【取扱注意】その英雄、勘違いにつき。   作:化け猫 いろは

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第八話 最後の賭け

絶望に慣れきった者にとって、本当の地獄とは何か。

それは、ありえないと知っていたはずの「希望」という名の光を、ほんの一瞬だけ見せられた後、さらに深い闇へと叩き落とされることである。

 

惑星タルタロスに巣食う者たちは、その真理を骨の髄まで理解していた。

諦観は皮膚となり、無感動は血液となっていた。死は、隣人だった。

だから、AI「ウォッチャー」による『大粛清』の宣告もまた、彼らにとっては、いつか来ると知っていた死が、少しだけ派手な装いで訪れたに過ぎないはずだった。

 

だが、違った。

天から降り注いだ、あの奇妙な「歌」。

怪物たちの活動を止めた、あのありえない「奇跡」。

そして、温かいスープがもたらした、何十年も忘れていた「安らぎ」。

 

それらの、ほんのわずかな光のかけらが、彼らの分厚い皮膚に亀裂を入れ、凍てついていたはずの魂に、致命的な熱傷を負わせてしまったのだ。

もう一度、生きたい。

そう願ってしまった、その瞬間に。

死へのカウントダウンは、単なる終わりではなく、耐えがたい「苦痛」へと変貌した。

ああ、やはり神などいなかったのだ、と。

希望を見せられた後だからこそ、その絶望は、どこまでも深く、そして昏い。

 

────────────────────────────────────────────

 

地下居住区画「アントヒル」は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。

統括AI「ウォッチャー」による、惑星規模の死刑宣告。

頭上に、視界の隅に、強制的に表示され続ける、無慈悲な赤いカウントダウン。

それは、この蟻の巣に籠る数万の囚人たちの、最後の理性のタガを、いとも容易く引きちぎった。

 

「終わりだ……! もう、終わりなんだ……!」

「嫌だ! 死にたくない! 俺は、まだ……!」

 

武器を捨て、その場に崩れ落ちて泣き叫ぶ者。

狂ったように壁に頭を打ち付け、自らの手で終わりを選ぼうとする者。

僅かな食料や水を巡り、最後の醜い奪い合いを始める者。

秩序は崩壊し、ただ、純粋な恐怖と、剥き出しの生存本能だけが、蟻の巣の中を支配していた。

 

その混沌の中心、司令室で。

ギデオンは、ただ一人、腕を組み、壁に広げられた古い地図を、静かに睨みつけていた。

彼の背中には、パニックに陥った部下たちの怒号と悲鳴が、まるで悪魔のコーラスのように突き刺さる。

 

「親方! 何とか言ってくださいよ!」

「あんたなら、何か手があるんだろ!? いつもみたいに、非情な決断で、俺たちを導いてくれよ!」

「このままじゃ、全員ここで犬死にだ!」

 

懇願、あるいは罵声。

だが、ギデオンは何も答えない。ただ、地図を見つめている。

その沈黙が、部下たちの焦燥をさらに掻き立てた。

 

「……クソッ! 親方も、もう終わりかよ!」

「俺たちを見捨てる気か!」

 

仲間の一人が、絶望のあまり、手にしていたアサルトライフルを床に叩きつけようとした、その瞬間。

 

──静かにしろ

 

ギデオンの声は、低く、そして重かった。

だが、その声には、蟻の巣の喧騒全てを、一瞬で黙らせるような、絶対的な響きがあった。

彼は、ゆっくりと振り返ると、絶望に満ちた部下たちの顔を、一人一人、その瞳に焼き付けるように見渡した。

 

「……終わり? 誰が終わったと言った。俺か? それとも、天の神様か?」

その声には、不思議なほどの落ち着きがあった。

「俺は、まだ何も言っちゃいねぇ。だったら、てめえらが勝手に終わるんじゃねえ」

 

彼は、そう言うと、おもむろに胸元から、一つの、ボロボロになった写真の破片を取り出した。

それは、この地獄の惑星にはあまりにも不釣り合いな、太陽の光に満ちた写真だった。

屈強な男と、優しそうな女。そして、その二人の腕の中で、満面の笑みを浮かべる、幼い少女。

 

「……俺はな」と、ギデオンは続けた。「こいつらに、顔向けできねぇ生き方はしねぇと、そう決めてる。たとえ、明日死ぬことになろうともな」

彼の指が、写真の中の少女の笑顔を、そっと、優しく撫でる。

「腹ぁ空かせてねぇか。風邪、ひいてねぇか。ろくでもねぇ男に、騙されたりしてねぇか。……そんなことばっかり、考えてる。馬鹿みてぇだろ? ここにいる俺には、何もしてやれねぇってのによ」

その言葉は、誰に言うでもなく、ただ、彼自身の魂に言い聞かせるための、独白だった。

「だがな、これだけは分かる。俺が、ここでてめえらを見捨てて、無様に泣き喚いて死んだら、こいつらは、きっと悲しむだろうよ。俺の娘は、『私のお父さんは、最後まで仲間を見捨てない、最高の男だった』って、そう信じてるはずだからな」

 

ギデオンは、顔を上げた。

その、現実だけを見てきたはずの瞳に、今、確かな熱が宿っていた。

 

「……まだ、終わっちゃいねぇ。あの、天から『歌』を降らせた、いまいましい軍艦の連中が、まだ残ってる」

彼の言葉に、部下たちが、はっと顔を上げる。

「奴らが、この地獄の元凶かもしれん。あるいは、最後の希望かもしれん。どっちに転ぶかは、分からん。だがな」

彼は、そこで一度言葉を切ると、アサルトライフルを、再びその手に取り戻した。

 

このまま黙って死ぬくれぇなら、俺は、最後の最後まで足掻いて、こいつらの喉笛に噛みついてやる

その言葉は、絶望の闇に沈んでいた坑夫たちの心に、小さな、しかし確かな火を灯した。

そうだ。

まだ、終わっていない。

俺たちには、この人がいる。

この、誰よりも現実を知り、誰よりも非情で、そして、誰よりも仲間を想う、この親方が。

武器を捨てかけた男が、再びライフルを拾い上げる。

泣き叫んでいた男が、涙を拭って立ち上がる。

蟻の巣の混沌は、ゆっくりと、しかし確実に、一つの意志の下に収束していく。

カイ・シラヌイという名の、巨大な「問い」へと。

 

────────────────────────────────────────────

 

その頃、全ての元凶であり、そして最後の希望であると勘違いされている男は。

旗艦「ネメシス」司令官室の玉座(リクライニングチェア)の上で、もはや完全に、思考と生命活動を停止させていた。

 

「(……終わった。俺の人生、マジで、完全に、ここで、ゲームオーバーだ……)」

 

彼の視界の全てを埋め尽くす、禍々しいまでの赤いカウントダウン。

それは、彼の小心な魂が耐えられる情報量を、とっくに超えていた。

もはや、パニックすら起こせない。

ただ、真っ白な虚無の中で、自分の人生のエンドロールが、ゆっくりと流れていくのを、見ているだけだった。

主演:カイ・シラヌイ。

監督:理不尽な運命。

脚本:壮大な勘違い。

提供:オリオン・アーム・インダストリー(クソ)。

 

『……おーい、聞こえてるー? 教祖様ー? そろそろ信者たちが、最後の奇跡を求めて、君の神殿に押し寄せてくる頃だと思うんだけど、準備はいいかい?』

脳内で、シロがいつものように軽薄な声で言った。

だが、カイはもはや、その軽口にツッコむ気力すら残っていなかった。

 

「(……もう、いい……。俺は、疲れた……。シロ、最後に一つだけ、頼みがある……)」

『ん? なに?』

「(俺が死んだら、このリクライニングチェアも、一緒に棺桶に入れてくれ……。こいつだけが、俺の唯一の戦友だった……)」

『……重症だね、こりゃ』

 

カイが、そんな完璧な遺言を脳内で組み立てていた、まさにその時だった。

司令官室のメインスクリーンに、強制的な通信割り込みが入った。

そこに映し出されたのは、三つのウィンドウ。

左には、地下居住区画「アントヒル」を背景にした、険しい顔のギデオン。

右には、旧中央管理施設の電子の砦から、青白い顔でこちらを睨みつける、ビット。

そして、中央には、この惑星のどこかの廃墟から、無表情のまま、しかしその瞳の奥に狂的な光を宿した、人喰いカルト「狩人(ハンターズ)」の、名もなき代表者。

惑星タルタロスに存在する、三つの囚人勢力のリーダーたちが、時を同じくして、全ての元凶であるカイ・シラヌイに、最後の交渉を持ち掛けてきたのだ。

 

最初に口火を切ったのは、ギデオンだった。

その声は、怒りと、そして最後の望みを託すような、奇妙な響きを持っていた。

『──カイ・シラヌイ。聞こえているな。てめえが、この地獄の脚本家であることは、もう分かっている』

 

(違う! 俺は脚本家じゃない! むしろ被害者だ!)

カイは内心で絶叫したが、もちろん声には出せない。

 

次に、ビットが、冷たく、そして分析的な声で続けた。

『……あなたの目的は、我々を駒として使い潰し、この惑星を完全に掌握すること。そうですね? だが、あなたの計算にも、このAIの暴走は、さすがに想定外だったのではないですか?』

 

(だから、そんな大それた目的はないんだってば!)

 

そして最後に、狩人の代表者が、まるで蛇が舌なめずりするかのような、ねっとりとした声で言った。

『……ヒヒッ。いいねぇ、あんた。この星の、誰よりも深い恐怖の匂いがする。あんたこそが、我らが崇める、真の恐怖の神様だ。……だが、神様も、このままじゃ信者ともども、お陀仏だぜぇ?』

 

三者三様の、言葉。

だが、その根底にある問いは、ただ一つだった。

 

お前が始めた地獄だ。責任を取れ

 

その、あまりにも理不尽で、あまりにも重すぎる言葉の槍が、三方向から、カイの小心な心臓へと、寸分の狂いもなく突き刺さった。

 

「(……ひぃっ!)」

 

カイの喉から、情けない悲鳴が漏れそうになる。

絶体絶命。

四面楚歌どころの話ではない。もはや、惑星そのものが、彼一人に牙を剥いている。

どうする。

どうすればいい。

もう、逃げ場はない。

 

彼が、完全にパニックの海に溺れかけた、その時。

彼のインカムから、一つの、鈴の鳴るような、しかし一切の感情を含まない、完璧に調整された合成音声のような声が、静かに響いた。

 

「──司令」

 

声の主は、いつの間にか彼の背後に、影のように佇んでいた、レナ・ユキシロだった。

 

「炉心へ至る道は、ただ一つ。惑星の地下深くに広がる、サイレント・ブリーダーの巣を、通過するルートのみ」

彼女は、淡々と事実を述べる。それは、絶望的な事実のはずだった。

だが、彼女は、こう続けたのだ。

 

しかし、恐怖を抱かぬ者であれば、そこは、ただの道です

 

その言葉に、カイの思考が、一瞬だけ、現実へと引き戻される。

恐怖を感じない者。

そうだ、この女。

この、心が壊れてしまった人形は、恐怖という感情を、失っている。

故に、怪物たちは、彼女を認識できない。

 

そして、そのレナの言葉に、まるで呼応するかのように、ビットのウィンドウから、新たな情報が付け加えられた。

『……旧施設のデータログを解析した結果、一つの可能性が浮上しました。惑星の核融合炉には、不時着時に紛失したZ-ドライブ制御ユニットと、同型の予備パーツが、緊急時のバックアップとして保管されている可能性があります。確率、78.3%』

 

その、二つの情報。

レナの、特異体質。

そして、ビットの、予備パーツの可能性。

それらが、カイの絶望の闇の中で、二本の、か細い、しかし確かな蜘蛛の糸となって、彼の目の前に垂らされた。

 

(……脱出)

 

その、たった一つの単語が、彼の思考の全てを支配した。

そうだ、脱出。

この地獄の惑星から、生きて脱出する。

そのためならば。

そのためだけならば。

 

カイの脳が、自己保身のためだけに、再び、超高速で回転を始めた。

恐怖。絶望。責任。

そんなものは、全て、ゴミ箱に捨てろ。

今、考えるべきことは、ただ一つ。

どうやって、この三つの勢力を、そしてこの惑星の全ての生存者を騙し、利用し、自分の脱出のためだけの、使い捨ての駒にするか。

 

カイは、ゆっくりと顔を上げた。

その表情からは、先ほどまでの虚無と絶望は、完全に消え去っていた。

代わりに、そこにあったのは。

全てを、お見通しであるとでも言うかのような、どこまでも深く、そして穏やかな、絶対者の笑みだった。

 

────────────────────────────────────────────

 

その、あまりにも尊大で、あまりにも不遜な笑み。

それを見た、三人のリーダーたちは、それぞれに、異なる反応を示した。

ギデオンは、眉をひそめ、警戒を露わにした。

(……やはり、食えん男だ。この状況ですら、まだ余裕があるというのか)

ビットは、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。

(……計算通り、か。このAIの暴走すらも、彼の描いたシナリオの一部だったとでも言うのか)

そして、狩人の代表者は、恍惚とした表情で、その笑みに見入っていた。

(……ヒヒッ。これだ。これだよ。この、絶望の淵で見せる、神の笑み! たまらねぇ!)

 

彼らのそんな内心の動揺など、もちろんカイは知る由もない。

彼はただ、自分の人生最大級のハッタリをかますための、完璧な舞台が整ったことに、内心でほくそ笑んでいるだけだった。

 

やがて、彼は、その唇を開いた。

その声は、惑星全土の、全てのスピーカーから、荘厳な、そしてどこか物悲しい響きとなって、全ての生存者の耳へと届けられた。

 

「……聞いたか、タルタロスの同胞たちよ」

 

その、あまりにも場違いな、宣教師のような第一声に、誰もが耳を疑った。

 

「お前たちは、絶望している。死のカウントダウンを前に、ただ怯え、泣き叫んでいる。……滑稽だな」

その言葉は、冷たく、そしてどこまでも突き放していた。

「だが、それも当然だ。なぜなら、お前たちは、本当の敵が誰であるのかを、まだ知らないのだからな」

 

カイは、そこで一度、言葉を切った。

意味ありげな、間。

全ての生存者が、固唾を飲んで、次の言葉を待つ。

 

「お前たちの、本当の敵。それは、暴走したAIではない。同胞であるはずの、他の囚人でもない。ましてや、この星の怪物などでは、断じてない」

彼の声が、少しずつ、熱を帯びていく。

 

お前たちの、本当の敵は──お前たち自身の心の中にある、『恐怖』だッ!!

 

その、あまりにもシンプルで、あまりにも力強い言葉。

それは、絶望に打ちひしがれていた囚人たちの心を、ハンマーのように、強く、そして激しく打ち付けた。

 

「恐怖こそが、お前たちの理性を奪い、判断を誤らせ、仲間同士を争わせる! 恐怖こそが、あのAIを狂わせ、この星を地獄へと変えた、全ての元凶なのだ!」

(そうだ! 恐怖こそが元凶だ! 俺がこんなに怖い思いをしてるのも、全部、俺の恐怖心のせいだ! 俺は悪くない! 俺の恐怖心が悪い! ……あれ? なんかおかしいな。まあ、いいか!)

 

カイの脳内で、壮大な責任転嫁の論理が、完璧に構築されていく。

そして、彼は、この演説のクライマックスを飾る、最も重要で、最も詐欺的な、決め台詞を放った。

 

「だが、恐れることはない! なぜなら、お前たちには、この私がいる!」

彼の声が、救世主のそれのように、力強く響き渡る。

「そして、私には、恐怖を知らぬ、最強の使いがいる!」

 

カイは、背後に立つレナの肩を、そっと、しかし力強く抱いた。

レナは、人形のように、無表情のまま、ぴくりとも動かない。

その、あまりにも異様で、しかしどこか神々しい光景を、惑星の全ての生存者が、モニター越しに見つめていた。

 

我が聖骸(せいがい)に、続け

 

その、古風で、どこか宗教的な響きを持つ言葉。

 

恐怖という名の呪いを打ち破りし、この聖なる骸(むくろ)に続く者のみ、救われるだろう!

(そうだ! この恐怖知らずの人形女を先頭にして、俺はその後ろの、一番安全な場所を歩かせてもらう! 完璧な計画だ! 我ながら天才すぎる!)

 

その、あまりにも荘厳で、あまりにも希望に満ちた(ように聞こえる)救世主の宣誓。

それを聞いた、惑星の全ての生存者たちが。

時を同じくして、その場に、ひれ伏していた。

ある者は、涙を流しながら。

ある者は、歓喜に打ち震えながら。

そして、ある者は、狂信的なまでの熱を、その瞳に宿しながら。

 

「「「おお……! 我らが、神……!」」」

 

カイ・シラヌイ。

恐怖を司り、聖女を従える、タルタロスの唯一神が、誕生した瞬間だった。

もちろん、その神様が、内心で(ああ、腹が減った……。こんな血生臭い場所じゃなくて、安物のソファに寝そべって、脂っこいピザと炭酸飲料を腹一杯に詰め込みたい……! 俺の魂が求めているのは、聖なるスープなんかじゃない、ジャンクフードの暴力なんだ……!)と、極めて俗な願いを抱いていることなど、誰一人として知る由もない。

物語は、いつだって、主役の意思などお構いなしに、最も都合のいい方向へと、勝手に転がっていくものである。

 

────────────────────────────────────────────

 

大粛清の決行まで、残り約十二時間。

惑星タルタロスには、奇妙な、そして束の間の静寂が訪れていた。

 

不時着した旗艦「ネメシス」の周辺は、さながら巨大な難民キャンプの様相を呈していた。

人種も、派閥も、罪状も違う、数千の元囚人たち。

彼らは、ほんの数時間前まで、互いに憎しみ合い、殺し合っていたはずだった。

だが今、彼らは、同じ目的の下に、静かに集っていた。

カイ・シラヌイという名の、新たな「神」の下に。

 

そのキャンプの中心で、一つの、温かな光景が広がっていた。

ネメシスのクルーたちが、囚人たちのために、炊き出しを行っているのだ。

メニューは、もちろん、あの「奇跡のスープ」。

 

「さあさあ、遠慮はいらねぇ! たんと食って、腹の底から温まりな! これが、俺たちの司令の、慈悲の味だ!」

ナビゲーターのハンスが、満面の笑みで、巨大な寸胴鍋をかき混ぜている。

その前には、長い、長い列。

誰もが、その魂まで温まるという一杯のスープを求めて、静かに、そして行儀よく、順番を待っていた。

 

「……信じられん光景だ」

列の後方で、機関長のバルツァーが、腕を組みながら、感嘆の声を漏らした。

彼の隣には、囚人たちの最大勢力「坑夫(マイナーズ)」のリーダー、ギデオンが、複雑な表情でその光景を眺めている。

 

「……てめえらの司令は、一体何者なんだ」

ギデオンの声には、もはや敵意はなかった。ただ、純粋な、そして底知れない畏怖があった。

「ただの軍人じゃねぇ。それだけは、確かだ」

 

バルツァーは、どこか誇らしげに言った。

「ええ。あの方の考えておられることは、我々凡人には、到底理解できませんよ。だが、一つだけ分かることがある。あの方は、いつだって、我々兵士のことだけを、見ていてくださる」

 

その時、ハンスが、スープの入った深皿を手に、ギデオンの元へとやって来た。

「親方も、どうです? 家族の話でも、しませんか」

 

その、あまりにも屈託のない笑顔に、ギデオンは一瞬、言葉を失った。彼の脳裏に、あのボロボロの写真の、娘の笑顔が蘇る。

 

やがて、その交流の輪は艦のあちこちに広がっていく。先ほどまでギデオンと話していたバルツァーも、いつの間にか若き天才ハッカー、ビットと、何やら専門的な話で盛り上がっていた。

「……なるほど! Z-ドライブのエネルギー転換効率を、逆位相のパルスで相殺する、と……! 天才的だ、坊主!」

「……あなたこそ。その構造を、口頭での説明だけで理解するとは。あなたの艦のメカニックは、幸せですね」

異なる立場、異なる世代の二人が、メカニックという共通の言語を通じて、僅かに、しかし確かに、心を通わせる。

 

それは、まるで嵐の前の静けさのような、儚くも、温かい光景だった。

この地獄の惑星で、誰もが見失っていた、人と人との、当たり前の繋がり。

それが、一杯のスープをきっかけに、今、静かに、そしてゆっくりと、再生されようとしていた。

 

だが。

その温かい光景の、すぐそばの闇の中で。

全く別の、冷たい儀式が、粛々と、そして無慈悲に執り行われていることを、まだ誰も知らない。

 

レナ・ユキシロは、これから始まる「聖骸の行進」に参加する者たちを、一人、また一人と、呼び出していた。

その目的は、行進適性の最終確認

 

彼女はセンサーなど使わない。ただ、参加者の前に音もなく立つと、その虚ろな硝子玉のような瞳で、じっと相手を見つめるだけ。だが、その視線は、軍の最新鋭スキャナーですら見抜けぬ魂の深淵までをも見通していた。呼吸の僅かな乱れ。瞳孔の微細な収縮。皮膚の下を走る、筋肉のマイクロ秒単位の震え。特殊部隊で叩き込まれた人間観察術と、彼女自身の壊れてしまった精神構造が融合し、人の心に巣食う「恐怖」という名の澱(おり)を、完璧に可視化していた。

 

「……基準値オーバー。不適合」

 

レナの唇から、温度のない言葉が紡がれる。

 

「……し、しかし……! 俺は、行けます! 神のために……!」

 

若い囚人が、必死に訴える。その額には、脂汗が玉のように浮かんでいる。

だが、レナは、その言葉に何の反応も見せない。

 

「汚染源。全体の律動を乱す。……これを使用しろ」

 

彼女が差し出したのは、一本の自動注射器(オートインジェクター)。中には、禍々しい紫色の液体が満たされている。ネメシスの医務室の最も奥、厳重なロックがかけられた保管庫に眠っていた、軍用の試作戦闘薬。『オーバードーズ・セレニティ(静寂の過剰投与)』。その効果は、恐怖心の完全なる除去。そして、副作用は――不可逆的な感情の鈍化、あるいは人格の崩壊

 

囚人は、その注射器を見て、恐怖に顔を引きつらせた。

「ひっ……! い、嫌だ! そんなものを使ったら、俺は……!」

 

「選択しろ」

 

レナの声は、どこまでも平坦だった。

 

「恐怖に喰われるか。恐怖を喰らうか。主の御前(みまえ)に進むにあたり、不純物は許されない」

 

それは、問いかけではなかった。ただの、事実確認。

囚人は、わなわなと震えながら、後ずさる。だが、その背後は、レナと同じ虚ろな目をした、他の囚人たちによって、壁のように塞がれていた。逃げ場はない。

彼は、絶望に顔を歪めると、震える手で注射器を受け取り、自らの首筋に、その先端を突き立てた。

 

プシュッ、という軽い作動音。

紫色の液体が、彼の体内に注入される。

次の瞬間、彼の全身を凄まじい痙攣が襲った。だが、それもほんの数秒のこと。

やがて、彼の体から全ての力が抜け、そして、彼の瞳から、全ての光が消え失せた。恐怖も、絶望も、そして喜びも、悲しみも。その全てが、洗い流されたように。

彼は、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、レナと寸分違わぬ、人形のような、薄い笑みの形に固定されていた。

 

「……感謝、します。これで、私も……神の、お役に……」

 

その、あまりにも異様で、あまりにも狂気に満ちた光景の全てを。

司令官室の玉座(リクライニングチェア)の上で、カイ・シラヌイは、高解像度の監視モニター越しに、一部始終を目撃していた。

 

「(うわぁ……やりやがったよ、あの人形女……!)」

 

カイの内心で、けたたましい警報が鳴り響く。

 

「(あれ、確かエミリアが『危険! 使用禁止! これ使ったら人間やめます!』って、手書きのドクロマーク付きのラベルをベタベタ貼ってた、一番ヤバいやつじゃねえか!? なんでそれを、ホイホイ配ってんだよ! ポーションか何かと勘違いしてんのか!?)」

 

背筋に、氷のように冷たい汗が流れる。

自分が生み出してしまったあの人形が、今や自分の想像を遥かに超えた、予測不能の怪物へと進化している。その事実に、彼は本能的な恐怖を感じていた。

だが。

彼の自己保身の本能は、その恐怖すらも、瞬時に自分にとって最も都合のいい解釈へと捻じ曲げる。

 

「(……だが、まあ、いいか。恐怖でパニックを起こして、怪物どもの餌になるような役立たずよりは、感情のないロボットの方が、よっぽど統率が取れて安全だ。そうだ、これも俺の深遠なる思慮の賜物というわけだな! うん! 完璧だ!)」

 

――見事なまでの、責任転嫁と自己正当化である。

もはや芸術の域に達していると言っても過言ではないだろう。

 

彼の歪んだ論理の中では、部下が人間をやめることすらも、全体の成功確率を上げるための、ただの数字の変動でしかなかった。

温かいスープを囲む、団らんの光。

そして、そのすぐ隣で行われる、冷たい魂の改造手術。

光と闇の、あまりにも残酷なコントラスト。

 

それこそが、カイ・シラヌイという名の、空っぽの神が生み出してしまった、この惑星の、新しい世界の形だった。

そして、その世界の中心で、これから始まる地獄の行進を前にして。

彼らの神は、ただ一人、自室で(よし、これで俺の生存確率も上がったな!)と、自分の手柄に満足しているだけなのだが。

物語の歯車は、もはや誰にも止められない。

聖骸の行進が始まる、夜明けは、もうすぐそこまで迫っていた。





あとがき、あるいは蛇足


────────────────────────────────────────────


カイ:「(フハハハハ! 見たかシロ! 俺の、俺の完璧なまでの大立ち回り! あの絶望的な状況から、たった一世一代のハッタリだけで、見事生還してみせたぞ! 恐怖に怯える愚かな囚人どもを導き、狂犬を聖女へと祭り上げ、全てを掌の上で転がしてやった! これぞ神の所業! もはや俺を英雄と呼ばずして、何と呼ぶというのだ!)」

シロ:『へぇ、神の所業ねぇ。どの口が言うのかな。さっきまで玉座(リクライニングチェア)の上で、熟成前のチーズみたいな色の顔してプルプル震えてた、哀れな小動物はどこのどいつだったかな?』

カイ:「(う、うるさい! あれは、これから仕掛ける大芝居の前に、精神を極限まで集中させていたのだ! 役作りというものを知らんのか、このポンコツAIが! 全ては、俺の描いた完璧な脚本通り……!)」

シロ:『脚本、ねぇ。君がやったことなんて、ただヤケクソで叫んだだけじゃない。君のそのしょーもない演説を、荘厳なゴスペルに仕立て上げたのは、君の可愛い人形(ペット)が仕掛けた恐怖政治(物理)のおかげだってこと、そろそろ自覚したらどうなんだい?』

カイ:「(ぐっ……! あ、あれは……あれも計算の内だ! そう、レナのあの行動すら、俺の深遠なる思惑を汲み取った上での、完璧なアドリブだったのだ! つまり、やはり全て俺の手柄というわけだな!)」

シロ:『……うん。その、鋼のメンタルと、光の速さの責任転嫁能力だけは、そろそろ神の領域だって認めてあげてもいいよ。おめでとう、勘違いの神様?』

カイ:「(フン、当然だ!)」

――この男、褒められているのか貶されているのか、もはやその判断すらついていないらしい。実に、めでたい頭である。
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