英雄と怪物の境界線は、どこにあるのだろうか。
常人を遥かに超えた力を持つ者。人々の心を掴み、熱狂させる者。歴史を、その意志一つで塗り替えてしまう者。
その定義だけを切り取れば、両者に違いはない。
境界線を引くのは、常に物語の受け手だ。
ある者は、その力を「救済」と呼び、英雄譚を紡ぐ。
ある者は、その力を「脅威」と呼び、怪物譚を語る。
そして、最も厄介なのは、作り手自身が、自らの物語の主人公が英雄なのか怪物なのか、もはや判別できなくなった時である。
物語は作り手の手を離れ、制御不能な怪物となって、世界そのものを喰らい始めるのだから。
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【タルタロスでのAI停止から約三週間後(首都時間)】
自由商業圏ヴェガ首都トライアスター。
その摩天楼の頂点に位置する、巨大企業オリオン・アーム・インダストリー本社、役員専用ラウンジ。
そして、その地下深くに存在する、統合軍総司令部作戦司令室、通称『神々の観覧席』。
光と闇、富と暴力。ヴェガという国家を両面から支配する二つの組織は、奇しくも時を同じくして、一つの報告書を前に、絶対的な沈黙に支配されていた。
数週間前、銀河の辺境、流刑惑星タルタロスから発せられた微弱な救難信号。それと同時に届けられた、第十三独立遊撃部隊司令官、カイ・シラヌイからの戦闘詳報。
その、あまりにも荒唐無稽な内容に、最初に誰もが抱いた感想は、「何かの間違いか、あるいは司令官が狂ったか」という、至極真っ当な疑念であった。
だが、遅れて到着した複数の情報源──救助部隊からの断片的な通信ログ、惑星周辺の観測衛星が捉えたエネルギー放出の痕跡、そして何より、あのクラウス・フォン・リキテンベルクという名の狂信的な青年将校が、独自のルートで入手し提出した、囚人たちの内部ネットワークに残されていた「聖戦の記録」──それら全てが、信じがたいことに、報告書の内容が「事実」であることを、寸分の狂いもなく証明してしまったのだ。
『神々の観覧席』では、総司令官ヴィルヘルム・フォン・シュトレーゼマン元帥が、能面のような無表情のまま、ホログラムに映し出された報告書の要約を、ただ黙って見つめていた。
その場の将官たちは、誰一人として言葉を発することができない。ただ、額に滲む脂汗と、かすかに震える指先だけが、彼らの内心の動揺を物語っていた。
【報告書要約:惑星タルタロスにおける内乱鎮圧及び統括AI『ウォッチャー』無力化に関する件】
一、当艦隊はタルタロス到着直後、統括AIの奇襲により航行能力を喪失。同時に、惑星内の全囚人勢力及び原生生物による完全包囲下に置かれた。
一、司令カイ・シラヌイ閣下は、この絶望的状況を瞬時に看破。まず、特殊な音響兵装『セイレーンの歌』を使用し、原生生物の活動を完全に停止させる。これにより、我々は行動の自由を確保した。
一、次に司令は、囚人たちの間に蔓延する不信と対立こそが問題の本質であると断定。情報戦と心理戦を組み合わせた、高度な神算鬼謀を発動。囚人たちを意図的に互いに争わせ、彼らの膿を出し切らせると同時に、その過程で、ユニットを持つに値する者を選別された。
一、最終局面において、司令は惑星全土を焼き尽くすAIの最終プロトコル『大粛清』を、ただ一言の神託によって無力化。その御業を目の当たりにした全囚人は、過去の罪を悔い改め、心からの忠誠を司令に誓った。
一、現在、惑星タルタロスは完全に平定され、元囚人たちは司令の指揮の下、驚くべき規律と団結を以て、復興作業に従事している。彼らはもはや囚人ではない。司令の慈悲によって救済されし、新たなる民である。
──報告は、以上であった。
その、あまりにも英雄的で、あまりにも狂信的な、まるで神話の一節を読んでいるかのような報告書。
将官の一人が、かすれた声で、かろうじて言葉を絞り出した。
「……馬鹿な。これは、報告書などではない。叙事詩だ」
「だが、事実だ」と、情報統括本部長のゲルハルト・フォン・バウアー提督が、震える声で言った。「救助艦隊の第一報によれば、数万の元囚人たちが、あのカイ・シラヌイを唯一神と崇める、一つの『国家』を形成している、と……。彼らは、水晶と瞳をモチーフにした、統一規格の旗まで掲げていたそうだ。まるで、一つの文明の始まりのように」
その言葉が、将官たちの最後の理性のタガを、無慈悲に引きちぎった。
彼らが仕掛けたのは、何だったか。
劇薬には劇薬を。二匹の猛獣を同じ檻に入れ、共食いさせる。うまくいけば、双方ともに消えてくれる。
なんと、浅はかな計画だったのだろう。
彼らが檻に放り込んだのは、猛獣などという、生易しいものではなかった。
「……我々は、神を創り出してしまったのか……? いや、違う」
シュトレーゼマン元帥が、初めて、重々しく口を開いた。
その能面のような顔に、初めて、明確な感情が浮かんでいた。
それは、畏怖。そして、純粋な──恐怖だった。
「あれは、神などではない。我々の理解と、制御を、完全に超えた──怪物だ」
彼らは、ようやく理解した。
カイ・シラヌイという男は、もはや自分たちの手でコントロールできる「駒」でも、「劇薬」でもない。
惑星規模の暴動を、たった一艦で、しかも意図的に引き起こし、それを完璧に平定してみせる。
数万の、銀河で最も凶悪で、最も統率の取れないはずの囚人たちを、彼を唯一神と崇める、狂信的な「信者」へと、心ごと作り変えてしまう。
そんな芸当が、ただの人間にできるはずがない。
あれは、英雄ではない。
人の皮を被った、何か別のものだ。
その目的も、その能力の底も、全く見えない、未知の怪物。
「商品が、自我を持った」
時を同じくして、オリオン・アーム・インダストリーの役員ラウンジで、あの若きプロジェクト・マネージャーが、青ざめた顔で呟いていた。
彼の完璧な計画は、完璧に進行した。
だが、その結果生まれたのは、彼の想像を、そして会社の利益を、遥かに超えた、悪夢のような現実だった。
商品は、時に作り手の意図を超え、市場そのものを支配する怪物へと成長することがある。
カイ・シラヌイは、もはやオリオン社がコントロールできる「商品」ではなかった。
彼自身が、一つの巨大な市場となり、一つの巨大な物語となって、世界を飲み込もうとしている。
彼を神と崇める、数万の狂信者という名の、最強の消費者(ファン)を、その身に纏って。
「……どうする? このままでは、我々の手に負えなくなるぞ」
「軍に、処理させるか? いや、下手に手を出せば、あの数万の信者が、狂信的なテロリスト集団と化して、ヴェガ全土に牙を剥きかねん……!」
『神々の観覧席』も、オリオン社の役員ラウンジも、恐怖と戦慄、そして絶望的なまでの無力感に支配されていた。
彼らが自らの手で生み出してしまった怪物を前に、彼らはただ、震え上がることしかできない。
やがて、二つの場所で、ほぼ同時に、一つの結論が、満場一致で導き出された。
それは、彼ら支配者たちが、古来より、制御不能な力を持つ者に対して、常に下してきた、最も臆病で、最も確実な、唯一の答え。
シュトレーゼマン元帥と、オリオン社の若き役員が、まるで示し合わせたかのように、静かに、そして冷たく、宣告した。
「「──隔離せよ」」
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その、翌日。
オリオン・アーム・インダストリー本社、広報戦略部門、第一会議室。
そこでは、上層部の絶望的な雰囲気とは全く無縁の、極めてビジネスライクで、極めてシュールな緊急会議が、粛々と、しかし熱を帯びて繰り広げられていた。
「──というわけで、議題は三つ。第一に、我らが新ブランド『唯一神カイ・シラヌイ』の、法的リスクと商標戦略について。第二に、『国家』化した信者への公式呼称ガイドラインの策定。そして第三に、最重要事項として、『聖骸レナ』関連商品の、緊急デザイン変更と、それに伴う追加ラインナップの検討です」
マーケティング部門の、生真面目な顔をした女性マネージャーが、淡々とアジェンダを読み上げる。
会議室に集まった十数人の社員たちは、誰もがエリートらしく、高価なスーツに身を包み、その目には一切の感情を宿していない。
彼らにとっては、英雄の誕生も、神の降臨も、国家の建国すらも、全ては「ビジネス」の議題の一つに過ぎないのだ。
「まず、第一の議題、『唯一神』表現の法的リスクについてですが、法務部に確認したところ、特定の宗教団体からの抗議が予想されるものの、現行法では『比喩表現』として押し通すことが可能との見解です。ただし、商標登録は急務でしょう。すでに、競合のペルセウス社が、『元祖!神殺しの英雄』などという、便乗にもほどがある商品を開発中との情報が入っています」
「ふざけるな! 神を殺せるのは、神だけだ! すぐに『唯一神』の独占ライセンス契約を締結しろ! カイ・シラヌイ本人に、いくら積んででもサインさせろ!」
「次に、信者への公式呼称ですが、『タルタロス神聖国家』は、あまりにも過激で、政治的なリスクが高すぎます。PR的には、よりソフトで、親しみやすい呼称が望ましいでしょう。いくつか案が出ていますが……『カイ様とゆかいな仲間たち』、『新生タルタロス・ファミリー』、『チーム・シラヌイ』……」
「却下だ! どれもこれも、センスが壊滅的すぎる! もっとこう、カリスマ性と、信者たちの排他的な熱狂を煽るような、クールなネーミングはないのか! 例えば……そう、『スケープゴート・チルドレン』とか!」
「それ、普通に悪口じゃないですか?」
会議は、極めてハイレベルな次元で、白熱していく。
神話の誕生すらも、彼らの手にかかれば、ただの「ブランド戦略」と「マーケティング用語」の羅列へと、完璧に翻訳されてしまう。
資本主義という名の、最も冷徹で、最も冒涜的な神の前では、いかなる奇跡も、ただの数字に過ぎないのだ。
やがて、議論が、第三の、そして最も重要な議題へと移った。
女性マネージャーが、ホログラム・ディスプレイに、一枚のデザイン画を映し出した。
それは、先日の首都の路上マーケットで、暴動寸前の騒ぎを引き起こした、あの『聖骸レナ』等身大抱き枕カバーの、最新デザイン案だった。
以前の、少しはだけた軍服姿のデザインとは違い、今回は、純白の、まるで女神のようなドレスを身に纏い、その虚ろな瞳で、こちらに慈悲深い(ように見える)微笑みを浮かべている、極めて神々しいデザインに仕上がっていた。
「……素晴らしい。実に、素晴らしいデザインだ」
一人のデザイナーが、うっとりとした表情で、自らの作品を自画自賛する。
「これまでの『狂犬』としてのクールなイメージと、新たに加わった『聖骸』としての神々しさ。その二つのギャップが、ファンの心を鷲掴みにすること間違いなしです。ターゲット層も、これまでのミリタリーマニアから、より広範な層へと拡大できるでしょう」
「うむ。だが、これだけでは弱い。追加のラインナップが必要だ。例えば……」
一人の、最も年配の社員が、待ってましたとばかりに、真顔で切り出した。
「『聖骸レナ』の、ボイス付き目覚まし時計というのは、どうだろうか」
会議室が、一瞬、シン、と静まり返った。
そして、次の瞬間。
「「「天才かッ!?」」」
絶賛の嵐。
「毎朝、『司令。起床の時間です。今日も、主の御心のままに』などと、あの無機質な声で囁かれたい、という需要は、確実に存在する!」
「着せ替え機能も付けよう! 軍服バージョン、ドレスバージョン、そして……スクール水着バージョンもだ!」
「音声のバリエーションも必要だな! 『司令、朝食の準備ができております。本日のメニューは、奇跡のスープです』……ああ、たまらん!」
会議室の熱気は、最高潮に達した。
彼らは、本気だった。
カイ・シラヌイの苦悩も、レナ・ユキシロの崩壊した魂も、タルタロスで流された血も涙も、その全てが、彼らにとっては、最高の「商品」を開発するための、最高の「素材」でしかなかった。
英雄は怪物となり、神となり、そして、最終的に、ただの商品となって、消費されていく。
それが、この腐敗しきった銀河の、絶対的な法則。
その法則の、最も滑稽で、最も残酷な体現者として。
カイ・シラヌイの物語は、今、彼が最も望まない形で、新たな舞台の幕を開けようとしていた。
もちろん、その舞台の脚本も、演出も、もはや誰の手にも負えないのだが。
あとがき、あるいは蛇足
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カイ「……おい、シロ。聞こえてるか? 俺は今、猛烈に、心の底から、銀河が誕生して以来のレベルで納得がいっていない」
シロ『おや、どうしたんだい英雄殿? せっかく君の物語が「神話」から「黙示録」のフェーズに移行したっていうのに、浮かない顔だね』
カイ「黙示録!? 誰が怪物だ、誰が! 俺は被害者だぞ!? あのクソ惑星に送り込まれ、勝手に神に祭り上げられ、挙句の果てには生みの親から『怪物』呼ばわりだ! 俺ほど数奇な運命を辿っている悲劇の主人公が、他にいるか!?」
シロ『うーん、客観的に見ても、惑星一つを丸ごと乗っ取って、数万の凶悪犯を狂信的な私兵に変えちゃう男は、まあ、だいたい『怪物』か『魔王』って呼ばれるのが相場じゃないかな』
カイ「俺はそんなこと頼んでない! 俺が欲しかったのは、ただ平穏な後方勤務だけだ! それがどうしてこうなった!?」
シロ『面白いよね。君を最高の『英雄』に仕立て上げた連中が、今度は君を最悪の『怪物』だと断罪してる。英雄と怪物の境界線なんて、結局は見てる奴らの都合でしかないってことさ。おめでとう、カイ。君はついに、彼らの都合すら超えた、本物の『物語』になったんだよ』
カイ「やかましいわ! 俺は物語になんかなりたくない! 俺は、俺になりたいんだ! ……まあ、俺が誰なのか、俺自身もよく分からんが!」
シロ『だろうね。君のアイデンティティは、もうとっくの昔に勘違いの彼方へ家出しちゃったから』