四月最後の夜は、空気がわずかに甘みを帯び、柔らかい。いずこかの女神が気まぐれを起こし、両手で水晶を掬いとって撒いてしまうのも仕方があるまい。そう思うほどに、なにもかもが――花も鳥も風も、月も星も……あらゆるものが、身を震わせている。冬は去った。長い長い閉塞は終わり、生命萌え出ずる時がやってきた、と歓喜しているように。
ふっと瞬き、脈打つ天を、星をいるか座の名を冠する女は見上げた。天文学の授業の後に、こっそりと居残ってしまったのだ。たいした理由はない。ただ、天を見たかった。アンブリッジ「政権」が風前の灯火で、高等尋問官なんていう実権のない者どもが徘徊している俗世を見るよりは有意義だろう。なにせ自称校長が任命した空虚な地位になにができるというのか。監督生からも首席からも減点できると豪語しておいてできなかったのだ。念のため末裔権限を使って高等尋問官に権なし、と宣言しておいてよかった。
『ザ・クィブラー』を大量購入してばらまき、行方不明だった愚か者のモンタギューがなぜか湖から発見されたので「湖の乙女」と茶化す等々していたレイブンクロー新聞部は、大喜びで高等尋問官たちをこき下ろし、アンブリッジをこき下ろししている。新聞を紙きれに偽装するなど朝飯前なのだ、彼らは。ちなみにモンタギューが姿をくらます飾り棚に突っ込まれたせいで行方不明になったというのは秘密である。出奔する前に双子が教えてくれたのだ。
「俗世」の諸々から意識を切り離し、壁から身を乗り出す。ただ天を、星を眸に映す。父が星座を教えてくれたものだ。君はブラック家の子、星の一族の子なのだからと。
灯る光の中から、とある星たちを見つける。春に輝く、獅子の姿を。一等星の中で最も暗いとされている
――誰かが
父ではない誰かが、星を教えてくれた、と刹那にも満たない空白に過ぎる。忘れたことさえ忘れた記憶。幼い、後に■■■■と呼ばれる彼女の手を引いて、あらゆることを教えた誰かとの記憶。灼き尽くされた廃墟、遮るもののない場所で、空は残酷なほどに澄んでいた……。腐り落ちた時の枝、ヴォルデモートが勝った世界の記憶、あるいは記録。魂の奥底に眠るそれ。
悪いことばかりではなかった。大勢を踏みつけて、屍を積み上げ、血を流し、風は挽歌を歌っても■■■■にとってはよい世界だった……。それしか知らなかったから。
彼――共に在った■■■■と呼ばれた男にとってはどうだったのだろうか。全部が全部、悪いことだったと思いたくない。彼のためにも自分のためにも。一欠片くらい、よい思い出があってほしいものだ。記憶の名残がそう囁く。
狼が吼え、たゆたった魂は呼び戻される。デルフィーニは瞬いて、己の意識に空白があったことすら意識しない。自覚しない。するすると、水のように零れ、解けていく。
はあ、と息を吐く。呼応するようにとある星が瞬いた。夜空いっぱいに振りまかれた水晶の中に紛れたものが。
「あなたも」
春に釣られて出てきたのかしら。
白いるかは、己が双眸を思わせるそれに囁く。禍つ星。戦禍を呼ぶものに。
獸だものね、と白いるかは続ける。自らが
ずっとずうっと眠っていればよかったものを。
白いるかは鼻を鳴らす。きつい眼で赤い星を睨む。
「……あなたなんて怖くない」
誰も信じず、一人ぼっち。他者と対等な関係を築けず、友情というものを知らない。娘ですら道具扱いする怪物。
そろそろだ、という気がする。冬は眠りの季節。春は目覚めの季節。戦の季節なのだから。
過去視の力を神の手によって掬い上げられ、先視の力は元より持っていない白いるかの予感は当たった。
翌日――五月。
「……ああ、わかった」
片膝を突き、狼を撫でる。お前は留守番ねと言って、きつく眼を瞑って、開いた。
立ち上がり、燃えるような赤い眼で空を見る。持ち物を確認し――杖だとか、ポケットの中の鏡だとか、色々と――軽く唇を噛んだ。
もう一度鏡を取り出そうとして、首を振る。さようならもまた会いましょうも験が悪い。
あの灰色を見てしまえば離れ難くなるだろう。
白いるかは背筋を伸ばし、常と同じように優雅に歩を進めた。
怖いものなどない。
もはや背の傷跡は見られている。
個人風呂とは便利なものだ……とくす、と笑う。それだけの余裕があることに安堵する。笑えることが自信になった。
そうして、白いるかは旅立った。黄昏の空だけが彼女を見送った。
祝祭がはじまる。
左腕に仄かな熱がある。戦星の名を冠する女は、そうっと片腕を掴んだ。愛おしむように。すべてを捧げたお方に触れるように。
――息づいている
かつては絶望したものだ。印は今にも消えそうなほど淡く、ほとんど息絶えたようなものだった。必ずや生きているはず、と耐えて耐えて、耐えて耐えた……。
だから、と女は思う。無為に思えるこの時間なぞなにほどのものかと。罠を仕掛け、待つだけというのは根気がいるものだ。ロンドンは魔法省、深い深いところ神秘部の予言の間の空気は緩みきっている。四六時中気を張りつめることなどできはしない。わかっているから女は下僕ども――否同志ども――になにも言わない。所詮、子ども一人を待ち伏せにするだけの仕事。なれどいかなる幸運か、子どもは「我が君」の手から逃れ続けてきた。それも勘案し、手勢を率いてきたのである。愛しいシリウスを救出せんとやってくる、愚かで甘い子どもの手から予言を奪うために。あわよくば捕らえるために。
もうすぐだ、と女は眼を瞑り、開く。耐えて、耐えて、待って、待った。闇の底にて降り積もった時に、一粒二粒加わるに過ぎぬ。ふう、と息を整えたそのとき、淡い輝きとともに紙飛行機がやってきた。状況に変化があったか……と手を伸べる。刻まれた印では細かい伝達まではできない。守護霊の呪文なぞ覚える必要もなく、簡易な伝達ならばメモを飛ばし、あるいは転移させるものである。
はらり、と紙飛行機が解ける。女は瞬いた。ローブのポケットにメモを仕舞い、歩を進める。
下の妹の夫、つまり義弟のルシウスが声を上げる。女は軽く言った。
「少し出てくる」
ポッターが来たらどうする、とうるさく言うその声を、高く響く靴音が切り裂いた。
予言の間を抜け、円形の接続路へ。くるくるくる、と回る扉を見極めるだけの、優れた頭脳を持っていた――お遊戯のように回る扉どもが何回転すればどこへ繋がるか、とっくのとうに把握していた。扉の舞を眺めつつ、腹に手を当てる。知らず知らずのうちに心がいずこかにさまよった。
今度こそ、ちゃんと産めればよいが。
病弱でなく、心の強い子であればよい。あんな不出来な子でなくて。白銀の髪に赤い眼は、なるほど純血の証であった。だが、あんなに弱くてはお話にならない。まさか我が君との間にあれほどの不良品が生まれるとは思わなかった……。
――赤い眼は美しかったが
我が君と同じ色。であるからこそ悔しさが募る。愚か者め。馬鹿者め。初産で疲れ果て、初めてあの眼を見たときは……畏怖すら感じたというのに。
「不出来な娘め」
鼻を鳴らす。か弱い、臆病な白いるか。一度は父に背いたようだが、深く深く悔いている、怯えていると聞いていた。
今いくつなのかもわからない「娘」を思い浮かべ、女は小さく笑った。
「私は寛容だ」
殺しはしないさ。それなりに育っているだろうから、どこぞの男と番わせようか。婚約者とやらと引き裂いてやれば面白かろう。それとも目の前で見せつけてやろうか……。別の男に組み敷かせ、我が君の血を継ぐ者を産み落とさせてやろうか……。
ふふ、と笑いがこぼれる。
父母が塗炭の苦しみを味わっていたというのに、幸福とやらを享受していたなど、赦すものか。
ぬくぬくと十数年生きた娘よ。お前は苦しんで、苦しんで、苦しめばいい。お前は私たちがいなければ生まれてくることもなかったのだから。
そうっと、まだ膨らみのない腹を撫でた。
「私たちの子は」
お前だけだ。お前こそ、共に行く者……夜明けを見る者だ。
あれは、ただの失敗作だ。
鬱蒼とした樹々を透かし、黄昏の色が落ちてくる。
濃い緑の香に包まれ、セドリックは大きく息を吐いた。
「邪魔しかしないな」
あの女。甲高い悲鳴が木霊する。しかし、セドリックはそちらに眼もくれなかった。森の賢者たちと楽しく「おしゃべり」していればよろしい。ミザールに監督を任せているから、そう酷いことにはならないだろう。それに、追いついてきたフィレンツェが後は任せて行きなさいと言ってくれたから、なおさら安心だ。彼はセドリックたちに「幸運を」と囁いて、あの女を引きずって森の奥深くに消えた……。
「……そういえばね」
今更なんだけど、と声がする。隣を見ればハリーが眼を細めていた。その頬には泥が飛び、頭には葉がついている。ドローレス・ジェーン・アンブリッジが「ダンブルドア軍団の首領」とその仲間、ロンとハーマイオニーにダンブルドアの居場所を吐かせようとして、あれこれあった証である。具体的に述べるならば狗こと高等尋問官たちを使って無理矢理連行、拷問しようとし――両面鏡で助けを求められたセドリックが乱入した。
さすが僕の恋人、婚約者。誰でも使える連絡手段は必要でしょうと言ったのは名案であった。ハリーの同意を得て、彼の両面鏡を綺麗に三分割したのだ……と「僕の恋人はすごい」に思考を裂いていたが、ハリーに脛を蹴られて我に返った。くっと顔をしかめただけで済んだのは単に気合である。実は、ものすごく痛い。
「だから、僕らはセストラルが見えないんだけど」
現時点でそれなりに時間を食っているし、やっぱり付き添い姿くらまし計画のほうがよくはないかい? とハリーは言う。セドリックはハリーの背後にいる二人をちらりと見た。ロンとハーマイオニーは鬼の形相である。なにがなんでも、絶対についていく、と。置いていこうものなら幽体離脱して追いかけてきそうである。怖い怖い。シリウスが神秘部にいるってどういうこと? 本当なの? とも彼らの眼は言っていた。まあ嘘なんだけど。吐いたのは闇の陣営だけれども。敵を騙すにはなんとやら、でハリーは親友二人にすら計画を伏せていた。賢明なことである。ただ、彼らを置き去りにする計画は破綻したようである。
ホグワーツの敷地外に出て、セドリックがハリーを連れて姿くらましする計画はあった、がバラけると困るので没になった。
ポート・キーも案に挙がったものの、いつ闇の陣営の「釣り」が始まるか不明であり、セドリックとハリーが合流できるのかも謎、それぞれにポート・キーを持たせてんでばらばらに現地へ……も拙いだろうで没。一応、セドリックはハリーのお目付け役兼臨機応変に対応する係であった。
なによりも、あまりすぐに到着するわけにはいかなかったのだ。強情ですっかり大人を信用しなくなったハリー・ポッターが、自力で移動手段を見つけて……というのが脚本である。夢告げと彼の到着に時差が――それなりの時差がなければならなかった。ドローレス・ジェーン・アンブリッジとかいう愚か者によって、多少は時間は食ったが、せいぜい十五分から二十分である。未成年の魔法使いがなんとか移動手段を見つけて……とすると、もう少し時間が必要だ。
「ああ、心配ないよ」
セドリックは軽くいなした。最高学年で、魔法生物飼育学の高等魔法試験級を受講しており、かつては水魔を捕らえ、飼い慣らしたこともある。もちろん、セストラルについても習っている。
実は、教科書に載っていない知識なのだが。森番の知恵を彼は授けられていた。
『怪物的な怪物の本』を撫でればいいだけさ、というように実に軽く言った。
「お願いすればいいだけさ」
どうか姿を現してくれないか、と優しく言った彼は知らない。
恥ずかしがり屋なセストラルたちに「お願い」できるのは、ある種特殊な才能の持ち主。恵み深き男であることを。
己が才を自覚しないまま、セストラルを優しく撫で、軽やかに飛び乗る。
「よろしく頼むよ」
囁いて、腹を軽く蹴った。
音もなく、魔法のように天馬は飛翔する。ちらりと後ろを見て、ポッター一行がついてきているのを確かめた。ああ、鞍を用意しておけばよかったな……と寸の間考える。今更どうしようもない、と気持ちを切り替えた。燃えるような黄昏を双眸に映す。いつかどこかで見た景色、魂の奥底に、知らず知らずのうちに灼きついた彩を。
「……待っていてくれ」
僕だって、君の背に稲妻を刻んだ男の最期を見たいのさ。
いるか座の君。
刻々と太陽が姿を隠し、夜の帳に覆われ、気まぐれな女神が宝石たちを縫い留める頃。
「なんだったんだ?」
ベラ、と呼びかけられ、星の名を冠する女は解いた紙飛行機にくちづけた。そっと、惜しむように。
「巧くやれと」
我が君が……。
囁きはたゆたい、虚空へ消える。
闇の衣に縫い止められた赤い宝石が、ちかりと光った。