第一話 英雄という名の死刑宣告
人間が己の人生において最も雄弁になる瞬間が二つある。一つは、己の武勇伝を語る時。もう一つは、己の不幸を嘆く時だ。
そして、カイ・シラヌイという男は今、その両方を同時に、脳内という名の広大な独演会場で、たった一人の観客(あるいは迷惑千万な野次馬)に向けて絶賛上演中であった。
(終わった……。終わった……。俺の、俺だけのために用意されたはずの、輝かしくも穏やかな未来が、今、完全に、終わった……!)
士官学校、校長室。その重厚なマホガニーの扉が、まるで断頭台への入り口のようにカイの眼前にそびえ立っている。卒業演習で前代未聞のパーフェクトゲームを達成してしまった彼を、マイヤー校長が直々に呼び出したのだ。その理由は、聞くまでもない。栄転という名の、地獄への片道切符を渡すためだ。
『まあまあ、そんなに落ち込まないでよ。これから英雄として、歴史にその名を刻むんだからさ。よかったじゃない、前世では叶わなかった夢が、こんな形で実現するなんて』
脳内に響く相棒、人生サポートAI『シロ』の声は、どこまでも楽しそうだ。この銀髪の悪魔は、主人の不幸を最高のエンターテイメントとして消費することにいささかの躊躇もない。
(黙れこのポンコツAI! 誰が英雄だ! 俺が望んだのは、書類の山にハンコを押すだけの簡単なお仕事! 窓の外に広がる青い惑星を眺めながら、「今日の昼飯はA定食にするか、B定食にするか」と、まるで人類の未来を左右するかのごとく真剣に悩む、そんな平和な毎日だったんだ! それがどうしてこうなった!)
カイの内心の絶叫は、もちろん誰にも届かない。彼の外面は、完璧なまでのポーカーフェイスを維持している。穏やかな笑み、落ち着いた佇まい、そしてこれから与えられるであろう栄光に、わずかな緊張と責任感を滲ませる、完璧なまでの「若き英雄」の姿。その仮面の下で、彼の精神がメルトダウン寸前であることなど、誰が想像できようか。
扉の前に立つと、内側から「入れ」という厳かな声が聞こえた。カイは深く、絶望的な溜息を心の奥底でつくと、完璧な所作で扉を開ける。
校長室は、カイが想像していた以上に、悪趣味なほどに歴史と権威で満ち満ちていた。壁一面に並ぶ、歴代の英雄たちの肖像画。その誰もが、カイと同じように若く、そしてその大半が次の戦場で死んでいる。まるで「お前もすぐに我々の仲間入りだ」と、絵の中から囁きかけてくるようだ。
部屋の中央、巨大な執務机の向こうで、マイヤー校長が鷹のような鋭い目でカイを見据えていた。白髪をオールバックにした、いかにも軍人然とした壮年の男。その目が、今は狂信的とすらいえる熱を帯びて、カイを射抜いている。
「来たか、カイ・シラヌイ君。まずは、改めて言わせてくれたまえ。卒業演習、実に見事だった」
「もったいないお言葉です、校長閣下」
カイは、教科書通り、寸分の狂いもない完璧な敬礼を返す。内心では、目の前の男の首を絞めて「俺の人生を返せ」と叫びたい衝動に駆られていたが。
(この筋肉ジジイめ……! お前のその嬉しそうな顔が、俺の不幸の証明書だ! あんたたちのせいで、俺の完璧な後方勤務計画は宇宙の塵と化したんだぞ!)
「謙遜するな。君の戦いは、もはや戦術の域を超え、芸術の域に達していた。我々は、神の御業を目撃したのだ。君こそは、この腐敗しきったヴェガを救うために天が遣わした、真の救世主だ!」
(うわぁ……出たよ、救世主。一番言われたくない単語だ。頼むから、俺をそんな面倒な神輿に担ぎ上げないでくれ。俺はただ、静かに、目立たず、死んだように生きていたいだけなんだ)
カイは、外面では恐縮したように微笑みながら、内心で必死に最後の抵抗を試みていた。そうだ、まだだ。まだ最後の切り札が残っている。あの完璧な計画の最終段階、フェーズ4「謙虚なる辞退による後方勤務確定プラン」を発動する時が、今来たのだ。――この男の記憶力は、どうやら鳥類といい勝負のようだ。三歩前の大失敗など、とっくに忘れている。
「閣下、そのお言葉は、私にはあまりにも過分です。今回の勝利は、幸運が重なったに過ぎません。私のような未熟者に、英雄などという大役が務まるはずも……」
「その謙虚さだ!」
カイの言葉を、マイヤー校長がさらに熱を込めた声で遮った。
「その、空前絶後の偉業を成し遂げながらも、一切驕ることのない、その精神! それこそが、真の英雄たる所以なのだ! 君のような男を、我々は百年、いや、建国以来ずっと待ち望んでいた!」
(違う! 違うんだ! これは謙虚さじゃない! 本心からの全力の命乞いだ! 俺は戦いたくない! 死にたくない! 頼むからその熱い目で俺を見るな! 俺の言葉を聞け! 日本語通じてるか!?)
言語の問題ではない。普段の行いの問題だ。
カイの最後の希望は、校長の燃え盛る勘違いの炎によって、一瞬で灰と化した。もはや、打つ手はない。詰みだ。チェックメイト。彼の人生という名のチェス盤は、無慈悲な手によってひっくり返された。
マイヤー校長は、満足げに頷くと、机の上に置かれた一つの電子ファイルをカイの眼前にスライドさせた。そこに表示された文字を見て、カイの思考は完全に停止した。
【辞令】
士官候補生 カイ・シラヌイを、少尉に任ずる。
配属先:第十三独立遊撃部隊 司令官
「第十三……独立遊撃部隊……?」
オウム返しに呟くカイの声は、かろうじて震えていなかった。だが、その内心は、絶対零度の宇宙空間に放り出されたかのような、完璧な絶望に凍てついていた。
十三。古来より、あらゆる文化圏で不吉の象徴とされる数字。
独立遊撃部隊。聞こえはいいが、その実態は、正規の艦隊序列から外れた、使い捨ての駒。困難な任務、危険な宙域に真っ先に投入され、そして忘れ去られるための部隊。
『へぇ、第十三部隊だって。ラッキーナンバーじゃん。よかったね、カイ』
(どこがラッキーナンバーだ! これは死刑宣告だ! しかも、ただの死刑宣告じゃない! 銀河で最も過酷で、最も生還率の低い、地獄への片道切符だ!)
「そうだ」と、マイヤー校長は誇らしげに胸を張る。「君に与えられるのは、栄光ある第十三独立遊撃部隊だ。通称、『スケープゴート・フリート』」
(スケープゴート・フリート!? 生贄の艦隊だと!? ふざけるな! もっとマシな通称はなかったのか! 例えば『不死鳥艦隊』とか! 『勝利の剣』とか! なんでよりにもよって『生贄』なんだよ! 俺の人生そのものじゃないか!)
――正解。ようやく自己分析ができたようである。おめでとう。まあ、気づいたところでもう手遅れなのだが。
カイの顔から、完璧な仮面が剥がれ落ちそうになる。血の気が引き、指先が氷のように冷たくなっていく。
「この部隊は、通常の指揮系統から独立した、完全な自由裁量権を持つ。君の天才的な戦術能力を、最大限に発揮できる舞台だ。そして君に与えられる最初の任務は、現在我がヴェガが最も苦戦を強いられている『エリダヌス宙域』の最前線、『ヴァルハラ星域』の確保だ」
ヴァルハラ星域。
その名を聞いた瞬間、カイの脳裏に、士官学校の教科書に載っていたデータが鮮明にフラッシュバックした。
敵勢力シリウス主権連合の拠点へと続く、戦略上の最重要宙域。過去五年間の戦闘における、ヴェガ軍兵士の平均生存時間、二十七時間。艦艇の平均寿命、三回の出撃。
そこは、戦士の魂が集う栄光の館などではない。ただ、無数の鉄屑と死体が漂う、本物の地獄だ。
「君ほどの男ならば、この任務の重要性は理解できるはずだ。これは、君にしかできない。君が、この泥沼の戦況を覆す、我らがヴェガの『銀の弾丸』なのだ」
(銀の弾丸……ね。どうせ、撃ち尽くしたら捨てられる、使い捨ての弾丸だろうが!)
もはや、カイの心には何の感情も浮かばなかった。怒りも、悲しみも、恐怖すらも通り越し、ただ、真っ白な虚無が広がっている。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、不思議なほど穏やかだった。悟りを開いた聖職者のように、あるいは、全てを諦めた死刑囚のように。
「……拝命、いたします」
その声は、自分のものではないかのように、静かに校長室に響いた。
マイヤー校長は、満足げに深く頷いた。彼は、己の責務を理解し、その重圧に臆することなく運命を受け入れた若き英雄の姿に、心からの感動を覚えていた。
カイが、その英雄の仮面の下で、これから始まる地獄のフルコースに思いを馳せ、生まれて初めて本気で神に祈っていたことなど、知る由もなかった。
(ああ、神様。もしいるのなら、どうか、どうか俺に平穏な後方勤務を……。もう贅沢は言いません。せめて、せめて温かいベッドと、三食昼寝付きの生活を……!)
もちろん、そんな都合のいい神が、この腐敗しきった銀河に存在するはずもなかった。
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漆黒の宇宙に、一隻の巡洋艦が静かに浮かんでいた。
自由商業圏ヴェラ、第十三独立遊撃部隊旗艦「ネメシス」。その名は、神の怒り、あるいは義憤を意味する。皮肉なことに、この艦に乗る者たちに神の加護が与えられたことは、一度としてない。
旗艦の自室で、レナ・ユキシロは静かに目を閉じていた。
彼女の部屋には、装飾というものが一切存在しない。金属のベッド、小さな机、そして壁にかけられた一振りの軍刀。それだけだ。まるで、彼女の精神そのものを具現化したかのような、無駄を削ぎ落とした、鋼鉄の空間。
彼女は、瞑想によって精神を研ぎ澄ましていた。復讐という名の、冷たく、そして燃え盛る炎を、その魂の中心でより強く、より鋭くするために。
『レナ。情報が入った』
彼女の脳内にだけ響く、冷静で無機質な声。彼女のサポートAIだ。レナは、そのAIに名前を与えていない。道具に、名前は不要だからだ。
「……聞こう」
目を開けないまま、レナは短く応じた。
彼女の閉じた瞼の裏に、新しい司令官の顔写真と経歴が映し出される。
カイ・シラヌイ。
士官学校を首席で卒業。卒業演習において、観測史上初のパーフェクトゲームを達成。その戦術は神の域に達しているとされ、「不敗の魔術師」の二つ名で呼ばれ始めている――。
レナの唇の端が、侮蔑の形で微かに歪んだ。
「魔術師、か。……随分と安っぽい神になったものだ」
『データ上は、間違いなく天才だ。彼のシミュレーションログを解析したが、その思考速度、判断の精度は、現行のどの戦闘AIをも凌駕している』
「それがどうした。所詮は、安全なシミュレーションの中での話。インクの染みと、本物の血の違いも分からぬ雛鳥が、戦場で何ほどのことができる」
レナの脳裏に、一人の男の顔が浮かぶ。
ヴィクトル・アンダーソン准将。
彼女の元上官であり、師であり、そして父親代わりの男だった。
彼は、貴族の出身でもなく、特別な才能があったわけでもない。ただ、誰よりも兵士を愛し、誰よりも前線に立ち、そして誰よりも勇敢に戦った。レナのような、戦争で全てを失った孤児を拾い、軍人として、一人の人間として育ててくれた、唯一の男。
その彼が、死んだ。
半年前の「アルゴス撤退戦」。無能な上層部が描いた、机上の空論としか言えない無謀な作戦。アンダーソン准将は、それが罠であると看破しながらも、殿軍(しんがり)を自ら引き受けた。一人でも多くの兵士を生きて帰すために。
「レナ、生きろ。生きて、この腐ったヴェガを、内側から変えるんだ。お前には、その力がある」
それが、彼の最後の言葉だった。
彼の艦隊は、敵の集中砲火を浴びて、宇宙の塵となった。上層部は、彼の死を「英雄的な犠牲」と讃え、それ以上の調査を打ち切った。作戦の失敗を、一人の英雄の死で覆い隠したのだ。
レナにとって、カイ・シラヌイという男は、その腐敗の全てを凝縮したような存在だった。
幸運だけで成り上がった、見栄えの良い偶像。メディアが作り上げた、空っぽの英雄。アンダーソン准将のような本物の軍人が命を散らし、その死の上に、こんな道化が祭り上げられる。
この世界は、どこまで狂っているのか。
「……害虫は、駆除しなければならない」
レナは、静かに目を開いた。
その瞳は、凍てついた夜の湖面のように、どこまでも冷たく、そして深い。感情の色はなく、ただ、揺るぎない決意だけが、氷の刃のように突き刺さる光を放っている。
『どうする?』
「簡単なことだ。戦場で、奴の化けの皮を剥がす。幸運だけで勝てるほど、本物の戦争は甘くない。無能は無能らしく、無様に死ぬ。私が、そのための舞台を整えてやる」
『了解した。彼の指揮権を無効化し、実質的に艦隊を掌握するためのプランを、三通り用意する』
「……頼む」
レナは立ち上がると、壁にかけられた軍刀を手に取った。鞘から抜き放たれた刀身が、室内の冷たい照明を反射して、青白い光を放つ。
彼女は、ゆっくりと剣を構えた。
振るわれる剣閃は、音もなく空を切り裂く。それは、憎悪でも、怒りでもない。ただ、目的を遂行するためだけの、洗練された、無慈悲な動き。
カイ・シラヌイ。
ヴェガの新しい光。不敗の魔術師。
その男が、この艦隊に着任したその日を、お前の命日にしてやる。
アンダーソン准将の墓前に捧げる、何よりの手向けとして。
――実に崇高な決意である。ただ一つ、彼女が致命的に見誤っているのは、相手が駆除すべき『害虫』などという高尚な存在ではなく、ただの『勘違いされただけの置物』であるという点だ。鋼の復讐鬼が振り上げた刃の先に、フニャフニャのスライムしかいなかった時の絶望を、彼女はまだ知らない。
レナの瞳の奥で、復讐の炎が、これから始まる壮大な茶番の狼煙(のろし)となって燃えていた。
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士官学校の談話室は、興奮と憶測の坩堝(るつぼ)と化していた。
卒業演習でカイ・シラヌイが叩き出した、神がかり的な戦果。その話題で、誰もが持ちきりだった。
ある者は、彼の戦術を分析しようと試み、すぐに己の凡庸さを思い知って頭を抱えた。
ある者は、彼がこれからどこに配属され、どんな伝説を築くのかと、夢見るような瞳で語り合った。
そして、その熱狂の中心から少し離れた場所で、一人の男がまるで巡礼者のように、静かに、そして熱心に祈りを捧げていた。
クラウス・フォン・リキテンベルク。
カイの(自称)ライバルであり、そして今、彼の最初の、そして最も熱心な信奉者となった男である。
(おお……神よ……! 我らがカイ・シラヌイ閣下に、栄光あれ……!)
卒業演習での、あの光景が、今も彼の脳裏に焼き付いて離れない。
デブリ帯に突入するという、常人には狂気の沙汰としか思えない選択。しかし、それが結果として、敵のセンサーを無力化し、一方的な虐殺を可能にした。
あれは、偶然ではない。断じて。
あれこそが、凡人の理解を超えた、神の領域の戦術。
「なあ、クラウス。お前、シラヌイとは首席を争ってたんだろ? あいつ、いったいどこに配属されると思う?」
同期の一人が、興奮した様子でクラウスに話しかけてきた。
クラウスは、ゆっくりと祈りを終えると、その碧眼(へきがん)に神々しいまでの光を宿して、静かに答えた。
「配属先、だと? 愚かな。君は、まだ何も理解していないらしい」
「は? なんだよ、偉そうに」
「カイ・シラヌイという御方を、我々と同じ物差しで測ってはならない。彼がどこへ行かれるのではない。彼が行かれる場所こそが、この銀河の中心となるのだ」
それはひょっとして「窓際のオフィス」のことだろうか?
クラウスのあまりに真剣な物言いに、同期は若干引いていた。だが、クラウスはそんなことには全く気づいていない。彼は、自らがたどり着いた「真理」を、蒙昧(もうまい)な大衆に説いて聞かせる預言者のように、厳かに語り始めた。
「考えてもみろ。なぜ、彼はあえてデブリ帯に突入されたのか。それは、我々凡人に『勝利の形は一つではない』ということを、身をもって教えるためだ。危険を顧みず、常識を打ち破る勇気こそが、真の勝利を掴む唯一の道なのだと!」
「いや、でもあれは、どう見ても……」
「そして、なぜ彼は、我々が驚嘆するほどの完璧な勝利を収められた後、ただ一言、『やるべきことを、やったまでです』とだけ仰ったのか! それは! 彼の御業が、我々が考えるような、ちっぽけな勝利のためなどではないという、深遠なる意志の表れに他ならない!」
クラウスの熱弁に、周囲の生徒たちが「おお……」と、どよめき始める。彼の狂信的な熱が、伝染し始めているのだ。勘弁してほしい。
その時、談話室の大型モニターに、軍の人事情報が速報として映し出された。
【速報:士官学校首席 カイ・シラヌイ少尉、第十三独立遊撃部隊司令官に着任。エリダヌス宙域・ヴァルハラ星域へ】
その一文が映し出された瞬間、談話室は水を打ったように静まり返った。
誰もが、その辞令の意味を理解し、言葉を失った。
第十三独立遊撃部隊。スケープゴート・フリート。
ヴァルハラ星域。銀河で最も過酷な、兵士たちの墓場。
それは、栄転などではない。事実上の、左遷。あるいは、死刑宣告。
誰もが、カイ・シラヌイという稀代の天才が、政治的な思惑によって潰されるのだと、そう直感した。
「そん、な……」
「ひどすぎる……」
「英雄に対する仕打ちが、これか……」
絶望と、同情と、そしてヴェガ上層部への怒りの声が、あちこちから上がり始める。
だが、その中でただ一人。
クラウス・フォン・リキテンベルクだけが、わなわなと打ち震えていた。
その表情は、絶望ではない。怒りでもない。
それは、神の深遠なる御心に触れた瞬間の、法悦と、歓喜の表情だった。
やがて、彼の目から、大粒の涙がぼろぼろと流れ落ちた。
「……ああ……! やはり、やはり我々の考えなど、閣下の御前では、赤子の戯言に等しかったのだ……!」
彼は、その場に膝から崩れ落ちると、天を仰いで絶叫した。
「皆、聞け! 絶望することはない! これは、左遷などではない! これこそが、カイ・シラヌイ閣下が、我らヴェガを救うために、自らお選びになった、最も困難で、最も茨の道なのだ!」
「……は?」
周囲の誰もが、呆気にとられてクラウスを見つめる。
だが、クラウスは止まらない。
「なぜ、閣下はあえて『生贄の艦隊』をお選びになったのか! なぜ、あえて最も過酷な『地獄』へと向かわれるのか! それは、我々が捨ててきた、最も汚れた場所、最も救いのない場所にこそ、真の光を灯す必要があると、そうお考えだからだ! 彼は、我々が見捨てた兵士たちを救い、地獄の底から、この腐ったヴェガを再生させようとしておられるのだ!」
クラウスの言葉は、もはや理論ではなかった。それは、信仰の告白だった。
彼の狂信的なまでの熱意は、疑念を抱いていた生徒たちの心すら、少しずつ溶かし始めていた。
そうか、そうだったのか。
我々は、なんと浅はかだったのだろう。
あの人の考えていることは、我々凡人には、到底理解できない高みにあったのだ。
「おお……カイ・シラヌイ……!」
「我らが、救世主……!」
ああ、なんということだ。狂信という病は、どうやら風邪より早く伝染するらしい。
談話室の空気は、完全に変質した。
それは、一人の天才の未来を憂う若者たちの集まりから、一人の神の旅立ちを見送る、狂信者たちの集会へと。
クラウスは、涙を流しながら、固く拳を握りしめた。
(見ていてください、カイ・シラヌイ閣下……! 私は、あなたの深遠なるお考えを、一人でも多くの者に伝え、あなたの偉業を支える、礎となって見せます……!)
こうして『カイ・シラヌイの物語』は、その最初の語り部を得た。
物語は、常に最も都合のいい神輿を求める。中身が空っぽで、信者が勝手に意味を詰め込める、ただの器。その点において、カイ・シラヌイは完璧な宿主だった。彼の意思などお構いなしに、伝説は彼という生贄を喰らい、勝手に育っていく。彼がその事実に気づくのは、全てが手遅れになった後である。。
もちろん、彼自身は、そんな大層な悲劇の主人公を演じているつもりなど、微塵もなかった。