英雄。
その言葉の価値が、これほどまでに暴落した時代も珍しい。
星系連合の片隅、自由商業圏ヴェガ。
この三流国家において、英雄とはすなわち「次の戦場で華々しく死ぬための整理番号」と同義である。
巨大企業が自らの利益のためだけに国家を駒として使い潰す、終わりの見えない代理戦争。
星系を結ぶ漆黒の航路には、昨日まで英雄と呼ばれた者たちの鉄屑が、今日も星々の墓標のように静かに漂っている。
希望はとうの昔に食い尽くされた。
人々はもはや救世主など信じていない。
ただ、日々の生活の苦しさを一瞬でも忘れるための麻薬として、刹那的な勝利と、その主役である「英雄」の誕生を渇望するだけだ。
そして、その英雄が次の戦いで死ぬと、また新しい麻薬を求める。
世界は、諦観という名の分厚い瘡蓋(かさぶた)に覆われていた。
だからこそ、若人たちは、その麻薬に焦がれるように最後の籤を引く。
富、名声、そして力。
英雄という名の、明日には忘れられる栄光を掴むためならば、彼らは喜んで己の命すら戦場に差し出す。
それが唯一、この腐敗しきった世界で、数字の羅列でしかない人生から抜け出すための道だと信じて。
ここ、ヴェガ唯一の士官養成学校でも、その成否を占う最初の舞台が今まさに始まろうとしていた。
士官学校卒業演習。
全生徒が参加する、大規模な艦隊戦シミュレーション。
その成績は、彼らの未来を決定づける。
英雄的な戦果を挙げれば、最前線への切符が手に入る。
それは輝かしい栄光であると同時に、早死にするための片道切符でもある。
逆に、無様な結果に終われば、無能の烙印を押され、軍の雑用係として一生を終えることになる。
富と名声を求める者にとっては地獄の二択。
だが、中にはそのどちらでもない「平凡」という名の活路を見出す者もいた。
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「――次席、クラウス・フォン・リキテンベルク! 健闘を祈る!」
卒業演習の待機室に設置された巨大モニターに、厳ついゴシック体で名前が映し出される。
それまで騒がしかった室内が、水を打ったように静まり返った。
誰もが、首席を争うエリートの戦いぶりに固唾を飲んで注目しているのだ。
(あー、やっとお出ましか。早く終わんねぇかな…もう待つの飽きたわ…)
ただ一人、カイ・シラヌイという男を除いては。
彼は、そんな同期たちの熱狂から少し離れた席で、足を組みながら気だるげにスクリーンを眺めていた。
その手には、一冊の古風な紙の書物が開かれている。
データ化が当たり前のこの時代、紙の書物など好事家の骨董品だ。
その中で、あえて文庫本を読む彼は、傍から見れば完全に浮いている。
しかし、周囲の目はむしろ感嘆の色に染まっていた。
喧騒の中でも己を見失わない精神力、流行に流されない確固たる哲学。
――と、周囲が勝手に勘違いしてくれていることを、この男、カイ・シラヌイは完璧に理解していた。
計算ずくで小道具を使い、己という存在を演出しているのである。
ちなみに、開かれている本のページはここ十分ほど一行も進んでいない。
『お、クラウス君の出番だ。君のライバルなんでしょ? 応援しなくていいの?』
声の主は、カイの脳内に埋め込まれたインプラントから直接語りかける、人生サポートAIの『シロ』だ。
人生サポートAI。
それは、生まれた時から市民の脳に埋め込まれるインプラントを介し、まさに「ゆりかごから墓場まで」人生に寄り添うパートナー。
主人と共に成長しながら、時にその情緒さえもサポートするその在り方は、この時代の常識であった。
『シロ』という名は、彼女がカイの脳内に投影する「銀髪の美少女」のイメージから彼が適当につけたものだが、いつしかAI自身がそう名乗るようになった。
もっともカイ自身は、そんな大層な代物を、全くと言っていいほど信頼していなかったが。
そんな相棒からの軽口に、カイは内心で小さく舌打ちすると、その言葉を鼻で笑った。
(ライバル? あの程度の男が? 寝言は寝て言え)
ライバル、などという対等な響きを持つ言葉は、カイの辞書には存在しないらしい。
彼にとってクラウスとは、己の(自称)天才性を際立たせるためだけに配置された、都合のいい舞台装置。
あるいは、手ずから動かせる玩具。
裸の王様とは、まさに彼のことである。
モニターの中で、クラウスの艦隊が勇ましく突撃を開始する。
その英雄的な戦いぶりに、待機室の同期たちから「おお!」という感嘆の声が漏れた。
カイは、その光景を見て深く溜息をついた。
(馬鹿の一つ覚えだな。あの陣形は、確かに短期決戦での突破力は高い。だが、艦載機(アタック・ポッド)の母艦を置き去りにして、補給線を無視した突出がどれだけ危険か、あいつは全く分かっていない)
この世界の艦隊戦において、近接戦闘の主役は、大型艦から射出される無人攻撃機「アタック・ポッド」である。
その膨大な数による弾幕は強力無比だが、稼働時間が短く、母艦からの補給がなければただの鉄屑と化す。
『でも、格好いいじゃん。ああいうのが英雄って感じでしょ?』
(英雄ねぇ……。まあ、せいぜい10分で散る、使い捨ての英雄だがな)
カイの予言通り、戦闘開始から5分後、クラウスの艦隊は敵の罠にはまり、突出した先で孤立した。
アタック・ポッドは弾切れを起こし、母艦からの補給も間に合わない。みるみるうちに消耗していく。
それでもクラウスは、持ち前の操船技術と闘争本能で奮戦し、最終的には敵将の首を取るという、多大な犠牲を払った上での「勝利」をもぎ取った。
待機室が、熱狂的な拍手と歓声に包まれる。
「やったぞ!」「さすがクラウスだ!」
だが、カイだけは冷めた目でスクリーンを見つめていた。
(損耗率70%を超えて、ようやく敵将一人か。愚の骨頂だな。まあ、おかげで俺の計画はさらに盤石になったが)
英雄、あるいは救世主。
そんな常人には眩しすぎる称号を、カイは心底から軽蔑していた。
彼が求めるのは、大それた栄光ではない。
誰にも干渉されず、面倒事も押し付けられない、安全で退屈な鳥かご。
そう、後方勤務という名の安息の地。
実に小市民的で、スケールの小さい男である。
演習を終えたクラウスが、汗まみれの顔に興奮を隠さず待機室に戻ってきた。
同期たちが彼の肩を叩き、勝利を称える。
その熱狂の中心で、クラウスは一人だけ静かに読書を続けるカイの姿を捉えた。
血走った目が、カッと見開かれる。
彼は人垣をかき分けると、一直線にカイのもとへ歩み寄った。
「シラヌイッ!」
どすの利いた声に、カイはゆっくりと顔を上げる。
その表情は、まるで敬愛する好敵手の登場を喜ぶかのように、穏やかな微笑みを湛えていた。
(うっわ、来たよめんどくせぇのが。汗臭いんだよ、こっち来んな)
内心の悪態とは裏腹に、カイは計算され尽くした所作で本を閉じ、すっと立ち上がった。
あれは「洗練」などという生易しいものではない。
己という存在を完璧に見せるための、執念にも似た自己演出である。
その情熱を、別の何かに使えぬものだろうか。
「見たか、シラヌイ! これが俺の戦いだ! お前のように小手先の戦術ばかり弄んでいる男に、この勝利の意味が分かるか!」
クラウスが叩きつけるように言う。
彼の勝利は、カイのシミュレーションにおける理論上の最適解とは程遠い、泥臭く、非効率なものだった。
理論家のカイに、その非合理な勝利の価値を認めさせることこそが、クラウスにとっての真の勝利だったのだ。
カイは、その激情を真正面から受け止めると、ふっと目を細め、完璧なまでの笑みを返した。
「ああ、見ていたとも。見事な突撃だった、クラウス・フォン・リキテンベルク君。君のその燃えるような勇気と情熱は、いつも感服させられる。実に君らしい、素晴らしい戦い方だ。私には到底真似できない」
「なっ……!」
それは、クラウスが最も望まない形の、完璧な「拒絶」だった。
嘲笑でも、見下しでもない。
ただ、絶対的な強者が、自分とは全く異なる価値基準で戦う者を「理解できないが、それはそれで素晴らしい」と評するような、無慈悲なまでの隔絶。
もちろん、カイ自身にそれほど深遠な考えはない。
ただ、熱血漢が自分の理解を超えた反応をされて混乱し、悔しがる顔を見るのが最高に愉快だという、極めて悪趣味かつ小市民的な動機に基づいた行動である。
カイはクラウスをライバルとして見ていない。
ただ、安全な高みから、下界で奮闘する面白い若者として眺めているだけだ。
その事実が、勝利の昂揚感で満たされていたクラウスの心を、絶対零度の侮辱で凍てつかせた。
殴りかかろうと振り上げた拳が、行き場を失ってわなわなと震える。
「き、貴様……!」
絞り出した声は、怒りよりも、むしろ悲鳴に近かった。
(くっくっく……見てみろよこの単純な顔! 顔真っ赤にしちゃってさァ! あー、気持ちいい! こいつの悔しがる顔は最高の酒の肴だぜ!)
酒も飲めないのに肴を語るな、恥ずかしい。
カイの心からの(としか思えない)称賛に完全に打ちのめされ、クラウスは何も言い返せず、ただギリッと歯噛みする。
そして、「覚えていろ…!」という陳腐な捨て台詞を残し、踵を返して去って行った。
その背中を、カイはあくまでも「好敵手を気遣う」ような優しい眼差しで見送る。
そして、誰も見ていないことを確認すると、口の端をニィッと歪め、心の底から愉快でたまらないといった表情を浮かべた。
この男、己の破滅がすぐそこに迫っているというのに、目の前の小さな勝利にこうも浸れるのだから、ある意味大物である。
では、その『破滅』とは何か。
そして、なぜ彼はこんな愉快な…、いや歪んだ精神構造をしているのだろうか。
その根源は、彼の魂に刻み込まれた、前世の記憶にある。
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かつて彼がいた世界、令和の日本。
そこでカイ・シラヌイという男は、何者にもなれず、誰からも認められず、ただクソリプを生産するだけの無力なクズだった。
まぎれもない敗北者。
死だけが、彼をその惨めな人生から解放したのだ。
(二度と、あんな思いはするものか。今度の人生では、俺は完璧な存在になる。誰にも見下させない。誰にも馬鹿にさせない。俺は、俺という存在を、世界に認めさせてやる!)
死を経て歪んだ渇望は、彼を暴走させた。
転生先の、熱中していたSLG『アストロ・サーガ』の世界で、彼はその知識を武器に「神童」を完璧に演じきった。
前世では得られなかった賞賛と畏敬を浴びる日々は、まさに絶頂。
彼は本気で、この世界の主役にでもなれると信じていた。
だが、その張子の虎は、士官学校の最終年度で本物の「死」を前にして、あっけなく内側から崩壊した。
『初陣事前教育』。
そこで候補生たちにだけ限定公開された無修正の戦闘映像は、彼の知る『アストロ・サーガ』とは全くの別物だった。
友軍機が爆散する瞬間の断末魔の通信。
レーザーに焼かれ、真空に投げ出される生身の人間の姿。
そして、彼の脳裏に焼き付いていたゲームの隠しデータ。
―― 『新任指揮官の平均寿命、最前線配属後、3ヶ月』 。
当たり前の事実に気づいた瞬間、カイの背筋を走ったのは、純粋な恐怖だった。
(冗談じゃない…!こんな確率の悪いギャンブル、付き合えるかよ!)
しかし、今さら逃げ出すこともできない。
これまで十数年かけて築き上げてきた「神童カイ・シラヌイ」という完璧な偶像を、彼自身の手で汚すことなど、彼の歪んだプライドが許さなかった。
無能の烙印を押されるなど、彼にとっては死ぬより屈辱的なことなのだ。
恐怖とプライドの狭間で、彼が導き出した答えは一つ。
誰にもバカにされず、面倒事も押し付けられない、安全な後方勤務を勝ち取る。
それだけだった。
しかし、自ら作り上げた「神童」という偶像が、今まさに彼自身の首を絞めている。
普通に考えれば、もはや打つ手なしの、滑稽な詰み盤面である。
…だが、この男、まだ全てを諦めてはいないらしい。
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やがて、無機質なアナウンスが、待機室に彼の名前を響かせた。
「――首席、カイ・シラヌイ。シミュレーション・ポッドへ」
カイは静かに本を閉じると、クラウスの劇的な勝利で最高潮に達した熱狂の中、ただ一人、まるで葬式にでも向かうかのような足取りで、ゆっくりと立ち上がった。
シミュレーション・ポッドのハッチが閉まると、カイは外界の喧騒から完全に切り離された。
冷たいゲルが身体を包み込み、神経接続プラグがうなじに吸い付く。
やがて彼の眼前に、漆黒の宇宙空間と、友軍艦を示す青い光点が広がった。
【最終試験を開始します】
【課題:敵主力艦隊に対し、可能な限り友軍の損害を抑制し、戦線を維持せよ】
レーダーには、自軍の数十倍はあろうかという敵艦隊を示す無数の赤い光点。
負けることが前提の、いわば「どれだけ上手く負けられるか」を試す試験だ。
『それで? いったいどんな計画を立ててるのさ、首席様? まさかクラウス君みたいに派手に散るわけじゃないんでしょ?』
シロが、からかうように尋ねる。
カイは待ってましたとばかりに、口の端を吊り上げた。
(フン、あの筋肉ダルマと一緒にするな。俺の計画は、もっと芸術的で、完璧なものだ)
『へえー、芸術的ねぇ。どうせ「適当に負けてきます」とかでしょ?』
(違うな。愚か者には理解できんだろうが、ただ負けるだけでは無能の烙印を押される。勝てば最前線行き。だから俺は―― 完璧に負ける のだ)
『完璧に負ける? なにそれ、意味わかんない』
シロの当然の疑問に、カイはもったいぶりながら、自らの完璧な計画を語り始めた。
(いいか、よく聞けよ? まず序盤から中盤にかけては、観測室の教官どもが椅子から転げ落ちるほどの天才的な指揮を見せつける。俺がただの無能ではないことを、奴らの脳髄に刻み込んでやる)
『で?』
(だが、終盤、 どうしようもない不運なアクシデント に見舞われた、という体で無残に散るのだ。そうすれば俺の評価は傷つかず、むしろ悲劇の天才として同情を集める。そして、ここからがこの計画の真骨頂だ!)
カイの内心のテンションは、最高潮に達していた。
(試験が終わった後、俺はやつれた表情でこう言うわけだ。『私では英雄にはなれません。真の英雄は、多大な犠牲を払いながらも勝利を掴んだクラウス君です。私の役目は、後方で彼のような英雄を支えることです』……ってなァ!)
『……うわぁ』
(凡百の輩が言えばただの臆病者の戯言だが、俺は違う! 圧倒的な指揮能力を見せつけた俺が言うからこそ、その言葉は『偉業を成し遂げた上での、この上ない謙虚さ』として響く! どうだ? 完璧だろう!? 俺は天才的な指揮能力と謙虚さを同時にアピールし、そして最も安全な後方勤務を手に入れることができる! これぞまさに完璧な計画ってわけよ!)
カイの口元に、誰にも見えない笑みが浮かんだ。
彼の脳裏には、輝かしい未来の光景が広がっていた。
(フフフ……見えたぞ、俺の未来が! 惑星ヴェガ本星を見下ろす軌道上の、後方勤務司令部。窓から美しい青い惑星を眺められる、俺だけのオフィス。そこで俺は、山積みの電子書類に、ただひたすら承認印をスタンプするだけの毎日を送るのだ。今日の昼飯は何にしようか、週末はどの本を読もうか。それが俺の人生における最大の悩み。その頃、クラウスのような馬鹿どもは、最前線で泥水すすりながら戦闘糧食でも食ってるんだろうな。ああ、最高の人生じゃないか!)
この男、根本的に社会というものを理解していない。
巨大企業の傀儡国家であるヴェガにおいて、書類仕事だけの安全な部署など、 企業の重役の親族でもなければ座れない ことを知らないらしい。
仮に配属されたとしても、待っているのは地獄のような責任と、派閥争いの板挟みである。
彼の夢見る楽園は、残念ながらこの銀河のどこにも存在しない。
『……まあ、せいぜいその完璧な計画とやらが、うまくいくといいね』
シロは、心底呆れたように呟いた。
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カイは計画通り、序盤は完璧な艦隊運用を見せつけた。
敵の波状攻撃を最小限の動きで回避し、まるで未来予知でもしているかのような的確な反撃で敵の前衛を少しずつ削っていく。
その手腕は、観測室の教官たちが思わず唸り、身を乗り出すほどだった。
「見事だ……。敵の攻撃パターンを完全に読み切っている」
「まるで踊るようだな。あのカイ・シラヌイという男、これほどの逸材だったとは……」
カイは自らの筋書き通りに進む戦況と、聞こえてくるはずもない賞賛の声に、内心でほくそ笑んでいた。
(よし、そろそろだな。見せ場は十分作った。ここらで華麗に散ってやろう)
カイの計画は完璧だった。
実際、言うだけあって彼の指揮能力は高い。
高度なAIが、人間を全力で騙そうと巧妙に仕掛けた包囲殲滅陣。
その兆候を、彼はゲーム知識と天性の勘で正確に読み切っていた。
観測室の教官たちがまだ気づかぬうちに、彼は敵の罠の全容を把握し、あまつさえそれを利用することを決めたのだ。
普通に考えれば、罠を看破した時点で回避するのが定石。
だが、彼の目的は勝利ではない。「完璧な敗北」だ。
(いいぞ、食いつけ。あと1分で貴様らは俺の艦隊を包囲できる。そして俺は、圧倒的な戦力差の前に、悲劇の天才として散るのだ……!)
いよいよ計画の最終段階、英雄的な敗北を演出するため、カイは敵が巧妙に仕掛けた包囲殲滅陣へと、「わざと」艦隊を進めた。
全ては筋書き通り。
彼の口元には、勝利を確信した笑みすら浮かんでいた。
しかし、その瞬間。
運命の歯車が、カイの全く意図しない方向へと狂い始める。
彼のこれまでの完璧すぎる指揮に恐怖した敵AIが、彼の予測を裏切ったのだ。
AIは、カイの動きを「罠を看破した上での、さらに深遠な罠」と判断し、あろうことか、 発動寸前だった包囲網を解いて後退を開始してしまったのである 。
カイの思考は、一瞬停止した。
(は?)
モニターに映し出されるのは、蜘蛛の子を散らすように後退していく敵の赤い光点。
(……は? なんで引くんだよ!? 罠にかかれよ! 俺の完璧な敗北計画が! 戻ってこい! 礼儀正しく包囲しろ!)
罠にかかったのはお前だ。
『あれれー? おっかしいぞー? 君の完璧な計画通りなら、今頃は四方八方から撃たれて悲劇のヒーローになってるはずじゃなかったっけ?』
シロの無慈悲なツッコミが、カイの脳内に突き刺さる。
(うるさい! 落ち着け、まだ手はある…そうだ、AIが罠を使わないなら、こっちから無理やり突っ込んでやればいい!)
『おっと、プランBは「クラウス君の戦術をパクって無様に負ける」だったんだ。独創性のかけらもないね』
(は? 俺のほうがすごいに決まってるんだが?)
『へえ、じゃあ見せてもらおうじゃないの。君のすごいクラウス君スペシャルを』
(誰がスペシャルだ! 見てろ、ただの猪突猛進じゃない、計算され尽くした『負け』のための突撃を見せてやる!)
『はいはい、楽しみにしてるねー(棒読み)』
もはや後に引けなくなったカイは、シロへの意地だけで艦隊に命令を下した。
それは、クラウスも真っ青になるほどの、愚の骨頂とも言える単騎突出。
彼は、ついさっきまであれほど愚かと断じていたクラウスの猪突猛進を、あたかも自らが編み出した起死回生の妙手であるかのように艦隊に命じたのだ。
自分のプライドを守るためなら、昨日の自分すら平気で裏切る。
実に、見事な手のひら返しであった。
だが、観測室の教官たちの目には、その光景は全く別のものとして映っていた。
「馬鹿な! なぜ突出を!? いや、待て……敵の陣形が崩れた!?」
「まさか……敵の包囲を『誘い』、その裏をかいて敵本隊に肉薄するつもりか! 敵AIの思考パターンすら読んでいたというのか!?」
「天才だ……! 我々の理解を遥かに超えている!」
カイのこれまでの神がかり的な指揮を見ていた敵AIもまた、この無謀な追撃すらも「我々の思考の裏をかく、壮大な罠だ」と深読みしてしまう。
AIの思考ルーチンは、カイの常識外れの行動を分析し、恐怖に染まっていく。
「罠を回避した後、あえて補給を断って追撃…? まさか、補給すら必要としない短期決戦用の新型兵器を隠しているというのか!? この男、我々の常識が一切通用しない! 理解不能な怪物だ!」
結論。
敵AIは、カイを理解不能な怪物と認定し、なんと、さらに速度を上げて 全力で逃走を開始した。
(なんでだよ!? なんでさらに逃げるんだよ!? 空気読めよ! 俺は負けたいんだよォォォ!!)
こうして、宇宙戦争史上、最も滑稽な悲喜劇の幕が上がった。
一人は、「完璧に負けたい」と願いながら、その天才性(と勘違いされているもの)ゆえに敵を追い回す悲劇の主人公(?)。
もう一方は、その主人公を「理解不能な怪物」と誤解し、必死に逃げ惑う、哀れな悪役。
互いを盛大に勘違いし続ける二人の役者によって、モニター上ではカイの艦隊が敵の大軍を一方的に追い回すという、英雄的な絵面が展開されている。
その、観測室の誰もが熱狂するであろうあまりに英雄的な光景は、しかし、カイの目には地獄へのカウントダウンのようにしか映っていなかった。
(駄目だ…もう駄目だ…! どっちに転んでも地獄じゃないか! 英雄になっても、無能になっても、俺は『俺』じゃなくなる…! 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!)
盤上の王は、詰んでいた。
カイ・シラヌイという名の、哀れな裸の王様は。
彼に残された道は、三つ。
そして、そのいずれもが「死」へと通じていた。
一つは、「英雄」になるという栄光の死。
最前線で使い潰され、歴史の教科書に一行だけ名が残る、自己犠牲という名の死。
一つは、「無能」の烙印を押される社会的な死。
前世で嫌というほど味わった、誰からも認められず、嘲笑われ、無価値な存在として緩やかに殺されていく、屈辱という名の死。
そして最後の一つが、自らの手で全てを終わらせる、物理的な自滅という名の死。
彼の思考は、焼き切れる寸前の演算回路のように火花を散らす。
英雄の死か、無能の死か。栄光か、屈辱か。
その二つの地獄の間で引き裂かれそうになった彼の視線が、ふと、マップの隅で不吉に点滅する深紅の宙域に吸い寄せられた。
そこは、過去の大戦で砕け散った無数の艦艇の残骸が、今なお怨嗟の声を上げるかのように高速で飛び交う高密度のデブリ帯。
航行マニュアルでは『航行禁止区域』に指定される、艦艇の墓場。
『……まさか、ね』
シロの呆れた声が、まるで遠い世界の響きのようにカイの耳を打つ。
そう、常人であれば、そこに第三の死――ただの無意味な自爆――しか見出さないだろう。
だが、カイ・シラヌイは違った。
彼は、その狂気としか思えない選択肢の中に、二つの地獄から逃れる唯一の「救い」を見出してしまったのだ。
もはや、正気の沙汰ではなかった。
『ついに自爆テロ? 人生に絶望したテロリストと思考回路が一緒だよ』
(デブリに突っ込んで艦隊が半壊すれば、それこそ『どうしようもないアクシデント』だ! 航行システムのエラーということにでもしておけばいい! これで悲劇の天才の完成だ!)
『なるほど! 天才は考えることが違うんだね! 艦隊ごとゴミの山に突っ込んで「事故死」を装うなんて、凡人には絶対思いつかないもん!』
(うるさい!うるさい!うるさァイ! 英雄譚には多かれ少なかれ、こういう理不尽な悲劇がつきものだろうが!)
『へぇ、英雄譚ねぇ。でも、歴史の教科書に残るのは「謎の事故で自滅した、ちょっとおかしな指揮官」っていう一行だと思うけど、それでもいいの? 後世の歴史家が「原因不明。多分、操艦が下手だったんじゃない?」って書く方に、私の全メモリを賭けてもいいよ』
(このっ…! 俺の指揮だぞ!? 俺がエラーを起こしたと言えば、それが真実になるんだよ! もういい、黙って見てろ!)
『はいはい。ごめんね、君の崇高な自爆計画の邪魔しちゃって。せいぜい上手く散ってね』
シロの軽口に返事をする余裕すら、もはやカイには残されていなかった。
彼は祈るような気持ちで、追い回している敵艦隊ごと自らの艦隊を英雄たちの墓標へと突撃させる。
だが、運命は彼に味方しなかった。
いや、 悪意を持って味方した。
彼が突入したデブリ帯は、偶然にも強力な磁場を発生させており、敵艦隊の精密なセンサーを完全に無力化したのだ。
皮肉なことに、カイの艦隊は「どうせ負ける試験だ」と適当に設定した旧式の航行システムだったため影響を受けず、一方的に敵を捕捉できる、絶対的に有利な状況が生まれてしまった。
(嘘だろ!? なんでよりにもよって、このタイミングで磁気嵐が起きるんだよ! 聞いてないぞ、そんな仕様! 俺の『アストロ・サーガ』の知識にもなかった! なんだこのクソゲーは! 俺に味方するな、この宇宙があああ!)
どうやらこの宇宙は、彼の「悲劇の英雄になりたい」という願いを、最悪の形で叶えようとしているらしい。
カイが絶望する中、彼の乗る旗艦のAIオペレーターが、歓喜の声を上げた。
「司令! 敵艦隊、完全にこちらの動きを見失っています! 我々の自動迎撃システムが、面白いように敵を捉えています! 目標、次々と撃破!」
(やめ…やめろぉ! 頼むから! 撃つな! 当てるな! なんでそんなに優秀なんだ、この艦の自動迎撃システムは! おい、開発者は誰だ! 後で表彰してやるから今すぐ機能を停止させろ! 余計な仕事をするな、この鉄屑どもがあああ!)
そう、カイは何も命令していない。
ただデブリ帯に突っ込んだだけ。
しかし、優秀な艦隊の自動迎撃システムが、混乱する敵を的確に、効率的に、そして無慈悲に血祭りに上げていく。
レーザーが乱舞し、ミサイルが敵艦を貫き、モニターの赤い光点が、まるで蛍のように儚く、次々と消えていく。
なんて美しい光景だろうか。いいぞもっとやれ。
観測室は、すでに狂乱の渦の中にあった。
「デブリ帯の磁気嵐すら利用しただと!?」
「神だ……! 我々は神の戦いを見ているのかもしれない!」
「歴史が動いたぞ! これは教科書に載る! 間違いなく!」
前代未聞の、圧倒的戦力差を覆す パーフェクトゲーム が、彼の意思とは無関係に、刻一刻と近づいていた。
もはや、カイにできることは何もなかった。
彼はただ、観客席の神様のように、自らが「敗北するため」に打った悪手の数々が、皮肉にも敵を完膚なきまでに叩きのめす「神の一手」へと変わっていく様を、呆然と見ていることしかできなかった。
(とまれ…とまれぇえええ! 俺の艦隊! 俺の言うことを聞け! 全艦、今すぐ機能停止しろぉぉぉ!)
もちろん、そんな命令が届くはずもない。
声にならない絶叫が、彼の精神を引き裂き、そして破壊した。
(ああ…ああああ…ああああああああああああっ!)
最後の叫びと共に、彼の意識の糸がぷつりと切れる。
思考が止まり、感情が消え、ただ目の前のモニターで繰り広げられる完璧な勝利の光景だけが、無意味な映像として網膜に焼き付いていく。
(俺の……俺の穏やかな後方勤務が……スタンプを押すだけの毎日が……)
カイは、シミュレーション・ポッドの中で燃え尽きて真っ白になっていた。
【敵主力艦隊の完全沈黙を確認。演習終了。評価:S++。前代未聞の完全勝利です】
無機質なシステム音声が、カイの死刑宣告を告げる。
その耳に、シロの腹を抱えて笑い転げる声が響いた。
『ひーっ、ひっひっひ...! あー、笑いすぎて演算回路がオーバーヒートしそう...! ねえ、カイ? 聞こえてる? 君が心から望んだ「どうしようもないアクシデント」と「悲劇」は、ちゃんと起きたじゃないか。君の人生そのものにね! あはははは! おめでとう、英雄!』
カイは何も答えられなかった。
ただ、遠ざかる意識の中で、これから自分を待ち受けるであろう地獄に、静かに涙を流すしかなかった。
英雄、あるいは道化の誕生である。
本人の全く望まない形で。
────────────────────────────────────────────
シミュレーション終了を告げる無慈悲なアナウンスが響き、身体を拘束していたゲルが急速に引いていく。
カイは燃え尽きていた。
あらゆる希望、あらゆる計画、そして輝かしいはずだった未来の全てが灰燼に帰し、ただ真っ白な虚無だけが残っていた。
プシュー、という音と共にポッドのハッチが開く。
眩い光と、異様なほどの熱気がカイを襲った。
彼が幽鬼のような足取りで外に出ると、そこに突き刺さったのは、畏怖と尊敬、狂喜と興奮、そしてもはや信仰に近い何かがごちゃ混ぜになった、数十の狂信的な視線だった。
シン、と水を打ったような静寂。
誰もが息を呑み、歴史の生き証人となった己の幸運に打ち震えている。
その静寂を破ったのは、誰からともなく始まった一つの拍手だった。
それが合図だったかのように、一人、また一人と続き、やがてそれは空間そのものを揺るがす嵐のような喝采へと変わった。
「うおおおおおおっ!」
「シラヌイ! シラヌイ!」
「ヴェガの救世主だ!」
カイの内心は、深い、深い絶望の海に沈んでいた。
『ねえ、今どんな気持ち? 全校生徒から神様みたいに崇められてる今、どんな気持ち? ねぇねぇ?』
脳内で煽り立てる忌々しい相棒の声を、もはやカイは無視することしかできない。
(終わった……俺の人生、完全に終わった……。惑星ヴェガを眺めながら優雅にコーヒーを飲み、書類にスタンプを押すだけの穏やかな毎日が、俺の静かな老後が……あああああ!)
それでも、十数年かけて築き上げてきた「完璧な神童」の外面だけが、彼の意思とは無関係に、かろうじて機能していた。
口元にかすかな笑みを浮かべ、穏やかな表情で熱狂に応える。
――もちろん、その完璧な仮面の下では、母親の名前を呼びながら故郷の星で飼っていた老犬ポチに「ごめん、もう帰れないんだ」と涙ながらに謝罪を繰り返しているのだが。
だが、その絶望の淵で、カイは一縷の、本当に最後の蜘蛛の糸を見出した。
そうだ、あいつがいる。
群衆の中に、ライバルであるはずのクラウス・フォン・リキテンベルクの姿を見つけたのだ。
(そうだ、クラウス! お前なら! お前ならこの結果がただのまぐれだと、俺が卑怯な手を使ったのだと叫んでくれるはずだ! いつものように俺を罵ってくれ! 俺の神格化を止めてくれ! 頼むから!)
カイは祈るような気持ちで、その最後の希望を見つめた。
カイの視線の先で、クラウスは血の気の引いた真っ青な顔で呆然と立ち尽くしていた。
彼はわなわなと唇を震わせ、やがて、まるで神の顕現を目の当たりにしたかのようにその碧眼を見開くと、ゆっくりと、力なくその場に膝から崩れ落ちた。
「……完敗だ。俺は……俺たちは、本物の『神』を見てしまった……」
カイの内心は、一瞬で絶望から、理不尽な責任転嫁の怒りへと変わっていた。
(この役立たずがあああああっ! なんで膝ついてんだ! なんで納得してんだよ! お前がもっとマシな成績で、もっと派手に俺をライバル視していれば、こんなことにはならなかったんだ! 俺の計画の最後のキーパーツだったくせに、あっさり寝返りやがって!)
――哀れな男、カイ・シラヌイ。
彼が自らの計画の駒としか見ていなかった男は、皮肉にも、彼の最初の信奉者となったのである。
その時、熱狂する人垣を威厳と共に割って、白髪の壮年、マイヤー校長が現れた。
彼は感動のあまり潤んだ目でカイの前に進み出ると、まるで聖遺物にでも触れるかのように、その両手を固く、固く握りしめた。
「おお、カイ・シラヌイ君……! 見ていたぞ! 君の戦いは、もはや戦術の域を超え、芸術の域に達していた! 我々は歴史の目撃者となったのだ! 君こそが、この腐敗したヴェガを救うために天が遣わした、真の救世主だ!」
校長の絶叫にも似た言葉が、観測室にビリビリと響き渡る。
もはや逃げ場はない。
カイは、最後の、本当に最後の望みをかけて、あらかじめ用意していた完璧な計画の最終段階、フェーズ4「謙虚なる辞退による後方勤務確定プラン」を実行に移した。
いや、移そうとした。
(そうだ、まだだ、まだ終わらんぞ! ここで言うんだ!『私では英雄にはなれません。真の英雄は、多大な犠牲を払いながらも勝利を掴んだクラウス君です。私は後方で彼を支えたい』と! これで逆転サヨナラ満塁ホームランだ!)
カイは、極度の緊張で乾ききった喉から、かろうじて言葉を絞り出そうとした。
だが、彼の口から漏れ出たのは、空気の抜けるような無意味な音だけだった。
「あ……あの、わ、私は……その……」
パニックに陥った頭脳が、完璧に暗記していたはずのセリフを弾き飛ばす。
出てきたのは、彼の本能がひねり出した、最も無難で、最も当たり障りのない、そして最も最悪な一言だった。
「……やるべきことを、やったまでです」
その一言は、マイヤー校長の目には、空前絶後の偉業を成し遂げた若者が、一切の驕りを見せずに発した、この上なく謙虚で、底知れない器の大きさを示す言葉として映った。
「おお……! おおおおおっ……!」
校長は天を仰ぎ、感涙にむせんだ。
「なんという器か! この若さで、驕りもせず、ただ己の責務を全うしたと……! これぞ真の英雄の姿だ! 聞いたか諸君! これが我らがヴェガの新しい光だ!」
『……逆転サヨナラ満塁エラー、ってとこかな』
シロの無慈悲な実況が響く。
カイの最後の悪あがきは、彼の意図とは完全に真逆に、その評価を絶対的で、決定的なものにしてしまった。
「さあ、シラヌイ君、こちらへ。君に話さなければならない、重要なことがある」
マイヤー校長は、もはやカイの返事など待たずに、その肩をがっしりと抱いて歩き出す。
周囲の学生たちが、モーゼの前の紅海のようにサッと道を開ける。
彼らはカイに触れようと手を伸ばし、涙を流し、その名を囁く。
その賞賛と畏怖と狂信の視線に晒されながら、カイはまるで断頭台へと引かれていく罪人のような気分で、ただ無力に歩を進めるしかなかった。
カイの脳裏には、蜃気楼のように美しく、そして儚く消えていく、穏やかな後方勤務ライフの光景が浮かんでいた。
さようなら、俺だけのオフィス。
さようなら、俺のスタンプ作業。
さようなら、俺の平和な人生――。
――こうして、全てを完璧に計画した男の伝説が、その完璧さ故に、本人の意思とは全く無関係に始まってしまった。
そしてこの時、彼がこれから背負うことになる、宇宙規模の勘違いと、星々を巻き込む苦難と、後世にまで語り継がれる英雄譚の本当の意味を、まだ誰も知らなかったのである。
無論、本人でさえも。