったから。たぶん、きっと言い訳なのだけど。

「せめて、謝らないといけないなって」

 男は囁く。

「ずっと待っているんだが」

 ■■■■、さすがにしぶとい。なかなか来やしない……と男はぼやく。

「悪かったな」

 冷え冷えとした声がした。振り向けば片眼は群青、片眼は紅のその男が――最期までそれの側にいてくれた男が立っていた。片腕はない。空っぽの袖がふうわりと風に揺れる。

「おい」

 ■■。

「お前がくぐるのはそこじゃない」

 馬鹿が、わざわざ待っていやがったのか。吐き捨てる。そうして、灰色の眼の、寂しそうな影のもとへ行き。

「こんのクソボケが」

 容赦なく蹴りをいれた。それは瞬く。知り合い……なのだろう。いや、友人だろうか。それの驚きにもかまわずに、男――それが愛をねだった彼は、灰色の眼の男を拘束し、指を鳴らした。ずるずる、と男が引きずられる。

 そうして、手を差し出した。そうだ、彼の片腕はないのだ。それが切り落としたから……。

 彼の眼を見る。怒りの色はない。ただ、仕方がないという顔をしていた。いつだってそうだった。我が儘娘と言いながら、側にいてくれた。泥 にまみれ、血に塗れてくれた。堕ちてくれた……。

 おずおずと手を伸ばす。そっと彼の手に重ねた。

「送って差し上げよう」

 どこに、とそれは問いかけた。彼は素っ気なく返した。

「明るいところ」

 こんな寂しい場所じゃないところ。

 怪物の口のなかじゃあなくて。

 手を引かれる。寂しい場所から離れる。怪物の口がひゅうぅうと鳴く。

 木枯らしのようなその声を聞いているうちに、薔薇の香が満ちる野原に戻っていた。

 ひたすらに歩く。やがて、止まった。狭い狭い、薔薇の紅に彩られた緑門(アーチ)

「ここでさようならだ」

 一緒に来て、と囁いた。後から行くさ、と彼は言う。

「俺のレディを探さないといけないから」

 早く行け。神は気まぐれだ。歪んだ、あるはずのない世界であっても、清算される夢幻、神の夢であろうとも……。

 確かに俺たちは在って、間違いだらけであっても生きていた。

 哀れんで、機会をくださったんだ。

 縁があればまた会おう。

「今度は」

 お前がちゃんと(ひかり)を掴めますように。

 どん、と背を押される。淡く輝くそこに飛び込む。お前も行け、と声がして悲鳴を上げながら灰色の眼の男も飛び込んできた。

 右も左もわからない。なにが待っているかもわからない。

 それは――かつてオーグリーと呼ばれた彼女は、思わず手を伸ばした。

 ぎゅっと、灰色の眼の男の手を掴んでしまう。

「怖がらなくていい」

 灰色の眼の男は小さく笑う。

 なんの運命の悪戯かは知らないが、僕らは機会を掴んだらしい。■■■■は殊に、神様に愛されているから。

 だから、大丈夫だ。

 二人で一緒に歩いていく。どこともしれないどこか。霧の渦巻くどこかを。

 そうして、道が分かれた。片方の道にはトネリコが、もう片方にはオークが植わっている。

「じゃあ」

 さようならだ。

 手が離れる。仄かな熱が失せていく。男は励ますようにオーグ■ーの肩を叩く。

 男を手招くようにトネリコの樹が葉ずれを響かせた。

「きっと次はしあわせになれるさ」

 会えればいいわね、とオー■■ーだった彼女は返した。どうかなあ、と灰■■眼の■は呟く。

「たぶん、これは忘れられる記憶だ」

 神の見る夢にも似たものだ。

 それでも、会えればいいな。

 ええ、と■■■■■は頷いた。

 男を見送って、ひとりぼっちになった■■■■■は歩き出す。オークの樹にそっと触れ、俯いた。

「どうか」

 今度こそ。

 ちゃんと生きられますように。

 間違いばかりの生で、肉親の愛は得られずに、側にいてくれた人諸共に果ててしまった。

 なんにも掴めなくて、どうしようもなかったけれど。

 間違い続けても、傷ついても。それでも。

 選べますように。(きぼう)を掴めますように。

 

 そうして、神の気まぐれによって。

 デルフィーニとして再び生まれたのだ。

 

 

 ふ、と眼を開けて灼けるような痛みに呻いた。拍子に涙がこぼれる。神夢(かむゆめ)を抱えて流れ、こぼれ、砕けていく。生まれる前の記憶、神の気まぐれによってもたらされた悪戯、あるいは奇跡は白いるかの魂――海原の底に沈んでいく。

 痛みに翻弄され、いつかどこかの記憶を忘れ去り、デルフィーニは歯を食いしばった。稲妻を刻まれた背と、なぜか腹が痛かった。

――呪いのように

 殊に腹が酷い。背へと突き抜けるような衝撃。心臓が脈打つたびに存在を主張する。だくだくと流れる血の幻が見えるかのよう。

 罰なのだ。それか、疵なのだ……とデルフィーニは吐息をつく。ぜ、と咳をして、身を丸めるようにする。

 いつものことだ、と言い聞かせる。デルフィーニは蒲柳の質だ。脆弱で、放っておかれたら死んでいた。誰かに助けられて生きてきた。

 頭が重く、腕も足もどこもかしこも重く、眼は潤み、すべてが燃えるようであった。いつものことだ。死にはしない。夏の一件からこっち、背が痛むが。おまけに腹も痛むが……おかしいなと思ってマダム・ポンフリーに相談したが、病気ではないらしい。だが、原因不明である。背中は分かる。傷跡のせいだ。腹に関してはお手上げであった。

――幸い

 スネイプが痛み止めを煎じてくれてマシにはなったが。マダム・ポンフリーは癒者である。しかし薬師――魔法薬学師ではない。しかも彼は薬学「士」ではなく「師」なのだ。調合の腕前は一流である。それこそ手際よく脱狼薬を煎じられるほどの。父曰く「僕だって作れるけれどね。彼の流れるような調合には負ける」とのことだ。だからこそ父はスネイプに痛み止めの調合を頼んだのだ。

 唸り、苛立ちながらも臥せるしかない。いくら痛み止めがあろうとも、デルフィーニは病人である。か弱い白いるかにとって、冬の寒さは大敵なのである。

 呪いだろう、この虚弱さ……と百回は思ったことを飽きずに思う。病気ならばなんとかなるかもしれない。けれど、デルフィーニは「ただ虚弱」なだけだ。つまり体質だ。生来のもので、どうしようもない。豚が空を飛べないのと一緒。マグルが魔法を使えないのと一緒。神は白いるかを弱くおつくりになったのである。

 授業は欠席しがちで――双子のずる休みスナックボックスがなくても休めるのだ。それが許されるくらい病気がちなのがデルフィーニ・ブラックであった。とてもかなしい。アンブリッジの授業は積極的に蹴っているが、それはそれ、これはこれである。あの女のくだらない授業に出たら、それこそ体調を崩す。

 学業はどうでもいいとして――課題提出などで挽回はできる――二月の今日はホグズミード行きの日なのだ。数日前からデルフィーニは臥せっている。だからホグズミードもとい逢い引きは無理に決まっていた。そうとも、セドリックは分かっている。春になったら行こうねと言ってくれた。仮に春……三月から五月あたりにホグズミード行きの日があったところで、セドリックは高等魔法試験の追い込みがあるのだ。行けるわけがない。デルフィーニは彼の学業の邪魔をしたくはない。機会があるとすれば学期末付近だろう。そこに望みを賭けるしかない。しかし、蜘蛛の糸のように頼りない望み、希望である。

――ヴォルデモートめ

 だいたい、すべてはあれが悪いのだ。諸悪の根元である。下僕たちを脱獄させるなんて……今はホグズミード行きは禁止されていないけれど、そのうち行けなくなるかもしれない。なにせ凶悪犯の中でもとびきりなのが獄の外に出てしまった。

 ベラトリックス、とまで考えて、デルフィーニは吐き気をこらえた。忌々しいことにそれなりに似ているのだ。最新の手配書の写真はやつれ果て、酷い有様だったが……健康を取り戻せば……。

「私は遠縁の娘なんだから」

 魔除けのお守りのように呟く。遠縁の娘。ブラック家の血筋は似通うものだ。デルフィーニはアンドロメダやナルシッサ寄りである。ベラトリックスではなく。纏う色合いだって魂だって違うのだから、誰も親子だとは思うまい……。

 ネビル・ロングボトムと彼の祖母――オーガスタに露見するわけにはいかない。ただの「ヴォルデモートの娘」なら情状酌量の余地はあるかもしれない。最悪なことにベラトリックスの娘でもあるのだ。まったく頼んでいないが、生まれは変えられない……。

 隠し通すのだもの、と言い聞かせる。誰を両親として生まれるかは選べないけれど、生き方は選ぶことができる。そしてデルフィーニはロングボトムの二人を悩ませるつもりはない。レギュラス・ブラックの娘で通す。生涯、嘘を吐き続ける。出自を明らかにしてどうなるというのだろう。許してください、怪物の娘だけれど、私は違うのですとでも言えばいいのか。

――そんなのは

 自己満足でしかない。

 悲劇に耽溺するつもりはない。デルフィーニはうずくまっているわけにはいかない。自分の足で歩くべきで、選ぶべきなのだ。どう生きるかを。

 手配書の写真を――肉の母の影を脳裏から振り払おうとする。あなたなんて知らない。朽ち果てていればよかったのに……。その前に、あなたには役割があるのだけど。

 誰にだって一つくらい役に立つことがあるのだ。

 掠れた笑いを漏らす。震える手を脇机に伸ばし、杖をつかみ取る。東洋龍の角ではなく、鬼胡桃のそれを。

 肉の母は鬼胡桃の杖を悪事に使った。

 デルフィーニは違う。主に忠実で、どんな求めにも応じる杖を善きことに使ってやる。

 ぐっと杖を握ったとき、こつんと音がした。のろのろとそちらを――窓のほうを見れば、森ふくろうがデルフィーニを見ていた。お入り、と指を曲げる。杖なしで飛行までしてのける魔女の意を受け、窓が開いた。森ふくろうが恭しく入ってきて、脇机に手紙を落とす。元気を出してといわんばかりにデルフィーニの耳を軽く噛み、柔らかな羽音とともに去っていった。

 お見舞いの手紙か、それとも……と思っていると手紙が宙を滑り、デルフィーニのもとへやってきた。痙攣する手でそれを掴み、差出人の名を見た瞬間に目眩がした。

「……また」

 屋敷しもべか……。

 読みたくないなあ、と脇机に手紙を投げる。ちょうどそのとき見舞い客がやってきた。

「デルフィー?」

 調子はどうだい、とやってきた恋人の姿を見て、デルフィーニは手紙のことを忘れた。どうでもよい箱に入れて封印した。

「あと三日もすれば」

 元気になるかな……とデルフィーニは囁いた。寒いから仕方がないよね、とセドリックはなんてことない風に返した。過剰に心配しないのがセドリックのよいところである。きっとデルフィーニの虚弱体質に慣れたのであろう。

 シロップか飴か熱冷ましか、それとも……? とセドリックが問いかける。生ける屍の水薬のうんと薄めたものと、痛み止め、とデルフィーニはお願いした。セドリックは脇机から――あれこれと乗っているのだ――薬瓶を二つとって、首を傾げた。

「君の個人的な領域に踏み込むのはためらうんだけど」

 ハーマイオニー・グレンジャーと文通する仲だったっけ? とセドリックが問いかけてくる。

「妙に懐かれたのよ」

 デルフィーニは投げやりに答えた。台無しであった。もはやなにが台無しなのかわからないが、そういう気分であった。

「……すぐに開くべしの手紙を送られるくらいに?」

 なんの話だ。熱と倦怠感と背中の痛みと腹の痛みに加え、頭痛がしてきた。頭の中で大戦争が繰り広げられているに違いない。

「代わりに読んでくれる?」

 くだらない用事だったらどうしてくれようか、と思いながらセドリックに頼んだ。彼は手紙を手に取り、椅子に腰掛けた。

「いいのかい?」

「婚約者だもの」

 女の子どうしの大事な話だったらどうしよう、とセドリックが呟く。だが、婚約者という言葉の威力に逆らえなかったのか、魅了されたのか彼は手紙を開き、読んだ。

 デルフィーニは沈黙した。グリフィンドールの才媛は、なかなか大胆な行動に出るようだ。そういう話が進行しているのなら、事前に言えばよいものを。

「私がのこのこ出て行って、ぺらぺらしゃべると思っているのかしら」

「か弱い白いるかで通すんだろう?」

「印象……」

 咳が出た。

「操作……は、必須、でしょ」

 ぜえぜえと喘ぐデルフィーニをセドリックが起こす。背をさすられ、口元に薬瓶をあてがわれ、少し楽になった。

「僕が代わりに行こう」

「婚約者だから?」

「それもあるけれどね」

 お忘れかい、僕はあいつを捕縛した一人だ。話の補完はできるだろう。

「印象操作と、その場の監視にはぴったりだと思わないか?」

 僕が悲壮な顔で「デルフィーニ・ブラックはあの事件以来……」と言えば、誰が嘘だと思うだろう。

 デルフィーニは眼を瞑った。

「じゃあお願いします。婚約者殿……」

 目眩と疲れで口が滑った。

「やっぱりあなた、スリザリンでもやっていけたわよ」

 誉めないでよ、とセドリックが笑った。

 誠実、善良、忍耐強い。おまけにけっこうしたたかだ。

 神は何物もセドリック・ディゴリーという男に与えすぎているのではないか?

 だが……神に愛される者というのは、得てして運命に翻弄されるものである。

 きまぐれで、命を落とすものである。

 あるいは、道を踏み外すものである。

 デルフィーニはそのことを知らない。

 どこでもないどこかで彼に会ったことも、言葉を交わしたことも。

 会えればいいと言ったことも。

 忘れられた記憶。

 神夢である。

 

 

 

 遠く遠くに見える空は、黄昏の色。どこでもないどこか。(あわい)(いろ)

――もはや

 届かない場所。

 吹く風は頬をなぶる。呼吸をするたびに肺腑が凍り付きそうなほどに冷たくて。

 足下は灰色の大地。踏み出すたびに朽ちてしまった土が脆く崩れていく。転がる岩。ばらばらと落ちているくすんだ白は、おそらく誰かだったものの骨であろう。

 見放された、荒涼とした場所。いつからいたのかもわからない。時間の感覚など忘れ果ててしまった。ここがどこなのか、なんなのかすらも曖昧だ。彼の――■■■■■の眼に映る景色すら真のものかもわからない。人によってはもしかして、キングズ・クロスのホームなのかもしれない。なんにせよここは「次」へ行くためのところなのだ。

 受け入れて、どこかへ。拒むことはできるけれど。そうすれば影となる……永遠に地上をさまよう。

 行くべきなのだ、と彼は思う。旅は終わったのだと自覚している。一歩踏み出せばいいだけの話だ。彼は悪い子だから……どうなるかわからないけれど。ぱくりと食べられて消えてしまうのか、底に底にと堕ちていくのか。堕ちて堕ちて、堕ちたら……いつの日か、罪は浄められるのか。

 おいで、おいで悪い子はおいで。いい子もおいで。

 背後から聞こえる囁きに――怪物の口の歌声に、彼は首を振る。まだ駄目なんだよと言って。明るい場所に背を向けて――黄昏の園を見ないようにして、彼はずうっとずうっとそこにいる。

 待ち人はまだ現れない。

 たぶん、自己満足なのだろうと思う。どうせ忘れてしまうのだ。ここは狭間で、夢で、覚えていられないのだから。

 後悔したところで、謝ったところで彼の罪は消えはしない。

 屈辱に身を焦がし、怒りのままに振る舞った。のっぴきならない状況ではないのに――たとえば、己の生死がかかっているわけでもなかったのに――人を殺めた。善良なる者たちを。

 間違えてしまったのだ、と彼はため息を吐く。どうしようもなく道を踏み外した。取り返しはつかない。誰も彼もを裏切って、己すらも裏切って、悪い子になってしまった。

 自分勝手だ、と苦笑する。どこまでも己が可愛いのだ。大事なのだ。だから、己の良心の呵責を、魂の澱を吐き出したくて、だから待っている……。

 すっかり堕ちてしまった彼はやがて、軽い足音を捉える。頼りなくて、迷っている歩み。ちかり、と輝くのは赤い色。黄昏を背に受けて、絹糸が黄金に輝いていた。

 炎の色だ。命の彩だ、とぼうやりと「それ」を見る。ああ、歌に惹かれてやってきたのだろう……。魂に疵持つ者は、寂しい者は、殊に惹かれるものなのだ。

 涙を流し、迷い子のような顔をして。寂しくて、つらくて、後悔して、でもどうしようもなくて。苦しくて苦しくて。怪物の歌に惹かれて。

 このままでは飛び込んでしまうだろう……と思えば、なんだかとても惜しくなった。たいした理由ではない。ただ、止めたくなった。「それ」があまりにも疲れ果て、くたびれているように見えたからか、それともあまりに苦しそうだったからか。自ら道を踏み外した■■■■■と違って、明るいところが――まっとうに「次」へ行くのがふさわしいと思ったのか。

 確かな理由はわからない。気づけば、声をかけていた。

 君も行くのかい、と。

 遠い遠い昔の話し方を呼び起こし、そうっと、柔らかく言った。

 怯えさせたくなかったから。

 

「……今更善人ぶって」

 どういうつもりだ。

 薔薇の緑門をくぐり――正確には蹴りを食らって飛び込み――「それ」と連れ立って歩いて、別れた。■■■■■はトネリコの樹に招かれるようにして道を選んだ。

 幸せになれるといいなと言って、さようならを言った……。

「会えればいい、か」

 道の果て――明るい「どこか」の手前で立ち止まる。なにも確かなことはないのに、つい言ってしまった。会えればいいと。ここは夢のごとき場所。起きたら忘れてしまう、儚い時間。

 怖がらなくていいと言って、手を引いてやったことも、交わした会話もなにもかも消えてしまうだろう。堕ちて……堕ちきってしまったこの身はやはり浅ましい。どうせなかったことになる記憶だというのに、意味のないことだというのに。

 最期の道連れに「悪い子」だと思われたくなかったのだ。

 くす、と笑いが漏れる。優等生だった■■■■■。灰の眼でじっと「どこか」を見る。明るい場所。たぶん「次」へと続く場所。

「幸運を」

 (きぼう)の白と生命(いのち)の赤を持つ君。

 自分のためではなく、誰かのために祈ったのはいつぶりだろう。

 ふっと心が軽くなる。

 そうっと眼を瞑り、開き。

 歪められ、恥辱を味わい、自ら堕ちた彼は――悪戯な神の恵み深き男(セドリック)は踏み出した。

 なにが待ち受けているかわからない。幸福を約束されているわけでもないところへ。

 易きを選ばず。狭く険しい道を選び取った。

 

 

 

 ほうほう、とどこかでふくろうが鳴いている。真夜中の使者か、それとも夜間飛行と洒落込んでいるのだろうか。

 セドリックの唇から漏れた呼気が、うっすらと凍る。二月の後半。春の気配はまだ遠い。天を飾る星月も刃のごとき、冴えた輝きを放っている。

 こんな寒い日、それも夜も更けたこんな時間に出歩く者などいない。燃えるような熱を冷ますのにちょうどよく、考えにふけるのにぴったりな夜であった。

 銀色に輝く湖の周りをセドリックは歩く。ひそやかに、音もなく従うのは彼の相棒――狼のミザールだった。時折彼の足に漆黒の身をすりつけ、銀色の眼で彼を見上げ、鼻を鳴らす。

「大丈夫だよ」

 これくらい、と彼は手を振ってみせる。きっと狼の鼻は鉄錆の香を嗅ぎ取っているであろう。主の手の甲に刻まれた傷。流れ出す血の匂いを。

「くだらない、幼稚な……」

 ただの罰則さ。

 小さく呟いて鼻を鳴らす。天の星月を映したかのように、冷たく鋭い輝きを灰の双眸に閃かせ。

「あっちから証拠を出してくれたんだから」

 ありがたいと思っておこう。

 ぐっと拳を握る。簡単にハンカチを巻いた手は酷く痛む。刃で切り刻まれたようなものだから当然で、あの女の――セドリックはドローレス・ジェーン・アンブリッジをそう呼ぶことにした――醜悪さをよく表している。

 『ザ・クィブラー』の「とある記事」の作製に協力した罪――虚言を流し、生徒を不安に陥れ、扇動しようとした等々――でセドリックは数時間ほどあの女と楽しい時間を過ごしてきた。「僕は愚鈍な劣等生」と何度も何度も書かされたのである。手を握られて気持ち悪い思いをするよりはマシだと言い聞かせ、ハリーは前も罰則を受けていたなと思いつつ、乗り切った。あの女が罰則を科そうが、記事は世に出てしまったのである。もはや取り消せないし、情報の伝達をとどめることもできない。

 これくらいの傷はなにほどのものではない。死にかけ、大怪我を負った恋人に比べればかすり傷である。

 ハリーは一生懸命庇ってくれようとしたけれど、仕方のないことだ。記事の内容がハリーを……生き残った男の子、ハリー・ポッターを主としたものだとしても、セドリックだってリータ・スキーターのインタビューに協力した。詳細な「第三の課題の迷路でなにがあったか。死喰い人捕縛劇」について語った。そして俯き、いかにも悲壮な調子で「僕の婚約者はあの男に攫われた」「彼女は怯えきっている」「なんてかわいそう」等々、記事の三分の一を占めるくらいは話した。

 リータ・スキーターは「どこが真面目な優等生ざんすか。なかなかの演技派」「怯えている令嬢Dと書いておけばようござんすね」「悲壮さは三割増しで」「恋人と婚約者のどっちがいい? 婚約者で。オーケー」「もうのろけはけっこうざんす。演技じゃなくて本音?」「そろそろ砂糖を吐きそう」とぶつぶつ言っていたが。なんだかんだで彼女の筆は乗っていたと言おう。リータ・スキーターも「ああ、あのカエルはねえ」と顔をしかめていた。びっくりするくらいの純血主義で、媚びを売る様が気持ち悪いのなんのって、と辛口であった。そんな女をからかってやれるならという気持ちもあったのだろう。多少の報酬が出たのも理由だけれど。

 さすがに無報酬はないだろう、とセドリックは苦笑する。ハーマイオニー・グレンジャーからの手紙には「善意の協力者」と書いてあった。危惧したデルフィーニが、セドリックにいくらか持たせたのだ。もしグレンジャーが報酬もなにもなしで記事を書かせようとしているようだったら、渡してあげてと言って。お陰でリータ・スキーターの態度は軟化した。時に人に必要なのは北風よりも太陽なのである。特に、困窮していると少しの恵みがありがたいものに思えるものだ。

 ふ、と息を吐く。湖を一周したら戻ろう。そして、朝になったらちょっと手を庇うようにしよう。わざわざ「ふり」をしなくても、そうするだろうが。なんて邪悪な羽根ペンだろうか。いいや、なんて邪悪な女だろうか。

 やってやったと思えばいい。ハッフルパフは四つの寮の中でもっとも数が多いのだ。最高学年、首席、シーカー兼キャプテン。そしてホグワーツの代表選手となった男なのだセドリックは。いわばハッフルパフの誉れである。自分で言うのは面映ゆいが。

 あの女はハッフルパフを侮っている。その気になって暴れれば、けっこうなことができるであろう。数の力は偉大なのである。双子がなにやら計画しているようだから、そのときになれば騒ぎに便乗しようではないか。

――前は

 誰かに頼ろうとか、あてにしようとか思わなかったな……と思考の切れ端が脳裏を過ぎる。立ち止まりかけ、蹈鞴を踏むように歩を進めた。

 前ってなんだろうか。

 誰も信じてくれなかった。

 いや、とどこかが――魂の奥底が囁く。信じてくれた人はいた。ハリーと……■■■■と。

 信じてくれたのに、セドリックはなにもかも疑って、裏切って。踏み外した。

「よい星月夜だが」

 子羊が出歩いてよい時間ではないはずでしょう。

 見えざる(ことば)がセドリックを貫き、たゆたう思惟を現世(うつしよ)へと引き戻した。

 いつの間に立ち止まっていたのか。セドリックはそっと振り向いた。星月を返す湖面に染められて、彼の身は仄かな輝きで彩られている。驚くほど蒼い眼が――胸が痛むほど深い眼が、セドリックを見ていた。

「フィレンツェ、先生」

 かろうじて言葉を紡ぐ。こんばんは、と言えば森の賢者、弓の名手にして星を読む者と言われるケンタウルスはこんばんは、と返した。酷く静かに。

「……子羊ではないか」

 フィレンツェは呟く。ダンブルドアによって占い学の教師として招かれた彼はしかし、生徒を叱るつもりはないようだった。小首を傾げ、セドリックをまじまじと見ている。遙か遠くの空、星を見るような眼で。

「大人で、牙もある」

 まあ夜歩きくらい人の子もしたくなるだろう。今宵は空が澄んでいるから。

 ケンタウルスは――星読みは天を仰ぐ。

 私は人の子の星は読まぬが……。

「恵み深き男。善き魂ゆえに、脆く、もてあそばれかねなかったのに」

 するり、と災厄をかわしたようだ。興味深い。

 いいや、どの星も――。

「いるか座も、蒼い蒼い星も、天狼星も、獅子の星も、なにもかも」

 いずこかにおわす方が、その御手を伸ばし、戯れに動かしたかのように……。

「天の絵図はどこか歪み」

 それゆえに美しい。

 深々と静かで、どこか茫洋としていて、それゆえに重い声。セドリックは星読みから眼を逸らした。もてあそばれかねなかった? なにを馬鹿な……。呼吸が乱れる。人の子の眼と、星読みたるケンタウルスの眼は違う。見ている世界が違うのだ。気にすることはない。

 だというのに、心臓が跳ねる。ちらちらと過ぎる影。どこかが疼く。思わず、胸元を掴んだ。

「星がどうであろうと」

 僕は、選んだんです。

 考える間もなく言う。

「こうあることを」

 唇を引き結ぶ。なにをわけのわからないこと、と顔が熱くなる。それでも、言わずにはいられなかった。

 運命なんて嫌いだとどこかが叫ぶ。そんなものは蹴り飛ばしてしまえばよかったのだ、とどこかが泣く。

 流されるべきではなく、易き道を行くべきではなかったのだと。

 その手を血に染めて。沈んで、堕ちて。泥にまみれて。

 後悔した。

 嵐のようにセドリックに襲いかかった記憶は、本人が自覚する前に解けていく。散り散りになって、吹き抜けていった。

 名残が――記憶の海に細波を立て、綾を描いた。

「先生には申し訳ないけれど」

 僕は星の絵図(うんめい)なんて信じませんよ。

「そんなくだらないもののせいにはしない」

 ぽつぽつと、辿々しい、支離滅裂な言を、星読みは笑わなかった。海の蒼、空の蒼を煌めかせる。

「我々は星に縛られる」

「しかし、君たちは」

 人の子は、星を掴みとる。そういうものだと私は知っている。

「今度こそ良き旅を」

 言って、星読みは眼を瞑る。

「……今宵の空は私を惑わせるようだ」

 さては輝く赤い星のせいか、否か。この舌が、いずこかにおわすお方の言の葉を紡いだようだ……。

「君も惑わされないうちにお帰り」

 囁かれ、セドリックはおやすみなさいを言って星読みに背を向けた。

 軽くミザールの頭を撫で、気を落ち着かせる。きっと星が悪さをしたせいなのだろう。妙に胸が騒ぐのは。

「今度こそってなんだろうね」

 狼に囁く。彼女と星と月を道連れに、夜を行く。ぼうっと灯る城の明かりを見つめ、深く息を吐いた。

 今度こそだろうがなんだろうか構わない。セドリックは生きていて、ちゃんと歩んでいるのだ。己の(みち)を。

 セドリック・ディゴリーはもちろん知らない。忘れたことすら忘れている。その記憶は深い深いところにある。

 悔いて、再び生を得たことも。

 会えればいいなと言った、光の白と生命の赤を持つ君に。

 巡り会えたことも。

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