描くのは幸いの星図
その日の空は薄く雲が広がってはいるものの、泣き出す気配はみられなかった。風は柔らかく、不穏な影のひとつも運んでこない。
平和だな、と口中で呟く。キングズ・クロス――『裏』のホームは例年と変わらぬ、いいや少し緩んだ空気に満ちている。『名前を言ってはいけない例のあの人』が倒されたから、憂いはないといわんばかりに。しかし『名前を言ってはいけない例のあの人』が倒された、いなくなったと真に実感している者など闇の陣営の関係者、それと敵対する者たち……不死鳥の騎士団、闇祓いたち、それらの縁者くらいのものだろう。
一度目の時はわかりやすかったのだ。ポッター家の襲撃。しかし闇の印は上がらなかった……はずだ。十数年前の、そのあたりの記憶は曖昧だ。
確かなことはヴォルデモートは仕事をし損ねた。ポッター夫妻は片づけた。しかし赤子の命を奪えなかった。ヴォルデモートは消息不明となった。闇の陣営は恐慌状態に陥った、あるいは歓喜した。当時、ヴォルデモート、親愛なる我が君の動向を、生死を確実に把握できる者がいるとしたら、それは腕に蛇飼う者、死喰い人にほかならない。レギュラスも、ほかの腹心たちも薄れゆく「印」を認め、悟ったものだ。ああ、闇の帝王がお隠れになった……と。
壁にもたれながら、レギュラスは左腕を掴む。かつて印があった場所を。今は火傷の痕だけがある場所を。そう、一度目の時は「隠れた」だけだった。『分霊箱』によってヴォルデモートは存在を保った。惨めな、霊でも人でもない、怪物の本性を表に出した姿で生き延びた。
二度目――数ヶ月前、五月一日、今度こそヴォルデモートは滅んだ。レギュラスはそれを知っている。いやはての石で、あの残り滓を門に叩き返したのはレギュラスなので。
なんにせよ……現場を目的していようがいまいが、ヴォルデモートの復活を否定し続けた魔法省が一転して「実は復活していた。そして倒された」と発表しようが、もはや彼の大悪はいない。ちらほらと影がちらついた約一年は終わり、英国は飲めや歌えやの大騒ぎになった。魔法省の尻馬に乗り、ハリー・ポッターを嘘吐き呼ばわりした。都合の悪い真実から眼を背けた罪が、それで帳消しになるとでも言うように……。
問題は色々あるが。
レギュラスは眼を細める。目くらましその他を使っているので、有象無象に群がられる心配はない。ブラック家当主レギュラス、いいや「ヴォルデモートを討ちし者の父」とお近づきになりたい輩は多い。微増どころか激増した。うっとうしいことである。
誰も彼に注目しないのをいいことに、考えにふける。交際の申し出が多数。結婚の申し出も多数。愛人がどうこう。特に純血派からうるさくまとわりつかれている。死喰い人の縁者とか。旗頭が倒れ、死喰い人は引っ張られ、その余波を被り、沈みかける者どもも多いのだ。のらりくらりと海原を泳ぎ渡るレギュラス・ブラック、王族たるブラック家の威光にすがろうとする者も多い。
どうしたものかな、と視線をさまよわせる。いちいち断るのも面倒である。かといって、まだ時機ではないだろうし。どうなるかもわからないし。
細かな「考えること」が多いのだ。ヴォルデモートの子がいるのでは、という洒落にならない噂が流れている。もちろんレギュラスが釘を刺しておいたので、デルフィーニの出自について公言する愚か者はいない。腕に蛇持つ者どもは、口をつぐんでいる。今更「後継者」を担いでもしょうがなし、趨勢は決した。闇の帝王は滅んだ。約一年の、つかの間の悪夢は消え失せた。ならば薄闇が祓われた世に順応するだけだ、と。
そもそも、死喰い人――印を授けられた者どもはヴォルデモートに粛正されるか――これはイゴール・カルカロフである――アズカバンで朽ちたか――たとえばワームテール――神秘部の戦いで死んだか――ベラトリックスなど――だ。生き残りは仲良くアズカバンである。もちろんルシウスもぶちこまれた。ロドルファス、ラバスタンのレストレンジ兄弟ともども歌って歌って歌いまくり、終身刑までは食らっていない。お陰で闇の陣営の残党狩りが捗っているそうだ。
――ルシウスのことだ
しれっと出てくるだろう。マルフォイ家の財は相当没収されたようだが潰れるまでには至らない。そしてブラック家に弓引く気概などなく「後継者」を担ぎ上げるほど精力的ではない。ルシウス・マルフォイは自身と妻子の平穏を愛するのだ。
ベラトリックスならば、と口端を吊り上げる。自らの子を始末して『分霊箱』の器として献上しかねなかった。彼女は赤い眼の白いるかを……レギュラスの娘を憎んでいた。血を裏切る者とみなしていただろう。あっけなく、侮っていた娘に討たれたのだが。表向きは「戦死」なのだから名誉と思えよベラトリックス。
馬鹿な従姉。神秘部に出張らなければ生きていたろうに。腹の子ともども……とため息を吐く。亡骸が魔法省に回収され、発覚したのだそうだ。呪詛その他が仕掛けられていてもおかしくはない、と闇祓い局が丹念に調べたところ……小さな小さな、それを見つけたのだという。まだ人としての形ができあがっていない果実を。
ルーファス・スクリムジョールが闇の魔法使いは全員始末、その血縁も全員始末という狂人でなくて助かった。彼は「デルフィーニ・ブラック」の正体を察しているだろうに、下手につつくことはしなかった。どころか「ヴォルデモートを討ちし者」だと言った。加えて「ベラトリックスが孕んでいた」とそっと耳打ちしてきたのだ。
いやあ、聞きたくなかった。スクリムジョールはたいそう嫌そうであった。「なんてろくでもない復活術だよ」とはスクリムジョールの言である。レギュラスは同意した。霞のような状態から肉体をつくって復活。しかも生殖機能もばっちり。最悪である。ブラック家の当主もびっくりである。しばし、元死喰い人と闇祓いの長は見つめ合った。仮にも、栄えある式典の後、宴の場でする話でもないだろうに。
『言うか否かは任せる』
スクリムジョールは素っ気なく言った。繊細な気遣いができるのだな、この男とレギュラスは失礼なことを思った。心を閉じているはずなのに、黄褐色の眼で睨まれた。さすが、闇祓いの長は侮れない。
『胎児だろうと人で、それがたとえあれとあれの子……と推察されようとも』
殺人には変わりない。しかし、あの娘に荷を背負わせることはあるまい、とスクリムジョールは唸った。まるで「ヴォルデモートの娘」と似た誰かを知っているような口振りであった。ルーファス・スクリムジョールには養女がいる。しかし、ヴォルデモートの娘ではあるまい。孤児だと聞いているし……と首を傾げた。年頃の娘で、スクリムジョールは婿探しに奔走しているとかいないとか。レギュラスの「息子」、セドリック・ディゴリーに目を付けていたようで「まさか貴様に予約されるとは」と歯噛みされた。残念でした。
「我が叔父は」
壁の花を決め込んでおられる。
とん、と軽い音がする。視線を滑らせれば、若い頃の己――ではなく、甥が壁に背を預けていた。軽々と目くらましを見破るとは。さすがアスラン家の者だ。見た目はブラック家の血が濃いけれど。
レギュラスにも兄にも甥はよく似ている。レディ・アスラン……義姉の血を思わせるのは美しい群青と深い紅の眼だ。性格は兄にも義姉にも似ているのだろう。おそらく。なにせアスラン家の若君、兄の息子――レギュラスにとって甥にあたる――との付き合いはまだ浅いのである。
「君を摘み取りたい者は多いだろうに」
レギュラスは返す。甥は十六歳。名門の嫡子で、見目もよい。つまり誰でも選べるのだ。よりどりみどりというやつである。あるいは、鵜の目鷹の目で狙われる身だ。
「なんだか嫌な比喩だね、叔父貴」
砕けた口調で言いつつも、甥は顔をしかめた。煌めく片眼で白の紗がたなびくホームを見やる。
「俺が棘を払い、膝を突くのはただ一人さ」
さらりと言う。いったいどうやったらこんな気障な男が生まれるのか、と嘆息する。そして甥の見る先に眼をやる。白金の髪の令嬢が佇んでいた。
「……ああ。夏の宴で踊っていたね」
だが甥よ。踊っただけだろう。ただの他人だぞ? とちくちく言ってやる。甥は眼を伏せた。憂い深き少年――そろそろ青年――の図。
「一年で勝負を決めてやる。俺の夢の君……」
ただの他人から昇格してやる。
ぼそぼそ言う甥。レギュラスは小さく笑って彼の肩を叩いた。
「頑張りたまえ」
甥は本気である。今まで、まったく本気でなかったと聞いているが今回は本気であるらしい。レディ・アスラン曰く「お付き合いしても長続きしない類なのよね。うちの子」と聞いていたのに。
諸般の事情で留学、六年生からホグワーツに転入。挙げ句に組分け帽子をねじ伏せてレイブンクローと言わせたらしい。さすが愛と不屈の精神でアスラン家の女と結びついた、悪徳のブラック家の男、その息子である……と言っておこう。
「特急に乗ってのんびり旅……であるが、頼んだよと言っておこう」
「了解」
甥は小さく口笛を吹く。黒い影がやってきて、彼の頭に止まった。鴉である。
「護衛はいるし……もう一人は――」
なんか、デイビースだっけ。ちゃらちゃらしたのに絡まれてるが。甥は瞬く。娘の友人ロジャー・デイビース。娘曰く「軽薄に見えるけれど頭はいいし、いい人よ」は黒髪の娘と「おしゃべりしていた」。いささか遠いが唇を読みとれば「私には我が君がいますので」「そもそも、デイビース。私とあなたは一度踊っただけの仲で」「多少、気が合ったのは否定しませんが」「ああそうですね、北米まで婿に来ていただけるのなら、交際も検討しましょうか」等々。甥の従者はデイビースをあしらっている。やや、投げやりに。まさか北米「くんだり」にまで婿にくるわけがあるまいと鼻で笑っている。
あっちこっち忙しいな。
甥の従者とデイビース組のご近所では、レギュラスの未来の息子、もうほぼ息子が頭の痛そうな顔をしている。ちらりとデイビースのほうをみやり、首を振った。のぼせた馬鹿は放っておこうというわけだ。そうして彼はデイビースから眼を離す。穏やかに、一心に見つめる先は赤い眼の白いるかだ。
婚約者の包み込むような眼差しに気づかず、白いるか――レギュラスの娘は膝を突いている。車椅子に乗った夫妻の手を、交互に握っていた。
――重荷の一つは消えた
ほっと息を吐く。もう外出できるようになっているとは、さすが高名な闇祓い夫妻である。己が母が成した所業を、デルフィーニは気に病んでいた……。
さすがウラニア、と呟く。
「いつの間に進展したわけ?」
「そりゃあ」
甥の額を指で弾く。鋭い音とともに、彼は呻いた。酷い、という抗議を無視して続ける。
「深くならざるを得ないだろう」
レディ・シメーレことウラニア・シメーレは、娘の異母姉である。おまけに腕の良い癒者である。なんだかんだ、いつの間にかやりとりが増えた。言い換えれば接触が増えた。加えて、セブルスがホグワーツの教師を辞めるので、後釜として――繋ぎの予定だが――魔法薬学の教授に推薦した。
「夏の宴では息ぴったりだったけれど?」
ちろりと甥を睨む。もう一度食らいたいのかな、弾指を。
「ちょうどよかっただけだ」
王族たるブラックにすり寄る輩は多かった。北米貴族、名高い癒し手一族の魔女はよい風除けになってくれたのだ。彼女のほうも、ほとほと困っていたようだったので、踊りに誘っただけのこと。
楽に息ができたのも本当であるし、あれこれ考えなくて済んだのも本当であるが。
――以前に踊って
言葉を交わしたことがあるように。
首を振る。くだらない妄想をどこぞに捨て、時計に眼をやった。そろそろだ、と甥を促す。
目くらましを解き、俗世へと舞い戻る。ロングボトム夫妻に軽く目礼し、娘……とセドリックと連れ立って歩く。甥と甥の従者は、少し離れてついてくる。
紅の特急。吐き出す蒸気に紛れ、レギュラスは娘を軽く抱きしめた。ああ、子育ては終わってしまった。娘は無事に最終学年になった……。
「行っておいで」
あたたかくして過ごしなさい。
囁いて、その背をそっと撫でた。
「ええ」
娘がぎゅっと抱きついてくる。その声は少し震えていた。
「行ってきます」
娘を見送って、少しぼんやりしていようが仕事はある。
「ご苦労なことだよ」
拘束した連中を蹴り飛ばす。キングズ・クロスから少し離れた駐車場――の付近。闇の陣営の残党は今日も元気である。「血を裏切る者」レギュラス・ブラックや、その娘「ヴォルデモートを討ちし者」の一人、デルフィーニ・ブラック、その婚約者であるセドリック・ディゴリーを狙う輩は多いのだ。
「大漁ですね」
セドリックはさらりと言って「ああ、キングズリー? 僕らはとても人気者みたいで、釣れましたよ」と銀色のいるかに伝言を吹き込んでいた。仮にも闇祓い、次の局長候補に軽い物言いだ……と思ったが、レギュラスはなにも言わなかった。二対十数人で立ち回りを演じ、いささか疲れていた。死の呪文を連発するわけにもいかず、まあまあ面倒であった。広範囲沈黙呪文、追い打ちの全身金縛り。もっと痛めつけるなら、無限笑わせ呪文で肋骨を折るほうが楽か。磔刑の呪文でもよいが……あれは多少の集中が必要なので、趣味、遊び、戯れには向かない。片手間にはできないのである。
見せしめ目的なら、別に遊んでやってもよかったのだけど、と浜に打ち上げられた魚どもをちろりと見やる。闇の印を授けられなかった下っ端、時勢も読めずに動く愚か者たちだ。杖の一振り、二振りで瞬く間に勝負はついた。それだけで震え上がることであろう。見せしめ目的ならば、セクタムセンプラで滅多切りの血塗れやら、変身呪文を使って何人か合体させて肉塊にするとか、いくらでも手段はある。ブラック家の闇は深い。マグルを使って実験もしていたくらいだ。
「僕もすっかりブラック家の人間とみなされているようで」
守護霊を送り出し、セドリックが笑む。誰が思うだろうか。不断の努力で広範囲沈黙呪文やら、広範囲全身金縛りやら、あれこれと習得した男だと。見た目はただの好青年である。素直にレギュラスに教えを請うものだから、ついつい手ほどきをしてしまったレギュラスに非があるのだろうか……。
「すっかりどころか、もうブラック家の男だろうに」
レギュラスは返す。セドリックは笑みを深めた。愛おしげに輝きを――指にはまったそれを眺めている。約束の証を。
見ているこっちが恥ずかしくなるな、まったく。
やれやれと首を振る。後は闇祓いに任せて退散しよう、と歩き出す。ミザールと二匹の狼を引き連れて、セドリックもついてくる。
一仕事終えた達成感と心地の良い疲れに身を浸し、駐車場へ。停まる馬車へと向かい……。
「日当たりがいい優良物件、と」
セドリックが言う。レギュラスは嘆息した。
「いつからニーズルの家になった?」
いったいどこから出てきたやら、ニーズルは昼寝をしている。ブラック家の馬車、屋根の上で。
杖を振ろうとしたら、セドリックに制される。彼はそうっと馬車に近づき「おいで」とニーズルに呼びかけた。野良ニーズルが言うことを聞くものかよと思えばだ。白いニーズル……まだまだ毛玉だ……はぱっちりと眼を開けて、ぴょんと馬車から飛び降りて、セドリックの腕の中に。
「さすが魔法生物飼育学優の男」
水魔もセストラルも手懐ける男だ。まったくかなわないな。
「十二科目優のお父さんには負けますよ」
謙虚なことである。続けて「仔ニーズルを抱っこするのもいいですが……やっぱり僕は……」とのろけが始まりそうになったので、息子を馬車にぶちこんだ。狼たちも乗車したのを認め、御者台へ上る。
息子よ、君は僕の娘と相思相愛だろうが。それは別にいいのだが、のろけはやめなさい。
きゅっと眉間に皺を刻み、レギュラスは手綱を打つ。音もなく、軽やかに天馬たちが飛翔する。
目指すはブラック家の領地。娘の見送りのついでに、婿をあれこれと仕込む予定なのである。
仔ニーズルのことは後で考えよう。レギュラスはふわふわしたちっちゃい毛玉を手元に置くつもりはない。セドリックが考えればよろしい。
途中、わざと馬車を揺らしてやった。にゃあにゃあという悲鳴と、婿の悲鳴が響く。くつくつと喉を鳴らした。
「多少は構うまいよ」
ちょっとしたお遊び、婿いびりである。
あと数年もすればきっと、レギュラスはブラック家の邸を出るのだから。
長い長い歴史を誇る織物に、セドリック・ディゴリーの名が挿されるのは。
――星見でなくともわかることだ