赤と、金色。空が眠りに落ちる間際の
誰でもない誰か、愛をねだる獣、愛し方を知らなかったそれは、ぼうと立ち尽くす。
ざあ、と風が吹いて、黄金に染まった野原を撫でていく。ざあ、ざあ……と海鳴りにも似た声を響かせて、去っていく。
終わってしまったのだ。
いついつまでもあそこにいたかったのに、駄目だったのだ。
「それ」は俯く。ぽろり、とこぼれた涙も黄昏の空に染められていく。
どこに行けばいいのだろう。
それは、くるりとあたりを見回す。ひとりぼっちだ。孤独を埋めてくれたひとはいなくなった……。
側にいると言ってくれたあの人はいなくなった。誰もいない。それと一緒にいてくれる人はいない。
では、とそれは思う。どこにいけばいいのだろう。それにはなにもわからない。それの世界は満ち足りていた。導いてくれたひとがいた。守り育ててくれた人がいた。なにも考えなくてよかった。
自らの足で、踏み出さなくてもよかった。
なにをすればいいかわからず、なにを悔いるべきかわからず。ただただ、涙をこぼした。ずっとずうっとここでさまようのだろうか? 薔薇の香が満ちるここで。
狭間、という言葉が浮かぶ。どこでもないどこか。神の見る夢のごとき、あいまいで、けれども在って、あらゆる時間が交わるところ。誰に教えてもらったわけでもなく、それの頭にすとんと落ちてきた。
次の場所に行かなければならないのだ、とふと思う。
一歩、踏み出す。あてずっぽうに。なんだか心惹かれるほうへと。
悪い子はいらっしゃい、となにかが囁く。ひょう、と風音にも似た声で。
さらに一歩、もう一歩、柔らかな草を踏む。距離の感覚などない。時間の感覚などない。囁きに心惹かれ、ぼうやりと輝くものを見る。
まだまだ遠くにあるはずなのに、妙にはっきりと見えた。大きな怪物の口が。
いつの間にか、黄昏の空がくすんでいる……。どこでもないどこかから、暗く寂しい場所に来てしまったようだ。足下でかさかさと鳴っていた草は失せて、荒れ果てた大地が広がっている……。
「……君も行くのかい」
気が付けば、その口の側に、誰かが立っていた。朧ににじみ、揺らぐ影。
「ぺろりと食べられて」
どこかに行くことになるよ。
影――すり切れ、裂けたローブを着た男は気だるげに言う。ちかり、と灰色の眼が輝いた。すぐそばに、銀色の仮面がある……飽き飽きとして、放り出されたように転がっていた。
あなたも行くの、とそれは問いかけた。男は肩をすくめた。
「待っている人がいてね」
僕は悪い子だから、と男は笑う。なんだか寂しげな笑みだった。
私も悪い子よ、とそれは返す。
みんなみんな悪い子なのだ。それはとびきり悪いことをしたのだ。
愛し方を知らなかったから。たぶん、きっと言い訳なのだけど。
「せめて、謝らないといけないなって」
男は囁く。
「ずっと待っているんだが」
■■■■、さすがにしぶとい。なかなか来やしない……と男はぼやく。
「悪かったな」
冷え冷えとした声がした。振り向けば片眼は群青、片眼は紅のその男が――最期までそれの側にいてくれた男が立っていた。片腕はない。空っぽの袖がふうわりと風に揺れる。
「おい」
■■。
「お前がくぐるのはそこじゃない」
馬鹿が、わざわざ待っていやがったのか。吐き捨てる。そうして、灰色の眼の、寂しそうな影のもとへ行き。
「こんのクソボケが」
容赦なく蹴りをいれた。それは瞬く。知り合い……なのだろう。いや、友人だろうか。それの驚きにもかまわずに、男――それが愛をねだった彼は、灰色の眼の男を拘束し、指を鳴らした。ずるずる、と男が引きずられる。
そうして、手を差し出した。そうだ、彼の片腕はないのだ。それが切り落としたから……。
彼の眼を見る。怒りの色はない。ただ、仕方がないという顔をしていた。いつだってそうだった。我が儘娘と言いながら、側にいてくれた。泥 にまみれ、血に塗れてくれた。堕ちてくれた……。
おずおずと手を伸ばす。そっと彼の手に重ねた。
「送って差し上げよう」
どこに、とそれは問いかけた。彼は素っ気なく返した。
「明るいところ」
こんな寂しい場所じゃないところ。
怪物の口のなかじゃあなくて。
手を引かれる。寂しい場所から離れる。怪物の口がひゅうぅうと鳴く。
木枯らしのようなその声を聞いているうちに、薔薇の香が満ちる野原に戻っていた。
ひたすらに歩く。やがて、止まった。狭い狭い、薔薇の紅に彩られた
「ここでさようならだ」
一緒に来て、と囁いた。後から行くさ、と彼は言う。
「俺のレディを探さないといけないから」
早く行け。神は気まぐれだ。歪んだ、あるはずのない世界であっても、清算される夢幻、神の夢であろうとも……。
確かに俺たちは在って、間違いだらけであっても生きていた。
哀れんで、機会をくださったんだ。
縁があればまた会おう。
「今度は」
お前がちゃんと
どん、と背を押される。淡く輝くそこに飛び込む。お前も行け、と声がして悲鳴を上げながら灰色の眼の男も飛び込んできた。
右も左もわからない。なにが待っているかもわからない。
それは――かつてオーグリーと呼ばれた彼女は、思わず手を伸ばした。
ぎゅっと、灰色の眼の男の手を掴んでしまう。
「怖がらなくていい」
灰色の眼の男は小さく笑う。
なんの運命の悪戯かは知らないが、僕らは機会を掴んだらしい。■■■■は殊に、神様に愛されているから。
だから、大丈夫だ。
二人で一緒に歩いていく。どこともしれないどこか。霧の渦巻くどこかを。
そうして、道が分かれた。片方の道にはトネリコが、もう片方にはオークが植わっている。
「じゃあ」
さようならだ。
手が離れる。仄かな熱が失せていく。男は励ますようにオーグ■ーの肩を叩く。
男を手招くようにトネリコの樹が葉ずれを響かせた。
「きっと次はしあわせになれるさ」
会えればいいわね、とオー■■ーだった彼女は返した。どうかなあ、と灰■■眼の■は呟く。
「たぶん、これは忘れられる記憶だ」
神の見る夢にも似たものだ。
それでも、会えればいいな。
ええ、と■■■■■は頷いた。
男を見送って、ひとりぼっちになった■■■■■は歩き出す。オークの樹にそっと触れ、俯いた。
「どうか」
今度こそ。
ちゃんと生きられますように。
間違いばかりの生で、肉親の愛は得られずに、側にいてくれた人諸共に果ててしまった。
なんにも掴めなくて、どうしようもなかったけれど。
間違い続けても、傷ついても。それでも。
選べますように。
そうして、神の気まぐれによって。
デルフィーニとして再び生まれたのだ。
ふ、と眼を開けて灼けるような痛みに呻いた。拍子に涙がこぼれる。
痛みに翻弄され、いつかどこかの記憶を忘れ去り、デルフィーニは歯を食いしばった。稲妻を刻まれた背と、なぜか腹が痛かった。
――呪いのように
殊に腹が酷い。背へと突き抜けるような衝撃。心臓が脈打つたびに存在を主張する。だくだくと流れる血の幻が見えるかのよう。
罰なのだ。それか、疵なのだ……とデルフィーニは吐息をつく。ぜ、と咳をして、身を丸めるようにする。
いつものことだ、と言い聞かせる。デルフィーニは蒲柳の質だ。脆弱で、放っておかれたら死んでいた。誰かに助けられて生きてきた。
頭が重く、腕も足もどこもかしこも重く、眼は潤み、すべてが燃えるようであった。いつものことだ。死にはしない。夏の一件からこっち、背が痛むが。おまけに腹も痛むが……おかしいなと思ってマダム・ポンフリーに相談したが、病気ではないらしい。だが、原因不明である。背中は分かる。傷跡のせいだ。腹に関してはお手上げであった。
――幸い
スネイプが痛み止めを煎じてくれてマシにはなったが。マダム・ポンフリーは癒者である。しかし薬師――魔法薬学師ではない。しかも彼は薬学「士」ではなく「師」なのだ。調合の腕前は一流である。それこそ手際よく脱狼薬を煎じられるほどの。父曰く「僕だって作れるけれどね。彼の流れるような調合には負ける」とのことだ。だからこそ父はスネイプに痛み止めの調合を頼んだのだ。
唸り、苛立ちながらも臥せるしかない。いくら痛み止めがあろうとも、デルフィーニは病人である。か弱い白いるかにとって、冬の寒さは大敵なのである。
呪いだろう、この虚弱さ……と百回は思ったことを飽きずに思う。病気ならばなんとかなるかもしれない。けれど、デルフィーニは「ただ虚弱」なだけだ。つまり体質だ。生来のもので、どうしようもない。豚が空を飛べないのと一緒。マグルが魔法を使えないのと一緒。神は白いるかを弱くおつくりになったのである。
授業は欠席しがちで――双子のずる休みスナックボックスがなくても休めるのだ。それが許されるくらい病気がちなのがデルフィーニ・ブラックであった。とてもかなしい。アンブリッジの授業は積極的に蹴っているが、それはそれ、これはこれである。あの女のくだらない授業に出たら、それこそ体調を崩す。
学業はどうでもいいとして――課題提出などで挽回はできる――二月の今日はホグズミード行きの日なのだ。数日前からデルフィーニは臥せっている。だからホグズミードもとい逢い引きは無理に決まっていた。そうとも、セドリックは分かっている。春になったら行こうねと言ってくれた。仮に春……三月から五月あたりにホグズミード行きの日があったところで、セドリックは高等魔法試験の追い込みがあるのだ。行けるわけがない。デルフィーニは彼の学業の邪魔をしたくはない。機会があるとすれば学期末付近だろう。そこに望みを賭けるしかない。しかし、蜘蛛の糸のように頼りない望み、希望である。
――ヴォルデモートめ
だいたい、すべてはあれが悪いのだ。諸悪の根元である。下僕たちを脱獄させるなんて……今はホグズミード行きは禁止されていないけれど、そのうち行けなくなるかもしれない。なにせ凶悪犯の中でもとびきりなのが獄の外に出てしまった。
ベラトリックス、とまで考えて、デルフィーニは吐き気をこらえた。忌々しいことにそれなりに似ているのだ。最新の手配書の写真はやつれ果て、酷い有様だったが……健康を取り戻せば……。
「私は遠縁の娘なんだから」
魔除けのお守りのように呟く。遠縁の娘。ブラック家の血筋は似通うものだ。デルフィーニはアンドロメダやナルシッサ寄りである。ベラトリックスではなく。纏う色合いだって魂だって違うのだから、誰も親子だとは思うまい……。
ネビル・ロングボトムと彼の祖母――オーガスタに露見するわけにはいかない。ただの「ヴォルデモートの娘」なら情状酌量の余地はあるかもしれない。最悪なことにベラトリックスの娘でもあるのだ。まったく頼んでいないが、生まれは変えられない……。
隠し通すのだもの、と言い聞かせる。誰を両親として生まれるかは選べないけれど、生き方は選ぶことができる。そしてデルフィーニはロングボトムの二人を悩ませるつもりはない。レギュラス・ブラックの娘で通す。生涯、嘘を吐き続ける。出自を明らかにしてどうなるというのだろう。許してください、怪物の娘だけれど、私は違うのですとでも言えばいいのか。
――そんなのは
自己満足でしかない。
悲劇に耽溺するつもりはない。デルフィーニはうずくまっているわけにはいかない。自分の足で歩くべきで、選ぶべきなのだ。どう生きるかを。
手配書の写真を――肉の母の影を脳裏から振り払おうとする。あなたなんて知らない。朽ち果てていればよかったのに……。その前に、あなたには役割があるのだけど。
誰にだって一つくらい役に立つことがあるのだ。
掠れた笑いを漏らす。震える手を脇机に伸ばし、杖をつかみ取る。東洋龍の角ではなく、鬼胡桃のそれを。
肉の母は鬼胡桃の杖を悪事に使った。
デルフィーニは違う。主に忠実で、どんな求めにも応じる杖を善きことに使ってやる。
ぐっと杖を握ったとき、こつんと音がした。のろのろとそちらを――窓のほうを見れば、森ふくろうがデルフィーニを見ていた。お入り、と指を曲げる。杖なしで飛行までしてのける魔女の意を受け、窓が開いた。森ふくろうが恭しく入ってきて、脇机に手紙を落とす。元気を出してといわんばかりにデルフィーニの耳を軽く噛み、柔らかな羽音とともに去っていった。
お見舞いの手紙か、それとも……と思っていると手紙が宙を滑り、デルフィーニのもとへやってきた。痙攣する手でそれを掴み、差出人の名を見た瞬間に目眩がした。
「……また」
屋敷しもべか……。
読みたくないなあ、と脇机に手紙を投げる。ちょうどそのとき見舞い客がやってきた。
「デルフィー?」
調子はどうだい、とやってきた恋人の姿を見て、デルフィーニは手紙のことを忘れた。どうでもよい箱に入れて封印した。
「あと三日もすれば」
元気になるかな……とデルフィーニは囁いた。寒いから仕方がないよね、とセドリックはなんてことない風に返した。過剰に心配しないのがセドリックのよいところである。きっとデルフィーニの虚弱体質に慣れたのであろう。
シロップか飴か熱冷ましか、それとも……? とセドリックが問いかける。生ける屍の水薬のうんと薄めたものと、痛み止め、とデルフィーニはお願いした。セドリックは脇机から――あれこれと乗っているのだ――薬瓶を二つとって、首を傾げた。
「君の個人的な領域に踏み込むのはためらうんだけど」
ハーマイオニー・グレンジャーと文通する仲だったっけ? とセドリックが問いかけてくる。
「妙に懐かれたのよ」
デルフィーニは投げやりに答えた。台無しであった。もはやなにが台無しなのかわからないが、そういう気分であった。
「……すぐに開くべしの手紙を送られるくらいに?」
なんの話だ。熱と倦怠感と背中の痛みと腹の痛みに加え、頭痛がしてきた。頭の中で大戦争が繰り広げられているに違いない。
「代わりに読んでくれる?」
くだらない用事だったらどうしてくれようか、と思いながらセドリックに頼んだ。彼は手紙を手に取り、椅子に腰掛けた。
「いいのかい?」
「婚約者だもの」
女の子どうしの大事な話だったらどうしよう、とセドリックが呟く。だが、婚約者という言葉の威力に逆らえなかったのか、魅了されたのか彼は手紙を開き、読んだ。
デルフィーニは沈黙した。グリフィンドールの才媛は、なかなか大胆な行動に出るようだ。そういう話が進行しているのなら、事前に言えばよいものを。
「私がのこのこ出て行って、ぺらぺらしゃべると思っているのかしら」
「か弱い白いるかで通すんだろう?」
「印象……」
咳が出た。
「操作……は、必須、でしょ」
ぜえぜえと喘ぐデルフィーニをセドリックが起こす。背をさすられ、口元に薬瓶をあてがわれ、少し楽になった。
「僕が代わりに行こう」
「婚約者だから?」
「それもあるけれどね」
お忘れかい、僕はあいつを捕縛した一人だ。話の補完はできるだろう。
「印象操作と、その場の監視にはぴったりだと思わないか?」
僕が悲壮な顔で「デルフィーニ・ブラックはあの事件以来……」と言えば、誰が嘘だと思うだろう。
デルフィーニは眼を瞑った。
「じゃあお願いします。婚約者殿……」
目眩と疲れで口が滑った。
「やっぱりあなた、スリザリンでもやっていけたわよ」
誉めないでよ、とセドリックが笑った。
誠実、善良、忍耐強い。おまけにけっこうしたたかだ。
神は何物もセドリック・ディゴリーという男に与えすぎているのではないか?
だが……神に愛される者というのは、得てして運命に翻弄されるものである。
きまぐれで、命を落とすものである。
あるいは、道を踏み外すものである。
デルフィーニはそのことを知らない。
どこでもないどこかで彼に会ったことも、言葉を交わしたことも。
会えればいいと言ったことも。
忘れられた記憶。
神夢である。
遠く遠くに見える空は、黄昏の色。どこでもないどこか。
――もはや
届かない場所。
吹く風は頬をなぶる。呼吸をするたびに肺腑が凍り付きそうなほどに冷たくて。
足下は灰色の大地。踏み出すたびに朽ちてしまった土が脆く崩れていく。転がる岩。ばらばらと落ちているくすんだ白は、おそらく誰かだったものの骨であろう。
見放された、荒涼とした場所。いつからいたのかもわからない。時間の感覚など忘れ果ててしまった。ここがどこなのか、なんなのかすらも曖昧だ。彼の――■■■■■の眼に映る景色すら真のものかもわからない。人によってはもしかして、キングズ・クロスのホームなのかもしれない。なんにせよここは「次」へ行くためのところなのだ。
受け入れて、どこかへ。拒むことはできるけれど。そうすれば影となる……永遠に地上をさまよう。
行くべきなのだ、と彼は思う。旅は終わったのだと自覚している。一歩踏み出せばいいだけの話だ。彼は悪い子だから……どうなるかわからないけれど。ぱくりと食べられて消えてしまうのか、底に底にと堕ちていくのか。堕ちて堕ちて、堕ちたら……いつの日か、罪は浄められるのか。
おいで、おいで悪い子はおいで。いい子もおいで。
背後から聞こえる囁きに――怪物の口の歌声に、彼は首を振る。まだ駄目なんだよと言って。明るい場所に背を向けて――黄昏の園を見ないようにして、彼はずうっとずうっとそこにいる。
待ち人はまだ現れない。
たぶん、自己満足なのだろうと思う。どうせ忘れてしまうのだ。ここは狭間で、夢で、覚えていられないのだから。
後悔したところで、謝ったところで彼の罪は消えはしない。
屈辱に身を焦がし、怒りのままに振る舞った。のっぴきならない状況ではないのに――たとえば、己の生死がかかっているわけでもなかったのに――人を殺めた。善良なる者たちを。
間違えてしまったのだ、と彼はため息を吐く。どうしようもなく道を踏み外した。取り返しはつかない。誰も彼もを裏切って、己すらも裏切って、悪い子になってしまった。
自分勝手だ、と苦笑する。どこまでも己が可愛いのだ。大事なのだ。だから、己の良心の呵責を、魂の澱を吐き出したくて、だから待っている……。
すっかり堕ちてしまった彼はやがて、軽い足音を捉える。頼りなくて、迷っている歩み。ちかり、と輝くのは赤い色。黄昏を背に受けて、絹糸が黄金に輝いていた。
炎の色だ。命の彩だ、とぼうやりと「それ」を見る。ああ、歌に惹かれてやってきたのだろう……。魂に疵持つ者は、寂しい者は、殊に惹かれるものなのだ。
涙を流し、迷い子のような顔をして。寂しくて、つらくて、後悔して、でもどうしようもなくて。苦しくて苦しくて。怪物の歌に惹かれて。
このままでは飛び込んでしまうだろう……と思えば、なんだかとても惜しくなった。たいした理由ではない。ただ、止めたくなった。「それ」があまりにも疲れ果て、くたびれているように見えたからか、それともあまりに苦しそうだったからか。自ら道を踏み外した■■■■■と違って、明るいところが――まっとうに「次」へ行くのがふさわしいと思ったのか。
確かな理由はわからない。気づけば、声をかけていた。
君も行くのかい、と。
遠い遠い昔の話し方を呼び起こし、そうっと、柔らかく言った。
怯えさせたくなかったから。
「……今更善人ぶって」
どういうつもりだ。
薔薇の緑門をくぐり――正確には蹴りを食らって飛び込み――「それ」と連れ立って歩いて、別れた。■■■■■はトネリコの樹に招かれるようにして道を選んだ。
幸せになれるといいなと言って、さようならを言った……。
「会えればいい、か」
道の果て――明るい「どこか」の手前で立ち止まる。なにも確かなことはないのに、つい言ってしまった。会えればいいと。ここは夢のごとき場所。起きたら忘れてしまう、儚い時間。
怖がらなくていいと言って、手を引いてやったことも、交わした会話もなにもかも消えてしまうだろう。堕ちて……堕ちきってしまったこの身はやはり浅ましい。どうせなかったことになる記憶だというのに、意味のないことだというのに。
最期の道連れに「悪い子」だと思われたくなかったのだ。
くす、と笑いが漏れる。優等生だった■■■■■。灰の眼でじっと「どこか」を見る。明るい場所。たぶん「次」へと続く場所。
「幸運を」
自分のためではなく、誰かのために祈ったのはいつぶりだろう。
ふっと心が軽くなる。
そうっと眼を瞑り、開き。
歪められ、恥辱を味わい、自ら堕ちた彼は――悪戯な神の
なにが待ち受けているかわからない。幸福を約束されているわけでもないところへ。
易きを選ばず。狭く険しい道を選び取った。
ほうほう、とどこかでふくろうが鳴いている。真夜中の使者か、それとも夜間飛行と洒落込んでいるのだろうか。
セドリックの唇から漏れた呼気が、うっすらと凍る。二月の後半。春の気配はまだ遠い。天を飾る星月も刃のごとき、冴えた輝きを放っている。
こんな寒い日、それも夜も更けたこんな時間に出歩く者などいない。燃えるような熱を冷ますのにちょうどよく、考えにふけるのにぴったりな夜であった。
銀色に輝く湖の周りをセドリックは歩く。ひそやかに、音もなく従うのは彼の相棒――狼のミザールだった。時折彼の足に漆黒の身をすりつけ、銀色の眼で彼を見上げ、鼻を鳴らす。
「大丈夫だよ」
これくらい、と彼は手を振ってみせる。きっと狼の鼻は鉄錆の香を嗅ぎ取っているであろう。主の手の甲に刻まれた傷。流れ出す血の匂いを。
「くだらない、幼稚な……」
ただの罰則さ。
小さく呟いて鼻を鳴らす。天の星月を映したかのように、冷たく鋭い輝きを灰の双眸に閃かせ。
「あっちから証拠を出してくれたんだから」
ありがたいと思っておこう。
ぐっと拳を握る。簡単にハンカチを巻いた手は酷く痛む。刃で切り刻まれたようなものだから当然で、あの女の――セドリックはドローレス・ジェーン・アンブリッジをそう呼ぶことにした――醜悪さをよく表している。
『ザ・クィブラー』の「とある記事」の作製に協力した罪――虚言を流し、生徒を不安に陥れ、扇動しようとした等々――でセドリックは数時間ほどあの女と楽しい時間を過ごしてきた。「僕は愚鈍な劣等生」と何度も何度も書かされたのである。手を握られて気持ち悪い思いをするよりはマシだと言い聞かせ、ハリーは前も罰則を受けていたなと思いつつ、乗り切った。あの女が罰則を科そうが、記事は世に出てしまったのである。もはや取り消せないし、情報の伝達をとどめることもできない。
これくらいの傷はなにほどのものではない。死にかけ、大怪我を負った恋人に比べればかすり傷である。
ハリーは一生懸命庇ってくれようとしたけれど、仕方のないことだ。記事の内容がハリーを……生き残った男の子、ハリー・ポッターを主としたものだとしても、セドリックだってリータ・スキーターのインタビューに協力した。詳細な「第三の課題の迷路でなにがあったか。死喰い人捕縛劇」について語った。そして俯き、いかにも悲壮な調子で「僕の婚約者はあの男に攫われた」「彼女は怯えきっている」「なんてかわいそう」等々、記事の三分の一を占めるくらいは話した。
リータ・スキーターは「どこが真面目な優等生ざんすか。なかなかの演技派」「怯えている令嬢Dと書いておけばようござんすね」「悲壮さは三割増しで」「恋人と婚約者のどっちがいい? 婚約者で。オーケー」「もうのろけはけっこうざんす。演技じゃなくて本音?」「そろそろ砂糖を吐きそう」とぶつぶつ言っていたが。なんだかんだで彼女の筆は乗っていたと言おう。リータ・スキーターも「ああ、あのカエルはねえ」と顔をしかめていた。びっくりするくらいの純血主義で、媚びを売る様が気持ち悪いのなんのって、と辛口であった。そんな女をからかってやれるならという気持ちもあったのだろう。多少の報酬が出たのも理由だけれど。
さすがに無報酬はないだろう、とセドリックは苦笑する。ハーマイオニー・グレンジャーからの手紙には「善意の協力者」と書いてあった。危惧したデルフィーニが、セドリックにいくらか持たせたのだ。もしグレンジャーが報酬もなにもなしで記事を書かせようとしているようだったら、渡してあげてと言って。お陰でリータ・スキーターの態度は軟化した。時に人に必要なのは北風よりも太陽なのである。特に、困窮していると少しの恵みがありがたいものに思えるものだ。
ふ、と息を吐く。湖を一周したら戻ろう。そして、朝になったらちょっと手を庇うようにしよう。わざわざ「ふり」をしなくても、そうするだろうが。なんて邪悪な羽根ペンだろうか。いいや、なんて邪悪な女だろうか。
やってやったと思えばいい。ハッフルパフは四つの寮の中でもっとも数が多いのだ。最高学年、首席、シーカー兼キャプテン。そしてホグワーツの代表選手となった男なのだセドリックは。いわばハッフルパフの誉れである。自分で言うのは面映ゆいが。
あの女はハッフルパフを侮っている。その気になって暴れれば、けっこうなことができるであろう。数の力は偉大なのである。双子がなにやら計画しているようだから、そのときになれば騒ぎに便乗しようではないか。
――前は
誰かに頼ろうとか、あてにしようとか思わなかったな……と思考の切れ端が脳裏を過ぎる。立ち止まりかけ、蹈鞴を踏むように歩を進めた。
前ってなんだろうか。
誰も信じてくれなかった。
いや、とどこかが――魂の奥底が囁く。信じてくれた人はいた。ハリーと……■■■■と。
信じてくれたのに、セドリックはなにもかも疑って、裏切って。踏み外した。
「よい星月夜だが」
子羊が出歩いてよい時間ではないはずでしょう。
見えざる
いつの間に立ち止まっていたのか。セドリックはそっと振り向いた。星月を返す湖面に染められて、彼の身は仄かな輝きで彩られている。驚くほど蒼い眼が――胸が痛むほど深い眼が、セドリックを見ていた。
「フィレンツェ、先生」
かろうじて言葉を紡ぐ。こんばんは、と言えば森の賢者、弓の名手にして星を読む者と言われるケンタウルスはこんばんは、と返した。酷く静かに。
「……子羊ではないか」
フィレンツェは呟く。ダンブルドアによって占い学の教師として招かれた彼はしかし、生徒を叱るつもりはないようだった。小首を傾げ、セドリックをまじまじと見ている。遙か遠くの空、星を見るような眼で。
「大人で、牙もある」
まあ夜歩きくらい人の子もしたくなるだろう。今宵は空が澄んでいるから。
ケンタウルスは――星読みは天を仰ぐ。
私は人の子の星は読まぬが……。
「恵み深き男。善き魂ゆえに、脆く、もてあそばれかねなかったのに」
するり、と災厄をかわしたようだ。興味深い。
いいや、どの星も――。
「いるか座も、蒼い蒼い星も、天狼星も、獅子の星も、なにもかも」
いずこかにおわす方が、その御手を伸ばし、戯れに動かしたかのように……。
「天の絵図はどこか歪み」
それゆえに美しい。
深々と静かで、どこか茫洋としていて、それゆえに重い声。セドリックは星読みから眼を逸らした。もてあそばれかねなかった? なにを馬鹿な……。呼吸が乱れる。人の子の眼と、星読みたるケンタウルスの眼は違う。見ている世界が違うのだ。気にすることはない。
だというのに、心臓が跳ねる。ちらちらと過ぎる影。どこかが疼く。思わず、胸元を掴んだ。
「星がどうであろうと」
僕は、選んだんです。
考える間もなく言う。
「こうあることを」
唇を引き結ぶ。なにをわけのわからないこと、と顔が熱くなる。それでも、言わずにはいられなかった。
運命なんて嫌いだとどこかが叫ぶ。そんなものは蹴り飛ばしてしまえばよかったのだ、とどこかが泣く。
流されるべきではなく、易き道を行くべきではなかったのだと。
その手を血に染めて。沈んで、堕ちて。泥にまみれて。
後悔した。
嵐のようにセドリックに襲いかかった記憶は、本人が自覚する前に解けていく。散り散りになって、吹き抜けていった。
名残が――記憶の海に細波を立て、綾を描いた。
「先生には申し訳ないけれど」
僕は
「そんなくだらないもののせいにはしない」
ぽつぽつと、辿々しい、支離滅裂な言を、星読みは笑わなかった。海の蒼、空の蒼を煌めかせる。
「我々は星に縛られる」
「しかし、君たちは」
人の子は、星を掴みとる。そういうものだと私は知っている。
「今度こそ良き旅を」
言って、星読みは眼を瞑る。
「……今宵の空は私を惑わせるようだ」
さては輝く赤い星のせいか、否か。この舌が、いずこかにおわすお方の言の葉を紡いだようだ……。
「君も惑わされないうちにお帰り」
囁かれ、セドリックはおやすみなさいを言って星読みに背を向けた。
軽くミザールの頭を撫で、気を落ち着かせる。きっと星が悪さをしたせいなのだろう。妙に胸が騒ぐのは。
「今度こそってなんだろうね」
狼に囁く。彼女と星と月を道連れに、夜を行く。ぼうっと灯る城の明かりを見つめ、深く息を吐いた。
今度こそだろうがなんだろうか構わない。セドリックは生きていて、ちゃんと歩んでいるのだ。己の
セドリック・ディゴリーはもちろん知らない。忘れたことすら忘れている。その記憶は深い深いところにある。
悔いて、再び生を得たことも。
会えればいいなと言った、光の白と生命の赤を持つ君に。
巡り会えたことも。