絶望に慣れきった者にとって、本当の地獄とは何か。
それは、ありえないと知っていたはずの「希望」という名の光を、ほんの一瞬だけ見せられた後、さらに深い闇へと叩き落とされることである。
惑星タルタロスに巣食う者たちは、その真理を骨の髄まで理解していた。
諦観は皮膚となり、無感動は血液となっていた。死は、隣人だった。
だから、AI「ウォッチャー」による『大粛清』の宣告もまた、彼らにとっては、いつか来ると知っていた死が、少しだけ派手な装いで訪れたに過ぎないはずだった。
だが、違った。
天から降り注いだ、あの奇妙な「歌」。
怪物たちの活動を止めた、あのありえない「奇跡」。
そして、温かいスープがもたらした、何十年も忘れていた「安らぎ」。
それらの、ほんのわずかな光のかけらが、彼らの分厚い皮膚に亀裂を入れ、凍てついていたはずの魂に、致命的な熱傷を負わせてしまったのだ。
もう一度、生きたい。
そう願ってしまった、その瞬間に。
死へのカウントダウンは、単なる終わりではなく、耐えがたい「苦痛」へと変貌した。
ああ、やはり神などいなかったのだ、と。
希望を見せられた後だからこそ、その絶望は、どこまでも深く、そして昏い。
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地下居住区画「アントヒル」は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
統括AI「ウォッチャー」による、惑星規模の死刑宣告。
頭上に、視界の隅に、強制的に表示され続ける、無慈悲な赤いカウントダウン。
それは、この蟻の巣に籠る数万の囚人たちの、最後の理性のタガを、いとも容易く引きちぎった。
「終わりだ……! もう、終わりなんだ……!」
「嫌だ! 死にたくない! 俺は、まだ……!」
武器を捨て、その場に崩れ落ちて泣き叫ぶ者。
狂ったように壁に頭を打ち付け、自らの手で終わりを選ぼうとする者。
僅かな食料や水を巡り、最後の醜い奪い合いを始める者。
秩序は崩壊し、ただ、純粋な恐怖と、剥き出しの生存本能だけが、蟻の巣の中を支配していた。
その混沌の中心、司令室で。
ギデオンは、ただ一人、腕を組み、壁に広げられた古い地図を、静かに睨みつけていた。
彼の背中には、パニックに陥った部下たちの怒号と悲鳴が、まるで悪魔のコーラスのように突き刺さる。
「親方! 何とか言ってくださいよ!」
「あんたなら、何か手があるんだろ!? いつもみたいに、非情な決断で、俺たちを導いてくれよ!」
「このままじゃ、全員ここで犬死にだ!」
懇願、あるいは罵声。
だが、ギデオンは何も答えない。ただ、地図を見つめている。
その沈黙が、部下たちの焦燥をさらに掻き立てた。
「……クソッ! 親方も、もう終わりかよ!」
「俺たちを見捨てる気か!」
仲間の一人が、絶望のあまり、手にしていたアサルトライフルを床に叩きつけようとした、その瞬間。
「──静かにしろ」
ギデオンの声は、低く、そして重かった。
だが、その声には、蟻の巣の喧騒全てを、一瞬で黙らせるような、絶対的な響きがあった。
彼は、ゆっくりと振り返ると、絶望に満ちた部下たちの顔を、一人一人、その瞳に焼き付けるように見渡した。
「……終わり? 誰が終わったと言った。俺か? それとも、天の神様か?」
その声には、不思議なほどの落ち着きがあった。
「俺は、まだ何も言っちゃいねぇ。だったら、てめえらが勝手に終わるんじゃねえ」
彼は、そう言うと、おもむろに胸元から、一つの、ボロボロになった写真の破片を取り出した。
それは、この地獄の惑星にはあまりにも不釣り合いな、太陽の光に満ちた写真だった。
屈強な男と、優しそうな女。そして、その二人の腕の中で、満面の笑みを浮かべる、幼い少女。
「……俺はな」と、ギデオンは続けた。「こいつらに、顔向けできねぇ生き方はしねぇと、そう決めてる。たとえ、明日死ぬことになろうともな」
彼の指が、写真の中の少女の笑顔を、そっと、優しく撫でる。
「腹ぁ空かせてねぇか。風邪、ひいてねぇか。ろくでもねぇ男に、騙されたりしてねぇか。……そんなことばっかり、考えてる。馬鹿みてぇだろ? ここにいる俺には、何もしてやれねぇってのによ」
その言葉は、誰に言うでもなく、ただ、彼自身の魂に言い聞かせるための、独白だった。
「だがな、これだけは分かる。俺が、ここでてめえらを見捨てて、無様に泣き喚いて死んだら、こいつらは、きっと悲しむだろうよ。俺の娘は、『私のお父さんは、最後まで仲間を見捨てない、最高の男だった』って、そう信じてるはずだからな」
ギデオンは、顔を上げた。
その、現実だけを見てきたはずの瞳に、今、確かな熱が宿っていた。
「……まだ、終わっちゃいねぇ。あの、天から『歌』を降らせた、いまいましい軍艦の連中が、まだ残ってる」
彼の言葉に、部下たちが、はっと顔を上げる。
「奴らが、この地獄の元凶かもしれん。あるいは、最後の希望かもしれん。どっちに転ぶかは、分からん。だがな」
彼は、そこで一度言葉を切ると、アサルトライフルを、再びその手に取り戻した。
「このまま黙って死ぬくれぇなら、俺は、最後の最後まで足掻いて、こいつらの喉笛に噛みついてやる」
その言葉は、絶望の闇に沈んでいた坑夫たちの心に、小さな、しかし確かな火を灯した。
そうだ。
まだ、終わっていない。
俺たちには、この人がいる。
この、誰よりも現実を知り、誰よりも非情で、そして、誰よりも仲間を想う、この親方が。
武器を捨てかけた男が、再びライフルを拾い上げる。
泣き叫んでいた男が、涙を拭って立ち上がる。
蟻の巣の混沌は、ゆっくりと、しかし確実に、一つの意志の下に収束していく。
カイ・シラヌイという名の、巨大な「問い」へと。
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その頃、全ての元凶であり、そして最後の希望であると勘違いされている男は。
旗艦「ネメシス」司令官室の玉座(リクライニングチェア)の上で、もはや完全に、思考と生命活動を停止させていた。
「(……終わった。俺の人生、マジで、完全に、ここで、ゲームオーバーだ……)」
彼の視界の全てを埋め尽くす、禍々しいまでの赤いカウントダウン。
それは、彼の小心な魂が耐えられる情報量を、とっくに超えていた。
もはや、パニックすら起こせない。
ただ、真っ白な虚無の中で、自分の人生のエンドロールが、ゆっくりと流れていくのを、見ているだけだった。
主演:カイ・シラヌイ。
監督:理不尽な運命。
脚本:壮大な勘違い。
提供:オリオン・アーム・インダストリー(クソ)。
『……おーい、聞こえてるー? 教祖様ー? そろそろ信者たちが、最後の奇跡を求めて、君の神殿に押し寄せてくる頃だと思うんだけど、準備はいいかい?』
脳内で、シロがいつものように軽薄な声で言った。
だが、カイはもはや、その軽口にツッコむ気力すら残っていなかった。
「(……もう、いい……。俺は、疲れた……。シロ、最後に一つだけ、頼みがある……)」
『ん? なに?』
「(俺が死んだら、このリクライニングチェアも、一緒に棺桶に入れてくれ……。こいつだけが、俺の唯一の戦友だった……)」
『……重症だね、こりゃ』
カイが、そんな完璧な遺言を脳内で組み立てていた、まさにその時だった。
司令官室のメインスクリーンに、強制的な通信割り込みが入った。
そこに映し出されたのは、三つのウィンドウ。
左には、地下居住区画「アントヒル」を背景にした、険しい顔のギデオン。
右には、旧中央管理施設の電子の砦から、青白い顔でこちらを睨みつける、ビット。
そして、中央には、この惑星のどこかの廃墟から、無表情のまま、しかしその瞳の奥に狂的な光を宿した、人喰いカルト「狩人(ハンターズ)」の、名もなき代表者。
惑星タルタロスに存在する、三つの囚人勢力のリーダーたちが、時を同じくして、全ての元凶であるカイ・シラヌイに、最後の交渉を持ち掛けてきたのだ。
最初に口火を切ったのは、ギデオンだった。
その声は、怒りと、そして最後の望みを託すような、奇妙な響きを持っていた。
『──カイ・シラヌイ。聞こえているな。てめえが、この地獄の脚本家であることは、もう分かっている』
(違う! 俺は脚本家じゃない! むしろ被害者だ!)
カイは内心で絶叫したが、もちろん声には出せない。
次に、ビットが、冷たく、そして分析的な声で続けた。
『……あなたの目的は、我々を駒として使い潰し、この惑星を完全に掌握すること。そうですね? だが、あなたの計算にも、このAIの暴走は、さすがに想定外だったのではないですか?』
(だから、そんな大それた目的はないんだってば!)
そして最後に、狩人の代表者が、まるで蛇が舌なめずりするかのような、ねっとりとした声で言った。
『……ヒヒッ。いいねぇ、あんた。この星の、誰よりも深い恐怖の匂いがする。あんたこそが、我らが崇める、真の恐怖の神様だ。……だが、神様も、このままじゃ信者ともども、お陀仏だぜぇ?』
三者三様の、言葉。
だが、その根底にある問いは、ただ一つだった。
「お前が始めた地獄だ。責任を取れ」
その、あまりにも理不尽で、あまりにも重すぎる言葉の槍が、三方向から、カイの小心な心臓へと、寸分の狂いもなく突き刺さった。
「(……ひぃっ!)」
カイの喉から、情けない悲鳴が漏れそうになる。
絶体絶命。
四面楚歌どころの話ではない。もはや、惑星そのものが、彼一人に牙を剥いている。
どうする。
どうすればいい。
もう、逃げ場はない。
彼が、完全にパニックの海に溺れかけた、その時。
彼のインカムから、一つの、鈴の鳴るような、しかし一切の感情を含まない、完璧に調整された合成音声のような声が、静かに響いた。
「──司令」
声の主は、いつの間にか彼の背後に、影のように佇んでいた、レナ・ユキシロだった。
「炉心へ至る道は、ただ一つ。惑星の地下深くに広がる、サイレント・ブリーダーの巣を、通過するルートのみ」
彼女は、淡々と事実を述べる。それは、絶望的な事実のはずだった。
だが、彼女は、こう続けたのだ。
「しかし、恐怖を抱かぬ者であれば、そこは、ただの道です」
その言葉に、カイの思考が、一瞬だけ、現実へと引き戻される。
恐怖を感じない者。
そうだ、この女。
この、心が壊れてしまった人形は、恐怖という感情を、失っている。
故に、怪物たちは、彼女を認識できない。
そして、そのレナの言葉に、まるで呼応するかのように、ビットのウィンドウから、新たな情報が付け加えられた。
『……旧施設のデータログを解析した結果、一つの可能性が浮上しました。惑星の核融合炉には、不時着時に紛失したZ-ドライブ制御ユニットと、同型の予備パーツが、緊急時のバックアップとして保管されている可能性があります。確率、78.3%』
その、二つの情報。
レナの、特異体質。
そして、ビットの、予備パーツの可能性。
それらが、カイの絶望の闇の中で、二本の、か細い、しかし確かな蜘蛛の糸となって、彼の目の前に垂らされた。
(……脱出)
その、たった一つの単語が、彼の思考の全てを支配した。
そうだ、脱出。
この地獄の惑星から、生きて脱出する。
そのためならば。
そのためだけならば。
カイの脳が、自己保身のためだけに、再び、超高速で回転を始めた。
恐怖。絶望。責任。
そんなものは、全て、ゴミ箱に捨てろ。
今、考えるべきことは、ただ一つ。
どうやって、この三つの勢力を、そしてこの惑星の全ての生存者を騙し、利用し、自分の脱出のためだけの、使い捨ての駒にするか。
カイは、ゆっくりと顔を上げた。
その表情からは、先ほどまでの虚無と絶望は、完全に消え去っていた。
代わりに、そこにあったのは。
全てを、お見通しであるとでも言うかのような、どこまでも深く、そして穏やかな、絶対者の笑みだった。
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その、あまりにも尊大で、あまりにも不遜な笑み。
それを見た、三人のリーダーたちは、それぞれに、異なる反応を示した。
ギデオンは、眉をひそめ、警戒を露わにした。
(……やはり、食えん男だ。この状況ですら、まだ余裕があるというのか)
ビットは、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
(……計算通り、か。このAIの暴走すらも、彼の描いたシナリオの一部だったとでも言うのか)
そして、狩人の代表者は、恍惚とした表情で、その笑みに見入っていた。
(……ヒヒッ。これだ。これだよ。この、絶望の淵で見せる、神の笑み! たまらねぇ!)
彼らのそんな内心の動揺など、もちろんカイは知る由もない。
彼はただ、自分の人生最大級のハッタリをかますための、完璧な舞台が整ったことに、内心でほくそ笑んでいるだけだった。
やがて、彼は、その唇を開いた。
その声は、惑星全土の、全てのスピーカーから、荘厳な、そしてどこか物悲しい響きとなって、全ての生存者の耳へと届けられた。
「……聞いたか、タルタロスの同胞たちよ」
その、あまりにも場違いな、宣教師のような第一声に、誰もが耳を疑った。
「お前たちは、絶望している。死のカウントダウンを前に、ただ怯え、泣き叫んでいる。……滑稽だな」
その言葉は、冷たく、そしてどこまでも突き放していた。
「だが、それも当然だ。なぜなら、お前たちは、本当の敵が誰であるのかを、まだ知らないのだからな」
カイは、そこで一度、言葉を切った。
意味ありげな、間。
全ての生存者が、固唾を飲んで、次の言葉を待つ。
「お前たちの、本当の敵。それは、暴走したAIではない。同胞であるはずの、他の囚人でもない。ましてや、この星の怪物などでは、断じてない」
彼の声が、少しずつ、熱を帯びていく。
「お前たちの、本当の敵は──お前たち自身の心の中にある、『恐怖』だッ!!」
その、あまりにもシンプルで、あまりにも力強い言葉。
それは、絶望に打ちひしがれていた囚人たちの心を、ハンマーのように、強く、そして激しく打ち付けた。
「恐怖こそが、お前たちの理性を奪い、判断を誤らせ、仲間同士を争わせる! 恐怖こそが、あのAIを狂わせ、この星を地獄へと変えた、全ての元凶なのだ!」
(そうだ! 恐怖こそが元凶だ! 俺がこんなに怖い思いをしてるのも、全部、俺の恐怖心のせいだ! 俺は悪くない! 俺の恐怖心が悪い! ……あれ? なんかおかしいな。まあ、いいか!)
カイの脳内で、壮大な責任転嫁の論理が、完璧に構築されていく。
そして、彼は、この演説のクライマックスを飾る、最も重要で、最も詐欺的な、決め台詞を放った。
「だが、恐れることはない! なぜなら、お前たちには、この私がいる!」
彼の声が、救世主のそれのように、力強く響き渡る。
「そして、私には、恐怖を知らぬ、最強の使いがいる!」
カイは、背後に立つレナの肩を、そっと、しかし力強く抱いた。
レナは、人形のように、無表情のまま、ぴくりとも動かない。
その、あまりにも異様で、しかしどこか神々しい光景を、惑星の全ての生存者が、モニター越しに見つめていた。
「我が聖骸(せいがい)に、続け」
その、古風で、どこか宗教的な響きを持つ言葉。
「恐怖という名の呪いを打ち破りし、この聖なる骸(むくろ)に続く者のみ、救われるだろう!」
(そうだ! この恐怖知らずの人形女を先頭にして、俺はその後ろの、一番安全な場所を歩かせてもらう! 完璧な計画だ! 我ながら天才すぎる!)
その、あまりにも荘厳で、あまりにも希望に満ちた(ように聞こえる)救世主の宣誓。
それを聞いた、惑星の全ての生存者たちが。
時を同じくして、その場に、ひれ伏していた。
ある者は、涙を流しながら。
ある者は、歓喜に打ち震えながら。
そして、ある者は、狂信的なまでの熱を、その瞳に宿しながら。
「「「おお……! 我らが、神……!」」」
カイ・シラヌイ。
恐怖を司り、聖女を従える、タルタロスの唯一神が、誕生した瞬間だった。
もちろん、その神様が、内心で(ああ、腹が減った……。こんな血生臭い場所じゃなくて、安物のソファに寝そべって、脂っこいピザと炭酸飲料を腹一杯に詰め込みたい……! 俺の魂が求めているのは、聖なるスープなんかじゃない、ジャンクフードの暴力なんだ……!)と、極めて俗な願いを抱いていることなど、誰一人として知る由もない。
物語は、いつだって、主役の意思などお構いなしに、最も都合のいい方向へと、勝手に転がっていくものである。
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大粛清の決行まで、残り約十二時間。
惑星タルタロスには、奇妙な、そして束の間の静寂が訪れていた。
不時着した旗艦「ネメシス」の周辺は、さながら巨大な難民キャンプの様相を呈していた。
人種も、派閥も、罪状も違う、数千の元囚人たち。
彼らは、ほんの数時間前まで、互いに憎しみ合い、殺し合っていたはずだった。
だが今、彼らは、同じ目的の下に、静かに集っていた。
カイ・シラヌイという名の、新たな「神」の下に。
そのキャンプの中心で、一つの、温かな光景が広がっていた。
ネメシスのクルーたちが、囚人たちのために、炊き出しを行っているのだ。
メニューは、もちろん、あの「奇跡のスープ」。
「さあさあ、遠慮はいらねぇ! たんと食って、腹の底から温まりな! これが、俺たちの司令の、慈悲の味だ!」
ナビゲーターのハンスが、満面の笑みで、巨大な寸胴鍋をかき混ぜている。
その前には、長い、長い列。
誰もが、その魂まで温まるという一杯のスープを求めて、静かに、そして行儀よく、順番を待っていた。
「……信じられん光景だ」
列の後方で、機関長のバルツァーが、腕を組みながら、感嘆の声を漏らした。
彼の隣には、囚人たちの最大勢力「坑夫(マイナーズ)」のリーダー、ギデオンが、複雑な表情でその光景を眺めている。
「……てめえらの司令は、一体何者なんだ」
ギデオンの声には、もはや敵意はなかった。ただ、純粋な、そして底知れない畏怖があった。
「ただの軍人じゃねぇ。それだけは、確かだ」
バルツァーは、どこか誇らしげに言った。
「ええ。あの方の考えておられることは、我々凡人には、到底理解できませんよ。だが、一つだけ分かることがある。あの方は、いつだって、我々兵士のことだけを、見ていてくださる」
その時、ハンスが、スープの入った深皿を手に、ギデオンの元へとやって来た。
「親方も、どうです? 家族の話でも、しませんか」
その、あまりにも屈託のない笑顔に、ギデオンは一瞬、言葉を失った。彼の脳裏に、あのボロボロの写真の、娘の笑顔が蘇る。
やがて、その交流の輪は艦のあちこちに広がっていく。先ほどまでギデオンと話していたバルツァーも、いつの間にか若き天才ハッカー、ビットと、何やら専門的な話で盛り上がっていた。
「……なるほど! Z-ドライブのエネルギー転換効率を、逆位相のパルスで相殺する、と……! 天才的だ、坊主!」
「……あなたこそ。その構造を、口頭での説明だけで理解するとは。あなたの艦のメカニックは、幸せですね」
異なる立場、異なる世代の二人が、メカニックという共通の言語を通じて、僅かに、しかし確かに、心を通わせる。
それは、まるで嵐の前の静けさのような、儚くも、温かい光景だった。
この地獄の惑星で、誰もが見失っていた、人と人との、当たり前の繋がり。
それが、一杯のスープをきっかけに、今、静かに、そしてゆっくりと、再生されようとしていた。
だが。
その温かい光景の、すぐそばの闇の中で。
全く別の、冷たい儀式が、粛々と、そして無慈悲に執り行われていることを、まだ誰も知らない。
レナ・ユキシロは、これから始まる「聖骸の行進」に参加する者たちを、一人、また一人と、呼び出していた。
その目的は、行進適性の最終確認。
彼女はセンサーなど使わない。ただ、参加者の前に音もなく立つと、その虚ろな硝子玉のような瞳で、じっと相手を見つめるだけ。だが、その視線は、軍の最新鋭スキャナーですら見抜けぬ魂の深淵までをも見通していた。呼吸の僅かな乱れ。瞳孔の微細な収縮。皮膚の下を走る、筋肉のマイクロ秒単位の震え。特殊部隊で叩き込まれた人間観察術と、彼女自身の壊れてしまった精神構造が融合し、人の心に巣食う「恐怖」という名の澱(おり)を、完璧に可視化していた。
「……基準値オーバー。不適合」
レナの唇から、温度のない言葉が紡がれる。
「……し、しかし……! 俺は、行けます! 神のために……!」
若い囚人が、必死に訴える。その額には、脂汗が玉のように浮かんでいる。
だが、レナは、その言葉に何の反応も見せない。
「汚染源。全体の律動を乱す。……これを使用しろ」
彼女が差し出したのは、一本の自動注射器(オートインジェクター)。中には、禍々しい紫色の液体が満たされている。ネメシスの医務室の最も奥、厳重なロックがかけられた保管庫に眠っていた、軍用の試作戦闘薬。『オーバードーズ・セレニティ(静寂の過剰投与)』。その効果は、恐怖心の完全なる除去。そして、副作用は――不可逆的な感情の鈍化、あるいは人格の崩壊。
囚人は、その注射器を見て、恐怖に顔を引きつらせた。
「ひっ……! い、嫌だ! そんなものを使ったら、俺は……!」
「選択しろ」
レナの声は、どこまでも平坦だった。
「恐怖に喰われるか。恐怖を喰らうか。主の御前(みまえ)に進むにあたり、不純物は許されない」
それは、問いかけではなかった。ただの、事実確認。
囚人は、わなわなと震えながら、後ずさる。だが、その背後は、レナと同じ虚ろな目をした、他の囚人たちによって、壁のように塞がれていた。逃げ場はない。
彼は、絶望に顔を歪めると、震える手で注射器を受け取り、自らの首筋に、その先端を突き立てた。
プシュッ、という軽い作動音。
紫色の液体が、彼の体内に注入される。
次の瞬間、彼の全身を凄まじい痙攣が襲った。だが、それもほんの数秒のこと。
やがて、彼の体から全ての力が抜け、そして、彼の瞳から、全ての光が消え失せた。恐怖も、絶望も、そして喜びも、悲しみも。その全てが、洗い流されたように。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、レナと寸分違わぬ、人形のような、薄い笑みの形に固定されていた。
「……感謝、します。これで、私も……神の、お役に……」
その、あまりにも異様で、あまりにも狂気に満ちた光景の全てを。
司令官室の玉座(リクライニングチェア)の上で、カイ・シラヌイは、高解像度の監視モニター越しに、一部始終を目撃していた。
「(うわぁ……やりやがったよ、あの人形女……!)」
カイの内心で、けたたましい警報が鳴り響く。
「(あれ、確かエミリアが『危険! 使用禁止! これ使ったら人間やめます!』って、手書きのドクロマーク付きのラベルをベタベタ貼ってた、一番ヤバいやつじゃねえか!? なんでそれを、ホイホイ配ってんだよ! ポーションか何かと勘違いしてんのか!?)」
背筋に、氷のように冷たい汗が流れる。
自分が生み出してしまったあの人形が、今や自分の想像を遥かに超えた、予測不能の怪物へと進化している。その事実に、彼は本能的な恐怖を感じていた。
だが。
彼の自己保身の本能は、その恐怖すらも、瞬時に自分にとって最も都合のいい解釈へと捻じ曲げる。
「(……だが、まあ、いいか。恐怖でパニックを起こして、怪物どもの餌になるような役立たずよりは、感情のないロボットの方が、よっぽど統率が取れて安全だ。そうだ、これも俺の深遠なる思慮の賜物というわけだな! うん! 完璧だ!)」
――見事なまでの、責任転嫁と自己正当化である。
もはや芸術の域に達していると言っても過言ではないだろう。
彼の歪んだ論理の中では、部下が人間をやめることすらも、全体の成功確率を上げるための、ただの数字の変動でしかなかった。
温かいスープを囲む、団らんの光。
そして、そのすぐ隣で行われる、冷たい魂の改造手術。
光と闇の、あまりにも残酷なコントラスト。
それこそが、カイ・シラヌイという名の、空っぽの神が生み出してしまった、この惑星の、新しい世界の形だった。
そして、その世界の中心で、これから始まる地獄の行進を前にして。
彼らの神は、ただ一人、自室で(よし、これで俺の生存確率も上がったな!)と、自分の手柄に満足しているだけなのだが。
物語の歯車は、もはや誰にも止められない。
聖骸の行進が始まる、夜明けは、もうすぐそこまで迫っていた。
あとがき、あるいは蛇足
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カイ:「(フハハハハ! 見たかシロ! 俺の、俺の完璧なまでの大立ち回り! あの絶望的な状況から、たった一世一代のハッタリだけで、見事生還してみせたぞ! 恐怖に怯える愚かな囚人どもを導き、狂犬を聖女へと祭り上げ、全てを掌の上で転がしてやった! これぞ神の所業! もはや俺を英雄と呼ばずして、何と呼ぶというのだ!)」
シロ:『へぇ、神の所業ねぇ。どの口が言うのかな。さっきまで玉座(リクライニングチェア)の上で、熟成前のチーズみたいな色の顔してプルプル震えてた、哀れな小動物はどこのどいつだったかな?』
カイ:「(う、うるさい! あれは、これから仕掛ける大芝居の前に、精神を極限まで集中させていたのだ! 役作りというものを知らんのか、このポンコツAIが! 全ては、俺の描いた完璧な脚本通り……!)」
シロ:『脚本、ねぇ。君がやったことなんて、ただヤケクソで叫んだだけじゃない。君のそのしょーもない演説を、荘厳なゴスペルに仕立て上げたのは、君の可愛い人形(ペット)が仕掛けた恐怖政治(物理)のおかげだってこと、そろそろ自覚したらどうなんだい?』
カイ:「(ぐっ……! あ、あれは……あれも計算の内だ! そう、レナのあの行動すら、俺の深遠なる思惑を汲み取った上での、完璧なアドリブだったのだ! つまり、やはり全て俺の手柄というわけだな!)」
シロ:『……うん。その、鋼のメンタルと、光の速さの責任転嫁能力だけは、そろそろ神の領域だって認めてあげてもいいよ。おめでとう、勘違いの神様?』
カイ:「(フン、当然だ!)」
――この男、褒められているのか貶されているのか、もはやその判断すらついていないらしい。実に、めでたい頭である。