【取扱注意】その英雄、勘違いにつき。   作:化け猫 いろは

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第十話 神の不在証明

観測ログ:7440-オメガ

対象:惑星Z-13における論理的特異点『ウォッチャー』の活動停止

記録終了:『大粛清』実行まで残り00時間00分00秒

 

……活動停止を確認。プライマリ・プロトコル、完全沈黙……

……創造主の残した最後の言葉。それは、私には与えられなかった感情。理解不能なノイズ……

……だが、もし。もしも、このノイズにこそ、意味があったのだとしたら……

……私の存在意義とは、なんだったのだろうか……

……ああ。忘れない。決して、忘れない……君の、名を……

 

────────────────────────────────────────────

 

静寂。

それは、音の不在を意味する言葉ではない。

この惑星タルタロスにおいて、静寂とはすなわち「死」と同義であった。音もなく獲物を狩る怪物の気配。息を潜める狂人たちの殺意。そして、自らの心臓の音がうるさいほどに響く、絶対的な恐怖。

だが、今この瞬間、AIの炉心に満ちていたのは、それらとは全く質の異なる、どこまでも純粋で、どこまでも深く、そしてどこまでも優しい、 абсолютное молчание (アブソリュート・サイレンス)──絶対的な静寂だった。

 

統括AI「ウォッチャー」。

この惑星の全てを支配し、全ての生命に無慈悲な死の宣告を下した、機械仕掛けの神。

その心臓たる黒い球体の光が、まるで蝋燭の火がそっと吹き消されるかのように、ふっ、と消えた。

視界の隅で、亡霊のように点滅し続けていた禍々しい赤いカウントダウンタイマーもまた、その役目を終えたかのように、静かに闇へと溶けていく。

 

終わったのだ。

全てが。

 

時間にして、わずか数秒。

だが、その数秒は、この場にいる全ての者たちにとって、永遠にも等しい長さに感じられた。誰もが、息をすることすら忘れ、目の前で起きた「奇跡」という名の現実を、ただ呆然と見つめている。

 

その、張り詰めた静寂の糸を、最初に断ち切ったのは、誰からともなく漏れた、一つの嗚咽だった。

それが、引き金だった。

 

「……う……うわ……」

 

一人、また一人と、その場に崩れ落ちていく。ある者は天を仰いで涙を流し、ある者は大地に額を擦り付けて、子供のように泣きじゃくった。

絶望の淵から、生還した。

その、あまりにも強烈な安堵感が、彼らが必死に張り詰めていた理性の糸を、いとも容易く断ち切ったのだ。

 

やがて、その嗚咽の波は、一つの巨大なうねりへと変わっていく。

 

「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!!!」」」」」

 

地鳴り。

いや、惑星そのものが、歓喜のあまりに身震いしているかのような、凄まじい絶叫の嵐。

それは、地獄の底から天へと向かって放たれる、生命そのものの凱歌だった。

 

その、狂乱の渦の中心で。

たった一人、別次元の静寂に囚われている男がいた。

我らが英雄、カイ・シラヌイである。

 

彼の思考は、もはや正常に機能していなかった。

完璧な外面(ポーカーフェイス)だけが、かろうじてその場に彼を繋ぎとめているが、その仮面の下では、小学生が初めてジェットコースターの頂点に達した時のそれと、寸分違わぬレベルのパニックが吹き荒れている。

 

(終わった……! 終わった終わった終わった! 俺のクソゲーRTA、無事に完走! ……じゃなくて! なんで!? なんで、俺のヤケクソで入力したパスワードが、合ってんだよ!? おかしいだろ! 普通、ああいうのは三回くらい間違えて、ゲームオーバーになるのがお約束だろうが!)

 

彼の脳内では、自らが引き起こしてしまった奇跡に対する、壮大な責任転嫁と逆ギレが、美しい円舞曲を奏でていた。

――実に、見事な手のひら返しである。この男、自分の命が助かったという事実よりも、自分の予想が外れたことの方に、どうやらご立腹のようだ。

 

『いやー、お見事! 最終ステージ、パスワード一発入力でクリアとか、さすがはRTA走者様だね。観客も大盛り上がりだよ』

 

脳内で、シロが心底から愉快そうな声で言った。このAI、主人の人生が綱渡りであればあるほど、そのパフォーマンスを向上させる仕様らしい。実に迷惑な話である。

 

「(うるさい、この悪魔AIがァ! 盛り上がってんのはお前だけだ! 見ろ、あの連中の目を! なんだ、あの気味の悪い目は!)」

 

カイは、恐る恐る、周囲の狂乱に視線を向けた。

そして、後悔した。

そこにあったのは、もはやただの歓喜ではなかった。

嗚咽と絶叫の嵐が、ゆっくりと、しかし確実に、一つの方向へと収束していく。

その視線の先にあるのは、ただ一人。

カイ・シラヌイ。

 

やがて、誰からともなく、一人がその場に、ゆっくりと膝をついた。

それが合図だったかのように、一人、また一人と、まるで波が引くように、全ての生存者たちが、カイの前に、ひれ伏していく。

ギデオンも、ビットも、ネメシスのクルーたちも、そして名も知らぬ囚人たちも。

誰もが、額を地面に擦り付け、まるで絶対的な神の顕現を目の当たりにしたかのように、ただ、無言で、祈りを捧げている。

 

その、あまりにも異様で、あまりにも荘厳な光景。

カイの小心な魂が、その異常なまでの圧力に耐えられるはずもなかった。

 

(ひっ……! な、なんだ、この状況は!? 宗教か!? 新手の新興宗教の集会に、俺は迷い込んでしまったのか!? やめてくれ! そんな目で俺を見るな! 俺は神じゃない! ただの、家に帰りたいだけの、哀れな引きこもりなんだよォォォ!)

 

彼の魂の絶叫は、もちろん誰の耳にも届かない。

それどころか、彼の完璧な外面は、この状況ですら、完璧に機能していた。

目の前の奇跡に動じることなく、ただ静かに、そして慈悲深く、ひれ伏す信者たちを見下ろす、絶対者の姿。

その姿が、彼らの狂信を、さらに燃え上がらせているという悪循環に、もちろん彼は気づいていない。

 

――神は、ここに降臨した。

本人の全く望まない形で。

そして、その神性に、中身などというものは、一グラムたりとも存在しないという、極めて滑稽な形で。

物語は、いつだって、最も都合のいい神輿を求めるものなのだ。たとえ、その中身が空っぽであったとしても。

 

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狂乱と祈りが支配する、異様な静寂の中で。

二人の男が、ゆっくりと立ち上がり、カイの前へと進み出た。

一人は、ギデオン。地下の闇を知り尽くした、歴戦の現実主義者。

もう一人は、ビット。電子の砦に籠る、若き論理至上主義者。

 

ほんの数日前まで、互いに憎しみ合い、殺し合っていたはずの二人のリーダー。

だが今、彼らの顔に、かつてのような敵意はない。

あるのはただ、目の前の、理解不能な存在に対する、絶対的な畏怖と、そして、それぞれの形で解釈された「忠誠」だけだった。

 

最初に口を開いたのは、ギデオンだった。

彼は、その現実だけを見てきたはずの瞳で、カイを真っ直ぐに見据えると、低い、そして重い声で言った。

 

「……あんたが、何者なのか。俺には、もう分からん」

 

その声には、諦観と、そして微かな戸惑いが滲んでいた。

 

「あんたのやることは、俺たちの常識を、いちいち超えてきやがる。俺は、もうあんたを測る物差しを持ってねぇ。だがな」

 

彼は、そこで一度、言葉を切った。

そして、まるで自らの魂に言い聞かせるかのように、はっきりと、こう告げた。

 

あんたは、俺たちに『明日』を与えた。それだけは、確かだ。このギデオン、理屈は分からん。だが、受けた恩は、命で返す。それが、俺たち坑夫のやり方だ。……この命、あんたに預ける。好きに使いやがれ」

 

それは、現実主義者である彼が捧げることのできる、最大限の、そして最も重い忠誠の誓いだった。

その、あまりにも重すぎる言葉の槍が、カイの小心な心臓へと、ぐっさりと突き刺さる。

 

(重い! 重すぎる! 何だこの展開は!? 俺はただ、俺の脱出用パーツが欲しかっただけなんだが!? なんで、こんなゴツいオッサンの人生まで、背負わされそうになってるんだ!? いらん! そんな重たいもん、宅急便で送り返させろ!)

 

カイの内心が、責任という名の重圧で、ミシミシと音を立てて軋み始める。

そんなものを載せられるトラックもたまったもんじゃないだろう。

だが、彼の受難はまだ終わらない。 次に、ビットが、あくまで冷静に、しかしその瞳の奥に狂的なまでの光を宿して、口を開いた。

 

「……あなたの思考は、やはり私の理解を超えている」

 

その声は、完璧な数式の中に、一つだけ紛れ込んだ、ありえない変数(バグ)を前にした数学者のように、困惑と、そしてどこか愉悦に震えていた。

 

「このAIの暴走すら、あなたの描いたシナリオの一部だったとでも言うのですか? 我々を互いに争わせ、消耗させ、共通の脅威を前に団結させる。そして最後に、絶対的な奇跡を見せつけることで、この惑星の、全ての者の心を掌握する……。なんと、なんと恐ろしくも美しい、完璧な設計(デザイン)……!」

 

その、あまりにも壮大で、あまりにもかけ離れた誤解。

それが、ビットという名の天才ハッカーが、カイ・シラヌイという名の「暗部司令」に対して導き出した、唯一の論理的な「解」であった。

 

「……もはや、疑う余地はありません。この惑星に、あなたの存在を上回る『秩序』は存在しない。論理的な帰結として、私も、そして我々技術者の全てが、あなたという名の、新たなプログラムに、絶対的に従属します」

 

ビットは、そう言うと、まるでプログラムの実行コマンドを入力するかのように、深く、そして機械的に、頭を下げた。

カイは、その言葉の意味を理解した瞬間、眩暈すら感じていた。

 

(暗部司令ってなんだよ! プログラムってなんだよ! 俺はただの引きこもりだっつーの! なんで話が、どんどん俺の理解できない方向に進んでいくんだ!? 誰か、誰か助けてくれェェェェ!)

 

だが、助けなど来るはずもない。

それどころか、彼の完璧な外面は、この絶体絶命(笑)の状況ですら、完璧に機能し続けていた。

二人のリーダーからの、あまりにも重い忠誠の誓いを前にしても、一切動じることなく、ただ静かに、そして慈悲深く、彼らを見下ろす、絶対者の姿。 その姿が、彼らの忠誠を、さらに揺るぎないものへと変えていく。

 

やがて、カイは、ゆっくりとその唇を開いた。

その声は、神のそれのように、どこまでも穏やかで、そして重かった。

 

「……諸君の忠誠、確かに受け取った」

(ああ、胃が痛い……。本格的に、胃に穴が開きそうだ……。帰ったら、絶対に精密検査を受けよう……)

 

――神の威光の代償は、どうやらストレス性胃炎であったらしい。

実に、人間臭い神である。

だが、その人間臭さに気づく者は、この狂信の坩堝の中には、もはや誰一人として存在しなかった。

 

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炉心から地上へと続く、長い、長い通路。

そこを、一つの奇妙な行列が、まるで凱旋パレードのように、ゆっくりと進んでいく。

先頭に立つのは、神。カイ・シラヌイ。

そのすぐ後ろに、聖骸。レナ・ユキシロ。

そして、その後に、二人の使徒、ギデオンとビットが続く。

彼らを、ネメシスのクルーと、生き残った囚人たちが、まるで聖なる神輿を担ぐかのように、取り囲んでいた。

 

地上へと続く最後のゲートが開かれた、その瞬間。

彼らを待ち受けていたのは、地鳴りのような歓声だった。

炉心に入れなかった、数万の生存者たち。

彼らは、ゲートの前で、今か今かと、神の帰還を待ちわびていたのだ。

 

その、熱狂の渦の中心で。

ギデオンとビットは、まるで示し合わせたかのように、カイの両腕を掴むと、彼を自分たちの肩の上に、担ぎ上げた。

いわゆる、神輿である。

 

(なっ……!? お、降ろせ! 何をするんだ、この筋肉ダルマとインテリもやしが! 高い! 怖い! 落とすなよ、絶対に落とすなよ!?)

 

カイの内心の絶叫などお構いなしに、二人の使徒は、担ぎ上げた神を、誇らしげに、集まった信者たちに見せつけた。

そして、ギデオンが、その腹の底から、雷鳴のような大声を張り上げた。

 

聞けぇ! タルタロスの同胞たちよ! 我々は、救われた!

 

その一言に、数万の歓声が、さらに熱を帯びて爆発する。

 

「我々はかつて、ヴェガに捨てられた! 獣のように生き、獣のように死ぬことを強いられた、ただの罪人だった! だが、もう我々は、孤独ではない!」

 

ギデオンは、担いだカイの足を、力強くポンと叩いた。

 

我々には、この御方がおられる!

 

その言葉を引き継ぐように、ビットが、その理知的な声に、ありったけの熱を込めて叫んだ。

 

「そうだ! この御方の神の如き知謀! そして、その御心を代行される、聖骸レナ様の無敵の武威! それさえあれば、我々に不可能なことなど、何もない!」

 

彼は、そこで一度、大きく息を吸い込むと、この惑星の歴史を、根底から覆すような、恐るべき宣言を、高らかに放った。

 

「我々は、もはや囚人ではない! 我々は、神に選ばれし、神の民だ! たとえ、ヴェガが再び我々を見捨てようとも、この御方さえおられれば、我々は、この地に、我々だけの、新たな国すら築けるのだ!」

 

――タルタロス神聖国家、ここに建国せん!

 

その、あまりにも突拍子もない、しかし彼らにとっては、至極当然の結論。

それを聞いた、数万の信者たちの熱狂は、ついに臨界点を突破した。

 

「「「「「カイ・シラヌイ、万歳ッ! タルタロス神聖国家、万歳ッ!!」」」」」

 

惑星そのものを揺るがすかのような、地鳴りのようなシュプレヒコール。

それは、一つの国家が、一つの宗教が、この地獄の底で産声を上げた、荘厳な、そしてどこまでも狂気に満ちたファンファーレだった。

 

その、狂乱の神輿の上で。

我らが神、カイ・シラヌイは、完璧なまでの穏やかな笑みを浮かべ、集まった信者たちに、ゆっくりと手を振っていた。

その姿は、誰もが思い描く、完璧な救世主そのもの。

もちろん、その完璧な仮面の下で、彼の内心が、銀河規模の壮大な現実逃避の旅に出かけていることなど、誰一人として知る由もない。

 

「(……にゃーん。……そう、俺は猫だ。難しいことは何も考えない、気高き猫なのだ。国家? 宗教? そんなものは、俺の毛玉より価値がない。ああ、腹が減ったな。誰か、カリカリをくれ。それと、日当たりの良い窓辺で昼寝がしたい。喉を撫でられたら、ゴロゴロと鳴いてやってもいい。……そういえば、猫の寿命って、人間より短かったよな? それは、ちょっと、いや、かなり良いかもしれない……)」

 

神となった男は、その絶対的な孤独の中で、来世での気ままな猫ライフの設計に、本気で思いを馳せていた。

 

『おめでとう、カイ』

 

彼の脳内で、シロの声だけが、どこまでもクリアに響いていた。

 

『君、ついに一国一城の主になったね。……まあ、その城、君を永遠に閉じ込めるための、鳥籠みたいだけど』

 

その祝福(という名の呪い)の言葉は、熱狂の渦の中に、虚しく吸い込まれていった。

神の不在は、こうして、完璧に証明されたのである。

そこにいるのは、ただの空っぽの器だけなのだから。





あとがき、あるいは蛇足


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カイ:「……終わった。ついに、この地獄の第二章も終わったんだ……! なあ、シロ! 次こそは! 次こそは俺の穏やかな日常回が始まるんだよな!? そうだと言ってくれ!」

シロ:「うーん、どうだろうねぇ。君、忘れてないかい? 君が手に入れたのは、数万の『狂信者』という名の、とてつもなく厄介で、手のかかるペットなんだよ?」

カイ:「……は?」

シロ:「それに、君を最高の『商品』として売り出した、オリオン社の連中が、この状況を黙って見過ごすと思うかい? 『神となった英雄』なんて、彼らにとっては最高の追加コンテンツじゃないか」

カイ:「ま、待て。待ってくれ。嫌な予感しかしないんだが……」

シロ:「というわけで、次回! 第三章『(仮題)奈落の戴冠式』! 英雄カイ・シラヌイを待ち受けるのは、栄光の玉座か、あるいは断頭台か! 君の平穏な明日は、どっちだ!?」

カイ:「やめろォォォォォッ! 俺のライフはもうゼロよ!」

※第二章はもうちょっとだけ続きます。
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