しとどに濡れた姿のまま会場に顔を出すのは気が引けた。
考えずとも分かるだろう。
トリニティのトップが集まり、その内の一人が紅茶をかけられたような姿で戻って来る。
何かきな臭い事が起こったと考えるのが妥当だ。
今でさえも不安定なバランスの上で成り立っているトリニティ総合学園内部。
私という存在がアリの一穴になる可能性は大いにあり得る。
「――あら?」
どうした物かと会場と会場の狭間で佇んで居ると、ふと、声が聞こえた。
何事かとそちらを向くと、私にお誂え向きな獣道がそこにはあった。
迷うことなく、躊躇うことなく、獣道へと歩を進める。
脳裏に響く声に導かれるように――
――東に行け、と。
ナギサが獣道を踏み締めると、圧し折れ、枯れ落ちた草木が蘇っていく。
ナギサの姿が見えなくなった時には、そこに獣道があったとは思えない程に緑が雄々しく生い茂っていた。
桐藤ナギサは気づかない。
否、気付こうとも眉の一つも動かさないだけだ。
幸福は、すぐそこにあるのだから。
♢ ♦ ♢ ♦ ♢
歩く、歩く、歩く。
自然に作られた獣道は、僅か十数メートル進んだところで道とは呼べぬほどになっていた。
けれど、この先にあるという。
歩く、歩く、歩く。
日頃歩き慣れた道とは違い、全く舗装されていないというのにすいすいと先に進むことが出来る。
やはりそうなのだろう。今日の私は、何処までも許される日なのだろうと確信を得る。
歩く、歩く、歩く――。
不意に、鬱蒼と茂る前方の緑から光が差し込む。
ここ、なのだろうか。
木々や草木を掻き分けて、光に足を踏み入れる。
「――……綺麗」
思わず、声に出た。
一面に広がる湖面。天辺迄上った日に照らされ、小さな虹を作っている滝壺。
水の流れる音だけが響き渡る空間は、何処か幻想的で冷めていた心をほんのりと温めてくれた。
「……そういえば」
そのおかげで、気が付いた。
振り返ると道らしき道は存在せず、緑の壁がナギサと湖を孤立させていた。
……ほんの少し申し訳ない気持ちになりながらも、しかし同時にこれでいいのだと思って湖に目を向けた。
「……」
少しだけ土に汚れ、草の匂いが染みついてしまったハイヒールを脱ぐ。
タイツ越しに感じる土の柔らかさに、何だかいけないことをしているような気がして、僅かに気分が高揚する。
――今から何をしようと、分からない訳では無いのに。
「――……」
ほんの少し、ほんの少しだけ顔を出した幼い自分の息の根を止めるように囁かれる。
全く持ってその通りだ。私は、遊びに来た訳でも無いのに……。
揃えたハイヒールを水に濡れていない大石の上に置き、隠し持っていたロイヤルブレンドのマガジンを確認する。
軽い音が鳴って外れたマガジンには弾丸は込められておらず、古めかしい鍵が一本だけ、中に入っていた。
「ありがとう、ございました……」
銃を手放し、責務を捨てて。
ここに漸く、裁かれるのみである桐藤ナギサその人が誕生した。
――冷たい。
こんなにも日に当てられているというのに、湖は恐ろしい程の冷たさを保っていた。
湖の底に転がる礫が、自らの罪を自覚させるように鈍く痛む。
――あっ。
一歩、二歩と先に進んで行くと、思わず転んでしまった。
まだ湖の底に手をつけることが出来たが、マズイ。
腰回りを見ると、案の定翼は僅かに痙攣していた。
――急ぎ、ませんと。
立ち上がり、歩を進める。
この程度の罰で、私の罪が……。
――……。
太腿まで、湖に浸かる。
いえ、いえ。違います。そんな立派な、強い人のような気持ちでこの場には居ないのです。
――っうぁ。
腰元まで浸かり、一気に呼吸が辛くなる。
倒れそうになる体を必死に堪えて、一歩一歩、確実に湖の中央へと足を運ぶ。
私が無能なせいで、フィリウスの同輩たちへ迷惑をかける。
私が愚かなせいで、ヒフミさん、ハナコさん、コハルさん、アズサさんに無用な恐怖を与える。
私が弱いせいで、ティーパーティに混乱をもたらす。
私が、疑心暗鬼に、溺れなければ。
――あっ。
ずるり、と。道を踏み外したように、私の体が湖に隠れていく。
水飛沫をあげながら沈み切った体は、もう動かせなかった。
――綺麗……。
薄くなっていく視界の中、何も遮るものの無い暗い水中を一筋の光が照らしていた。
思わず開いた口に、水が流れ込む。
ただ押し込まれる水流に、自然と飲み下していく他なかった。
最後に残った思考は、水と共に押し流されて行き。
口を突いて出そうになった願いは、意識と共にこの世から書き消えてしまった。
♢ ♦ ♢ ♦ ♢
「――ねえ、二人とも遅くな~い?」
日が沈み始め、辺りが暗くなっていく頃、ミカはテーブルの上のアロマキャンドルを突きながらそうぼやいた。
一面に広がる花園は既に闇にのまれ始めているが、テーブル周辺はキャンドルの他にも少し安っぽい電飾が飾られており、ミカの不満気な表情は二人にも丸見えだった。
――余談だが、ここの飾り付けはミカ一人で行っており、ナギサに見てもらうために少ない自腹を切ってやりくりしていた。
「まあ、お二人で積もる話もあるのでしょう」
「……ですが、やはり遅すぎるような」
ミネは口ではそういうものの、僅かばかりの疑念が拭えず、今にも飛び出しそうになっていた。
サクラコも少しばかりの不安感を覚えながらも、しかしその場で待つ判断を下したのだ。
それは恐らく真っ当で、だからこそ誤った判断だった。
皆のスマホが一斉に鳴り、ミカのスマホに着信が来る。
――これが天使のラッパだったと、気づく者はまだ誰も居ない。
“ミカ! ナギサは何処に!?”
聞こえてきた怒声は、誰がどう聞いても切羽詰まっていた。
だがその焦りさえもミカにすれば苛立ちの種だった。
「ま~ったく、二人して一体何処ほっつき歩いてるの? 私たち風邪ひいちゃいそうなんだけど~?」
“……ごめん。それよりもそこにナギサは居ないんだよね?”
「ちょっと、それよりって何? それよりって」
「待ってください。先生はナギサさんと一緒では無いのですか?」
唇を尖らせ続けるミカを遮るようにサクラコが問いかける。
チラリとサクラコを見るミカだったが、それ以上口を開くことは無かった。
実際、ミカも気になっていたのだ。
“……私はナギサがどこに行ったのかすら聞いていない。みんなは?”
やけに重苦しく、後悔に滲んだ声だった。
妙な胸騒ぎがミカの胸中に渦巻く。
こんな場に相応しくも無い、真剣味を帯びた声色だ。
まるで初めてアリウス地区に乗り込んだ時のような悲痛さが籠った――。
――待って、どうしてそんな声でナギちゃんを呼んでいるの?
ミカの脳裏に過った嫌な予感は、先生の言葉によって現実として表されてしまった。
“落ち着いて聞いて欲しい。今、ナギサの身に危険が迫っているんだ”
「――ッ」
「ミカ様! ……まずは落ち着いて、話を最後まで聞いてからにしてください。今救護騎士団員を集めて――」
「今この場に、ですか? ミネ団長も落ち着いてください。クーデターの策謀だと勘繰られる方が危険です」
“人海戦術以外に、方法はなさそうだね……大事になって欲しくは無いんだけど”
『――その必要は無いよ。先生』
三者三葉の慌てぶりを見せる皆を止めるように、ミネの端末からセイアからの連絡が届いた。
……その顔は酷く窶れ、真面に起きていていい状態では無いのは明らかではあるのだが。
「セイア様! その様子……それより、今はどちらへ?」
『今、其方に向かっている……大事にはしたくないんだ。かなり、難しいだろうけども』
苦虫を噛み潰したように呟いたセイアは何を見たのか。
すぐにでもベットに叩き込み、安静にして欲しいという願いを押し殺して、ミネがセイアにこの後どうすればいいのか聞こうとした。
「セイア様、ならば私たちは――」
「セイアちゃん」
その言葉は、隣から発せられる圧によって掻き消されてしまったが。
必死に心を押し殺しながらその場に立つミカは握り拳を作りながら、セイアを見た。
「ナギちゃんは、どこ?」
『……今君が立って居る場所から右に四十度傾いた先に居るよ。道を切り開いてくれないか?』
「分かった」
「――ッミカ様!! セイア様!?」
血に滲んだ拳を振り上げ、咲き誇るパンジー畑を踏み荒らしながら木々を薙ぎ倒していく。
恐慌とも言えるセイアの判断とミカの行動にミネは悲鳴のように呼び止めた。
そんなミネに対し、セイアは沈痛な面持ちで首を振ることしかできなかった。
『これが、これが最善なんだ』
『フィリウスに頼ろうが、パテルに頼もうが、サンクトゥスを動かそうが』
『シスターフッドを動員しようが、救護騎士団に捜索して貰おうが』
『――例えトリニティ全組織を動員して動かそうが』
『ミカが力を振るって切り開いた先の方がまだマシだった』
『……いや、所詮先延ばしに過ぎないのかも知れないけれど』
『頼む、ミネ、サクラコ……先生』
『ミカについて行ってくれないか?』
『この先を一人で見るのは、余りにも過酷だ』
『どうやら私は、少しだけ遅れてしまいそうだから』
♢ ♦ ♢ ♦ ♢
殴る、蹴る、ぶつかる。
頭突く、蹴飛ばす、振りかぶる。
殴る、殴る、殴る――!
轟音を響かせながら、木々がへし折れて行く。
その先に何が待ち受けるのか考えないようにして、でもいち早くたどり着けるように、ただ壊す。
きっと正しいはずだ、私の判断では無いのだから。
きっと間違えていないはずだ、私の判断では無いのだから。
きっと平穏が待っているはずだ、私の判断では無いのだから。
盲目にも似た狂信を拳に込め、最後の木を殴り飛ばした。
――そこには、一面の湖が広がっていた。
「はっ……はあっ……なに、ここ……」
肩で息をしながら周辺へ目を向ける。
まるで外敵からの侵入を許さないとばかりに広がる深い緑。
湖面を照らす夕暮れは湖をほんのり紫色に映し、まるで毒のような錯覚をさせる。
そんな湖の中心に、見覚えのある白い羽が見えた。
「――ナギちゃん」
“待つんだミカ!”
誰にとっての幸か不幸か、先生の言葉が耳に入るよりも先にミカは湖へと飛び込んだ。
全身に生まれた擦り傷が沁みるがミカの足を止める理由にはならない。
自身の胸元迄進んだ頃、急に足元が抜ける。
僅かに水を飲んでしまったが、それでも、この距離ならば。
「――ごぼっ!?」
あと数センチ、そう言った所で突如ミカの体に変化が現れた。
先ほどまで動いていた体が痺れ、上手く動かない。
それどころか強烈な嘔吐感に襲われ、湖を汚していってしまう。
一気に体力が、気力が削られ意識を手放しそうになる。
このまま沈んで行ってしまうのだろうか――そう思った矢先に、何か動く物を掴んだ。
酩酊する意識の中、ミカは必至にその何かを掴み続け……ほんのわずかに揺られながら、陸へと打ち上げられた。
「……うおえぇ……はぁ、はあっ……何が、起きて……」
「相変わらず、頑丈なんだな君は。……寝ていればよかったものを」
セイアが、そこには居た。
右手に握られた拳銃は何か紐のような物が伸びており、その先は――。
「ナギサ様! ナギサ様ッ! しっかりしてください!!」
「……主よ」
「――えっ?」
ミネが、必死に呼びかけながら、胸を押し続けている。
サクラコが、瞼に雫を溜めながら、誰かに祈っている。
先生が、ただ何も言わず、空だけを眺めている。
ナギちゃんが、眠っていた。
酷く、酷く苦しそうな顔をしている。
とても、とても悪い夢を見ているのだろう。
今も尚胸を押し続けるミネを押しのけ、ナギサの肩を掴む。
「ナギちゃん」
「――」
「ねえ、ナギちゃん」
「――」
「起きてよ、ねえ」
「――」
がくがくと、揺すられる体。
それでも尚、ナギサが目覚めることは無い。
「私さ、頑張ったの。ナギちゃんがあんなに頑張ってくれたからさ」
「――」
「もう大丈夫だって、ナギちゃんに言いたかったから。ほら、飾りつけも、したんだよ」
「――」
「……なぎちゃん」
「――」
もう、ナギサの体が、揺らされることは無かった。
溢れ出る涙が、彼女の頬を伝う。
零れ落ちた涙が、彼女の頬を濡らす。
残った水滴が涙のように、ナギサの目から流れ落ちた。
「――ッ!!!」
堪え切れなかった。
堪えるつもりは、もう無かった。
恥も外聞も全てかなぐり捨て、ミカは彼女の胸で泣いた。
森の中に響き渡る幼子のような鳴き声は、幸いにも四人しか聞くことは無かった。
最も届いて欲しい五人目に、彼女の声は届くことは無かった。
あー……やっぱりナギサ様の死にざまは美しいのが最も映えると思いませんか皆さん?
あー……でも苦しいね、なんで死ぬんですかナギサ様……