五話
気まぐれな女神がたわむれに宝石を振りまいたように、夜色の
そっと、古びた織物に指先で触れる。オリオンとヴァルブルガが結ばれ、伸びた縦糸の先。そこには二つの星があったが、片方は焼け焦げて虚ろを晒すのみ。輝ける星の一つは、狭い織物などには収まりきらなかった。彼は自ら名前を灼いて、出て行った。天狼星――灼き尽くす者という名の通りに。己に絡みつく鎖を引きちぎり、灼き尽くし、翔けていった。望むところへと……。
――そして今は
闇に沈んでいる。
焦げた穴にしばらく触れ、隣にある輝きに、一等星の中でも暗いとされる星に触れる。獅子座――レギュラスに。そうして、伸びる縦糸に指を這わせる。いるか座――一等星はなく、せいぜい四等星しかいない、つつましやかな星座。されど、星が寄り集まっているせいで見つけやすいとされる。
デルフィーニ、と囁く。彼が名付けた、彼の娘。デルフィーニという名を見い出してしまった娘。赤い眼の白いるか。暗い星の集まり、虚弱な娘。
何度もその名を撫でさする。その星を繋ぐ糸は二本ある。一本はレギュラスから伸び、一本は星図に紛れた一組の星から伸びている。いるか座は獅子座の養女なのである。彼がそのように描いたのであった。
本来ならば、戦星の名を冠した女、獅子座の従姉といるか座が結ばれるべきだというのに。
『私生児でないの』
ベラは、あの子はなにをやっているの。不義の子ではないの。
眠り込んだデルフィーニを抱きかかえ、ブラック邸に帰還したレギュラスを出迎えたのは母親の悲鳴であった。レギュラスはそっと耳塞ぎ呪文をかけた。幼い子に……どうせ覚えていないとはいえ、己の誕生を呪う言葉を聞かせたくはなかった。
『まさかお前とベラの子なの? それならばまだ……』
常はあなた、あるいはレギュラス、と呼んでいた母親はすっかり取り乱していた。縋るような眼をレギュラスに向けていた。ブラックとブラックの子ならば、不義の子とはいえ許容できる。夜より深い黒の血ならば。
今にもソファから立ち上がらんばかりの母に比べ、父は落ち着いていた。紫煙を吐き出し……レギュラスはひ弱な白いるかに害が及ばないよう、風を操り、煙から守った――星の眼をレギュラスに向けた。
『仮にベラとお前の子だとしても、いささか濃すぎる』
眉間に皺を立て、レギュラスが抱えたそれ――白銀の髪の幼子を睨みつけた。
『生まれは?』
マルフォイの館、と答えた。
『母親は?』
ベラ、と答えた。
『その子の眼の色は?』
綺麗な赤ですよ、とレギュラスは笑った。父は呻いた。答えが分かっているだろうに、さらに問いを重ねてきた。
『父親は?』
レギュラスはくすくすと笑った。そうして返した。
この世の悪という悪を成し、深い闇の領域に踏み出したお方。
一人の赤子に敗れたお方。
母が眼を見開く。父はため息を吐いた。
『返してきなさい』
お前が抱えることはない。
『不義の子、呪いの子よ!』
母の声はもはや絶叫であった。優秀な、聞き分けのいい息子がよりにもよって、と。
よりにもよって、闇の帝王の子を連れ帰ってきた、と。忌まわしい、呪われた者を高貴なるブラック家、その邸に踏み入らせたと。
毒蛇か、毒虫でも見るような眼で小さな小さなその子を見やって。純血は尊いと言っていたその口で、ブラックとスリザリンの末裔たる者を拒絶した。
父も似たようなものだった。
『捨ててきても誰も文句は言うまい』
それは望まれぬ子だ。シシーとルシウスは引き取らなかった。そも、闇の帝王はそれの今後を考えて、誰かに託すという考えもなかったわけだ。ベラも似たようなものだろう……。
両親が捨てたようなものだ。お前が捨てたところで構うまい。
薄情なことだ、とレギュラスは嘲笑った。この子はブラック家の子ですとも。そう言えば、母はくつくつと笑った。ひび割れた笑いであった。
『家系図には加えませんよ』
私生児だなんて不名誉な。まさかベラに「二人の夫」がいるなどと書くわけにはいきません。されどロドルファスとの子と書くわけにもいかない……。あまりに穢らわしい。レストレンジの名に泥を塗ることになる。
混乱し、怒ってもいるくせに、母の舌は極めてなめらかに動いた。
星図を描くのはブラック家当主、あるいは当主夫人の権限であった。当主夫妻がいなければその子が描く。そして今の当主夫妻はレギュラスの目の前にいた。
面倒だな、とレギュラスは思った。いちいち「当主夫妻」のご意向を伺わねばならぬのか、と。問題は一つ一つ片づけていけばよい。一歩、一歩着実に。で、あれば……。
『母上は』
おかわいそうに。放蕩息子とはいえ長男が、期待をかけていた彼が出て行ったことが未だに堪えているようで。
気が違ってしまってもおかしくない……。
『レギュラス?』
『緑が美しく、空気が澄んだ場所をご用意しましょう』
柔らかく笑み、今度は父へと眼を向ける。
『父上もお疲れでしょう?』
凍り付く母とは違い、父は嘆息するばかりであった。
『すぐにではないだろう』
『数日差し上げます』
『……出ていかなければ?』
『あなたがたの次男が出て行きますし、あなたがたの大事なブラック本家は断絶します』
『それを養女にすると?』
そのつもりですと言えば父は眼を瞑った。
『始末したほうが楽だぞ? が……遠縁の■■の子らの娘ということにしなさい。そうまでして引き受けたいのならば、もはや止められないだろう』
ありがとうございます、父上と笑めば、彼は頭の痛そうな顔をした。
『ブラックが絶えるよりはマシだ』
お前は我が儘一つ言わなかったからな。ああ、最初の我が儘がこれとは……つくづく困ったやつだよ。
そうして、しくしくと泣く母と、疲れたような顔をした父はブラック邸を出て行った。レギュラスは当主の位を継ぎ、デルフィーニの名を記し、ブラック家の――本家の子とした。
自己満足だったのかもしれない、とかつての己を振り返る。デルフィーニの安全を考えるならば、大陸にでも逃がせばよかったのかもしれない。ブラック家など捨てて。
しかし、子どもを抱えて縁のないところへ行く勇気、あるいは無謀さなどレギュラスにはなかった。それに、曲がりなりにもデルフィーニはブラック家の血筋であった。大陸に連れて行って、こそこそと隠れるような真似はさせたくなかった。天にいます星々、その輝きは誰にも隠せはしない。そして大魔法使いですら射落とせはしない。
――正しいと
信じていた。英国で育てること。ブラック家で育てること。デルフィーニには教育を受ける権利があった。どうやらゴーントの末裔はホグワーツに通えず、ろくな教育を授けられず……人の言葉よりも蛇の言葉に長けていたらしい、とヴォルデモートは言っていた。惨めな暮らしで、血筋を誇るばかりで、汚らしかった。
『穢れた血なんぞと』
まぐわった、馬鹿な女……とヴォルデモートは生みの母親を蔑んでいた。それはもしかして、穢れた血に対するものへの侮蔑よりも深く、激しいものであった。
レギュラスは、ただの交わりで生まれた子に、惨めな思いをさせたくなかった。蛇の言葉よりも人の言葉をたくさん覚えて、ホグワーツへ行く日を指折り数えて待つような……そんな普通の子になってほしかったのだ。
ささやかで、困難な願いであった。もしかして、望まれぬ呪いの子には過ぎた願いなのかもしれなかった。けれど、彼女は生まれてきただけであった。なんの罪もなかった。その手のひらからこぼれるくらいに、たくさんの宝物をやりたいと思ってなにが悪い?
歯を食いしばる。
「……お前なんて親じゃない」
ベラだってそうだ。どいつもこいつも。シシーもそうだ。情のない連中め。
ヴォルデモート、とレギュラスは吐き捨てる。呪うようにその名を紡ぐ。
不義によって成した娘、月足らずで生まれた虚弱な娘に関心を寄せなかった。名前すら付けようとしていなかったくせに。
赤子を殺そうとした咎により器を失った亡霊ごときが、いいや亡霊だからこそ、娘の肉体を乗っ取ろうとするとは。どこまでも醜く浅ましいのか。
おかげで娘はひどく傷ついて、臥せってしまっている。何度目のかの覚醒の際、彼女は言ったのだ。
弱くてごめんなさい、と。手間をかけてごめんなさい、と。
学年一位になっていると思うの。がんばったの、と。
いいから寝なさいと言って、そっと頭を撫でても、澄んだ赤い星はレギュラスを見つめていた。
手間なんかじゃないと言っても、君が一位をとったことなんてどうでもいいと言っても無駄だろうと分かっていた。だから、ゆっくりおやすみと囁いて、こう付け加えた。
元気になったら誕生日のお祝いをしよう。なにがほしい、と訊いた。問いのなかに穏やかな眠りに誘う呪文を混ぜて。
煌めく赤を、さびしげな赤を瞼が隠そうとする。小さな、珊瑚色の唇が幼い声で言った。
剣がほしいの。あんな……影を、斬れるような、追い払えるようなものが。怖かったの……。
いいとも、と彼は答えた。
たった十三歳の娘が誕生日にねだるものが武器だとは。骨を食まれるような痛みを感じながらも、レギュラスは穏やかに言った。
天より降りたる星屑を鍛え、蒼い炎を込めたもの。ブラック家に伝わる宝。
剣をねだった娘に頭の痛い思いをしつつ、レギュラスは上を見た。天井を透かし、屋根をも貫き、天を視る。
赤い星は軌道を変えた。北極星からも、いるか座からも離れ、暗く乏しい光を放っている。復活のたくらみは砕かれた。もっとも、賢者の石が――ホグワーツにそんなものを隠すなと言いたかった――あれの望む復活と合致しているとは思えない。せいぜい、乗っ取った肉体に命の水を飲ませて不老にさせるくらいのことしかできなかっただろう。それで全盛期の力を発揮できるかは甚だ怪しい。真の復活、たとえば肉体の創生……とまで考えて、レギュラスの頭痛がひどくなった。やりかねないのが嫌である。できるかどうかではなく、やるかやらないかでいったら、ヴォルデモートはやるであろう。そういう男だ。
ひとまず脅威は去った、とレギュラスは言い聞かせる。このまま、魂が劣化し、もろく崩れ、人知れず消滅してくれればよいのだが。
「……そう甘くはないか」
こぼし、天から地へと意識を戻そうとする。その視界になにかがかすめた。
ちかり、と輝くのはへび座であった。その眼はくすんだ赤。
「なんとも嫌な兆しだ」
星が示す、流れの一片……。
やっぱり大陸に行って、デルフィーニをイルヴァモーニーにでも入れようか。たいへん、とても迷う。
しかし、しかしだ。
「一位になったとうれしそうにしてたし……」
友達ができたようだし。なぜかウィーズリーの子たちから手紙が来ていたが、うるさくは言うまい。
あの子に留守番ばかりさせて、ひとりぼっちで雪遊びをさせていた罪悪感がある。雪合戦だってしたかったろうに。きっと、庭で雪だるまをつくっては壊し、つくっては壊ししていたに違いない。
「君がここまで育ってくれて、生きてくれているだけで」
僕は満足しているんだが。
ブラック家の血はひどく濃いものだ。ゴーントの血はそれよりもなお濃い。おそらく、血族婚――いとこ婚どころかさらに近い……近親の交わりすら行われていただろう。
その咎は生まれ出る娘に現れた。娘が生まれたとき、産声を上げなかったという……産婆が死神の腕を振り払い、娘は弱々しい産声を上げた……。そして、産婆はシシーが始末した。
その誕生からして死のにおいをまとった娘。
「平和な世で」
穏やかに生きてほしいと思うのは、過ぎた願いだろうか。
怪物の娘だからといって怪物になるわけではない。
星の名を授けられた娘、いるか座のデルフィーニ。
レギュラスの娘は、ただの、どこにでもいる女の子だ。
デルフィーニの「ホグワーツ二年生」はわけのわからないうちに終わっていた。
気づけば家に帰っていて、学期が終わっていて、悪夢の中に放り込まれていた。身体は燃えるように熱いのに、芯のほうは冷え切って、さんざんうわごとを言った……と思う。とびきり苦い薬を飲まされ、気絶するように眠りに落ちて、つかの間覚醒して、吐いて、また眠って……の繰り返しだった。
「ダンブルドアなんて禿げちゃえばいいのよ」
七月半ば頃、デルフィーニはようやく起きあがれるようになった。せいぜい、寝台の上で半身を起こすくらいだが。クッションをいくつも置き、もたれかかるようにして。死人のように青白い手でマグカップを持ち、そろそろと傾けていた。
「君は優しすぎる」
養父ことレギュラスが柔らかく言った。灰色の眼はまったく優しげではなく、デルフィーニはダンブルドアが暗殺されるのでは、と少しだけ恐れた。
「人に優しくすれば、よいことがあるとどこかで聞いたの」
適当に返した。デルフィーニの頭脳は普段の三割ほどしか稼働していなかった。未だに混乱していると言い換えたほうがいいか。学年一位の見込みが濃厚で、弾むような気持ちだったのが急転直下。夢うつつでなにかに襲われたと思えば、家の寝台の上であった。
「ダンブルドアには優しくしなくていい」
レギュラスが吐き捨てるように言う。彼にしては珍しく、投げやりで乱暴な口調であった。
「君がこうなったのは、大体がダンブルドアのせいだ」
デルフィーニは反論しなかった。事の発端は、ダンブルドアがホグワーツに賢者の石を隠したことから始まったのだという。そのまま百年でも二百年でも隠したままであれば、別に問題はなかったのだ。ある意味では強運、いや悪運の持ち主がホグワーツにやってきたからややこしくなった。
闇の帝王。『名前を言ってはいけない例のあの人』。デルフィーニの父。とはいえ、彼は言わば……子が作りたいからベラトリックス・レストレンジことベラトリックス・ブラックと寝台に行ったわけではないだろう。デルフィーニはどうやって子どもができるか、知識を得てしまっている。で、別に子づくりのためじゃあなくても男女は寝台に行くものであるとも理解はしている。仲良くするためである。そしてデルフィーニの実の父母は仲良くして、結果としてデルフィーニができてしまったのである。きらきらとした愛の結晶ではなく、どろどろとした肉の欲の結果らしい。そのあたりの経緯について、とてもではないがレギュラスには訊けないけれど。小さい時、ニーズルの仔ってどうやってできるのと訊いたときも困っていた。ものすごく考え込んだ挙げ句に、雄のニーズルと雌のニーズルが恋をして求め合ったらある日できるんだよ、とかなりぼかした言い方をした。
最悪なことに、デルフィーニの身体はすくなくとも、仲良くしてどうこうできる段階に進んでしまっている。純血名門ブラック家。自称王族に取り入りたい輩は多い。つまり、デルフィーニの婿になりたい輩も多い。デルフィーニは狩人に狙われる白いるかであった。思うとおりになんてさせないけれど。
「かといって、他にどこで賢者の石なんてものを預かるのよ?」
気持ちを切り替える。心をがっちりと閉ざし――レギュラスになにを考えていたか悟られるわけにはいかなかった――デルフィーニは返した。
「あの人が……よりにもよってクィレルに憑依したのは偶然だし」
声が震える。マグカップから薬がこぼれ、布団を汚した。レギュラスは杖を振ってたちまちのうちに綺麗にした。
「クィレルも馬鹿なことを」
アルバニアのとある森は、以前からヴォルデモートの潜伏先ではないかという噂が立っていた、とレギュラスは吐き出すように言った。彼の眼には冷たい、青い光が躍っていて、その怒りの深さを示していた。
「自業自得だ」
デルフィーニはなにも言わなかった。クィレルは死んだ。身体は残らなかったのだという。一つの身体に一つの魂が原則だ、と言われている。クィレルは乗っ取られ、負荷に耐えられなかったのだろう。となれば、デルフィーニが嗅いだ甘いにおいは文字通り、腐り落ちる寸前の香り――入り込んだ魂に侵され、傷つき、崩壊する肉体が発していた香りだったのだ。
「しばらくは来ないと思う?」
主語を省いた。『例のあの人』と口にするのも、あの人と言うのも勇気が必要だった。デルフィーニは寝込み、やつれてしまった。あまり眠れず、見かねたレギュラスがソファで眠るようになった。元々、看病のために付きっきりだったらしい。同じ寝台に添い寝は断固拒否された。君はもう十三歳なんだから、とのことだ。そして、代わりに抱き枕もといぬいぐるみがデルフィーニの寝台にいる。黒い犬と黒い狼と、黄金の獅子であった。
落ち着きなく黒い狼を撫でるデルフィーニに、レギュラスはその場限りの慰めを口にしなかった。
「君が退けたようだから、数週間で復活してやってくる、ということはないだろう」
あれは実体のない影だ。虚空を飛翔して移動するにしても、消耗はするだろう。肉体があったほうが安全なのは明らかで、だからこそ君は狙われた。そうして抵抗にあい、逃げ去った……ホグワーツの障壁を通り抜けたことで、さらに損傷を受け、アルバニアまで移動……とレギュラスは考えをまとめるように言う。
退けた、ねえ……とデルフィーニは呟いた。悪夢の中で無我夢中で抵抗していたら、事が終わっていただけだった。黒々とした影、赤い眼が脳裏に灼きついている。恐怖はデルフィーニに根を下ろし、眠りをむしばむ。
「大の大人ですら、ヴォルデモートには屈した。抵抗する者は殺され、純血名家ですら例外ではなかった」
よくやった、とレギュラスは囁く。
「ヴォルデモートは、人を操るのが巧い……。君が、父親恋しさに言うことを聞く可能性だってあった」
「まさか」
デルフィーニは首を振った。ありえないだろう。あの男は、デルフィーニを問答無用で乗っ取ろうとしたのだ。抵抗しなければ確実に「デルフィーニ」は消えていただろう。それか、ちいさなちいさな欠片になっていただろう。あの男がほしかったのはただの肉、己に適合する可能性が高い器だ。
ヴォルデモート。口中でそっと呟き、震えを殺した。悪の中の悪、闇の帝王と呼ばれるわけが、身に染みた。情というものがないのだ。可愛いのは己だけ。建前として純血主義を押し出しているだけで、本質は誰よりも極みに登りたいだけの、身勝手な男だ。だからこそなんだってやる。恐怖によって人を従わせる……。
「私の父は、」
レギュラスよ。
「もう少し、体調が持ち直したら」
剣の練習をしようか。
言って、レギュラスは立ち上がる。デルフィーニの欲しい返事はくれず、去っていった。扉が開いて閉まる。ぱたん……と軽い音が空しく響く。
デルフィーニは背中に挟んだクッションをいくつか除け、横になった。どうしても咳が出るので、頭を高くしたほうが楽なのだ。シャンデリアの輝きが柔らかく室を照らしている。空気が乾きすぎないように調整され、心地よい。寝台脇の小机には銀の水差しと杯、器がある。どれもブラック家の『双狼』紋――黒い双子の狼と星が躍っていた。器には飴が山盛りに入っている。レギュラス特製の飴である。喉によく、味も悪くない。
「……元気にならないとなあ」
左手をそっと翳す。中指にはまった銀の指輪が煌めいた。星が刻印されている。ブラック家に伝わる宝剣『星屑の剣』が姿を変えたものだという。デルフィーニははっきりとは覚えていないのだけど、レギュラスに誕生日の贈り物はなにがいい? と訊かれ、剣がいいと返したらしい。寝ては起きしていたものの、あまり意識がはっきりしていなかったのだ。咄嗟に出たのはその答えであった。つまり、余計な雑念を取り払った、純粋な本音であった。
あの影――デルフィーニを乗っ取ろうとしたあれ――が、退いたのはただの幸運だ。たかが学生、しかも二年生が追い払えるわけがなかった。影が弱っていたこと、デルフィーニが閉心術を習得していたこと、冬を乗り越え、デルフィーニの調子がそこそこよかったこと、色々な要因が絡み合った結果だ。
『家系図とともに伝わっていたものでね』
出番もなく、死蔵されていたとレギュラスは言った。仮の鞘に納められたそれをデルフィーニに差し出した。柄は黄金。澄んだ青い石がはめられていて、半分ほど引き抜いてみると、剣身には北斗七星が刻まれていた。
剣が欲しいと言った子どもの戯言を、レギュラスが真剣に受け止めたのは分かった。保管庫のどこからか引っ張り出してきたのだ。
そんなに古いもの、もらっていいのと訊けば「君がほしがったんだろう」と返された。それに、ブラック家のすべては君のものになる。義務も権利もなにもかも、と続けられれば頷くしかなかった。けれど、まさか腰に佩くわけにもいかない、と困惑していたら『星屑の剣』は指輪となっておさまった。仮の鞘は無用の長物となり、床に転がった。
魔を祓うと言われる星の剣。なにせ王族を自称する一族だ「それっぽい品」を捏造していても驚かないね、とはレギュラスの言であった。
『誰が鍛えたとか、どうして鍛えたのかも謎。王にふさわしい、力の象徴が欲しかったのか……剣といえばグリフィンドールが思い浮かぶのだけど』
保管庫に放り込んでいたとはいえ、現代まで伝わったんだ。何か意味があるのかもしれないね。どうせ誰も使わないなら、君が持っておけばいい。
家系図とともに、ということはざっと七百年は前のものだろう。少なくとも家系図の始まりは中世にまで遡る。家訓の純血よ、永遠に染まらず濁らず色褪せずを唱えた初代ブラックは、あまりに濃くなった血に満足しているだろうか、とふと思った。デルフィーニはマグルの血が少し混じっているらしいが、父方がゴーントである。ほぼ純血に近いだろう。病むほどの血の濃さを濁っていないと言ってよいものか。
考えても仕方がない。本当は寝込んでいる場合ではないのだ。夏休みの課題が山積みだ。それに、と窓辺――机に眼を向ける。手紙がいくつかあった。レギュラスが置いてくれたのだ。差出人のことは割れていると観念して、デルフィーニは訊いてみた。友達を選べとは言わないの? と。レギュラスはこともなげに返した。
犯罪者じゃなきゃいいし、君に害がないならけっこうだ、と。
ウィーズリー家が「血を裏切る者」と呼ばれているとデルフィーニに教えたのはレギュラスであった。だというのに頓着していないらしい彼の態度は矛盾していないか。そんな意味のことを言えば、涼しい顔で「事実を教えただけだ」と返された。やれやれと言わんばかりに彼は付け加えた。
現在の純血――上流の一部において、つまりブラック家が属するとされる場所での通説を教えただけだ。事実であっても真実ではない。
ウィーズリー家は古く、あらゆる家と繋がっていると言ってもいい。なにせどこぞの誰かが勝手に唱えた聖二十八族とかいう、くだらないお遊びに巻き込まれ、抗議したにもかかわらず記されてしまった。彼らを純血ではないとすれば――聖二十八族から外せば――純血なんてものは成り立たなくなる。ウィーズリーにとっては非常に不本意だろうが。
『純血主義を唱えながら、マグル生まれを勧誘するような節操なしよりは』
よほど気骨があるよ。ウィーズリー家は。昔は、没落した貧乏人くらいにしか思っていなかったし、きゃんきゃんとうるさいなとも思っていたが。実にさらりと毒を吐いたレギュラスはしかし、灰色の眼に嫌悪を浮かべていなかった。
『いわゆる「純血」がウィーズリー家を「血を裏切る者」として貶めるのは、恐れの裏返しだ』
ただ無視すればいいだけで、いないものとして扱えばいい。だというのにそれができない。没落したとはいえ古くから続く名門だ。一族の数も多い。
すっかりやせ衰えた、かよわきブラックよりはよほどね。
そう、皮肉気に言ったレギュラスは、どこか寂しげに見えた。その血の永遠を願いながら、黒き血の大河は長い年月で枯れていった。今では本家の人間はたったの三人。本来当主を継ぐはずだった長男のシリウスと、その弟のレギュラス、そして彼の養女であるデルフィーニ。本当は、厳密に言えば二人だ。デルフィーニはブラックの分家の娘なのだから……。
「でも」
ウィーズリー家みたいに子沢山も珍しいんじゃない。一人ごちながら、デルフィーニは置かれた手紙から眼を逸らす。たぶん、ウィーズリーの双子と、セドリックと、チョウあたりからは手紙が来ているはずだ。だって彼らにとってデルフィーニは突然姿をくらまして、音信不通状態なのだから。
発作が起きて急遽帰って、臥せっていたのと書くしかない。手紙を読んで返事をしたためようにも、まだ気力がわかない。
もう少し、もう少し休息が必要だ。
そして、ぐずぐずと寝込んでいるうちに手紙が増え――ホグワーツの学用品リストが届いた。
デルフィーニの額に手を当てて、熱をはかり、片手で学用品リストを持ちながら、レギュラスは鼻を鳴らした。
「ボーバトンに行くかい、デルフィーニ」
なぜ急にそんな話をするのだと訊く間もなかった。レギュラスは冷ややかに言った。
「顔だけの男を採用するとは、ダンブルドアもいよいよ呆け始めたらしい」
ギルデロイ・ロックハートの本を買うくらいなら、君の欲しい本を買うといい。
デルフィーニは顔には出さなかったが、大喜びした。そして気がついた。レギュラスが買う価値もないと言った本を書いた人間が、つまり無能と断じた人間が、闇の魔術に対する防衛術の教授になるのだということに。
レギュラスがよくできる男だからだ……とデルフィーニは言い聞かせた。なにせ剣術もできる男だ。本人曰く「杖をなくしました戦えませんじゃお粗末だろう」とのことだ。デルフィーニは、なぜレギュラスが闇祓いじゃなく、よりにもよって生物学上のデルフィーニの父親のところへはせ参じてしまったのか、理解に苦しんだ。あんなどうしようもない男なのに。
とにかく、動機がなんであれレギュラスは優秀なのだし自己研鑽を怠らない男であった。なので、レギュラスが必要以上にギルデロイ・ロックハートに辛口なだけだろう。そう思っていた。
だが、デルフィーニは忘れていた。レギュラスはたいていの物事において正しいのだった。
人物・設定
レギュラス・ブラック
ブラック本家当主。デルフィーニの養父。
本来ならばとっくの昔に湖底に沈んでいる。
いわゆる星見。が、あまり役に立たないとは本人の言。
デルフィーニ・ブラック
レギュラスの養女。記録の上では遠縁の子をレギュラスが引き取ったことになっている。本当はヴォルデートとベラトリックス・レストレンジ(旧姓ブラック)の娘。
白銀の髪に赤い眼を持つ白いるか。いわゆる蒲柳の質。本来より十数年早く生まれたIFである。
『家系図』
映画版では樹だが、原作準拠で名前+金の糸を採用。
星々を結ぶ物語。
星図を描くのはブラック家当主、あるいは当主夫人の権限であった。当主夫妻がいなければその子が描く。
『星屑の剣』
アストライア。ブラック家の保管庫に眠っていた剣。天より降りたる星屑(つまり隕鉄)を鍛え、蒼い炎を込めたもの。ブラック家に伝わる宝。柄は黄金。サファイアがはめられている。剣身には北斗七星が刻まれている。
デルフィーニが受け継ぎ、左手中指に指輪となっておさまっている。
『高貴なるもの』
ブラック・ブラッド。グレニアン黒変種をかけあわせ、固定化したもの。ブラック家のための馬。
収入源の話
父祖から受け継いだ財があり、働かなくても食べていける。馬の育成をしており、ブラック家産の駒は間違いなくよい馬と言われる。貴族の間ではブラック家の馬を持つことが一種のステータスとなっている。
余談
虹彩シリーズ子世代編の三章、四章に出てくる「闇毛の天馬」はおそらくブラック家の産駒とリアイス家の産駒を掛け合わせたもの。後付けである。
スリザリンの系統はブラック家の馬をもとめ、グリフィンドールの系統はリアイスの馬を求め……だったのだろうきっと。
どのみち両家が合体してしまったので後付けである。
家系図も『星屑の剣』も虹彩シリーズ世界に存在しているが、ブラック家当主は放置していると思われる。