その嗅ぎなれない香りが鼻腔を擽ったのは近づいた証だった。
「この香りは……」
「うわっ、コーヒーの匂い……私、コーヒー嫌いなんだよね」
「確かにトリニティでは、馴染みの薄い香りですよね」
いつものシールドを持ちながら、救護騎士団団長であるミネさんは顔を出した。
強いコーヒーの香りを漂わせているミネさんに、顔を顰めるトリニティ生は少なくないだろう。
どうしても、印象としてゲヘナの人間を思わせるからだろうか?
現に、ゲヘナ嫌いを公言するミカさんは苦々しくミネさんを見つめていた。
「全く、トリニティの親睦会なのにコーヒー持ってくるってどうかしてるんじゃない? また争いの種でも撒きたいの?」
「……そうかも、しれませんね」
「へっ?」
「み、ミネさん……?」
いつものミカさんの軽口に呼応するように、ミネさんは肯定した。
まさか……今完全に武装しているのはそういう意図が……?
私たちの疑念と困惑の混ざった視線を受けてか、ミネさんはハッとしたように盾を落とし、恥ずかしそうに謝罪した。
「も、申し訳ありません。少し言葉足らずでしたね……」
「少しどころかまるっきり足りてないんじゃないかなあ~? ……ビックリしちゃったよ」
そう答えるミカさんは心底安堵したように大きく溜息を吐いていた。
盾を拾いなおし、救護騎士団が設営したエリアの方を見ながら彼女は言った。
「エデン条約機構が成立したことによって、ゲヘナにある救急医学部の救援を受けて手伝うことも増えて参りました。それに伴い、ゲヘナ生との衝突も」
「まあ、おかげで正実からはかなり楽に仕事ができるって話だけどね。私はまだ納得できないけど」
「確かに、ゲヘナの風紀委員会も同様に似たようなことを述べていましたね。きっとETOを成立させたことは間違いでは無かったんです」
「それが……どうして争いの肯定だなんて……」
紙面上では犯罪率の低下や検挙率の増加は見られる。
だが、数値と現場の差と言うのは体感してみなければ分からないものだ。
口に突いて出た疑問に、ミネさんは少しだけ顔を伏せた。
「ゲヘナ生のバイタリティの高さは、ご存じですか?」
唐突に、そんなことを言った。
「彼女等は、自身のやりたいことであれば犯罪であろうとも軽々とその心理的ハードルを飛び越えていきます。まだ、それならば理解はまだ出来るのですが……」
何かを思い出しているのか、彼女の持つ盾が震える。
そして衝動のまま地面に突き立て――。
「楽しそうと思ったから爆破! 襲撃! 乱闘! トリニティの文化が全く通用しないのです!」
土埃と、ミネの怒声が舞い上がった。
事前に取り出していたハンカチで口元を覆っていたので私は助かったが、ミカさんは思いっきり咳き込んでいた。
「正義実現委員会の方々が忌み嫌うのも分かります! 根本が相いれないと、身に染みて知っているのでしょうから!」
「ぐぉっほ!ごっほお! ……あははっ、内容には同意するけど、ちょっと興奮し過ぎじゃない? 救護騎士団が周りを怖がらせちゃ駄目でしょ」
ミカさんの言葉が耳に入ったようで、激昂していたミネさんは静かになった周囲を見渡した。
怯え、困惑、不安の混じった視線が四方八方から飛んでくる。
親睦会の荒らし、混乱の元。
そう判断した蒼森ミネの行動は早かった。
「もはやこの命で償う他ありません!!」
「ちょっ、盾は刃物じゃないんだけど! いやそれで貫通する恐れがある方が怖いから止めてって!」
銃は持っていなかったのか、盾を縁で自決を計ろうとする女、蒼森ミネ。
そんな良くも悪くも、日常風景の一コマ。
漂っていた不穏な空気は、ものの見事に霧散したのだった。
「――……」
ただ、一人を除いて。
「申し訳ありませんでした……」
ミカに盾さえ奪われたミネは、ナギサにただ謝ることしか出来なかった。
己が謝罪を受けているという事実が、固まったナギサの頭を動かし始めた。
「そうですね……ここで許すと言っても納得できないでしょう? 今から、救護騎士団の所に挨拶しに行こうとしていたんです。それまでのエスコートを、お願いしてもよろしいですか」
「分かりました……必ずやこの身に代えても」
「ちょっとちょっと、盛り上がり過ぎじゃない? はい盾、重いから持ってほしいんだけど」
文句を投げながらも盾を手渡すミカさんと、再び盾を持ち直したミネさん。
不穏な空気は殆ど無くなったと確認して、救護騎士団が設営したエリアに向かう。
その道中、途中で途切れてしまった話に戻っていた。
「それで、結局のところ何故コーヒーをここで配ることにしたのですか?」
「確かに確かに~! 団長は切れやすいけど私欲で動くタイプじゃないよね? 何かここでコーヒーを出す意図があるんでしょ?」
ミカさんはからからと笑いながらミネさんに尋ねる。
実際、ミネさんたちも基本は紅茶を嗜んでいた筈だ。
普段使うものを捻じ曲げて迄、ここでコーヒーを出したかった理由があると考えるのは自然だろう。
ミネさんは観念するように、ポツリポツリと語りだした。
「実は……救急医学部の部長から頂いた物なんです」
「長期間の拘束が珍しくないゲヘナでは、基本的に熟さなければならない雑務はどうしても溜まって行ってしまうとかで」
「眠らない為に、全て片付けるために備え付けてあるものだと」
「ですが、今皆様に配っているものは、救急医学部が常備しているものとは違うんです」
「協力の感謝の印として、個人で愛飲している物を部活単位で頂いてしまいましたので……」
「きっと、私共で頂くのが筋だとは思ったんです」
「けれど、このコーヒーの香りと同じで、友好を結べる者たちは友好を結べば良いのだと、示したかったのです」
「ゲヘナだからと、一瞥で判断せずに」
「その人自身の思想や行動で、手を取り合えるのかを判断して貰いたかったのです」
その結果が、これなのですけどね。
ミネさんは寂しそうな笑みを浮かべながら、救急医学部の設営したエリアを案内する。
伽藍洞、と言うほど人が居ないわけではないが、居ても数人。
どうしようもなく、空いたスペースが目立っていた。
「私の我儘で、救護騎士団員を傷つけては居ないだろうかと。この香りを嗅いだ参加者が嫌な気分になっていないのかと……どうしても心配になってしまうのです。私は、ミカ様の仰るような清廉な人物ではありませんから……」
「……」
「……えっ? ちょっとミカさん!?」
ミネさんの独白を聞き終えたミカさんはコーヒーを配る生徒の下へ行った。
おずおずと差し出されたコーヒーを受け取り、顔を顰めながら黒い液体を飲み込んだ。
そして――。
「にっがっ!? ちょ、これ愛飲してるとか信じられないんだけど……あ、砂糖とミルクってある? 沢山入れてくれない?」
「み、ミカさん……!」
あまりにもあんまりな態度を見せた。
まあ元々好き好んで腹芸を行うタイプではないが、だとしてもあまりにもあんまりではないだろうか。
たっぷりの砂糖とミルクが入ったコーヒーモドキをチビチビと啜りながら、ミカさんはミネさんの前に立った。
どこか複雑そうな表情を見せるミネさんに、ミカさんは持ってるコーヒーモドキを差し出した。
「ミネ団長、これが私の答えだよ」
飲んでみて? と、茶目っ気たっぷりにウィンクと共にコーヒーモドキを受け取らせる。
何処までも渋顔のまま、ミカさんと同じようにコーヒーモドキを啜り――渋顔のまま答えた。
「甘くて、確かに飲みやすい……ですが、これでは本来のコーヒーの味や香りが――」
「それでいいんだよ」
受け渡したコーヒーを奪い返し、今度は一息で飲み干した。
溶け切っていない砂糖が紙コップの底面に残るのを眺め、舌を唇に這わせる。
「最初っから選択肢が狭かったら、本当に知って貰いたい人に届かないかも知れない。意固地になって別の可能性を信じないと、もっと嫌いになるかも知れない。目指してるのが融和なら、まず私たちが寛容に成らないと駄目なんだよ」
「ミカさん……」
いま彼女は、ミネさんを見ていない。
遠く遠く、もう届くことの無い過去の自分に向かって吐き捨てているのだ。
――エデン条約調印前の、アリウスへの救済案。
ゲヘナとの政策が嫌だったからこそ、見つけた組織だったのだろう。
私たちにその詳細を詰めぬまま、絵空事のように語っていたからこそ。
具体的な案を相談することなく、独断専行で目指したからこそ。
ただ一つのボタンのかけ間違いがでもあったら、きっと今笑い合うことなど出来なかったと知っているからこそ。
同じ轍を踏んで欲しくは無いと、愚者からの調べを奏でたのだ。
慣れないコーヒーを飲んで迄、道化を演じて。
……いえ、ミカさんですし好奇心で動いただけかもしれないですね。
「……否定は、出来ませんが」
そんなミカさんからの言葉に、ミネさんは確かに心を動かされていた。
しかし、それでも歯切れ悪く答えるのはまた別の理由がある様に思えた。
「あの、ミネさん。まずは試してみるだけでもいいのではないんですか?」
「そうしたいのは山々なのですが。現在のコーヒーに合ったミルクと砂糖の分量を調べるのは困難で……」
「え~? じゃあさ、ご自由にお使いくださいって置いとくのはどう?」
「それも衛生管理上の問題が起きぬよう、確実に此方で対処したいのです。……万が一でも救護騎士団が食中毒でも起こすなど有ってはならないのです……!!」
真面目や誠実さは美点だが、こういった時にどうしても融通が利かなくなってしまう。
如何したものかとミカさんと顔を合わせていると、チョコレートを配る場所で大きな声が上がった。
「これはシェール・アルコマーニ……!? ゲヘナの香りに釣られてみれば、まさかの出会いだ。にひ、これこそ正にロマン、と言うわけだね」
「へえ~……あ、これコーヒーと合う」
「わ、私はコーヒーはちょっと無理かな……カフェオレなら何とか飲めるんだけど」
「じゃあミルクと砂糖入れて貰うよう言っときなさいよ。すみませーん」
「……渡りに船、とはこのことですかね」
「ナギちゃん、あの子たち知ってるの?」
放課後スイーツ部の面々に事情を話、他の組織が出しているお茶菓子を持ってくることを条件に手伝ってもらうことに成功したのだった。
それからそこそこの賑わいを見せ始めたエリアを尻目に、私たちは本来居るべき場所に帰るのだった。
♢ ♦ ♢ ♦ ♢
「全く、ミネ団長は相変わらず手を焼かされるよね」
「それをミカさんが言いますか」
「ふふーん、私が団長とは違うってことを御覧じろ、ってね?」
各組織、または各部活が開く出し物の間を行きかう生徒たちが増え始める。
太陽の日差しもその強さを増していく頃、私たちはティーパーティの設営したエリアを目指していた。
「大丈夫、ナギちゃんが心配せずとも一日中回る様にシフトも組んであるから」
「……もとより、疑っていませんよ。ミカさんがそこまで力を入れたのですから」
「そ、そこまで全幅の信頼をされるのはちょっと怖いかなあー……?」
冷や汗を流しながら計画に問題が無いかミカさんが空をなぞっていると、その指先は一人の生徒に向けられた。
修道服にその身を包んでいるがウィンプルは被っていないようで、艶やかに照らされた長髪を振り回し焦っているようだった。
恐らく、誰か探しているのだろう。
同じように気づいたミカさんは呆れたように目を細め、手を挙げて彼女の名を呼んだ。
「誰探してるの、サオリ」
「――ッ! ……ミカか」
目に見えるように落胆するサオリからは、驚くほどに邪気を感じることは無い。
あの時、あの場に居たトリニティ生が見たらその変貌ぶりに驚くこと間違いないだろう。
彼女はトリニティ襲撃の主犯格、アリウスの主戦力であるアリウススクワッドのリーダー、錠前サオリ。
目の前で怒気や殺気や憎しみが込められた視線と銃を向けていた彼女が、ただ平和に居なくなってしまった人を探しているのは奇跡と言っても差し支えないのだろう。
……いや、本当は分かっている。
彼女たちアリウス生徒たちは、普通を奪われたその中に負の感情を詰め込まれていたに過ぎないのだ。
負の感情を抜いた今の姿こそが、彼女たちの本性なのだろう。
穏やかに、友を思いやることの出来る、私とは正反対な――。
「……ゃん? おーい、ナギちゃーん?」
「えっ!? あ、えっと……ど、どうしました?」
いけない。
意識を切り替えると、ミカさんが不安そうな顔をこちらに向けていた。
違和感こそを持たれなかったようだが、心配したような表情で続ける。
「……サオリがアツコちゃんたちと逸れちゃったみたいだから一緒に探しに行こうと思ったんだけど」
「ああ、それなら一緒に」
「それより! ナギちゃんには私が作った陣地を見て来て欲しいなーって……ダメ?」
不思議と、ショックは大きくなかった。
まるで我儘を言っている子供のような物言いだが、我儘を言ってミカさんに迷惑をかけたのは私なのは明白だ。
ちょっと目を離した隙に上の空になる人間を連れ回そうとするほど、彼女は子供ではないのだ。
「すまない、ナギサ……様。他に頼る伝手も無くてミカを借りることになってしまって……」
「あはっ☆ どうしてナギちゃんには様を付けて私には何もないのかな?」
「ミカがそう呼ばれたいならそうするが……私は友人にそうは呼びたくはない」
「……いーよ、特別に許してあげる。でも、TPOは弁えてね」
軽口を叩きあう二人からは、どこか近寄りがたい空気を感じて。
こちらに手を振りながら人を探しに行ったミカさんに対し、私は力なく手を振り返す事しか出来なかった。