【取扱注意】その英雄、勘違いにつき。   作:化け猫 いろは

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──二章開幕。


第二章 タルタロスの聖骸
第一話 英雄は商品


英雄とは、物語である。

その価値は、中身の真偽によって決まるのではない。いかに多くの人間がその物語を信じ、熱狂し、そして消費したかによってのみ決定される、極めて市場原理に基づいた商品に過ぎない。

 

そして今、自由商業圏ヴェガにおいて、史上空前のメガヒット商品が誕生していた。

その名は、カイ・シラヌイ。

『ヴァルハラの英雄』『不敗の魔術師』。そのブランド価値は、もはや天井知らず。老若男女を問わず、誰もがその物語の続きを渇望していた。

 

──もちろん、その商品に、中身などというものは存在しないのだが。

 

 

────────────────────────────────────────────

 

 

自由商業圏ヴェガ首都トライアスター。その摩天楼の頂点に位置する、巨大企業オリオン・アーム・インダストリー本社、役員専用ラウンジ。

そこに集う者たちは、ヴェガという国家の真の支配者たちであった。彼らの前では、軍の将官も、政府の高官も、盤上の駒に過ぎない。

 

「──以上が、『ヴァルハラの英雄』関連商品の、直近一週間の売上データです」

 

秘書の報告が終わると、ラウンジの中央に浮かぶ巨大なホログラム・ディスプレイに、天文学的な数字が叩き出された。棒グラフは、まるで天を突くかのごとく、どこまでも伸びている。

 

「素晴らしい。実に素晴らしい数字だ」

 

葉巻の紫煙をくゆらせながら、一人の老役員が満足げに頷いた。彼の皺だらけの顔には、老獪な商人の、獰猛なまでの笑みが浮かんでいる。

 

「カイ・シラヌイ。……まさか、あの士官学校の小僧が、これほどの金のなる木になろうとはな。軍の連中が潰し合わせるつもりで用意した『生贄』が、今や我々の懐を潤す『救世主』とは、皮肉なものだ」

 

ディスプレイの片隅には、熱狂する民衆の映像が繰り返し流されていた。カイの名を絶叫し、涙を流し、その肖像を掲げて祈りを捧げる人々。その姿は、英雄を讃える信者というよりも、新商品の発売日に殺到する、哀れな消費者そのものだった。

 

「商品は、物語を消費させることで価値が生まれる。そして、物語は常に新しい展開を必要とする」

 

冷ややかに、しかし絶対的な確信を込めてそう言ったのは、この会議の主催者である、若きプロジェクト・マネージャーだった。高価なスーツに身を包んだ彼の瞳は、獲物を見定める爬虫類のように、どこまでも冷徹だ。

 

「『ヴァルハラの英雄』の物語は、あまりにも完璧すぎた。これ以上の軍事的な勝利は、もはや物語のインフレーションを招くだけです。民衆は飽き、商品の価値は下落するでしょう」

 

「では、どうすると言うのかね? あの英雄殿を、引退でもさせると?」

 

「まさか。最高のヒット商品を、自ら生産中止にする馬鹿がどこにいますか」

 

若き役員は、ふっと唇の端を吊り上げた。その笑みは、新たなビジネスプランを思いついた悪魔のそれだった。

 

「英雄譚の次章は、聖者伝です。『ヴァルハラの英雄』の次なる物語は、『辺境の聖者』ですよ」

 

彼は手元の端末を操作すると、ホログラムに一つの惑星のデータを映し出した。

濃い霧と、不気味な水晶の森に覆われた、陰鬱な星。

 

「ヴェガ第十三矯正施設惑星。通称、Z-13……あるいは、タルタロス

 

その名が告げられた瞬間、ラウンジにいた他の役員たちの間に、微かな動揺が走った。

一度入れば二度と出られない、神々に見捨てられた奈落。

数万の凶悪な囚人たちが、暴走した管理AIと、未知の原生生物の脅威の下で、血で血を洗う内戦を繰り広げているという、銀河最悪の流刑星。

 

「正気かね? あのような場所に彼を送り込んで、万が一のことがあれば……」

 

「万が一などありませんよ。我々は、情報を完璧にコントロールする」

 

若き役員は、自信に満ちた声で断言した。

 

「公式発表は、『ヴァ-ルハラの英雄、内乱に苦しむ流刑惑星の民を救うため、自ら辺境への慰問任務を志願』。実に美しい物語だ。そして、我々が事前に伝える情報は、『多少の小競り合いはあるが、おおむね安定している』。彼には、適度な困難を乗り越え、囚人たちを教化し、救済するという『聖者』の役を演じてもらう。もちろん、その様子は全て記録し、最高のドキュメンタリー番組として銀河中に配信します」

 

彼の計画は、完璧だった。

軍上層部に対しては、「英雄の影響力を削ぎたい」という彼らの本音を突いて、この危険な任務を黙認させる。

カイ本人には、簡単な任務だと信じ込ませて、意気揚々と地獄へ送り込む。

そして、彼が手懐けたという、あの謎の多い副官、レナ・ユキシロ。彼女という「兵器」が、極限状況でどのような性能を発揮するのか、その実戦データも同時に収集できる。

 

全てが、計算され尽くした、冷徹なビジネス。

英雄の苦難も、囚人たちの絶望も、全ては株価を押し上げるための燃料に過ぎない。

 

「素晴らしい……。君は、本物の悪魔だな」

 

老役員の言葉は、最大限の賛辞だった。

若き役員は、ただ静かに微笑んだ。

 

「ビジネスとは、そういうものでしょう?」

 

彼らの頭上、ホログラムの中では、何も知らない英雄が、民衆の熱狂的な歓声に応え、完璧な笑みを浮かべて手を振っていた。

その商品が、これから自分に与えられる「次なる物語」が、地獄の脚本家によって書かれたものであることなど、知る由もなく。

 

 

────────────────────────────────────────────

 

 

少し前にさかのぼろう。我らが英雄、カイ・シラヌイは。

 

「んん~~っ! ああ……これだ……これだよ、シロ! 俺が求めていた人生は! この、完璧なまでの静寂! 何も考えず、ただひたすらに天井の木目を数えるだけの、この至福の時間! これぞ真の後方勤務ライフ!」

 

旗艦「ネメシス」の司令官室。その中央に鎮座する、オリオン社から戦勝記念として贈られた最新式の最高級リクライニングチェアに、カイはだらしなく体を預け、恍惚の表情で天井を仰いでいた。

ヴァルハラ星域での歴史的な勝利から、数週間。

ネメシスは首都トライアスターの軌道上に停泊し、カイは人生で最も怠惰で、最も輝かしい休暇を満喫していた。

 

艦内環境は、彼の手によって完璧な快適空間へと生まれ変わっている。

兵士たちは、彼を神と崇め、その命令には絶対服従。

副官のレナは、美しい人形のように常に控えているが、カイの身の回りの世話を完璧にこなし、面倒な書類仕事は全て代行してくれる、超有能な秘書(とカイは思っている)。

 

もはや、彼がやるべきことなど、何もなかった。

ただ、息をして、食事をして、眠る。それだけ。

それだけで、英雄としての名声は維持され、快適な生活は保証される。

 

(ああ、最高だ……! 前世の俺が見たら、嫉妬で憤死するレベルの勝ち組じゃないか! これが、俺の本来あるべき姿なのだ! フハハハハ!)

 

『……そのだらしない顔、銀河中に生中継してやろうか? 英雄殿の威厳が地に落ちて、面白いことになりそうだけど』

 

脳内で、相棒のシロが、心底から呆れ返った声で言った。

この銀髪の悪魔は、主人の堕落をエンターテイメントとして消費することに、いささかの躊躇もない。

 

「(うるさい、このポンコツAIが。これは堕落ではない。英雄の休息だ。次の戦いに備え、英気を養っているのだ。分かるか? この高尚な精神性が)」

 

『どの口が言うかな。君がこの一週間でやったことなんて、美食と昼寝と、娯楽室のVRゲームのハイスコア更新だけでしょ。挙句の果てには、「歩くのすら面倒だ」とか言い出して、艦内の移動にセグウェイを導入させようとしてたじゃない』

 

「(移動の効率化は、指揮官の重要な責務の一つだ!)」

 

『はいはい、そうですか。で、その怠惰を極めし英雄様に、お客様がお見えのようだよ』

 

シロの言葉と同時に、司令官室のドアが、控えめにノックされた。

カイは、チッと内心で舌打ちすると、一瞬で完璧な英雄の仮面を被り直し、リクライニングチェアから威厳たっぷりに起き上がった。

 

「入れ」

 

その声は、先ほどまでの弛緩しきった男のものとは到底思えない、冷静で、威厳に満ちた響きを持っていた。

ドアが開き、一人の青年士官が、緊張した面持ちで入室し、完璧な敬礼を捧げた。

 

その顔を見て、カイは内心で盛大に顔をしかめた。

(うわ……出たよ、めんどくさいのが……)

 

クラウス・フォン・リキテンベルク。 カイの(自称)ライバルであり、そして今や、彼の最初の、そして最も熱狂的な信奉者となった男である。 彼は、ヴァルハラの戦いの裏で、その功績(?)を認められて軍上層部の参謀本部へと栄転していた。

 

「カイ・シラヌイ閣下! この度は、歴史的勝利、誠におめでとうございます!」

 

クラウスの声は、感涙にむせんでいた。その碧眼は、もはや尊敬を通り越して、神を前にした巡礼者のように、狂信的なまでの熱を帯びている。

 

(うわ、目、据わってんじゃん……怖……)

 

「久しぶりだな、クラウス君。君も、息災そうで何よりだ」

 

カイは、あくまでも穏やかな笑みを浮かべ、旧友との再会を喜ぶ(という演技をした)。

 

「して、今日はどうした? わざわざ君が、このような辺境の艦にまで足を運ぶとは」

 

「はっ! 本日は、軍上層部からの使者として、閣下に一つの辞令をお持ちいたしました!」

 

クラウスは、そう言うと、恭しく一つの電子ファイルをカイに差し出した。

カイは、そのファイル名を見て、内心で狂喜乱舞した。

 

【辞令:カイ・シラヌイ少尉へ、特別褒賞の授与、及び首都における一時的な護送任務を命ずる】

 

(ご、護送任務!? しかも首都での!? 最高じゃないか! これぞ、俺が求めていた安全で、退屈で、責任の軽い、完璧な後方勤務! ついに、ついに俺の時代が来たんだ!)

 

カイの心の中で、歓喜のファンファーレが鳴り響く。

ヴァルハラでのあの大勝利は、決して無駄ではなかった。上層部も、ついに俺の真の価値(後方支援にこそあるということ)を理解してくれたのだ!...とでも思っているのか?

 

「……閣下?」

 

カイが感激のあまり(とクラウスには見えた)言葉を失っているのを見て、クラウスが心配そうに声をかける。

 

「ああ、すまない。……感無量でな」

 

カイは、完璧な演技で目頭を押さえると、クラウスの肩を、力強く、そして親しげにポンと叩いた。

 

「君が、良い知らせを運んできてくれた。感謝するぞ、クラウス君」

 

その、神からの、あまりにもったいない労いの言葉に、クラウスはついに感涙のダムを決壊させた。

 

「も、もったいないお言葉! 私は、ただ、閣下の次なる伝説の、ほんの始まりに立ち会えただけで……! このクラウス、生涯の誉れにございます!」

 

(伝説ねぇ……。まあ、いいや。せいぜい俺が、首都のホテルで優雅にルームサービスを頼む伝説でも、語り継いでくれ)

 

いいのか?神話にされてしまうぞ?

こうして、カイ・シラヌイは、自らの人生が、再び最も望まない方向へと転がり始めたことに全く気づかぬまま、完璧なバカンスの始まりを信じて、意気揚々と首都トライアスターへと向かうのだった。

 

 

────────────────────────────────────────────

 

 

首都惑星トライアスターの宇宙港は、人々の熱狂によって沸騰していた。

巡洋艦「ネメシス」から続くタラップの先に、カイ・シラヌイの姿が見えた瞬間、地鳴りのような歓声が宇宙港全体を揺るがした。

 

「英雄だ!」「ヴァルハラの英雄が帰ってきたぞ!」

「魔術師!」「カイ様ー!」

 

無数のフラッシュが焚かれ、メディアのドローンがハイエナのように群がる。民衆は、安全柵を乗り越えんばかりの勢いで、一目その姿を見ようと押し寄せていた。

その熱狂の渦の中心を、カイは、完璧なまでの穏やかな笑みを浮かべて、ゆっくりと歩いていた。

時折、民衆に向かって手を振り、メディアの質問には謙虚な言葉で応える。その姿は、誰もが思い描く、完璧な若き英雄そのものだった。

 

(……人混み、最悪……。暑い……。早くホテルに帰ってシャワー浴びたい……。なんで俺が、こんな面倒なことを……)

 

もちろん、その完璧な仮面の下で、彼の内心が悪態と罵詈雑言の嵐に見舞われていることなど、誰一人として知る由もない。 第一章での、あのありえない大勝利が、社会に与えた影響は、カイの想像を遥かに超えていた。彼はもはや、ただの軍人ではない。 腐敗した社会に辟易していた民衆にとって、彼は希望の象徴であり、最高のエンターテイメントだったのだ。

 

「閣下、こちらへ」

 

人混みをかき分けるようにして進むカイの隣で、副官のレナが、人形のように無表情なまま、完璧なエスコートをこなしていた。彼女の周囲だけ、まるで空気が凍てついているかのように、誰も近づこうとしない。

そのおかげで、カイは何とか前に進むことができていた。

 

(……その点だけは、評価してやるか、この人形女)

 

カイが、そんなことを考えていた、その時だった。

ふと、彼の視界の隅に、奇妙なものが映り込んだ。

宇宙港の片隅で開かれている、露店マーケット。

その一角に、異常なまでの人だかりができていたのだ。

 

そして、その人だかりの中心で、売られているものを見て、カイは自分の目を疑った。

 

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「へい、らっしゃいらっしゃい! 寄ってきな見てきな! 『ヴァルハラの英雄』カイ・シラヌイ司令閣下、公認(大嘘)グッズだよ!」

 

首都トライアスターの路上マーケット。その一角で、薄汚れた身なりの露天商が、唾を飛ばしながら声を張り上げていた。

彼の店の周りには、老若男女、様々な人々が、まるで聖遺物を求める巡礼者のように群がっている。

 

「さあ、まずはこちら! 『司令の微笑み』缶バッジ! メディアが切り取った、あの慈悲深き微笑みを、いつでもその胸に! これさえあれば、どんな恐怖もたちまち消え去るって寸法よ! お値段、たったの五百クレジット!」

 

露天商が掲げた缶バッジには、先ほどの生放送でカイが見せた、完璧なビジネススマイルが印刷されている。

 

「おお……!」「これを……これをください!」

 

人々が、我先にとクレジットを差し出す。商品は、飛ぶように売れていく。

 

「おっと、そこの奥さん、お目が高い! そいつは、限定生産品の『狂犬はかく語りき』名言護符! あの歴史的なインタビューで、レナ・ユキシロ副官が語ったありがたーいお言葉が、直筆(もちろん嘘)で書かれてる逸品だ! これを玄関に貼っておけば、悪霊退散、家内安全間違いなし!」

 

「まあ! 頂きますわ!」

 

もはや、何でもありだった。

カイの肖像がプリントされたTシャツ、マグカップ、果ては「不敗の魔術師」のロゴが入ったエナジードリンクまで。

公式、非公式を問わず、あらゆる商品が、この英雄譚という名のビッグウェーブに乗って、爆発的に売れていた。

 

そして、その中でも、ひときわ異彩を放ち、一部の熱狂的なファン(主に男性)の間で争奪戦が繰りひろげられている商品があった。

 

「さあさあ、今日の目玉商品だ! これを逃したら、一生後悔するぜ! 限定生産百個! 『聖骸レナ』等身大抱き枕カバー! あの氷の美貌と、その奥に秘められた司令への熱き忠誠心を、毎晩その腕の中で感じられる究極の逸品! さあ、買った買った!」

 

露天商が、高らかに掲げたその商品には、あの人形のような微笑みを浮かべたレナが、なぜか少しはだけた軍服姿で、こちらに手を差し伸べているイラストが、高精細にプリントされていた。

 

「うおおおおおおっ!」「俺が買う!」「いや俺だ!」

 

その日、トライアスターの路上マーケットの一角で、小規模な暴動が発生したという記録が残っている。

 

英雄の物語は、こうして市場の言葉に翻訳され、複製され、そして拡散していく。

その物語が、本人の意思や真実とは全く無関係なところで、一人歩きを始めているという事実に、カイ・シラヌイ本人は、まだ気づいていなかった。

彼はただ、自分の顔がプリントされたセンスの悪いマグカップを見て、(著作権料はどこに請求すればいいんだ……)ということだけを、真剣に悩んでいた。

 

 

────────────────────────────────────────────

 

 

首都トライアスター、士官クラブ。

そこは、ヴェガ軍の未来を担う若きエリートたちが、階級を忘れて交流を深める、選ばれた者たちだけの社交場である。

そのカフェの一角で、クラウス・フォン・リキテンベルクは、同期の若手将校たちを前に、いつものようにカイ・シラヌイの偉大さを熱弁していた。

 

「──だから、言っただろう! ヴァルハラでのあの『沈黙』は、単なる防御ではなかったのだと! あれこそが、敵将の精神を内側から崩壊させるための、我々凡人には計り知れぬ、深遠なる心理戦だったのだ!」

 

クラウスの瞳は、もはや完全にイってしまっていた。

彼の周りに集まった将校たちも、最初は半信半疑だったが、そのあまりの熱量と、一見すると筋が通っているように聞こえる(全く通っていない)独自の神話解釈に、次第に引き込まれ始めていた。

 

「だが、クラウス。メディアが捉えた、あの一瞬の映像は何だったんだ? 敵旗艦を撃破する直前、シラヌイ司令が、一瞬だけ、あくびを噛み殺しているように見えたんだが……。さすがに、あれは疲労からでは……」

 

一人の、まだ理性を保っている将校が、恐る恐る疑問を口にした。

その、あまりにも不敬な言葉に、クラウスはカッと目を見開いた。

 

愚か者ッ!!

 

テーブルを叩き割らんばかりの勢いで、クラウスが叫ぶ。

 

「あれが、ただのあくびに見えたか! 君の目は節穴か! あれは! あれこそが、カイ・シラヌイ閣下の、真の偉大さの証明なのだ!」

 

「……は?」

 

私にも訳が分からない。多分彼の目にはプリズム加工された硝子玉でも入っているのだろう。

 

「考えてもみろ! 我々が固唾を飲んで見守る、あの極限の状況下で! 彼は、我々とは全く違う次元で、物事を捉えておられたのだ! 我々が盤上の駒の動きに一喜一憂している間に、彼は、盤そのもの、いや、この銀河の運命そのものにまで、その深遠なる思索を巡らせておられた! あの、ほんの一瞬の仕草は、我々凡人には決して計り知ることのできぬ、偉大なる精神活動の、ほんの表層に現れた残滓に過ぎん! あれは、あくびではない! 偉大なる沈黙の祈りだ!

 

もはや、宗教だった。

その、あまりにもぶっ飛んだ解釈に、誰もが言葉を失う。

だが、クラウスの狂信的なまでの熱は、疑いという名の冷たい理性の壁を、じわじわと溶かしていく。

 

そうか、そうだったのか。

我々は、なんと浅はかだったのだろう。

あの人の考えていることは、我々凡人には、到底理解できない高みにあったのだ。

 

「おお……なんと、深遠な……」

「我々は、ただ表面しか見ていなかった……」

 

ホログラムに裏面も中身もないが?

 

クラウスの熱弁は、疑念を抱いていた者たちの心にすら、少しずつ、しかし確実に、狂信という名の種を植え付けていった。

カイ・シラヌイの伝説は、こうして、彼を直接知らない者たちの間でも、独自の神話として再生産され、その神格化を、さらに加速させていくのだった。

 

 

────────────────────────────────────────────

 

 

ホテルへと向かう豪華なリムジンの車内。

熱狂的な民衆とメディアの群れからようやく解放されたカイは、ふかふかのシートに体を沈め、心の底から安堵のため息をついた。

 

(……疲れた。もう、一歩も動きたくない)

 

だが、彼の休息は、まだ始まらない。

リムジンが、正規のルートを外れ、薄暗い地下道へと入っていく。

 

「……どこへ行く気だ?」

 

カイが訝しげに尋ねると、運転席から、感情のない合成音声が返ってきた。

『お客様を、安全な場所へとお連れしております』

 

やがて、リムジンは巨大な地下駐車場の、最も奥まった一角で静かに停止した。

ドアが開くと、そこには黒いスーツに身を包んだ、いかにもな男たちが、数人立っていた。

 

「カイ・シラヌイ少尉。我々と、少しばかりお話の時間をいただけますかな?」

 

リーダー格の、初老の男が、丁寧だが有無を言わせぬ口調で言った。

その男の胸には、オリオン・アーム・インダストリーの役員であることを示す、白金のバッジが輝いていた。

 

(……飼い主のお出まし、か)

 

カイは、内心で舌打ちした。

逃げることはできない。

彼は、英雄であると同時に、オリオン社の所有物(商品)なのだから。

 

案内されたのは、地下に作られた、無機質で、殺風景な会議室だった。

そこにいたのは、先ほどの初老の男、ただ一人。

彼は、カイに席を勧めると、まるで長年の友人にでも語りかけるかのような、親しげな口調で話し始めた。

 

「まずは、改めて言わせてくれたまえ。ヴァルハラでの君の活躍、実に見事だった。君は、我々の期待を遥かに超える『結果』を出してくれた。感謝しているよ」

 

「もったいないお言葉です」

 

カイは、完璧な謙譲の仮面を被って、頭を下げた。

 

「君は、最高の『商品』だ」

 

男は、何の躊躇もなく、そう言った。

その言葉には、侮蔑も、皮肉もない。ただ、絶対的な事実として、そこにあるだけだった。

 

「そして、我々は、君という商品の価値を、最大限にまで高めたいと考えている。君にとっても、悪い話ではないはずだ。英雄には、それにふさわしい対価が支払われるべきだからな」

 

男は、テーブルの上に一つのデータファイルを提示した。

そこには、天文学的な数字の報酬額と、カイが今後享受できるであろう、あらゆる特権がリストアップされていた。

 

「今回の『簡単な護送任務』は、そのための、重要なステップだ。君の物語に、新たな一ページを書き加えるための、我々からのささやかなプレゼントだよ」

 

その、どこまでも甘く、そして抗いがたい響きを持つ言葉。

だが、カイには、その言葉の裏に隠された、冷たい鋼鉄の鎖の感触が、はっきりと分かった。

彼らは、カイを英雄として称え、莫大な富を与える。

だが、その代償として、彼らはカイの「物語」の全てを、自分たちの都合のいいようにコントロールするのだ。

カイは、永遠に、彼らの作った舞台の上で、英雄という名の道化を演じ続けなければならない。

 

カイは、自分が、決して逃れることのできない、巨大な企業の掌の上で踊らされているだけの、哀れな人形であることを、改めて、そして完璧に、理解した。

その胸に、焼け付くような屈辱と、そして底知れない恐怖が、どす黒い渦となって、込み上げてくるのだった。

 

(……結局、俺は……どこにも、逃げられないのか)

 

男は、そんなカイの内心を見透かすかのように、満足げな笑みを浮かべていた。

英雄は、商品である。

そして、商品は、持ち主の意のままにされるのが、宿命なのだから。




ああ!のがれられない!
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