【取扱注意】その英雄、勘違いにつき。   作:化け猫 いろは

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第十三話 星々の奈落へ

祝福。

それは、神が人間に与える、最も甘美で、最も残酷な贈り物である。

光を浴びた者は、その温かさに感謝し、涙を流すだろう。

だが、その光が強ければ強いほど、その裏にできる影もまた、どこまでも濃く、そして深くなることを、彼らはまだ知らない。

祝福とは、時に呪いと同義である。

それは、与えられた者の魂を永遠に縛り付け、決して逃れることのできない、輝かしい鳥籠へと閉じ込める、最も美しい枷なのだから。

 

そして今、一人の男が、銀河中の誰よりも盛大で、誰よりも熱狂的な祝福を受け、その魂を、永遠の奈落へと突き落とされようとしていた。

 

────────────────────────────────────────────

 

【アリズン宙域総督任命から、約十二時間後】

 

旗艦「ネメシス」司令官室。

そこは、かつてカイ・シラヌイという名の怠惰な男が、己の欲望のためだけに作り上げた、完璧なまでの安息の神殿(サンクチュアリ)だったはずだ。

だが今、その神殿は、主の心を映し出すかのように、どこまでも冷たく、そして絶望的な静寂に支配されていた。

 

部屋の主は、玉座(リクライニングチェア)の上にいた。

いた、というよりは、もはや「放置されていた」という表現の方が正しいかもしれない。

カイ・シラヌイは、まるで中身を全て抜き取られたマリオネットのように、ぐったりと、力なく、その悪魔的な座り心地を誇る椅子に、ただ沈んでいる。

彼の瞳は、虚ろに天井の一点を見つめている。だが、そこに天井の木目が映っているわけではない。彼の網膜に焼き付いて離れないのは、数時間前の、あの悪夢のような光景。

 

──数万の信者たちによる、地鳴りのような歓声。

──ギデオンとビットに担ぎ上げられた、狂乱の神輿。

──そして、彼の手に今もなお重くのしかかる、一枚の電子データ。

 

【辞令:カイ・シラヌイ中尉を、『アリズン宙域総督』に任命する】

 

その、あまりにも理不尽で、あまりにも残酷な文字列が、彼の思考回路を完全に焼き切り、その精神を、真っ白な灰へと変えてしまっていた。

 

(……終わった)

 

彼の脳内で、か細い、そしてどこまでもか細い声が、かろうじて木霊する。

 

(俺の、俺のささやかな、本当にささやかな夢だった、平穏な後方勤務ライフが……。窓から見える青い惑星。書類にスタンプを押すだけの退屈な毎日。そして、たまの休日に、安物のソファに寝そべって、脂っこいピザと炭酸飲料を腹一杯に詰め込む、あの輝かしい未来が……。今、この瞬間、完全に、宇宙の塵と化した……)

 

もはや、怒りも、悲しみも、恐怖すらも感じない。

ただ、絶対的な虚無。

全ての感情が抜け落ちた後に残る、どこまでも広く、そして冷たい荒野が、彼の心の中には広がっているだけだった。

 

『……おーい、聞こえてるー? 教祖様ー? いや、今は総督閣下、とお呼びした方がよろしいかな?』

 

脳内に響く相棒、シロの声は、いつもと変わらず、どこまでも軽薄で、どこまでも楽しそうだ。

この銀髪の悪魔は、主人の人生が壮大なスケールで破滅していく様を、最高のエンターテイメントとして、心底から満喫しているらしい。

 

だが、カイはもはや、その軽口にツッコむ気力すら残っていなかった。

 

(……ああ、シロか。……すまないが、今はそっとしておいてくれないか。俺は今、自分の墓碑銘に、どんな言葉を刻むべきか、真剣に悩んでいるところなんだ……)

 

『墓碑銘ねぇ。いいじゃない。「ここに英雄眠る。ただし、本人は断固としてそれを認めず」とかどう? なかなか皮肉が効いてて、君らしいと思うけど』

 

(……それも、いいな……)

 

カイの反応は、あまりにも弱々しかった。まるで、風前の灯火。

その、あまりにも覇気のない主に、さすがのシロも、少しだけ調子を変えた。

 

『……まあまあ、そんなに落ち込まないでよ。見方を変えれば、すごいことじゃないか。君、ついに一国一城の主になったんだぜ? それも、数万の、君のためなら死ぬことすら厭わない、超絶有能で忠実な国民(しもべ)付きだ。前世の君が見たら、嫉妬で憤死するレベルの、超絶勝ち組じゃないか』

 

「(勝ち組……?)」

 

その言葉に、カイの虚ろな瞳が、ほんの少しだけ、焦点を結んだ。

 

「(どこがだ! どこにそんなポジティブな要素がある! これは、勝ち組などではない! これは、終身刑だ! それも、銀河で最も過酷で、最も面倒で、そして最も逃げ場のない、アリズン宙域という名の、巨大な監獄の、看守長にさせられただけじゃないか!)」

 

そうだ、と彼の思考が、ようやく再起動を始める。

責任。義務。期待。

彼が、人生において最も忌み嫌い、最も全力で逃げ続けてきた、それら全てのものが、今、「総督」という、たった二文字の肩書になって、彼の両肩に、惑星そのものよりも重くのしかかっている。

 

「(俺は、ただ、家に帰りたかっただけなんだ……! なのに、なんで! なんで、俺が、数万人の人生の責任まで、背負わなきゃならんのだ! 理不尽だ! この世の全てが、理不尽すぎる!)」

 

『まあ、その理不尽の引き金を引いたのは、他ならぬ君自身なんだけどね』

 

シロの無慈悲な正論が、カイの心に突き刺さる。

だが、今の彼には、その正論を受け止めるだけの、心の体力は残されていなかった。

 

「(違う! 俺は悪くない! 俺は、ただ、俺の快適な生活のために、周囲の環境を少しだけ、ほんの少しだけ、最適化しようとしただけだ! それを、周りの連中が、勝手に勘違いして、勝手に熱狂して、勝手に神輿に担ぎ上げて、そして勝手に崖から突き落としただけじゃないか! 俺は、被害者だ! この、壮大な勘違い劇の、最大の被害者なんだよォォォ!)」

 

──見事なまでの、責任転嫁である。

この男、自分の人生が完全に詰んだこの期に及んでもなお、その思考のベクトルが、常に自己正当化と他者への責任転嫁にしか向かわないあたり、ある意味、その精神構造は鋼鉄よりも強固なのかもしれない。

 

『はいはい、被害者、被害者。で、その可哀想な被害者さんは、これからどうするのさ? まさか、このまま玉座(リクライニングチェア)の上で、化石になるまでふて寝してるわけにもいかないだろう?』

 

シロの、どこか挑発するような問いかけ。

それが、カイの心に、最後の、そして最も彼らしい、歪んだ火を灯した。

 

「(……ふて寝?)」

 

そうだ、と彼は思った。

ふて寝。

悪くない。

 

「(……いや、待てよ。考え方を変えるんだ、カイ・シラヌイ)」

 

彼の、自己保身のためだけに最適化された、天才的な(と本人が固く信じている)頭脳が、この絶望的な状況を、自分にとって最も都合のいい未来へと、無理やり捻じ曲げるための、最後の悪あがきを始めた。

 

「(そうだ。総督? 上等じゃないか。神? それもいいだろう。だがな、シロ。俺は、俺だ。俺の行動原理は、何一つ変わらん)」

 

彼の瞳に、ゆっくりと、しかし確かな光が戻り始めた。

それは、英雄の覚悟の光ではない。

ましてや、聖者の慈悲の光でもない。

ただ、いかにして面倒事を避け、いかにして快適に、そして怠惰に生きるかだけを追求する、究極のクズの、不屈の魂の光だった。

 

「(見ていろよ。俺は、アリズン宙域でも、これまでと全く同じことをしてやる。すなわち──何もしない、だ!)」

 

『……正気?』

 

「(当たり前だ! 俺は、総督として、神として、ただ玉座にふんぞり返っているだけでいい! 面倒な政治は、あの頭の固いギデオンと、インテリもやしのビットに丸投げすればいい! 戦闘は? あの恐怖知らずの人形女、レナに全部押し付ければいい! 俺は、ただ、彼らからの報告書に、たまにサインをしてやるだけだ! どうだ!? これぞ、究極の、完璧なる、リモート総督ライフじゃないか!)」

 

──この男、全く懲りていない。

それどころか、その怠惰の哲学は、惑星規模の絶望を経験したことで、さらに純度を増し、もはやダイヤモンドのように硬質な輝きを放ち始めていた。

実に、救いようがない。

 

だが、その救いのなさが、皮肉にも、彼を彼たらしめている、唯一の個性でもあった。

彼は、英雄ではない。

神でもない。

ただ、どんな絶望的な状況に陥ろうとも、決して「働かない」ということだけは諦めない、鋼の意志を持った、一人の怠惰者なのだ。

 

『……はぁ』

 

シロは、心底から呆れたように、しかしどこか楽しそうに、溜息をついた。

 

『君って、本当に……。まあ、いいや。君がそういうなら、僕は最後まで付き合うよ。君が、その怠惰の哲学の果てに、銀河を救うのか、それとも滅ぼすのか。それを、特等席で見届けてあげる』

 

「(フン、好きにするがいい。だが、覚えておけ。俺が救うのは、銀河じゃない。俺自身の、平穏な生活だけだ)」

 

カイは、そう内心で嘯くと、リクライニングチェアから、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、立ち上がった。

窓の外には、これから彼らが向かうであろう、未知の星々が、まるで嘲笑うかのように、冷たく輝いている。

星々の奈落、アリズン宙域。

新たな地獄の舞台。

 

だが、今の彼の心には、もはや絶望はなかった。

あるのはただ、これから始まる新たなリモートワーク環境を、いかにして自分好みにカスタマイズしてやろうかという、不屈の、そしてどこまでも歪んだ闘志だけだった。

彼の、本当の戦いは、まだ始まったばかりである。

 

その、カイの静かな決意を、部屋の隅で、一つの影が、じっと見つめていた。

レナ・ユキシロだった。

いつからそこにいたのか、彼女は音もなく、ただ佇んでいる。 その人形のような顔には、何の感情も浮かんでいない。 だが、その虚ろな瞳の奥で、主の、ほんのわずかな心の変化を、彼女だけは、確かに感じ取っていた。

 

(……主が、立たれた)

 

彼女の壊れた思考回路が、一つの、絶対的な結論を導き出す。

 

(主は、次なる舞台を、見据えておられる。ならば、この身は、その御心に従うまで)

 

彼女は、カイには聞こえない声で、静かに、そして深く、誓いを立てた。

主が光ならば、私は影に。

主が剣ならば、私は鞘に。

主が、その怠惰の玉座に安らかに座り続けられるように。

この世界の、全ての面倒事を、この私が、代行する。

たとえ、その先に待っているのが、血塗られた道であろうとも。

 

主の、御心のままに。

その、あまりにも重く、そしてどこまでも歪んだ忠誠心(愛)が、これからカイ・シラヌイの物語を、さらに予測不能な方向へと導いていくことになるのを、当のカイ自身は、もちろんまだ知る由もなかった。

 

────────────────────────────────────────────

 

エピローグ

 

アリズン宙域へと向かう、巨大な移民船団が出航する、その数時間前。

惑星タルタロスの、かつて「アントヒル」と呼ばれた地下居住区画の一角は、旅立ちの前の、慌ただしい喧騒と、そして一抹の寂しさに包まれていた。

 

人々は、この地獄の星で過ごした、長い、長い年月に、それぞれの形で別れを告げていた。

ある者は、仲間と酒を酌み交わし、過去の武勇伝を語り合った。

ある者は、この星で失った、かつての友の、ささやかな墓標に、最後の祈りを捧げた。

そして、ある者は、これから始まる新たな生活への、希望と不安を、家族と静かに分かち合っていた。

 

その、喧騒から少し離れた、薄暗い通路の片隅で。

一人の、まだ幼い少女が、一人、黙々と、何かを作っていた。

彼女の足元には、ガラクタの山。

不時着したネメシスの、焼け焦げた装甲の破片。

水晶の森から拾ってきた、青白く輝く、小さな水晶のかけら。

そして、用途不明の、錆びついた機械の部品。

 

少女は、その小さな手で、それらのガラクタを、器用に組み合わせていく。

やがて、彼女の手の中に、二つの、不格好だが、どこか愛嬌のある、小さな人形が完成した。

 

一つは、装甲の破片を胴体にした、少し偉そうな佇まいの人形。その頭には、水晶のかけらが、まるで王冠のように輝いている。

もう一つは、しなやかなワイヤーを骨格にした、すらりとした人形。その手には、鋭利な金属片が、まるで剣のように握られている。

 

カイと、レナ。

彼女なりの、神と、聖女の姿。

 

少女は、完成した二つの人形を、満足そうにしばらく眺めていたが、ふと、何かを思い出したように、小さなポケットを探り始めた。

そして、そこから、大切そうに、一枚の、小さな花びらを取り出した。

それは、この荒涼とした惑星には、あまりにも不釣り合いな、鮮やかな青色をした、小さな、小さな勿忘草の花びらだった。

 

この星では、決して咲くことのない花。

おそらく、ネメシスのクルーの誰かが、故郷の星から持ち込んだ植物の種子が、奇跡的に、瓦礫の隙間で芽吹いたものなのだろう。

 

少女は、その奇跡のかけらを、そっと、カイの人形の、胸の部分に貼り付けた。

まるで、そこに魂を吹き込むかのように。

 

彼女のその行為に、深い意味はない。

ただ、綺麗だと思ったから。

ただ、ありがとうと、伝えたかったから。

それだけ。

 

だが、その、あまりにも無垢で、あまりにも純粋な祈りの光景こそが、カイ・シラヌイという名の、空っぽの神が生み出してしまった、唯一にして、本物の「奇跡」であったのかもしれない。

 

少女は、二つの人形を、通路の壁際に、大切そうに並べて置くと、満足そうに頷いて、母親が待つ、喧騒の中へと駆け出していった。

後に残されたのは、ガラクタの神と聖女。

そして、その神の胸で、静かに輝く、一枚の青い花びらだけ。

 

勿忘草の花言葉。

『私を忘れないで』

そして、もう一つ。

『真実の愛』

 

その、あまりにも美しく、そして、これから始まる物語を暗示するかのような、不吉なまでの花言葉の意味を。

この時、まだ誰も、知る由もなかった。

 

星々の奈落へと旅立つ、空っぽの神の、本当の物語は。

今、まさに、始まろうとしていた。

 

(第一部 第二章 『タルタロスの聖骸』 完)

(第三章へ続く)





あとがき、あるいは蛇足


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カイ:「(……よし、決めたぞシロ)」

シロ:「おや、ついに現実逃避をやめて、総督としてのアリズン宙域統治計画でも練り始めたのかい? 感心、感心」

カイ:「(違うわ、馬鹿者め! 統治計画ではない! 逃亡計画だ!)」

シロ:「……その単語、この一ヶ月で聞き飽きたんだけど」

カイ:「(いいか、よく聞け! プランAはこうだ! まず、着任早々、海賊との戦闘で華々しく戦死する!)」

シロ:「ふむふむ。それで?」

カイ:「(部下たちが俺の死を嘆き悲しみ、立派な墓を建ててくれた隙に、俺は記憶喪失の一般人として第二の人生をスタートさせる! どうだ、完璧な計画だろう!?)」

シロ:「なるほど。卒業演習では『完璧な敗北』を計画して歴史的な英雄になり、ヴァルハラの初陣では『完璧な膠着』を狙って敵軍を壊滅させ、タルタロスでは『ただパーツが欲しい』だけだったのに神になった君が、満を持して計画する『完璧な戦死』ねぇ。……結果、銀河皇帝にでもなっちゃったりして」

カイ:「(な、なるわけがあるか! ……じゃあ、プランBだ! 統治中に、あえて悪政を敷く! 民衆に嫌われ、憎まれ、反乱を起こさせて、その混乱に乗じて逃げ出す!)」

シロ:「君の信者たちが、君のどんな理不尽な命令も『我々には計り知れぬ、深遠なる神の御心だ!』って、涙ながらに実行してくれる光景しか目に浮かばないんだけど」

カイ:「(ぐっ……! ……ならばプランC! 最終手段だ! 俺は、恋に落ちる!)」

シロ:「…………は?」

カイ:「(辺境の星で、名もなき花売りの娘と恋に落ちる! そして、『私は神の座を捨て、一人の男として彼女と共に生きたい』と宣言し、愛の逃避行を……!)」

シロ:「その花売りの娘が、実は君を暗殺するために送り込まれた敵対組織の刺客で、君の愛の告白に心を動かされ、最終的に組織を裏切って君の最強の護衛の一人になっちゃう、っていう展開かな? 古典的だけど、なかなか悪くないね」

カイ:「(なんでだよ!? なんで俺の計画は、ことごとく俺の望まないハッピーエンドに向かっていくんだよォォォォォ!!)」

――主人公の意図を完璧に無視して、物語が勝手に盛り上がっていく。それは、全ての作者が夢見る、理想的な状況と言えるだろう。無論、本人にとっては、悪夢以外の何物でもないのだが。
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