【取扱注意】その英雄、勘違いにつき。   作:化け猫 いろは

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第二話 タルタロス入場

英雄の物語は、常に舞台装置を必要とする。

勝利には壮麗な凱旋門を。苦難には荒涼とした大地を。そして、束の間の休息には、その後の地獄との落差を際立たせるための、豪華絢爛な gilded cage (金メッキの鳥籠) を。

オリオン・アーム・インダストリーという名の、悪趣味な演出家は、そのことをよく理解していた。彼らが自らの最高傑作たる「商品」のために用意した鳥籠は、首都トライアスターの夜景を一望する、最高級ホテルの最上階スイートルーム。

その鳥籠の中で、英雄は今、人生で最も不愉快で、最も気の休まらない休息を強いられていた。

 

────────────────────────────────────────────

 

首都トライアスター、ホテル・ヴァルハラ。

その、あまりにも露骨で悪趣味なネーミングセンスに、カイ・シラヌイはチェックインの時点で内心の悪態が天元突破していたのだが、案内されたロイヤルスイートの、絨毯の毛の長さが彼の常識の長さを超えているのを見て、全ての文句を飲み込むことにした。

 

(……まあ、いい。許そう。この絨毯のふかふかさに免じて、ネーミングセンスの壊滅的な欠如は許してやろう。というか、これ絨毯か? 生きてるのか? 俺の足、今、何かに捕食されてないか?)

 

カイは、足首まで埋まりそうな純白の絨毯の感触を確かめるように、数歩、無意味に部屋の中を歩き回った。窓の外には、宝石を散りばめたような首都の夜景が無限に広がっている。天井からは、本物の水晶を削り出して作ったであろうシャンデリアが、億単位のクレジットを無言で主張していた。

オリオン社の役員との、あの不愉快極まりない謁見の後。カイは「出発までの間、ゆっくりとお休みください」という、丁寧だが有無を言わせぬ命令と共に、この黄金の牢獄へと丁重に「監禁」されたのである。

 

「(ふん、せいぜい金の力を見せつけて、俺を飼い慣らせると思ったら大間違いだぞ、この成金どもめ。……だが、まあ、この部屋の快適さは素直に評価してやってもいい。特にこのソファ。なんだこれは。俺の体重を感知して、反発係数を自動で最適化してやがる……! これが、資本主義の解答か……!)」

 

これが、資本主義の犬か……!

 

カイは、まるで雲の上に座っているかのような感触のソファに深々と身を沈めると、心の底から恍惚のため息をついた。 ヴァルハラでの死闘。首都での熱狂的な歓迎。そして、オリオン社との腹の探り合い。ここ一か月のストレスが、悪魔的な座り心地のソファに吸収され、霧散していくのを感じる。 そうだ。これでいい。 俺はただ、こうして静かに、快適に、誰にも邪魔されず、天井のシミでも数えていたいだけなのだ。簡単な護送任務とやらが終われば、こんな夢のような毎日が……。

 

カイが、そんな輝かしい未来予想図に浸り始めた、その時だった。

部屋の隅、影のように佇んでいた人影が、すっ、と音もなく動いた。

 

「司令。お疲れでしょう。喉が渇いておられませんか」

 

その声は、鈴の鳴るような、しかし一切の感情を含まない、完璧に調整された合成音声のようだった。

声の主は、レナ・ユキシロ。

カイの副官であり、そして今や、彼の意志を代行するためだけの、美しい人形と化した女。

彼女は、カイがこの部屋に入ってから一時間、まるで精巧な蝋人形のように、一度も身じろぎすらせずにその場に立ち続けていた。カイがソファに座った、まさにその瞬間を狙い澄ましたかのように、完璧なタイミングで行動を開始したのだ。

 

カイが返事をするよりも早く、彼女はサイドテーブルに置かれたクリスタルのデキャンタを手に取ると、一分の隙もない完璧な所作で、グラスにミネラルウォーターを注ぎ始めた。その水は、銀河の辺境に浮かぶ氷惑星の、一万年前の氷河から採取された、一本百万クレジットは下らないという代物だ。

 

「(……いらん。俺は今、ジャンクな炭酸飲料が飲みたい気分なんだ。このクソ高い水で、俺の血中の糖分とカフェイン濃度が満たされるとでも思っているのか、この人形は)」

 

もちろん、そんな本音を口にできるはずもない。カイは、完璧な主君の仮面を被って、穏やかに微笑んだ。

「ああ、ありがとう、レナ。気が利くな」

 

レナは無言でグラスを差し出す。その動作もまた、教科書に載せたいほどに完璧だった。

カイは、内心で舌打ちしながら、そのクソ高い水を一口だけ飲む。味は、しなかった。ただ、無味無臭の液体が喉を滑り落ちていくだけだ。

 

(……落ち着かねぇ……! 全然、落ち着かねぇ……!)

 

カイの心は、悲鳴を上げていた。

この部屋は、確かに物理的には天国だ。だが、精神的には地獄だった。

なぜなら、常にレナの視線が、彼の全身に突き刺さっているからだ。

彼女は、ただそこにいるだけ。何も言わず、何の感情も見せず、ただカイという名の「主」を、その虚ろな硝子玉のような瞳で観察し続けている。

カイがため息をつけば、「何かお悩み事が?」と即座に問いかけてくるだろう。

カイが少しでも眉をひそめれば、「どこか、お気に召さない点でも?」と間髪入れずに確認してくるに違いない。

カイが鼻クソをほじろうものなら、その指の角度、速度、侵入深度に至るまで、全てを完璧にデータ化し、後の健康管理に役立てようとするだろう。

 

それは、もはや秘書や副官の仕事ではない。

24時間体制の、完璧な監視だ。

 

「(なんなんだ、この女は……! 俺の奴隷になったんじゃなかったのか!? なんで俺が、囚人のように、こいつの一挙手一投足に気を遣わなければならんのだ! これじゃ、どっちが主人で、どっちが奴隷か分からんではないか!)」

 

『君だよ』と、脳内でシロが即答した。『どう見ても君の方が、彼女の無言の圧力に支配されてる。君、さっきから一回も脚を組み替えられてないじゃない。だらしない格好を見せられない、って無意識に緊張してるんでしょ?』

 

図星だった。

カイは、ソファの上で、まるで軍の式典に出席しているかのように、完璧な姿勢を維持し続けていた。

 

(うるさい! これは、司令官としての威厳を保つための、高等な政治的配慮だ!)

 

『へぇ、そうなんだ。じゃあ、お腹が鳴りそうなのを必死に堪えてるのも、政治的配慮ってやつ?』

 

(…………)

 

シロの無慈悲な指摘に、カイはぐうの音も出ない。

その時、タイミングを見計らったかのように、レナが再び口を開いた。

 

「司令。お食事の用意ができております。いかがなさいますか」

 

その言葉に、カイは内心で(やっとか!)と快哉を叫んだ。

運ばれてきたのは、銀河中の山海の珍味を集めた、目も眩むようなフルコースだった。黄金の食器、純銀のカトラリー。テーブルの上に広がる光景は、もはや食事というよりも、芸術品の展覧会に近い。

 

「(よし! 食うぞ! 食いまくってやる! オリオン社の金で、俺の胃袋という名のブラックホールを満たしてやる!)」

 

だが、彼のささやかな楽しみすらも、レナという名の監視官によって、無慈悲に打ち砕かれることになる。

カイが、前菜である「サラマンダーの卵のキャビア乗せ」にフォークを伸ばした、その瞬間。

 

「司令。その食材のタンパク質含有量は、100グラムあたり35.2グラム。貴官の現在の身体状況を考慮すると、やや過剰摂取になる可能性があります。こちらの、『宇宙クラゲのクリスタルサラダ』からお召し上がりになることを推奨します」

 

レナが、抑揚のない声で、しかし有無を言わせぬ響きで進言してきた。

カイのフォークが、空中でピタリと止まる。

 

「(…………は?)」

 

なんだ、今のは。

俺が何を食うかまで、こいつに指図されなきゃならんのか?

カイは、聖なる怒りを込めて、メインディッシュの「グリフォン・ステーキ」にナイフを入れようとした。

 

「司令。その部位の飽和脂肪酸は、貴官の血中コレステロール値を僅かながら上昇させる危険性があります。ソースも、やや糖質過多かと。焼き加減は、ミディアムレアが最適であると、データは示しておりますが」

 

「(………………)」

 

カイのナイフが、ステーキの上でわなわなと震える。

もはや、食事どころではなかった。

一口食べるごとに、その食材の成分、カロリー、カイの健康への影響に至るまで、完璧なデータに基づいた、完璧な「ご指導」が入るのだ。

それは、食事という名の、公開処刑だった。

 

結局、カイはその夜、ほとんどの料理に手をつけることができなかった。

空腹は、とっくに食欲を通り越して、ただの胃痛へと変わっていた。

彼は、疲れ果てた表情で、ベッドルームへと向かう。

(もういい……寝る……。寝てしまえば、この監視地獄からも解放されるはずだ……)

 

だが、その最後の希望すらも、無慈悲に打ち砕かれた。

カイが、シルクのパジャマに着替え、天国のような寝心地のベッドに身を横たえようとした、その時。

ベッドの傍らに、いつの間にかレナが、音もなく佇んでいた。

 

「司令。ご就寝ですか」

 

「(……ああ、そうだ。だから、とっとと向こうへ行け、このストーカー人形が)」

 

「安らかな眠りのため、子守唄でも歌いましょうか。私の声の周波数は、入眠効果を促進するδ(デルタ)波を誘発しやすいと、分析結果が出ております」

 

「(結構だッ!!)」

 

カイは、心の底からの絶叫を、かろうじて喉の奥で押し殺した。

この女に子守唄など歌われたら、安らかな眠りどころか、悪夢にうなされて金縛りに遭うのがオチだ。

 

「……いや、いい。一人で、大丈夫だ」

 

カイは、引きつった笑みを浮かべながら、かろうじてそれだけ言うと、布団を頭まで被って、完全に「寝る体勢」に入った。

これで、さすがのレナも諦めるだろう。

だが、彼は甘かった。

 

「……かしこまりました。では、私はここで、司令がお眠りになられるまで、お傍に控えさせていただきます。夜間の心拍数、呼吸数、脳波のモニタリングは、私の重要な任務ですので」

 

その、あまりにも恐ろしい言葉を最後に、部屋は静寂に包まれた。

カイは、布団の中で、目を見開いたまま、完全に硬直していた。

 

(……ね、寝れるかァァァァッ!! こんな状況で、安らかに眠れる奴がいたら、連れてこい! 俺がノーベル平和賞をくれてやるわ!)

 

完璧な奉仕。

完璧な忠誠。

それは、カイ・シラヌイにとって、何よりも恐ろしい、精神的な拷問に他ならなかった。

彼は、この束の間の休息が、これから始まる本当の地獄の、ほんの序章に過ぎないことなど、まだ知る由もなかった。

 

────────────────────────────────────────────

 

カイが、地獄のような一夜を過ごし、意識を失うようにして眠りに落ちた後。

スイートルームのリビングでは、一人の人形が、静かに、そして異様な作業を開始していた。

レナ・ユキシロは、カイがほとんど手をつけることのできなかった、フルコースの食器を、寸分の狂いもない動きで片付けていた。

だが、彼女はそれを洗浄カートに乗せるのではない。

彼女が取り出したのは、医療用の、特殊な滅菌キットだった。

 

彼女は、カイがほんの少しだけ口をつけた、「宇宙クラゲのクリスタルサラダ」の皿を手に取ると、その表面に残された、微細な唾液の痕跡を、特殊な綿棒で丁寧に拭き取った。

そして、その綿棒を、サンプル保存用のカプセルに、厳重に密封する。

次に、カイが使ったグラス。カイが触れたカトラリー。その全てから、同じようにサンプルを採取していく。

彼女の目的は、ただ一つ。

 

(──主の、完璧なるモデリング)

 

彼の健康状態、ストレスレベル、遺伝子情報、果ては精神状態の微細な変化に至るまで、あらゆるデータを収集し、完璧なカイ・シラヌイのデジタルモデルを、自らの脳内データベースに構築する。

それこそが、彼の意志を完璧に代行し、彼をあらゆる脅威から守るための、最も効率的で、最も確実な方法であると、彼女の崩壊した思考回路は結論づけていた。

 

全てのサンプル採取を終えると、彼女は残った食器を、洗浄のためではなく、携帯式の高出力レーザー滅菌機にかけ始めた。

青白い光が、黄金の食器を舐めるように走り、その表面に付着した全ての有機物を、原子レベルで分解していく。

 

その、あまりにも異様な光景を、夜食を届けに来たホテルの若い従卒が、ドアの隙間から偶然、目撃してしまった。

彼は、息を呑んだ。

あの、ヴァルハラの英雄の副官として名高い、氷の美貌の女性士官が、鬼気迫る表情で、何かの儀式を行っている。

英雄が触れた食器を、まるで聖なる遺物であるかのように、一つ一つ丁寧に、光で清めているのだ。

 

(おお……なんという、なんという深い忠誠心……!)

 

若き従卒の脳内で、レナの狂気的な行動は、最も崇高で、最も美しい物語へと、完璧に誤訳された。

 

(彼女は、英雄の触れたものを「聖遺物」として、後世のために顕彰しておられるのだ……! あれぞ、真の騎士の姿……! 我々は、なんと素晴らしい時代に生きているのだろう……!)

 

彼は、その場に静かに膝をつくと、音を立てないように、しかし心の底からの敬意を込めて、十字を切った。

翌日、ホテル・ヴァルハラのスタッフの間で、「英雄の副官は、夜な夜な主の聖遺物を清める、敬虔なる聖女であった」という、新たな伝説がまことしやかに囁かれ始めたのは、言うまでもない。

勘違いという名の病は、こうして、英雄の周囲から、じわじわと、しかし確実に世界を侵食していくのである。

 

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翌朝。

旗艦「ネメシス」のブリッジは、穏やかな、そしてどこか浮ついた空気に包まれていた。

ヴァルハラでの歴史的勝利から、数週間。首都での熱狂的な歓迎。そして、これから始まる「簡単な護送任務」。

クルーたちの顔には、かつてのような死の影はなく、むしろ遠足前の子供のような、明るい高揚感すら浮かんでいた。

 

「いやー、しかし、首都はすごかったな! 俺、生まれて初めてあんな人混み見たぜ!」

「司令の人気は、もはやアイドル並みだからな!」

 

ナビゲーターのハンスが、隣の席のヨハンに、興奮した様子で話しかけている。

 

「今回は、楽な任務でよかったよな。司令も、少しはお休みになれるだろう」

「ああ。だが、俺は少し物足りないくらいだぜ。司令の神がかりの指揮で、また敵を蹴散らしたかったくらいだ!」

 

彼らの会話は、カイ・シラヌイという名の「神」への、絶対的な信頼と狂信に満ち満ちていた。

もはや、彼らにとって、敗北という概念は存在しない。

カイ司令がいれば、どんな敵も恐るるに足らず。

戦争は、もはや悲劇ではなく、英雄の偉業を間近で目撃できる、最高のエンターテイメントと化していた。

 

「とはいえ、今回の目的地はあの『タルタロス』。簡単な任務とはいえ、少し気味が悪いわね」

 

リーゼロッテが、手元のコンソールに表示された惑星データを見ながら、小さく溜息をついた。

 

「公式報告書では『囚人たちの小競り合いはあるが、おおむね安定』とありましたけど……」

「ああ、俺も読んだぜ、その報告書」

 

ハンスが、彼女の言葉を引き継ぐ。

 

「なんでも、囚人の中に『狩人(ハンターズ)』と名乗る、特に野蛮な連中がいるらしいな。まあ、オリオン社の報告じゃ『活動は散発的で、脅威度は低い』ってことだったが」

「ええ。それに、暴走した管理AIとやらも、惑星封鎖に特化していて、我々のような外部の艦にまで手を出してくる可能性は低い、と結論付けられていたわ。……だと、いいんだけど」

 

リーゼロッテの言葉には、一抹の不安が滲んでいた。だが、それもすぐに、カイへの絶対的な信頼という名の光にかき消される。

 

「まあ、心配ないさ! 何かあっても、俺たちには司令がついているんだからな!」

 

ハンスのその一言で、ブリッジの空気は再び楽観的なものへと戻っていった。

 

「リーゼロッテ! お前、昨日の生放送、見たか!? レナ大尉の、あのスピーチ!」

 

リーゼロッテは、頬をわずかに赤らめながら、しかし誇らしげに胸を張って答えた。

 

「もちろんよ! 録画して、永久保存版にしたわ! 『あの方こそが、唯一の希望』……! 思い出しただけで、鳥肌が立つわ……!」

 

彼女の瞳は、完全に夢見る乙女のそれだった。

このブリッジは、もはや軍艦の頭脳ではない。

巨大なファンクラブの、オフラインミーティング会場と化している。

この、あまりにも平和で、あまりにも緊張感のない光景。

それが、これから始まる地獄との、あまりにも残酷なコントラストを生むことになるなど、この時の彼らは知る由もなかった。

 

やがて、ブリッジのメインゲートが開き、完璧な英雄の仮面を被ったカイ・シラヌイが、その背後に完璧な人形を従えて、姿を現した。

(……眠い……。一睡もできんかった……。あの監視人形、マジで俺が寝付くまで、一晩中、ベッドの横に突っ立ってたぞ……。あれは、もはやホラーだ……)

彼の内心の絶叫とは裏腹に、その佇まいは、どこまでも威厳に満ちていた。

 

「司令! おはようございます!」

 

クルーたちが、一斉に立ち上がり、完璧な敬礼を捧げる。その声は、かつてないほどに明るく、力強い。

カイは、そんな彼らに穏やかに頷き返すと、ゆっくりと司令官席へと歩みを進めた。

 

「諸君、準備はいいな。これより我々は、簡単な護送任務に就く。だが、油断はするな。どんな任務にも、危険はつきものだ」

(ああ、早く終わらせて帰りたい……。帰ったら、三日三晩、泥のように眠ってやる……)

 

「「「はっ!!」」」

 

クルーたちの頼もしい返事が、ブリッジに響き渡る。

カイは、大きく息を吸い込むと、この完璧なバカンスの始まりを告げる、輝かしい命令を下した。

 

「──旗艦ネメシス、及び第十三独立遊撃部隊、全艦。出航!」

 

────────────────────────────────────────────

 

出航から、数時間が経過した。

旗艦「ネメシス」の艦長室。

カイは、オリオン社から贈られた、あの悪魔的な座り心地の最高級リクライニングチェアに、これでもかと深く身を沈めていた。

もはや、彼の体には、一ミクロンたりとも緊張感は残っていない。

 

「(んん~~~~っ! ああ、これだ……! これだよ、シロ! 俺が本当に求めていた人生は! この完璧なまでの静寂! この完璧なまでの平穏! そして、この俺の尻を優しく包み込む、完璧なまでのリクライニング機能! ああ、最高だ! これが、俺の本来あるべき姿なのだ! フハハハハ!)」

 

彼の内心は、人生の絶頂を謳歌する勝ち組の、傲慢な哄笑で満ち満ちていた。

簡単な護送任務。

目的地までの航路は、完全に安全が確保されている。

面倒な操艦や書類仕事は、全て部下と、あの便利な人形がやってくれる。

彼がやるべきことは、何もない。

ただ、この椅子の上で、息をして、たまに手元のコンソールで出前のメニューでも眺めていればいいのだ。

 

『……その、だらしなく弛緩しきった顔、銀河中に生中継してやろうか? ヴァルハラの英雄の威厳が地に落ちて、面白いことになりそうだけど』

 

脳内で、シロが心底から呆れ返った声で言った。

 

「(うるさい、このポンコツAIが。これは堕落ではない。英雄の休息だ。次の戦い──そう、次の昼食のメニューをどうするかという、熾烈を極める戦いに備え、英気を養っているのだ。分かるか? この高尚な精神性が)」

 

『どの口が言うかな。で、その怠惰を極めし英雄様に、そろそろ目的地が近いみたいだよ。ブリッジに戻なくていいの?』

 

「(問題ない。何かあれば、リーゼロッテあたりが、涙ながらに報告に来るだろう。それまでは、この俺様専用の玉座で、宇宙の真理にでも思いを馳せるとしよう)」

 

カイが、そんな完璧な言い訳を脳内で組み立てていた、まさにその時だった。

彼の個室、そして艦内の全スピーカーから、突如として、ノイズ混じりの、無機質な合成音声が響き渡った。

それは、聞いたこともない、不気味で、そしてどこか物悲しい響きを持つ、定型通信だった。

 

『──警告。当セクターは、クラスS級汚染区域に指定されています。侵入した未確認オブジェクトに対し、これより、規定のプロトコルを実行します』

 

カイは、リクライニングチェアの上で、きょとんとした顔で首を傾げた。

(……なんだ? 航路を間違えたか? まあ、いい。ハンスあたりが、すぐに修正するだろう)

 

だが、次の瞬間。

その合成音声が紡いだ言葉に、カイの全身の血液が、絶対零度まで凍りついた。

 

『──汚染源を確認。浄化シークエンスに、移行します』

 

その言葉と同時に、艦全体が、凄まじい衝撃と共に、激しく揺さぶられた。

まるで、見えざる神の拳に、殴りつけられたかのように。

艦内に、耳をつんざくような緊急警報が鳴り響く。

 

「(な、なんだ!? 何が起きた!?)」

 

カイが、リクライニングチェアから転げ落ちるようにして立ち上がった、その時。

艦長室の窓の外の光景が、一変した。

漆黒だったはずの宇宙が、突如として、乳白色の、濃密なに包まれていたのだ。

そして、その霧の向こうで、無数の、巨大な水晶のようなものが、まるで墓標のように林立しているのが見えた。

 

ガガガガガッ!

艦体が、何かに削られるような、嫌な音を立てて激しく震える。

 

『カイ! 強力な磁気嵐が発生してる! ナビゲーションシステム、完全にダウン! 制御不能だ!』

 

シロの、かつてないほど切迫した声が、カイの脳内に突き刺さる。

その声と、鳴り響く警報、そして断末魔のような艦体の軋み。

その全てが、カイの思考を、完璧なパニックの坩堝へと叩き込んだ。

 

「(う、嘘だろ……!? 簡単な護送任務じゃなかったのかよ! 話が違う! 話が違うじゃないか、あのクソ役員どもがああああああっ!)」

 

彼の絶叫は、誰の耳にも届かない。

旗艦ネメシスは、まるで傷ついた鯨のように、その巨体を制御不能に振り回しながら、濃霧と水晶の森の中へと、吸い込まれるように墜ちていった。

カイ・シラヌイの、完璧なバカンスの始まりを告げたはずの出航は、その実、本物の地獄への、片道切符だったのである。

 

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旗艦「ネメシス」第一ブリッジ。

そこは、阿鼻叫喚の地獄と化していた。

 

「磁気嵐、臨界点突破! シールド、持ちません!」

「右舷第三エンジン大破! 制御不能!」

「前方、巨大な水晶群! 回避、間に合いません!」

 

クルーたちの絶叫が、火花を散らすコンソールと、鳴り響く警報音の中に、虚しく吸い込まれていく。

数分前までの、あの和やかで楽観的な空気は、もはやどこにも存在しない。

彼らの顔に浮かんでいるのは、ただ、純粋な恐怖と、絶望の色だけだった。

 

メインスクリーンには、乳白色の霧と、その向こうから牙を剥くように迫ってくる、鋭利な水晶の森が映し出されている。

ネメシスは、その水晶の墓標に、その鋼鉄の体を無残に削られながら、なすすべもなく墜落していく。

凄まじい衝撃が、断続的にブリッジを襲う。

立っていることすらままならず、クルーたちは次々と床に叩きつけられた。

 

「うわあああああっ!」

 

リーゼロッテが、短い悲鳴と共に、オペレーターシートから投げ出される。

その時、艦橋の天井の一部が、轟音と共に崩落した。

巨大な鉄骨の塊が、彼女の華奢な体の上に、無慈悲に降り注ぐ。

 

「リーゼロッテ!」

 

ハンスが、絶叫する。

だが、もう間に合わない。

誰もが、その惨劇を、スローモーションのように見ていることしかできなかった。

 

その、絶望的な瞬間。

一つの影が、崩れ落ちてくる鉄骨と、リーゼロッテの間に、弾丸のように割り込んだ。

レナ・ユキシロだった。

 

次の瞬間、クルーたちは信じられないものを目撃する。

レナの瞳が、一瞬だけ、無機質な赤色の光を放ったのだ。

そして、彼女の白い肌の下を、まるで電子回路のような微細な紋様が、青白く駆け巡った。

 

彼女は、その細腕一本で、自らの頭上に迫る数トンの鉄塊を、真正面から受け止めた。

ゴウッ、という肉と鉄がぶつかる鈍い音とは裏腹に、彼女の体は微動だにしない。

ミシミシ、と彼女の腕の骨が軋む音すら聞こえない。まるで、彼女の腕が鋼鉄そのものにでも変質したかのようだった。

だが、彼女の表情は、変わらない。

あの、人形のような、薄い笑みのまま。

 

「……作業の、邪魔です」

 

彼女は、それだけ呟くと、数トンの鉄塊を、まるで発泡スチロールの塊でも払いのけるかのように、軽々と横へと弾き飛ばした。

轟音と共に、鉄骨が床に突き刺さる。

リーゼロッテは、腰を抜かしたまま、目の前で起きた超常現象に、ただ呆然としていた。

 

だが、そんな英雄的な行動も、この絶望的な状況を好転させるには、あまりにも無力だった。

最後の、そして最大級の衝撃が、ネメシスを襲った。

艦全体が、きしむような悲鳴を上げ、全ての照明が、一瞬、消える。

そして、訪れる、絶対的な静寂。

 

どれくらいの時間が、経っただろうか。

やがて、非常用の赤色灯が、悪夢のようなブリッジの惨状を、ぼんやりと照らし出した。

あちこちで、クルーたちの呻き声が聞こえる。

幸い、死者は出ていないようだった。

だが、彼らの瞳に宿っていた希望の光は、完全に消え失せていた。

 

その、絶望の静寂を破るように、一つの報告が、か細く、しかしはっきりと、ブリッジに響いた。

機関長のバルツァーが、血を吐くような声で、通信回線越しに告げたのだ。

 

「……だめです……。メインエンジン、完全に沈黙……。それと……最悪の知らせです……」

 

彼は、そこで一度、言葉を切った。

その、あまりにも重い沈黙が、これから告げられる言葉の絶望的な重さを、何よりも雄弁に物語っていた。

 

「……先ほどの衝撃で、機関室後方の隔壁が崩壊……。そこに保管されていた……『Z-ドライブ制御ユニット』が……艦の外へ、吹き飛んだ模様です……」

 

その一言は、死刑宣告だった。

Z-ドライブ制御ユニット。

それは、この艦が超光速航行を行うために、必要不可欠な心臓部。

それがなければ、ネメシスは、この惑星から自力で脱出することは、永遠に不可能となる。

彼らは、この未知の惑星に、完全に、閉じ込められたのだ。

 

クルーたちの顔から、血の気が引いていく。

ある者は、その場に崩れ落ち、ある者は、天を仰いで、無言で涙を流した。

終わった。

全て、終わったのだ。

 

だが、本当の地獄は、まだ始まったばかりだった。

艦が完全に沈黙した、まさにその時を待っていたかのように。

ブリッジの全モニターに、一斉に、外部の映像が映し出された。

 

そこに映し出されていたのは、地獄そのものだった。

 

艦の周囲、濃霧の向こうから、無数の異形の影が、蠢きながら現れる。

AIの自動砲台が、赤いモノアイを不気味に光らせながら、こちらに砲口を向けている。

霧の中、人影のようなものが、狂ったように踊っている。……まさか、あれが報告書にあった「狩人」か。

そして、水晶の森の影から、音もなく、赤外線にも映らない、おぞましい何かが、無数に、こちらへと這い寄ってくる。

あれが、この惑星の原生生物、「サイレント・ブリーダー」。

 

AIによる無慈悲な砲撃。

狂人たちの予測不能な奇襲。

そして、未知の怪物。

その、三重の殺意によって、ネメシスは、瞬時に、完全に、包囲されていた。

 

それは、もはや絶望という言葉ですら、生ぬるいほどの光景だった。

誰もが、言葉を失い、ただ、モニターに映し出される地獄絵図に、釘付けになっていた。

我々は、ここで死ぬのだ、と。

誰の脳裏にも、そのあまりにも明白な事実だけが、冷たく刻み込まれた。

 

その、全ての希望が断たれた、絶対的な静寂の中で。

ブリッジのメインゲートが、ゆっくりと、しかし確かな足取りで開かれた。

そこに立っていたのは、一人の男。

カイ・シラヌイ。

彼の軍服は、少し乱れてはいたが、その表情は、不思議なほどに、穏やかだった。

(……終わった。俺の人生、完全に終わった……。もうどうにでもなーれ……)

彼の内心が、全ての思考を放棄し、悟りの境地に達していたことなど、もちろん誰も知らない。

 

彼は、ゆっくりとブリッジの中央へと歩みを進めると、絶望に打ちひしがれるクルーたちを、一人一人、その瞳に焼き付けるように見渡した。

そして、静かに、しかし艦内の隅々にまで響き渡るような、絶対的な声で、こう言ったのだ。

 

「……うろたえるな」

 

その、たった一言が、凍りついていたクルーたちの心を、わずかに、しかし確かに、揺さぶった。

彼らは、弾かれたように顔を上げ、カイの顔を見る。

そこに浮かんでいたのは、恐怖でも、絶望でもない。

全てを、お見通しであるとでも言うかのような、どこまでも深く、そして穏やかな、絶対者の笑みだった。

 

そして、彼らの神は、こう告げた。

 

「──ここからが、本番だ」

 





あとがき、あるいは蛇足


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カイ:「(……なあ、シロ。ちょっと言ってもいいか?)」

シロ:「どうぞ? どうせロクなことじゃないだろうけど。」

カイ:「(話が違う! 話が違うじゃないか! 『簡単な護送任務』って言っただろ、あのヒゲメガネの役員は! なんだよ、いきなり墜落って! しかも周りは敵だらけって! 労働基準法違反で訴えてやる!)」

シロ:「残念だけど、軍の服務規程に労働基準法は適用されないよ。それに、君がホイホイついて行ったのが全ての原因でしょ。」

カイ:「(俺は悪くない! 俺はただ、ふかふかのベッドと美味しい食事という、文明人として最低限の権利を要求しただけだ! それがどうして、サバイバル生活の始まりみたいになってるんだ! あの人形女の監視といい、オリオン社の悪趣味といい、この作者の性格の悪さといい、全部俺以外の誰かのせいだ! 断じて俺は悪くない!)」

シロ:「はいはい、分かった分かった。じゃあ、その悪くない英雄様は、これからどうやってこの地獄から脱出するのかな? まさかとは思うけど、ノープラン?」

カイ:「(……うっさい! 今から考えるんだよ! とりあえず、今日の寝床の安全確保が最優先だ! ああ、俺の安眠ライフ……!)」

シロ:「というわけで、次回『英雄(笑)、地獄で寝床を探す』。読者の皆様、彼の明日はどっちだ!? ご期待ください!」
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