風が冷たくなり、デルフィーニは段々と体調を崩していった。学業に支障はないが、よそ事にかまけている余裕はなくなった。咳をする回数が増え、時に喉がごろごろと鳴り、ひゅうひゅうと吐息をこぼす。持たされた飴をちまちまと舐めて症状が悪化しないように努めていた。なのでクィディッチ開幕戦の最中は寝台の中で咳きこんでいたし、どうやら皆が帰ってきて、なにやら噂話をしている時はうとうとしていた。
翌日、朝食の席でドラコが「ポッターが落ちなかったのは残念だった」と声高に言うのを聞いてもなんとも思わなかった。デルフィーニはドラコのお世話係ではないし、姉でもないのだ。調子がよければたしなめたかもしれないが、そんな良識だか正義感だかを発揮するよりも、寝たかった。黙々と朝食を食べ、さっさと席を立つ。昨年はいそいそと「お供」をしたがる馬鹿どもがわいてきたが、デルフィーニが「なんで私が吸魂鬼が怖くてみんな仲良くお手洗いに行くようなことをしなければならないのよ」と言えば、お供もといお付きはわいてこなくなった。なんでもかんでも集団行動なんて冗談じゃない。
ちなみに、デルフィーニはクリーチャーに「ブラック家の華やかな歴史」こと、おぞましい伝統について聞かされて、怖くてレギュラスにひっついて寝た覚えがある。いかに穢れた血を狩ってきて拷問したかだとか、バラバラにしたとか、魔法族との身体的差異を解明するために生体解剖……とか。どこまで本当かは知らないが、やっていても不思議ではない。なにより恐ろしかったのは、クリーチャーの狂った眼であった。クリーチャーは自分たち屋敷しもべよりも穢れた血のほうが下だと思っているようで、穢れた血がひどい目に遭う話が大好きであった。
そして、デルフィーニはクリーチャーが嫌いだし、いかれていると思っていた。誰が「将来、レギュラス坊ちゃまに首を刎ねていただくのです」という頭のねじが何本か飛んでいっている妖精を好きになるのか。クリーチャーが嫌いになるのと反比例するように、彼が言う穢れた血という概念に疑いを抱いた。スリザリンに入ったとはいえ、デルフィーニは純血主義ではなかった。もちろん口にはしていないが。
デルフィーニに知識と教養その他諸々を授けてくれたレギュラスは、純血とそうでないもの、という言い方をした。穢れた血という概念はあるが、純血主義者であってもあまり口にしないものだとも言った。昔はどうだったか知らないが、レギュラスはマグル生まれを始末しようなんてことは思わないしやらないだろう、とデルフィーニは思っている。訊いてみたことはないけれど。
大広間を出る。生地の厚い、けれども軽いローブの裾が、どこからか吹き込んできた風を受けて膨らむ。冷えた空気がじわじわとデルフィーニを浸食する。こん、と湿った咳を漏らした。
どうにもこうにも調子が悪い。ふらふらしている様なんて死んでも見せたくない、と気を張った。虚弱な悲劇のヒロインなんて真っ平だ。デルフィーニは障害を薙ぎ払い、敵を切り捨てる者でありたい。
肩にかけた鞄、その紐をきゅっと握る。うんざりすることに一限目は薬草学であった。薬草学の授業は冷える。温室とは名ばかりだ。熱帯地方の謎めいた魔法植物を扱う段階にデルフィーニたちの学年は至っていないのだ。
ぴんと背筋を伸ばしながら、玄関ホールから扉を抜けて、階段をそっと降りる。ずきずきと下腹部が痛む。眼も潤んでいるようだ。言うことを聞かない役立たずな身体め、と内心でののしった。誰が思うだろうか。孤高のレディ・ブラックが歩くのもおっかなびっくりになっているなんて?
――そもそも
誰だレディ・ブラックなんて呼び始めたのは。見つけ出して北塔から蹴り落としたい。間違ってもデルフィーニが言い始めたわけではない。いつの間にかそう呼ばれるようになってしまったのだ。定着してしまったものは仕方ないので諦めるしかなかった。私はレディ・ブラックですがなにか? という顔をしている。
ようやく、最後の一段を降りた。大きく息を吐く。かがみこみ、何度も息を吸って、吐いた。木枯らしのような音が喉から漏れる。寒いはずなのに、こめかみから頬へ、頬から顎へと汗が流れた。
「……デルフィー?」
声がして、そっと肩に触れられる。気配のほうへ眼を向ければ、深い色の眼が、デルフィーニをのぞき込んでいた。
「ミス……」
と言い掛け、彼女がデルフィーニを愛称で呼んでいるのだしと思い直した。
「チョウ」
ごきげんよう、と言おうとして声がかすれる。デルフィーニのスリザリン生らしい挨拶、気取り屋どもの集まりと言われる一因らしいそれに、チョウはにこりともしなかった。
「調子、悪いわよね」
ハイ、だとかごきげんようではなく、直球の質問、いや断定ときた。戸惑うデルフィーニをよそに、レイブンクロー生の頭は高速で回転し、さっさと結論を出した。
「医務室へ行くわよ」
チョウに引っ張っていかれ、寝かされた。マダム・ポンフリーが出した診断は体調不良と身体の成長が重なったことによるもの、であった。つまりレギュラスに頼れない領域の話である。そして彼がなにを心配していたか、ぼんやりと察した。女の子の友達がどうとか、上級生がどうとか……はそういうことだったのである。
「ねえ、」
布団をかけられて、あたたかくされたデルフィーニは、寝台のそばに椅子を引っ張ってきて、勝手に座っているチョウを見た。彼女は本を読みながら「なあに」と生返事をする。
「薬草学は?」
「いいのよ。あそこは寒いから、今日はサボり」
「私はスリザリン生なのだけど」
「だって調子悪そうだったんだもん」
「それだけ?」
「それだけ……と、」
ぱたん、と本が閉じられる。チョウが顔を上げ、デルフィーニを見た。
「セドリックがあなたはいい子だって言うし。コンパートメントで一緒になったときも、嫌な感じじゃなかったもの」
デルフィーニは眼を瞑った。なるほどセドリック。彼が鴉は白いと言えばそうなるように、デルフィーニがいい子だと言えばそれで通るのである。人格者のセドリックによって、デルフィーニの人柄は保証されているというわけだ。
「あと双子と、リーと一緒だったし」
筋金入りの純血主義者だったら双子と同席しないでしょうと言われ、なにも答えなかった。空いているコンパートメントがデルフィーニのところしかなかっただけなのだが、偶然だろうが同席したのは事実であるし、デルフィーニが双子を追い出さなかったのも事実である。彼ら曰く「君には蛙チョコの借りがある」「ロニー坊やなんて食べ過ぎて吐きそうになっていた」「もしかして君の策略」「いやロニーがアホなだけだ」らしい。双子……とリーと話してみれば、デルフィーニをやたらと誉めそやす、頭の悪い連中よりもよほど賢かった。互いの家、純血と血を裏切る者のあれこれを避けている限り、和やかに過ごせた。
デルフィーニに取り巻きはいないが、隙あらば点を稼ごうとする連中はいるのだ。黒髪は絹のようだとか、紫水晶の眼だとか、今年の学年一位もデルフィーニ様、レディ・ブラックがとるに違いないとか、見え透いた世辞をことあるごとに言われてみろ。うんざりもする。彼らが見ているのはブラック家の娘であって、デルフィーニ・ブラックではないのである。
「たまたまよ」
言っても、チョウはデルフィーニをつつくのをやめなかった。
「そういえばね、寮生にはどうやって説明しているの?」
なぜスリザリン生のいるコンパートメントには行かず、他寮の者と一緒にいるか? 誤魔化す方法なんて簡単だ。
「敵情視察と言ってるのと……」
ふつ、と言葉を切る。眠気が忍び寄ってきた。
「周りが勝手に勘違いしているの」
レディ・ブラックには深いお考えがあるのだとね。
チョウの楽しげな笑い声を子守歌にして、デルフィーニは眠りに滑り落ちた。
◆
冬はデルフィーニにとって鬼門であった。咳がひどくなるし、悪くすれば咳き込みすぎて喉をやられ、血を吐くこともある。なので、ひたすら穏和しくしていた。冬期休暇は城に残った。帰って、冬の社交に出て下手をすれば寝込むなんて嫌だった。どっちしろ城でも寝込んでいるのだが。
ウィーズリーの双子から「雪合戦のお誘い」とか「クィレルを雪まみれにしてターバンを脱がす会参加者募集」という手紙を受け取った。
デルフィーニは雪合戦というものをしたことがない。とても興味をそそられたが「残念だけれどお断りするわ」と、エメラルドグリーンの美しいインクで返事を書いた。
ゆっくりと課題をこなし、雪合戦に思いを馳せた。レギュラスに連れられて冬の社交に出ても、すぐに帰っていた。同世代の子たちが楽しげにはしゃぐ声を背に、ブラック邸に帰っていたものだ。
子連れの社交をさっとこなし、レギュラスはデルフィーニを置いて一人で各家に顔を出していた。デルフィーニは邸の広い庭で、積もった雪をかきあつめ、一人で雪だるまを作った。杖を使わなくても「魔法のように」、つくれたものだ。大きな雪だるまと、小さな雪だるま。灰色のビー玉をはめて、紫色のビー玉もはめて。
帰ってきたらレギュラスに見せようと思っていたら、翌朝にはぐちゃぐちゃに踏み荒らされていた……クリーチャーの仕業だとわかっていたが、デルフィーニはなにも言わなかった。転がるビー玉を黙って拾った。
いろんな苦い思い出を夢に見てうなされているうちにクリスマスがやってきた。デルフィーニはレギュラスからのクリスマスカードを一番気に入っている缶――お菓子の缶にそっと仕舞った。セドリックやチョウ、双子からのカードは二番目に気に入っている缶に入れた。ちゃんとした文箱を買ってもらってもいいのだけど、デルフィーニは缶やリボンを集めるのが好きだった。時には漆黒に星が散った貴族にふさわしいものよりも、他愛もない缶のほう好ましい時はある。
たいして波風もないクリスマスが過ぎ、年が明け、デルフィーニはなんとか己のひ弱な身体と折り合いをつけながら、冬をやり過ごした。段々とあたたかくなってきて、デルフィーニという名の白いるかを、春の息吹がそっとなでた。
あたたかくなって冬眠から覚醒したのはデルフィーニだけではなかった。ドラコも目覚めたのである。しばらく穏和しくしていた子犬が図に乗ったのである。具体的かつ正確に言うならば、夜間に寮の外へ出て、管理人に見つかって減点を食らった。スリザリン生の意見をまとめると「なぜかグリフィンドールが大減点を食らったようだからまあいい」である。
寮の対抗意識も、寮杯もどうでもよいとばかりにデルフィーニは知らんぷりした。関係あるものか。グリフィンドールの大減点、その主犯らしいポッターとその一味はグリフィンドールから爪弾きにあい、スリザリン生からはからかわれ、レイブンクローやハッフルパフも便乗し……ひどい目にあっていた。
生き残った男の子、最年少シーカーだとか持ち上げておいて手のひらを返すとは、とデルフィーニは呆れた。廊下ですれ違った双子に「たいした同胞愛ね?」と嫌味を飛ばした。「黙れよスリザリン」と返されたので「腰抜けグリフィンドール」と鼻でわらった。訂正しろと追いかけられ、軽く追いかけっこのようになり……デルフィーニは盛大に咳き込んだ。双子は凍り付き、デルフィーニを医務室に引きずっていった。
大丈夫だからと言っても無視され、関係ないでしょうと言っても無視された。ひ弱スリザリンと言われたので、舌打ちしておいた。
他愛もないやりとりを交わし、平穏な日常を過ごすデルフィーニは知らなかった。
城で暗躍していたものの存在を。うかつにやってきた旅人を食らい、約十年もの長い停滞を――冬を打ち破らんとするものの存在を。
くるくると時の環は回る。春から夏へと軌跡を描く。
デルフィーニは学期末試験を終え、喜ぶどころか夕食もそこそこに寮に引き上げた。談話室での「試験お疲れさま」会の喧噪を聞くともなしに聞いて、とろとろとした眠りに沈んだ。頭の中は様々な文字や式や図、呪文がいっぱいに詰まっていた。そこにはささやかな喜びもあった。きっとデルフィーニは今年も学年一位になる。
明るくあたたかい感情。未来への期待。養父――レギュラスの喜ぶ顔が浮かび、満たされていた。
しかし、そこに冷たい、穢れた風が忍び寄ってきた。
『俺様の娘』
俺様がいなければ、生まれてこなかった娘。すなわち俺様のものだ……。
ひそやかな声とともに、デルフィーニに爪を立てるなにかがいた。しのびより、入り込もうとするものがいた。安息は破られて、デルフィーニはもがいた。何かが自分に食らいつき、侵そうとしているのだと察した。
夢と現の狭間で、デルフィーニは渾身の力で「それ」を振り払おうとした。顔のない真っ暗な影。禍々しい赤が、星のように輝いていた。
どこともしれないどこかに立ち、デルフィーニは「来ないで!」と叫び、杖を振った。銀色の軌跡が影を切り裂いた……。それでもやってくるので、心を閉じた。獅子の星の名を冠する男が言ったように。
『閉心術とは、言ってしまえば外部からの干渉を防ぐものだ』
心を守る盾だ、と。
何度も何度も咬みつかれ、寄越せと言われても抵抗した。
――お前の身体を寄越せ
――お前の心などいらない
空にして、俺様が有効に使ってやると。
永遠にも思える時が過ぎ、影は去っていった。
そうして、現実――スリザリン、女子寮のとある個室には、血を吐いて気を失っている女の子がひとり、寝台に横たわっていた。
「……なにが大魔法使いだ」
ブラック邸の一室、寝台のそばでレギュラスは唸った。星の眼には炎が宿り、その吐息は氷のように冷たい……と余人がいたならば言ったかもしれない。が、室にいるのは二人だけ。しかも片方は眠っている。
レギュラスはきりきりと歯を食いしばる。室の窓が獅子の星の名を冠する男をおそれ、小さく震えた。
「なにをしてくれている」
ダンブルドア。
偉大なる魔法使い、大賢人と呼ばれる男を呼び捨てにし、レギュラスは長い、長い吐息を漏らした。
数日前のことだ。ふっと空を見上げてなんとも嫌な予感がした。星見の眼には赤い星が北極星をかすめ、見えざる軌跡を描き、いるか座に迫っているように視えた。
駆り立てられるようにホグワーツへ飛んで行けば、娘が医務室で昏睡していた。ハリー・ポッターに付き添っていたダンブルドアに説明を「お願い」したところによると。
「障りのあるものを泳がせていたと」
すなわち闇の帝王、いやヴォルデモートに憑かれたクィレルが予想外の動きを見せ……中略……ハリー・ポッターが昏倒し、クィレルも死に、ヴォルデモートはとある女の子の身体を乗っ取ろうとしたのだろう、ということらしかった。
ブラック家の娘ですからね。純血主義者にとっては極上の身体でしょうよ。ええそうですとも。王族ですし。自称ですけど。娘は連れて帰ります。ここには置いておけません。もちろんマダム・ポンフリーには信を置いてますよ。娘がお世話になっていることでしょう。これからもよろしくお願いします。ただ、娘は疲れている。学業は終了したし、騒がしい場所に置いておく理由もない。荷物は妖精に頼んでまとめてもらえばいい。では、ごきげんようさようなら。また会う日まで。
取り乱すことなく、しかし要求を通し、娘を連れ帰ったのである。ダンブルドアの髭を引きちぎらなかっただけレギュラスは偉いと思う。
――閉心術を教えておいてよかった
早めに仕込んで正解であった。でなくば、柔らかく傷ついている魂はヴォルデモートによって壊されていただろう。そして空になった器は乗っ取られていたに違いない。
レギュラスは、デルフィーニの額をそっと撫でた。銀色の髪がさらりと音を立てる。ホグワーツから連れ帰り、しばらくして七変化が解けた。本能的に安全な場所に戻ったのだと察知したせいか、あまりに疲れ切ったせいか、レギュラスにはわからない。
「……よく頑張った」
白いるか。
そうして、囁いた。
「君が、本当の姿で生きられるようになればいいのに」
僕の娘。