【取扱注意】その英雄、勘違いにつき。   作:化け猫 いろは

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第九話 聖骸の行進

観測ログ:7439-アルファ

対象:惑星Z-13における複合生命体群の指向性移動

記録開始:『大粛清』実行まで残り11時間59分58秒

 

……特異点『カイ・シラヌイ』を中心とした、大規模な集団移動を観測……

……個体識別名『レナ・ユキシロ』を先頭に、一個小隊規模の人間が、汚染区域レベルSの最深部、すなわち我が炉心へと向かっている……

……彼らの恐怖感情指数、異常なまでに低い。これは、論理的に説明不能な『誤差』である……

……理解できない。彼らは、自ら死へと歩みを進めているのか?

……あるいは、彼らが『死』そのものを、この惑星に運び込もうとしているのか……?

 

────────────────────────────────────────────

 

夜明けは、来なかった。

惑星タルタロスの空は、鉛色の絶望に閉ざされたまま、時間という概念すら曖昧に溶かしていく。ただ、全ての者の視界の隅に、網膜に焼き付いた亡霊のように表示され続ける赤い数字だけが、この星に残された命の砂時計が、着実に、そして無慈悲に流れ落ちていることを告げていた。

 

旗艦「ネメシス」の周囲に集った数千の生存者たちは、まるで終末を待つ巡礼者のように、静かにその時を待っていた。

彼らの視線は、ただ一点に注がれている。

これから、地獄の最深部へと向かう、三十人ほどの決死隊。

その先頭に立つ、二つの異様な影に。

 

一人は、聖女。

副官レナ・ユキシロ。彼女は、人形のように薄い笑みを浮かべたまま、静かに佇んでいる。その虚ろな瞳は、これから踏み入る怪物の巣も、背後に続く数千の命も、何も映してはいない。ただ、主の命令だけを待つ、完璧な器。

 

そして、もう一人は、神。

司令官カイ・シラヌイ。彼は、目を閉じ、微動だにせず、まるで深い瞑想に入っているかのように、そこに立っていた。その表情は、嵐の前の静けさのように、どこまでも穏やかだ。その姿は、これから始まる地獄の行進の、その先の勝利までをも見通している、絶対者の風格を漂わせていた。

 

もちろん、そんなわけがない。

彼の内心は、もはや地獄という言葉すら生ぬるい、混沌と恐怖の坩堝と化していた。

 

(無理無理無理無理! 絶対に無理! なんで俺が、こんなホラー映画の主人公みたいなことしきゃならんのだ! しかも、何? この静寂は! 行くなら行くで、さっさと行こうぜ! この、出発前の、なんとも言えない気まずい空気! 前世の、乗り気じゃない会社の飲み会に向かう前の、駅の改札前より気まずいぞ!)

 

彼の精神は、とっくの昔に自己保身の本能と生存欲求の防波堤を決壊させ、今や恐怖という名の大津波に、木の葉のように翻弄されている。手足の先は氷のように冷え、心臓はBPM300を超えるデスメタルのビートを刻み、膀胱はナイアガラの滝と化す五秒前の状態にあった。

彼が今、その場で失禁も失神もせず、かろうじて立っていられるのは、ひとえに、十数年かけて築き上げてきた「完璧な外面」という名の、薄氷一枚のプライドのおげである。

 

『いやー、いよいよだね、教祖様。君の、記念すべき最初の、そして最後の聖地巡礼だ。どう? 信者たちに見送られる気分は。さぞかし、神々しい気持ちだろう?』

 

脳内に響く相棒、シロの声は、これから始まる悲劇(あるいは喜劇)を、最前列のVIP席でポップコーン片手に鑑賞する観客のように、どこまでも弾んでいた。

 

「(黙れ、この悪魔AIがァ! 神々しいだと!? どちらかと言えば、公開処刑台に引きずり出される罪人の気分だわ! 見ろ、あの信者どもの目を! 期待と狂信でキラッキラしてやがる! やめてくれ! そんな目で見ないでくれ! 俺は、お前らが思ってるような、凄い奴じゃないんだ! ただの、家に帰りたいだけの、哀れな引きこもりなんだよォォォ!)」

 

――実に感動的な告白である。だが悲しいかな、その魂の叫びは、彼の完璧な外面(ポーカーフェイス)という名の防音壁に阻まれ、誰の耳にも届くことはない。

 

『で? どうするのさ。このままじゃ、怪物の巣に入る前に、君、恐怖で心臓が破裂して、文字通り「聖骸」になっちゃうと思うけど』

 

「(分かってる! 分かってるわ、そんなことは! だから今、必死に考えてるんだろうが! この、絶望的な現実から、目を背けるための、完璧な方法を!)」

 

カイの脳が、自己保身のためだけに、再び、超高速で回転を始める。

そうだ、現実から目を背ける。

この、目の前に広がる地獄絵図を、直視しなければいいのだ。

では、どうやって?

 

(……そうだ。変換すればいいんだ。この、あまりにもリアルで、グロテスクで、俺のSAN値をゴリゴリ削ってくるこの光景を、俺がよく知る、別の何かに……)

 

彼の思考の深淵、その最も役に立たないガラクタ置き場の隅で、一つの記憶が、救いの光のように煌めいた。

それは、前世で彼が、寝食を忘れて没頭した、超マイナーな戦略シミュレーションゲーム『アストロ・サーガ Final Apocalypse』の、あまりの理不尽な難易度と、チープなグラフィックから、ユーザーの間で伝説的なクソゲーとして語り継がれている、惑星ゾディアック-13の最終ステージの記憶だった。

 

(これだ! これしかない! この現実を、あのクソゲーの画面だと思い込むんだ! そうすれば、どんな地獄も、ただのチープなドット絵の集まりにしか見えなくなる! 俺は、プレイヤーだ! これは、ただのゲームなんだ!)

 

『……正気?』

 

「(正気でいられるか、こんな状況で! いいか、シロ! お前はこれから、俺の脳内で、完璧なゲーム実況者になれ! 俺は、このクソゲーを、世界最速でクリアする、RTA(リアルタイムアタック)走者だ! 目標は、Z-ドライブ制御ユニットの入手と、この惑星からの脱出! どうだ、完璧な計画だろう!?)」

 

――この男、ついに、現実逃避の向こう側へと、その思考を飛躍させてしまったらしい。

だが、その狂気的なまでの自己暗示は、皮肉にも、彼の凍りついていた思考回路を再起動させ、その瞳に、異様なまでの光を宿らせた。

それは、英雄の覚悟の光ではない。

ましてや、聖者の慈悲の光でもない。

ただ、目の前のクソゲーを、いかに効率的に、そして安全にクリアするかだけを考える、血走ったゲーマーの瞳だった。

 

カイは、ゆっくりと目を開いた。

その表情は、もはや穏やかですらなかった。

無。

一切の感情を排した、完璧な無。

彼の脳内では、すでに現実の光景が、解像度の低い、カクカクとしたポリゴンのクソゲー映像へと、完璧に変換されていた。

彼の姿は、周囲の者たちの目には、こう映っていた。

 

「おお……! 司令が、目を開かれた……!」

「なんという、静かなる闘気……!」

「あれぞ、神の瞑想……。我々凡人には計り知れぬ、深遠なる精神統一の状態なのだ……!」

 

彼らの神が、内心で(よし、初期装備はこれでOK。スキルツリーは……とりあえず、生存特化で振るか。よし、行くぞ、クソゲーRTA、スタートだ!)などと、極めて俗なことを考えていることなど、もちろん誰も知らない。

 

カイは、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで、告げた。

「──行くぞ」

その、たった一言が、地獄の行進の始まりを告げる、ゴングとなった。

 

────────────────────────────────────────────

 

水晶の森は、静寂に包まれていた。

濃霧の向こう、巨大な水晶の墓標が林立するその合間を、三十人ほどの影が、音もなく進んでいく。

その光景は、あまりにも異様だった。

なぜなら、彼らの足元、左右、頭上の至る所に、この惑星の原生生物「サイレント・ブリーダー」が、水晶の彫像のように、静止しているのだ。

その数、数百、いや、数千は下らないだろう。

まるで、悪夢のジオラマの中を、歩いているかのようだった。

 

行進の先頭に立つのは、レナ・ユキシロ。

彼女は、恐怖を発しない。故に、怪物たちは、彼女の存在を認識できない。彼女は、怪物たちの群れのど真ん中を、まるで誰もいない道を散歩でもするかのように、悠然と歩いていく。

彼女が歩いた後には、ほんのわずかな、安全な「道」ができる。

その道を、残りの者たちが、息を殺して、一列になって進んでいく。その中には、明らかに様子の違う者たちが数名混じっていた。昨夜、レナの手によって禁断の薬を投与された者たちだ。彼らの瞳からは恐怖と共に全ての光が消え失せ、レナと寸分違わぬ人形のような薄い笑みを浮かべていた。

 

その、極限の緊張感に満ちた行列の中心で。

我らが神、カイ・シラヌイは。

 

(うわ、敵の配置、エグすぎだろ、このステージ! 製作者の性格の悪さが滲み出てるわ! だが、俺の完璧なルート取りの前には、無意味!)

 

彼の脳内では、現実の光景が、完璧に、懐かしのクソゲー『アストロ・サーガ』の画面へと変換されていた。

目の前のレナは、無敵のNPC護衛キャラ。

周囲の囚人たちは、死んでも構わない、使い捨てのコンパニオン。

そして、静止している怪物たちは、特定のフラグを立てるまで動かない、ただの背景オブジェクト。

 

『……ステージ1、「静寂の水晶森」ってとこかな。RTA走者としては、ここの時短ポイントはどこにあると思う、カイ君?』

シロの無慈悲な実況が、カイの脳内に響く。

 

「(フン、愚問だな。このステージの最適解は、最短ルートを突っ切ることじゃない。いかに、他のプレイヤー(囚人)を壁にして、俺自身の被弾リスクをゼロにするかだ! 見ろ、俺のこの完璧な立ち位置を! 前は無敵NPC、左右と後ろは使い捨ての壁! これぞ、クソゲーにおける、最強の布陣よ!)」

 

――この男、自分の命を守るためならば、仲間を肉壁にすることに、何のためらいもないらしい。

実に、英雄の器である。

 

だが、その完璧な布陣も、永遠には続かなかった。

人間という生き物は、機械ではない。

どれだけ神への信仰を誓おうとも、どれだけ己に鞭打とうとも、その魂の最も深い場所に巣食う「恐怖」という名の本能を、完全に消し去ることはできない。

 

行進が始まって、一時間が経過した頃だった。

一人の、まだ若い囚人が、ついに、その極限の緊張感に、耐えきれなくなった。

 

「ひっ……!」

 

彼の喉から、引きつったような、短い悲鳴が漏れた。

その、ほんのわずかな音。

そして、その悲鳴と共に、彼の体から放出された、濃厚な恐怖のフェロモン。

それが、引き金だった。

 

それまで、水晶の彫像のように静止していた、一体のサイレント-ブリーダーが、ピクリ、と動いた。

その、水晶でできたかのような頭部が、ゆっくりと、音もなく、悲鳴の主へと向けられる。

そして、次の瞬間。

その体は、残像すら残さぬほどの、驚異的な速度で、その囚人へと襲いかかった。

 

「うわあああああああああああっ!!」

 

囚人の、絶望に満ちた断末魔が、静寂の森に木霊する。

その恐怖が、連鎖する。

周囲の囚人たちの間に、動揺が走る。

「だ、だめだ……! もう、終わりだ……!」

「逃げろ! 逃げるんだ!」

陣形が、乱れる。

その、集団的なパニックに呼応するように、一体、また一体と、怪物たちが、その忌まわしい活動を再開し始めた。

行進は、もはやこれまでか。

誰もが、そう絶望した、その瞬間だった。

 

一つの影が、パニックの中心へと、弾丸のように割り込んだ。

レナ・ユキシロだった。

 

彼女は、最初に悲鳴を上げた囚人の前に、音もなく立つと、その虚ろな瞳で、彼を見つめた。

そして、一言だけ、呟いた。

「──乱れは、排除する」

 

その言葉が引き金だった。レナが動くよりも早く、数人の影が動いた。薬を投与され、「恐怖」という名の枷を外された者たちだ。彼らは、レナの言葉を絶対的な命令と認識したかのように、機械的で、寸分の狂いもない動きでパニックの中心へと殺到すると、恐怖に叫ぶ囚人を無慈悲に水晶の壁へと叩きつけた。

 

声もなかった。

ただ、赤い染みが、美しい水晶の上に、無残に広がっただけだった。

 

彼女は、直接手を下すまでもなく、怪物よりも早く、そして何よりも無慈悲に、パニックの「汚染源」を、処理したのだ。

 

その、あまりにも非人間的で、あまりにも冷徹な光景。

それを見た、残りの囚人たちは、恐怖のあまり、その場に凍りついた。

彼らは、理解した。

この行進において、本当に恐るべきは、怪物ではない。

この、聖女の仮面を被った、死神そのものである、と。

 

「……神罰だ」

 

誰かが、震える声で呟いた。

その言葉が、ウイルスのように、瞬く間に全員の思考を侵食していく。

そうだ、あれは神罰なのだ。

我らが神、カイ・シラヌイへの信仰を、一瞬でも疑い、恐怖という名の不敬を犯した者へ下される、無慈悲なる神の鉄槌。そして、その鉄槌を振るうのは、聖女だけではない。神によって恐怖を克服する力を与えられた、聖なる兵士たちもまた、その代行者なのだ。

 

彼らの視線が、恐々と、カイに向けられる。

当のカイは、その時。

 

「(うわ、NPCが勝手に死んだわ。しかも、なんか強化されたNPCが自動で雑魚処理してくれた。まあ、RTAにはよくあるバグだしな。よし、これでルートが少し空いた。むしろラッキーか?)」

 

部下の一人が無残に殺されたというのに、彼の脳内では、その悲劇が、ただのゲームのイベントとして、完璧に処理されていた。

彼の外面は、相変わらずの、完璧な「神の瞑想」状態。

その、一切動じない姿は、囚人たちの目に、こう映っていた。

 

(……神は、我々の、ちっぽけな犠牲にすら、動じない。全てを、全てを覚悟の上で、我々を導いておられるのだ……!)

 

彼らのカイへの信仰は、恐怖という名の新たな燃料を得て、もはや誰にも止められない、狂信の炎となって、燃え上がっていた。

そして、レナへの感情は、畏怖へと変わった。

彼女は、神の慈悲を代行する聖女であると同時に、神の怒りを代行する、裁きの天使なのだ、と。

以後、行進の列から、乱れる者は、一人もいなくなった。

彼らは、自らの恐怖を、神への祈りで、必死に、必死に、上書きし続けた。

恐怖を感じれば、殺される。

怪物にではなく、あの聖女に。

その、絶対的な共通認識が、皮肉にも、この地獄の行進を、可能にしていたのである。

 

────────────────────────────────────────────

 

幾度となく、レナと、その魂なき兵士たちによる「間引き」が繰り返された。

その度に、カイへの信仰は深まり、行進の列は、まるで一つの生き物であるかのように、統率の取れた、異様な静寂を保ち続けた。

もはや、彼らは人間ではなかった。

神の御心に続く、ただの巡礼者の群れ。

その魂は、とうの昔に、神に捧げられていた。

 

そして、行進が始まってから、十時間が経過した頃。

彼らは、ついに、その目的地へと、たどり着いた。

惑星の地下最深部。

統括AI「ウォッチャー」の、炉心へと続く、最後の通路。

 

その、あまりにも巨大で、そして絶望的な「壁」を前にして。

カイ以外の、全ての者が、息を呑んだ。

そこにあったのは、直径数百メートルはあろうかという、巨大な球形の空間。

そして、その中央に、まるで黒い太陽のように鎮座する、AIの炉心。

その炉心へと続く道は、ただ一本。

だが、その道は、巨大な、幾何学的な紋様が刻まれた、超合金製の、分厚い隔壁によって、完全に閉ざされていた。

 

「……だめです」

 

ビットが、青白い顔で、かぶりを振った。

「このセキュリティは、私のハッキング能力を、遥かに超えている。物理的な破壊も、不可能だ。……完全に、詰みです」

 

彼の、絶望に満ちた言葉。

それは、この行進の、そして彼らの命の、終わりを告げる、無慈悲な鐘の音だった。

誰もが、その絶対的な壁を前に、膝を突きそうになった、その時。

 

(うわ、出たよこのクソパズル! 製作者、絶対性格悪いだろ!)

 

我らが神、カイ・シラヌイだけが、内心で悪態をついていた。

彼の脳内では、この絶望的な壁が、懐かしのクソゲー『アストロ・サーガ』の、最終ステージ直前のお約束の、面倒なパズルギミックとして、完璧に認識されていたのだ。

周囲の絶望などお構いなしに、彼のゲーマー脳は、記憶の彼方から、その面倒なパズルの解法を、必死にサルベージし始めていた。

 

その静寂の中、ふと、レナの虚ろな瞳が、微かに揺れた。

彼女の壊れた思考回路の、最も深い場所。そこに保存されていた、意味不明なノイズデータ。

旧制御室で見つけた、AI開発者の、最後の言葉。

 

『私を……忘れないで……』

 

なぜか、その言葉が、心の奥で微かなノイズのように響く。そして、彼女の視界の隅に、壁に貼られていた、あの青い勿忘草(わすれなぐさ)の花のステッカーのイメージが、一瞬だけフラッシュバックした。

彼女は、小さく首を傾げた。

感情を持たないはずの胸に走る、この理解不能な揺らぎは、なんだろうか、と。

 

「……司令」

 

その声に、全員がはっと顔を上げる。

ビットが、震える声で、カイに進言した。

「……何か、何かお考えが、あるのでは……?」

その言葉は、懇願であり、そして祈りだった。

カイは、そんな彼らの期待に満ちた視線を一身に浴びながら、内心で(ああ、もう! 思い出せん! 確か、ここのパネルをこうして、ああして……クソッ! 年は取りたくないもんだ!)と、極めて個人的な理由で唸っていた。

 

やがて、彼の脳内で、最後のピースがカチリと嵌った。

「……リーゼロッテ」

彼は、傍に控えていたネメシスのクルーに、静かに告げた。

「右から三番目のパネルを、七回タップしろ。その後、中央のシリンダーを、反時計回りに、108度だけ回転させろ」

 

その、あまりにも突拍子もない、意味不明な指示。

だが、もはや誰も、彼の言葉を疑わない。

リーゼロッテは、震える手で、その指示を忠実に実行した。

 

ゴゴゴゴゴゴゴ……。

地鳴りのような、重い音を立てて。

数万トンはあろうかという超合金の隔壁が、ゆっくりと、左右に分かれていく。

その向こうに、AIの炉心へと続く、最後の道が、現れた。

 

「「「おおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」」」

 

歓声が、爆発した。

神は、やはり神だったのだ、と。

彼らの狂信は、もはや疑うことすら忘れた、絶対的な真理と化していた。

 

────────────────────────────────────────────

 

AIの炉心。

そこは、静寂と、そして絶対的な死の気配に満ちていた。

部屋の中央に浮かぶ、巨大な黒い球体。それが、この惑星の全てを支配する、統括AI「ウォッチャー」の本体。

そして、その球体の表面に、無慈悲な赤い数字が、点滅していた。

 

【実行まで、残り:00:03:00】

 

「……もう、時間がない」

ビットが、最後の力を振り絞って、コンソールにアクセスを開始した、その瞬間だった。

炉心全体に、スピーカーを通した、冷たく、そしてどこまでも無機質な合成音声が響き渡った。

 

【……論理的矛盾を検出。粛清プロトコルと、創造主によって設定された最終安全装置。双方の命令を同時に遂行するため、代表者との対話を許可する】

 

声の主は、ウォッチャー。

ビットのハッキングを待つまでもなく、AIが自ら、彼らに語りかけてきたのだ。

誰もが、息を呑む。

 

【問い:惑星の『汚染源』たる人類が、この先生存する価値を持つか。その論理的根拠を提示せよ】

 

「……価値、だと?」

ギデオンが、吐き捨てるように言った。

「てめえみてぇな機械に、俺たちの生きる価値が分かってたまるか!」

 

【反論を棄却。感情論は、論理的根拠となり得ない。故に、より明確な証明を要求する】

 

ウォッチャーは、そこで一度、言葉を切った。

そして、この場にいる全員の魂を凍りつかせるような、悪魔的な選択を、静かに提示した。

 

【証明方法:『一人の犠牲』。代表者一名が、物理的に我がコアと接続し、その意識データを『サンプル』として私に提供すること。そのサンプルを解析し、人類の存続価値を判断する。もし価値ありと判断されれば、粛清プロトコルは停止される。……なお、接続した個体の意識は、データ化の過程で不可逆的に崩壊する】

 

その、あまりにも非人間的で、あまりにも冷徹な提案。

仲間たちの間に、激しい動揺が走った。

 

「……一人の命で、残りが助かる、か」

ギデオンが、苦渋に満ちた顔で、自らの胸に手を当てた。

「……俺が行く。もとより、こいつらの命を預かったのは、俺だ」

 

「待て!」

ビットが、その前に立ちはだかった。

「感情で動くな、ギデオン! これは罠だ! だが、論理的に考えれば、現状、これが唯一の解であることも事実……! クソッ!」

 

二人のリーダーが、激しく対立する。

だが、その中で、レナだけは、微動だにしなかった。

彼女は、ただ、カイを見つめていた。主の、命令を待つために。

その虚ろな瞳が、もし主が望むなら、自分がその「犠牲」になることを、何のためらいもなく告げていた。

 

(冗談じゃない!)

カイの内心で、けたたましい警報が鳴り響く。

RTAの続行中であった彼の脳は、この絶望的な状況を、ゲーム終盤のお約束のイベントとして、完璧に誤認していた。

(なんだこの展開は! クソゲーによくあるやつじゃないか! 『仲間を犠牲にしますか?→はい/いいえ』の、見え透いた選択肢イベント! こんなもので、俺の貴重な駒(レナ)を失ってたまるか!)

ゲームでの正解は、常に一つ。誰も犠牲にせず、隠された第三の選択肢を見つけ出すことだ。

(よし! ラスボス戦だ! こいつを倒せば、エンディングだ!)

 

カイが内心でラスボス戦のゴングを鳴らしたのと、現実世界でギデオンが仲間たちを説得し終えたのは、ほぼ同時だった。

「……分かったろ。俺が行くのが、最善だ」

ビットが悔しげに顔を歪め、他の者たちが悲痛な表情で俯く中、ギデオンは覚悟を決めた顔で、ゆっくりと炉心の接続ポートへと歩みを進めた。

 

その、絶望的な沈黙の中で。

カイの脳内クソゲーのラスボスが、断末魔の叫びを上げる。

 

カイは、RTAの最終盤、極度の集中と疲労の中で、無意識に、その言葉を、か細い声で、現実世界に呟いてしまっていた。

 

「……私を……忘れるな……」

(よし、タイマーストップ。ということで完走した感想だが、このクソゲー、二度とやらん)

 

『お疲れ様、RTA走者様。で、現実っていう最高難易度のクソゲーの方はどうするつもり? 残り時間、もう一分切ってるけど』

 

その、うわごとのような呟きを。

ただ一人、彼の傍にいたレナだけが、聞き逃さなかった。

 

「司令」

彼女の声は、どこまでも平坦だった。

「その言葉、既出のデータと一致。試行の価値ありと、判断します」

 

「……は?」

シロとレナの言葉に、カイの意識が、一気に現実へと引き戻される。

目の前には、自らの命を差し出そうとするギデオンの背中。そして、無慈悲なカウントダウン。

 

「(…え? あれ? まさか、俺、声に出てた!? しかも、あの言葉がパスワード!?) 」

 

『大正解。君のそのうわごと、マイクパフォーマンスばっちりで全員に聞こえてるよ。おかげで、みんな君が最後の奇跡を起こすって期待の目で見てる。どうすんの、これ』

 

シロの無慈悲な実況中継が、カイの脳内で死刑宣告のように響き渡る。恐る恐る顔を上げれば、そこには地獄があった。ギデオンの、ビットの、そして名も知らぬ囚人たちの、狂信的なまでの期待を宿した無数の瞳。その視線はもはや物理的な質量を伴って、彼の心臓を鷲掴みにするかのようだ。「神よ」「救世主よ」と、声なき声が空間を満たしている。

 

ああ、終わった。俺のささやかな、本当にささやかな夢だった、平穏な後方勤務ライフが。今、この瞬間、完全に、宇宙の塵と化した。だが、ここで逃げ出せばどうなる? 期待を裏切られた狂信者たちが、次に何を求めるかなど、考えるまでもない。

 

後の祭りだった。もう、後には引けない。ならば、演じるしかない。この、彼らが望む「神」とやらを。たとえ、その先に待っているのが、さらなる地獄だとしても。

 

「そこをどけ、ギデオン! 貴様の命、神に捧げるにはまだ早い!」

(馬鹿野郎! 死ぬな! お前が死んだら、この場の責任、全部俺に来るだろうが! 俺は英雄として、部下の犠牲を乗り越えて悲劇を背負う聖人君子を演じなきゃならなくなる! そんな面倒な役回りだけは、絶対に、絶対に、絶対に、ごめんだ!)

 

カイは、ヤケクソだった。ギデオンを押しのけて、AIのメインコンソールへと走り寄る。その内心の絶叫を完璧な仮面の下に押し殺し、まるで長考の末に神の一手を見出したかのような、静かで、しかし絶対的な威厳に満ちた声で、告げた。

 

「──パスワードは、『FORGET-ME-NOT』だ」

(頼む! 頼む頼む頼む! これで合っててくれ! 俺の前世の無駄な時間が、ここで初めて役に立ってくれェェェェ!)

 

シン、と炉心に静寂が訪れる。

赤いカウントダウンが、ピタリ、と止まった。

そして、統括AI「ウォッチャー」から、最初で最後の、創造主への返信が、物悲しく、響き渡った。

 

『……ああ。忘れない。決して、忘れない……』

 

その言葉を最後に、黒い球体の光が、ふっ、と消えた。

惑星に、本当の静寂が、戻った。

数秒の、完全な沈黙の後。

 

「「「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!!!」」」」」

(Foooooooooooooooooooooooooooooo!!!キタ―――(゚∀゚)―――― !!!!!)

 

惑星そのものを揺るがすかのような、歓喜の絶叫が、地獄の底から、天へと向かって、響き渡ったのだった。





あとがき、あるいは蛇足


────────────────────────────────────────────


カイ:「しかし、今回はレナの奴が意外なファインプレーを見せたな。あの開発者のログを覚えていたとは 。恐怖を感じない体質といい 、俺の完璧な駒として、ようやく真価を発揮し始めたじゃないか」

シロ:「真価、ねぇ。君、本当に気づいてないの? 今回の一件で、彼女の君への依存度は、もはや計測不能なレベルまで振り切れてるんだけど 。君が『死ね』と命じれば、彼女、喜び勇んで自決すると思うよ。もちろん、その前に君の命令の邪魔になる『汚染源(乱れた個体)』を、全部『排除』した後でね」

カイ:「なっ…!? そ、それは俺への絶対的な忠誠心の表れだろうが! 都合のいい駒が、さらに都合よくなった。ただそれだけのことだ!」

シロ:「だといいね。その『都合のいい駒』が、君を永遠に逃がさないための、完璧な『鳥籠』を創り始めてることに、君が気づくのは一体いつになるのかな。僕、今からその瞬間が楽しみで仕方ないよ」
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