――私の我儘で、トリニティに混乱が巻き起こった。
――私の仕返しで、友人を一人失いそうになった。
――私の暴走で、今尚親友はその身も体も傷つけていた。
「ナギちゃん……」
確かな足取りでここから遠ざかっていくナギちゃんから、先程のような不安定さは感じられない。
……ティーカップを持ったまま、空に手を伸ばしていたナギちゃん。
零れた紅茶に目もくれず、汚れる衣服に意識を向けず、指先に引っ掛かったティーカップすら視界に入らないように、ただ空だけを見つめているように見えた。
そんな姿を見たのはきっと私だけだろうけど、流石に全身紅茶濡れになったナギちゃんを前にして何の問題も無いと思えるほど、頭の中までお花畑な人はここには居なかった。
「……ナギサさんは大丈夫なのでしょうか」
「私たちとほぼ同じ温度の紅茶ですよね? これは速やかな救護が必要なのでは?」
「……身内の恥を晒すようで悪いんだけどさ。ナギちゃん、殆ど一人でティーパーティのホスト回してるんだよね。アリウス問題、ETOを抱えたままさ……」
そう言うと、苦虫を噛み潰したような顔を皆が見せる。
誰もがこの問題の難しさを知っているからこそ、軽々しく手伝うなどと言えないのだ。
沈痛な雰囲気がこの場を満たす中、サクラコは再び、懺悔するかのように言葉を溢した。
「アリウス生徒に関して言えば、シスターフッドはティーパーティに……いえ、ナギサさんに借りを作っている最中です。急遽増えた生徒に対する急ピッチな寮の建築、トリニティのBD一式を人数分以上揃えてくださったり、娯楽に関しても……」
「……あははっ、歌住サクラコ。自分が何言ってるか分かってるの? 自分はティーパーティの走狗ですって言ってるようなもんじゃんね☆ またトリニティに問題を一つ増やしたいの?」
「その気がある人がこの場に一人でもいるのであれば、そうなのでしょう。私は、この場にそのような人物が居ないと確信しておりますから」
真っすぐに、こちらを見ながらそんなことを言うサクラコ。
……ムカつく。そんなことを明け透けに言い放てる彼女が憎い。
そして、それ以上にそんな彼女に嫉妬している自分が居ることに更に腹が立った。
「……お次は、私ですかね」
睨み合いとも言える私たちの視線を断ち切ったのは、ミネだった。
「先程、ETOが採決されて事件件数が減ったとは言いましたが……実の所、ナギサ様が動いていなければ条約自体が最悪の印象を迎えたまま決裂に向かってもおかしくは無かったのです」
「……あの女を、捕まえた日のこと?」
「いえ」
思わず沸々と湧いてきた怒りを否定するようにミネは鷹揚に首を横に振った。
では一体どの時なのか、その疑問はすぐに氷解した。
「あの事件が一段落し、ETO機構が正式に活動を開始した日です。こちらからはツルギ委員長がトップとして就任しましたが……ナギサ様が口利きしていなければ、ゲヘナのトップは万魔殿の誰かだった……との話です」
「はっ……?」
――万魔殿は裏でアリウスと繋がっていた。
これはあの女どころか、一般のアリウス生ですら知っていた事実だ。
元々エデン条約を壊すつもりだった馬鹿がETO機構のトップに座る予定だった?
舐め腐った考えに自然と翼が広がっていくが、そっと背をサクラコに触れられる。
「落ち着いてください、ミカさん。結局は起こらなかった事象。そのことについて怒りを露わにしても無駄な体力を使うだけです」
「――……はあぁ~、確かにその通りだね」
背に生えた翼が折りたたまれて行き落ち着いたと示すと、ミネは続きを語りだす。
「実際はヒナ風紀委員長がトップを務めましたが……ヒナ風紀委員長はエデン条約が成立したら風紀委員長の座から退く予定だったようです」
「……なるほど、そこをナギちゃんが口説いた訳ね」
「ええ……おかげで風紀委員会との軋轢も最小限に抑えて活動できています。……もしも、ナギサ様が先んじて動いていなければどうなっていたか」
そう呟くミネの表情は複雑で、恐らくナギちゃんに無理をしてほしくは無いと思ってはいるものの、彼女が自由に動けなければ被害がより甚大だったと分かるからこその、表情。
単なる脳無救護女ではない……なんて悪態が零れる前に、溜息を吐いた。
違う、そんなこと言いたいわけじゃない。
私たちはこんなにも助けられている。
それなのに、ナギちゃんはいつまで経っても一人でボロボロで立ち続けている。
助けたいんだ。助けてくれたから。
助けたいんだ。友達だから。
助けたいんだ。かけがえのない親友なんだから。
「……ほんと、どうすればいいんだろうね」
願いも、気持ちも、やる気だってある。
でも、どうしても手段が思い浮かばない。
必死に私たちの出来ることはやっているけど、それだけじゃ到底足りない。
せめて、ナギちゃんが如何したいのかだけでも、知ることが出来たら。
“……おっと”
不意に、先生のスマホが鳴った。
先生は画面を見て――目を見開いた後、こっちに視線を投げた。
“ごめん、ちょっと用事が出来たから離れるよ”
そう言って、先生はこの場を離れた。
……もしかすると、ナギちゃんからの電話だったのかも知れない。
力も、能力も足りていない私たちではなく、力も能力もある先生に頼る。
とても合理的だ。正しいと言える。
けど……。
「……私を頼って欲しかったなあ」
去り行く先生の影を見つめて、後悔だけを口にする。
問題だらけの私だけど、まだ私と同じで親友だと思ってくれているなら。
今度は私を、頼ってください。
♢ ♦ ♢ ♦ ♢
フリーのメールアドレス、登録されていない番号から届いたその文言は思わず会合から離脱を即決させる文面だった。
『紅い貴婦人の終売をお知らせします』
“……アロナ、例のポイントの反応はやっぱり?”
【申し訳ありません……! データも完全に消えて復旧すら困難です!!】
“いつの間に……”
周囲に生徒が居ない、会場と会合を繋ぐ一本道の道を駆けながら後悔だけが募る。
アリウス生徒たちを支配していた大人、ベアトリーチェはその危険度の高さからシャーレ預かりとし、矯正局だけではなく三大校の力を借りて全くの干渉が出来ない場所に監禁していた。
物理での脱出で言うのであれば、万全のヒナでさえも数日かかる程で。
情報での突破を図ろうものなら、アロナでさえも数時間かかる程。
可能な限り最大限の警戒は施した筈だった。
それがなぜ逃げられたのか。どうして連絡をして来たのか。
疑問が渦巻く中、自然のトンネルは通り抜け、生徒たちが楽し気にお茶菓子を楽しんでいる姿が目に入る。
(“――早く止めないと!”)
目的は分からない。
だが、タイミングを考えれば何かしらの意図があるのは明確だ。
逸る気持ちを抑えつつも、アロナの解析を待つ。
メール自体を解析したところ、何かしらの数字の羅列――恐らくは何らかの連絡手段――が見つかった。
果たして何を伝えたいのか、どうして欲しいのか。
掌の上で踊ることにはなるが、既に出し抜かれている以上、無闇に動くのはマズイ。
【――出ました! ここから約2km先の場所です! 位置は……トリニティ各組織が設営したエリアのライン上にあります……!!】
“急がないと……!!”
トリニティの一大事とも言える危機だが、相手が暗号のように伝えてきた事実を考えると、考え無しに伝えていいものでは無かった。
強いて言えばナギサかサクラコ辺りが適任だろうが……ナギサは言わずもがなキャパシティオーバー、サクラコも今はミネが近くに居ることで妙な勘繰りを受けかねない。
ならばツルギかハスミだろうか――、そんなことを考えているとアロナが追加の情報を叫んだ。
【ま、待ってください! 先生一人で来るように、と続いています! ……貴方は奇跡を握っているようだから、だそうです】
“黒服か……”
だとすると、このメールは契約の一種なのだろう。
スパムに近いが、情報は真実。
セキュリティレベルややけにまどろっこしい言い回し、真意に気づいたからこそ契約は有効とされる。
(“赤い貴婦人……仮に他の人にメールを見られても幾らでも誤魔化しが出来るようにされている。アロナですら一瞬で解けないセキュリティ……ヴェリタスの子達やヒマリでも難しいだろう。コユキなら読み解けるかも知れないが……読んだところで数字の羅列群に意味を見出すのに時間がかかりすぎる”)
要するに、一人で向かう他無いのだ。
だが、どうしても拭えない違和感があった。
呼び出しているのは恐らく黒服だ。
けれど黒服にしてはやけに手が込んでいる。
奴はもっと分かりやすくアプローチを仕掛けてくる。
“……”
この先に何が待っているのか、それは全くの不明だった。
確実に言えることは、良くない知らせなのだろうことだった。
♢ ♦ ♢ ♦ ♢
「お待ちしておりましたよ、先生」
“……”
指定された座標。
トリニティが開催した親睦会の花園と、人々に見捨てられた廃墟の狭間で奴は待っていた。
「さて……ここに辿り着いたということは、マダム――ベアトリーチェが解放されたこともご存じなのでしょう?」
“またトリニティに混乱を生むつもりか?”
「相変わらずお優しい事で……そもそも我々としてはトリニティと敵対する意図は無いのですが……これでは無駄に疑念が深まるだけですね」
分かりやすくしましょう、と黒服は指を一つ立てた。
――ベアトリーチェは死にました。
思考が、止まる。
死んだ? 何故? どうしてそれをこちらに言う為に態々こんな真似を?
疑問、疑念、疑惑。
逆巻く感情を置いてけぼりにして、黒服は尚も続ける。
「先生は何故殺すためにあの部屋から態々逃がしたのかと……そうお考えなのでしょう。ですが、前提として違っているのです。まず、我々はベアトリーチェを逃がしてはいません。逃げだしたのです、自力で」
“自力で……?”
確かに、奴は化け物に変身する力があった。
だが、それで簡単に壊されるような設計はしていない。
湧いた疑問を一つ一つ潰すように、黒服は尚も語り続ける。
「まず、先生は勘違いをしています。ベアトリーチェの能力は化け物に変貌する……などと、そんな稚拙な物ではありません」
「彼女は仮にもゲマトリアに加入を許された人物……ただの俗物ではないのですよ」
「端的に……いえ、ここはマエストロのように行きましょうか」
「――先生、位相という言葉はご存じですか?」
「トポロジーと呼ばれる位相数学の一種であったり、物理学の変数の一種であったり、そういったものです」
「厳密に言えば私の説明は合っていませんが、解釈の擦り合わせとしてはこの程度の認識でも構わない……そう言う言葉がある事を知って貰えれば十分なのです」
「特定の現象にのみ震える力と言うわけではありませんから」
「彼女は異なる
「自らの求める崇高へと至る為に偽りの天国へと導いた……」
「成就することはありませんでしたので、その真意を知ることは到底叶いませんが――」
「……ふむ、やはりマエストロのようにはいきませんね。私自身、彼のように熱意あって紹介するならまだしも、何処まで行っても猿真似に過ぎません」
「だからこそ、分かりやすく説明いたしましょう」
「ベアトリーチェはキヴォトスにある別の位相から力を引き出すことが出来るようです」
「極限まで引き出した結果が自身の存在までも捻じ曲げることに繋がり」
「本来であれば完全に隔離されていたあの空間からの脱出を可能としたわけです」
“……要するに、ベアトリーチェは死んだと”
「クックック……そう、最初に言ったではありませんか。その通り、大切な部分はそこにある」
愉快そうに笑う奴に、嫌な汗が流れる。
私と彼らは敵だ。
ベアトリーチェは生きていると誤情報を流している方が彼らにとって動きやすくなるはずだ。
それを、何故今こうして話すのか。
結局、そんなシンプルな回答に辿り着いた。
奴はまだ、笑みを深める。
「では……何故我々が今になってベアトリーチェに訃報を伝えたのか――おや、その表情……もしや先ほど亡くなったばかりだと勘違いしているようですね」
“……”
「クックック……まあいいでしょう。このままでは埒も飽きませんし、何より、目的のその殆どは完遂している訳なのですから」
“どういう……意味だ……!”
何処までも、何処までも掌の上で踊らされる。
だが感情的になってはいけない、それでは奴の思うつぼなのだ。
契約を順守する奴の言葉に、意図的に隠されているものは有れど明確な嘘が混ざることは無い。
だから聞き逃してはならない。
そんな思いは――
「――桐藤ナギサ、と言う生徒はご存じですよね?」
続く言葉に、打ち壊された。
“どうして今彼女の名前が出てくる!?”
気が付けば、口からそんな言葉が突いて出ていた。
桐藤ナギサ。
確かに彼女はベアトリーチェを捕まえるその場にも居た。
しかし、彼女がベアトリーチェと対話している暇も無ければ、ベアトリーチェに何かされたような形跡も見られなかった。
そもそもナギサは、アリウス地区を制圧するためにあの時は動いていた。
ベアトリーチェをほぼ無力化し、最後の一押しと言った場面で援軍として現れた。
……真意が、まるで見えてこない。
暗中模索をしている気分だが、幸か不幸か答えの明かりを持っている者が居る。
――暗い暗い、闇の灯りだが。
「実は、彼女に計画を邪魔された者が居るのですよ――マエストロと言うのですが」
マエストロ。
先ほども黒服が口にしていた人物の名前だが、聞き覚えは無い。
ゲマトリアの一員なのだろうが、一体いつナギサが計画を邪魔したというのか。
「彼はベアトリーチェに力を貸す予定があったのですが……それを見事に打ち砕かれてしまいましてね」
“そのための報復か?”
「クックック……そう焦らずとも、時間は余裕はありますのでね。いえ、貴方の思想に乗っ取って言えばもう無いと言い換えてもよろしいのですが……クックック! このまま役割を完遂出来なければ片手落ちの謗りを受けかねませんね」
奴は笑う。楽し気に笑う。
以前ホシノとの契約が無効だと宣言する時に見せた【大人のカード】を使おうとした時のような、無邪気で、悪意の無い、それでいて神経を逆撫でするような笑い声。
ナギサの何がゲマトリアの琴線に触れたのか――心の奥底で拭い切れない焦燥感が管を巻く。
今はただ、奴の言葉を聞き入れるしか選択は無いというのに。
「まず、マエストロには桐藤ナギサに対する敵意や害意などは一切ありません。そもそもの話ですが、ベアトリーチェに力を貸すこと自体、マエストロは乗り気ではなかったのですから」
“じゃあなんでナギサのことを……”
「いえいえいえ、彼も現場に居たのですよ……力を貸す予定でしたからそこは納得して頂けますね? そこで見えたらしいのですよ――神秘の輝きとやらが」
ニタリと、黒服の笑みが深くなる。
「本来であれば傷つき、倒れ、最悪の場合ヘイローが壊れかけない傷を負っても尚、その場に立ち上がり続けた奇妙奇天烈摩訶不思議な生徒の一人……桐藤ナギサの姿を」
黒服は指を一つ立てて、大きく話を変えた。
「以前、私も試してみたことがあったのです。優れた神秘を持たぬ者であっても、一瞬の輝きならば有数の神秘に届くのではないのかと……結果は、私が暁のホルスに執着している時点でお判りでしょうが」
“……”
「そう、理論は出来ていた。しかし現実で行うには余りにも人体への配慮がなされていなかった。人間が立つ代わりに逆立ちで日々を過ごすことが不可能なように……これはそう言った話なのですよ」
だが、仮説は証明された。と。
「私としては何処までもイレギュラーである彼女を軸に研究を続ける気は毛頭ありませんが……マエストロはその外れ値を甚く気に入っているようで」
“彼女に何を……何をしたんだ……”
「……クックック。そうでしょう、先生。貴方ならば、最も気になる部分はそこでしょう。――いいでしょう! 私たちが彼女に何をしたのかを、今ここに! 嘘偽りなく答えさせていただきます」
奴らの計画は既に完遂しているという。
それならばこれは言わばプレゼンの場。
付け入るスキがあるのであれば、この時しか――。
「――我々は何もしておりませんよ、先生」
“……!?”
思考が凍る。先程まで熱弁していた言葉のギャップで考えが掻き乱され続ける。
ならば何をしようと言うのだ!! 何が目的なんだ!!
恥も外聞もかなぐり捨てて叫びたくなる衝動を奥歯で噛み殺す。
細められた黒服の瞳から炎が揺れる。
「先ほども言った通り、実験で成果を出すことは出来ませんでした。つまり、我々の介入など意にも介さない精神の強さが根底に無ければ、マエストロが彼女に拘る理由もない訳です」
“それを見せたのが……エデン条約の時の……”
「ええ、その通りです」
不敵に笑う黒服に、どうしようない焦りが募る。
一度話を切り上げ、ナギサと連絡を取ろうかと、そんな考えに至った時。
黒服は、こちらに手を差し向けた。
「――何故、桐藤ナギサはミサイルを耐えられたのか?」
それはこの話の総括で。
「何故、桐藤ナギサはETOを採決しようと決められたのか?」
それはこの話の根底で。
「何故、桐藤ナギサはアリウスの救済を行ったのか?」
それはこの話の意味を語るものだった。
「何故何故何故――誰も桐藤ナギサの真意を聞き取らなかったのか?」
それは暗に此方を責め立てているような言葉だった。
実情は違うのだろう、だが……。
“……”
「クックック……おためごかしに走らないのは、評価いたしますよ。先生」
差し出した手を指揮者のように振るい、言葉を続ける。
「確かに、桐藤ナギサに心配事を伝えたのでしょう。確認を、何度も取ったのでしょう。ですが、その全て、悉くが桐藤ナギサの心には届かなかった」
広げられた腕は――手は、握られ、潰されるように絞められた。
「足りなかったのです。彼女があの時に決めた覚悟とは段違いで、彼女ならば大丈夫だろうという貴方がたの驕りこそが――必定ともいえる悲劇へと導かれた」
掌を合わせ、磨り潰すように握る。
「だから桐藤ナギサは燃え尽きる事を選んだ」
「地獄の罪人を全て楽園へ還した後に、最も地獄に近い者を裁いて――終幕を迎えることを」
「ですから分かりやすく、私らしくお伝えしましょう」
「桐藤ナギサの楽園は死だった、ということです」
私はその場から駆け出した。
まだ間に合うと、信じて。
……信じて。
♢ ♦ ♢ ♦ ♢
夕焼けから遠ざかる様に、乙女の花園へと飛び込む彼を見て思う。
確かに見ていて、可能な限りの抵抗を見せた彼であろうとも届かない神秘――。
「ククク……再び理論体系から構築し直した方が賢明かもしれませんね」
是非とも、欲しい。
上張りされたテクスチャを塗り替える手法の確立は、確実に目指す崇高への足掛かりとなるだろう。
ならば先ずは神秘の観測を、そんな折にマエストロは現れた。
「契約通り、先生の足止めは遂行いたしました。しかしベアトリーチェの血に汚れ、先生と対立して迄完遂する――」
「――一つの崇高を、見た」
かくん、と。
頭部の木人形を揺らし、こちらの話を遮って淡々と語る。
「静かに燃え盛る意思は何物にも揺らがず、完全性が垣間見えた」
「癒しと救いのみを求め、全て振り撒く姿から物証に拘らない意図が見えた」
「本来ばら撒かれるはずだった罪科の炎だけをその身に纏って、燃え殻すら残らずに塵も消えた」
「……それはそれは、大きな収穫があったようで?」
「――だが、悲しむべきかな」
とても愛おしいものを見たような、焦がれた物を見たような、マエストロは柄にもなく胸を抱き【複製】を発動した。
……しかし、何も起こらなかった。
「……私は「原本」や「複製」といった区分は無意味だと考えているが、ここでは認めてはくれないようだ」
「複写であろうとも、顕現することすら不可能だと?」
「ああ――胸躍ることにな」
かくん、と頭を翻らせ空を見上げる。
紅と青の混じった群青色の空模様は、この先のキヴォトスを暗示しているように思えた。
「アレは私には目指せぬ崇高の一つだ。けれども理解と、納得が得られた。頂きがある事を知っているだけでは無意味であることを、届きうる世界へのアプローチの方法も」
「満足して頂けたならば此方としても仕事をしたかいがある……と言うものです。では、私も一目見に行きましょうか」
「早くした方がいい」
その場を移動しようとした私を引き留めマエストロは忠告、否、予言染みたことを言った。
「人々は炎に助けられ、また炎は自身の熱で溶け切ってしまった。では、炎に目が眩んだ者たちが次に求める炎はなんだ? 炎と縁のある人々だ。ここからが見所に成りえる者も居るだろう……情報は多い方がいいだろう」
彼は芸術家で、人波の動きを読むことを得意とはしない。
だが、その彼がそこまで言うのは明らかな異常事態――否。
「……クックック。それほどまでに眩かったのですか、あの神秘は」
「肉体と言う枷が惜しいと……いや、私が考える時点で予測を上回ることは無いのか。確かに眩かった」
普通ならば盲目になってしまう程に。
マエストロはそう言って姿を暗ました。
恐らく、自身の工房へ行って溢れ出るインスピレーションを形に変えているのだろう。
ならば私も急がなくてはならない。
クライマックスに間に合うように。