第一話 神の玉座と監視人形
神とは、不在証明によってその神性を証明する、極めて厄介な存在である。
姿は見えず、声も聞こえず、ただそこに「在る」と信じられているからこそ、神は神たりえる。信者は、その不在の空白に、自らにとって最も都合のいい神の姿を投影し、祈り、そして熱狂するのだ。
故に、もし神が受肉し、我々の目の前に現れたとしたら、それは神性の終わりを意味するはずだった。食事をし、排泄をし、時には鼻クソでもほじる、ただの生臭い隣人へと堕するはずだった。
だが、ここに一つの例外が存在する。
その男、カイ・シラヌイ。
彼は確かに、我々と同じように食事をし、眠り、そして内心では銀河規模の悪態をつき続ける、紛れもないただの人間である。
しかし、彼の周囲を取り巻く狂信的なフィルターは、そのいかなる人間臭い行動すらも「神の深遠なる御業」へと完璧に誤訳し、彼の神性を、皮肉にも、より強固なものへと磨き上げてしまうのだ。
神は、ここにいる。
そして、その神は今、人生で最も人間臭い、そして最も切実な悩みを抱えていた。
──すなわち、「もう、一人にしてくれ」と。
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意識の浮上は、常に唐突だ。
暗く、静かで、何の責任も存在しない安らかな夢の世界から、無慈悲な現実へと引きずり出される、あの不快な感覚。カイ・シラヌイは、その感覚が心の底から嫌いだった。
昨夜の夢は、実に幸福なものだった。故郷の惑星で、名もなき役人として、ただひたすらに書類の山にハンコを押すだけの、退屈で、平和で、そして何より責任という概念が存在しない、完璧な日常。昼休みには、自席でこっそり食べるカップ麺の、あの背徳的な美味さ……。
(……んん……。ああ、朝か……。最悪だ。もう一日が始まってしまった……。俺の完璧なニート生活が、また遠のいていく……)
重い瞼をこじ開けようと、カイが微かに身じろぎした、その瞬間。
彼の視界に、一つの完璧な造形物が、音もなく滑り込んできた。
透き通るように白い肌。芸術品のように整った、繊細な顔立ち。そして、何の光も宿さず、ただカイの寝顔だけを無機質に映し出す、硝子玉のような大きな瞳。
「おはようございます、司令」
声の主は、レナ・ユキシロ。
カイの副官であり、そして今や、彼の意志を代行するためだけの、美しい人形と化した女。
彼女は、カイのベッドのすぐ傍らに、まるで最初からそこにいたかのように、完璧な姿勢で直立していた。その距離、およそ五十センチ。手を伸ばせば、触れられてしまうほどの近さ。彼女の銀色の髪が、室内の微かな光を反射して、まるで天使の輪のように輝いている。その光景は、神話の一場面のようであり、そして最高級のホラー映画のワンシーンのようでもあった。
(……ひぃっ! 出たな、俺専属の監視ドール!)
カイの脳内で、けたたましい悲鳴が木霊した。
心臓が、まるで鷲掴みにされたかのように、激しく、そして痛いほどに跳ね上がる。
寝起きドッキリにしては、あまりにも心臓に悪すぎる。というか、これはドッキリなどではない。彼女にとっては、これが日常であり、そしてカイにとっては、これが日常という名の地獄なのだ。
(い、いつからそこにいたんだ、このストーカー人形は! 俺の寝顔を、一晩中、この至近距離で観察していたとでもいうのか!? 怖すぎる! 俺が寝言で「カップ麺食べたい」とか言ってなかったか!? 大丈夫か!? 人間のプライバシーという概念を、こいつのOSにインストールしたやつは誰だ! 出てこい、俺が説教してやる!)
『おはよう、カイ。よく眠れた? 君の昨夜の睡眠データ、素晴らしいものだったよ。レム睡眠の割合、心拍数の安定度、共に過去最高値を記録した。特に、午前3時14分15秒の時点で見られた脳波の急激な鎮静化は、君の精神が極めて安定した状態にあることを示している。彼女の存在が、君に多大な精神的安寧をもたらしていることの、何よりの証明だね』
脳内に響く相棒、シロの声は、どこまでも楽しそうだ。この銀髪の悪魔は、主人の精神的苦痛を、最高の科学的データとして嗜む趣味をお持ちのようだ。
「(安寧だと!? どこにそんな要素がある! これは監視だ! 24時間365日体制の、完璧な監視だ! 俺は、この女の無言の圧力のせいで、寝返り一つ打てずに、金縛りに遭ったかのように眠るしかなかったんだぞ! あの脳波の鎮静化は、安寧なんかじゃない! あれは諦観だ! 全てを諦めた人間の脳が示す、無の境地だ! それを安寧と呼ぶなら、お前の辞書は今すぐ燃やしてやる!)」
もちろん、そんな内心の絶叫など、レナに聞こえるはずもない。
彼女は、カイが完全に覚醒したことを、彼の瞳孔の収縮率と瞬きの回数から正確に判断すると、人形のように薄い笑みを浮かべたまま、流れるような、しかし一切の無駄がない動きで、次の行動に移った。
「司令。本日の起床時刻、予定より3分14秒の遅れ。許容範囲内です。昨夜の睡眠中、計7回の寝返りの試行を観測しましたが、いずれも最終的には抑制されていました。素晴らしい自己制御能力です。これより、身支度を」
(寝返りの回数までカウントしてやがった……! しかも「試行」ってなんだ、「試行」って! 俺はただ寝返りを打ちたかっただけだ! それがなぜ、ミッションのトライアルみたいに言われなきゃならんのだ!)
彼女が、壁のコンソールを軽くタップすると、カイのベッドがゆっくりと起き上がり、自動的に座位へと移行する。同時に、部屋の照明が、覚醒を促す最も効果的とされる色温度と照度に、自動で調整されていく。全てが完璧に、カイの理想の(と彼女が信じる)状態へと最適化されていく。
カイが何かを言うよりも早く、レナはクローゼットから、完璧にアイロンがけされた一着の軍服を取り出した。
「本日の服装です。艦内の平均気温と湿度、そして司令の昨日の身体データから予測される発汗量を考慮し、最も快適性を維持できる素材とデザインのものを選択しました。肩章には、タルタロス星系で産出された希少金属『スターダスト・シルバー』を僅かに織り込んでおります。これは、司令の威光を、より効果的に視覚化するための措置です」
その軍服は、カイがこれまで着ていたものとは、微妙にデザインが異なっていた。襟の高さ、袖口の絞り、そして生地の光沢。その全てが、彼の威厳と快適性を、最大限に引き出すために、完璧にカスタマイズされている(とレナが勝手に判断した)。
「(……俺の服が、また勝手に新しくなってる……! しかも、なんかキラキラしてるし! なんだよスターダスト・シルバーって! 俺はただの軍人が着るような、地味で目立たない服が着たいんだよ!)」
カイは、戦慄した。
この数週間で、彼の私物は、少しずつ、しかし確実に、レナによって「最適化」されたものへと置き換えられていた。彼が気づかないうちに、彼の知らないところで。
それは、もはや秘書の仕事ではない。
完璧な、そして恐るべき、侵略行為である。
(……ところで、古くなった俺の服は、一体どこへ行っているんだ……? まさか、あの人形女が、夜な夜な俺の服の匂いを嗅ぎながら、恍惚の表情を浮かべて……いや、やめろ! 考えるな、俺! その先の領域は、深淵だ! 俺の抜け毛一本一本までコレクションして、俺の等身大の呪いの人形とか作ってるに違いない! 間違いない!)
──正解。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのである。そして、その深淵は、おそらく君の使用済み軍服で、何らかの祭壇でも作っていることだろう。非常に、遺憾ながら。
レナは、そんなカイの内心の葛藤などお構いなしに、彼の前に軍服を差し出す。その瞳は、早く着替えろ、と無言で、しかし絶対的な圧力で語っていた。
カイは、観念した。
もはや、この人形に抵抗するという選択肢は、彼の思考回路には存在しない。
彼は、まな板の上の鯉のように、されるがままに、その完璧な軍服に袖を通した。
サイズは、もちろん完璧。肌触りも、昨日までのものより、さらに良い。
その、あまりにも完璧すぎる奉仕が、カイの心を、じわじわと、しかし確実に、蝕んでいく。自由という名の、最後の領土を、少しずつ明け渡していくような、絶望的な感覚。
身支度を終え、リビングへと続くドアが開かれると、そこにはすでに、完璧な朝食がセッティングされていた。
湯気の立つスープ。こんがりと焼かれたパン。彩り鮮やかなサラダ。そして、グラスに注がれた、七色の輝きを放つ液体。
「本日の朝食です。司令の昨日の精神的負荷と、これから始まるアリズン星系での任務の重要性を考慮し、脳の活性化とストレス軽減に最も効果的な栄養素を中心に構成しました。スープに使用されている『賢者の石茸』は、思考能力を3.14%向上させる効果が確認されています。そちらのドリンクは、銀河の辺境、忘れられた神々の庭園でのみ年に一度だけ収穫されるという、幻の『虹色藻』のジュースです。一杯で、標準的な成人男性の一日に必要な、全てのビタミンとミネラルを摂取できます」
レナが、抑揚のない声で、完璧なプレゼンテーションを行う。その説明は、もはや高級レストランのギャルソンか、あるいは怪しげな健康食品のセールスマンの領域に達していた。
カイは、その完璧な食卓を前に、内心で、完璧な絶望に打ちひしがれていた。
(……俺は、ただ、安物のシリアルを、牛乳でふやかしたやつが食いたいだけなんだ……! なんなら、昨日の残りのピザでもいい! なんだ、この意識高い系の健康食は! 賢者の石茸ってなんだよ! 錬金術でも始める気か、俺は! 俺の胃袋は、もっとジャンクな、体に悪いものを求めているんだよ! 背徳感という名の、最高のスパイスが足りないんだ!)
だが、彼の胃袋の叫びは、レナの完璧な栄養学の前では、ただの雑音に過ぎない。
カイは、観念して席に着くと、震える手で、スプーンを手に取った。
一口、スープを口に運ぶ。
……美味い。
悔しいほどに、美味い。脳が活性化するかどうかはさておき、複雑で深みのある味わいが、口の中に広がる。
だが、その美味さが、カイの心を、より一層孤独にした。
これは、食事ではない。
これは、飼育だ。
俺は、この美しい人形に、完璧に飼育されているだけの、哀れな家畜なのだ。
その、あまりにも情けない結論に、カイが打ちひしがれていた、その時だった。
彼は、ふと、ある重大な事実に気づいた。
そうだ、俺は、この息の詰まる状況から、逃げ出すことができるじゃないか。この完璧な牢獄から、ほんの少しの間だけでも、脱獄できるかもしれない。
(そうだ! 気分転換だ! 「少し、艦内の様子を見てくる」とかなんとか、それっぽい理由をつけて、この監視地獄から、一時的にでも脱出するんだ! そして、娯楽室の隅にある、俺だけの秘密の備蓄庫へ向かうのだ! そこには、この完璧な食生活への、ささやかな、しかし偉大なる反逆の証、カップ麺が隠されている! どうだ、完璧な計画だろう!? あの、化学調味料と塩分と罪悪感の塊を、俺は今、欲している!)
彼の脳内で、一筋の光明が差した。それは、あまりにもささやかで、あまりにも情けない希望の光だったが、今の彼にとっては、銀河を照らす灯台の光にも等しかった。
カイは、完璧な主君の仮面を被り、あくまでも穏やかに、そして威厳たっぷりに、レナに告げた。その声には、民を憂う、深い慈愛の響きさえ込められていた(と、本人は思っている)。
「……レナ。少し、艦内を散策してくる。神の民たちが、不安を感じていないか、この目で確かめておかねばなるまい。彼らの顔を直接見て、言葉を交わすことこそが、為政者の務めだからな」
その、あまりにも慈悲深く、あまりにも為政者として完璧な言葉。
レナは、もちろん、何の疑いも抱かない。それどころか、彼女の硝子玉のような瞳の奥に、一瞬、尊敬と感動の色が宿ったのを、カイは見逃さなかった。
彼女は、人形のように薄い笑みを浮かべると、深く、そして完璧に、一礼した。
「承知いたしました。主の御心のままに。その深きお考え、感服の至りです。……では、私もお供させていただきます。主の御身に、万が一のことがあってはなりませんので。民との交流の際、不埒な輩が主に触れることなど、万に一つもあってはなりません」
「(……ですよねー!! 知ってたよ! 寸分違わず予想通りだよ、ちくしょう!)」
カイの、最後の、そして唯一の希望の光は、彼女の完璧すぎる忠誠心によって、あまりにもあっけなく、そして無慈悲に、吹き消された。彼の脳内で輝いていたカップ麺のネオンサインが、プツリ、と音を立てて消えた。
結局、彼は、この美しい監視官から、一瞬たりとも逃れることはできないのだ。
カイは、もはや抵抗する気力も失せ、ただ、力なく頷くことしかできなかった。
彼の、新たな地獄の一日は、今、始まったばかりである。
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旗艦「ネメシス」の、長く、そしてどこか無機質な艦内通路。その床は塵一つなく磨き上げられ、壁に埋め込まれた間接照明が、静謐な、しかしどこか人を寄せ付けない雰囲気を醸し出している。
その中央を、二つの影が、まるで幽霊のように、音もなく進んでいく。
先頭を歩くのは、神。カイ・シラヌイ。彼の外面は、民の様子を気遣う、慈悲深き君主そのもの。背筋を伸ばし、一歩一歩、確かな足取りで前を見据えている。
その後ろを、半歩下がって付き従うのは、聖骸。レナ・ユキシロ。彼女は、主を守る、完璧な影。その足音は一切聞こえず、気配すらも希薄だ。だが、その視線だけは、カイの背中に、まるで物理的な重さを持っているかのように、常に注がれている。
その、あまりにも荘厳で、あまりにも神々しい光景。すれ違う乗組員たちは、皆、壁に張り付くようにして最敬礼し、その神聖な行列が通り過ぎるのを、息を殺して見守っている。
だが、その実態は。
(気まずい……! 気まずすぎる……! なんだ、この空気は! 後頭部に、物理的に何かが刺さっているような感覚がする……! 俺、今、歩き方とか、変じゃないよな!? 大丈夫だよな!? 神として、完璧な歩き方ができているよな!? 右足と右手を同時に出してたりしないか!? いや、それはないか! 多分!)
哀れな神は、背後を歩く監視官の無言の圧力に、精神をゴリゴリと削られながら、生まれて初めて、歩行という、あまりにも基本的な身体活動に、これほどの集中力を要求されていた。
彼の内心は、もはや風前の灯火である。
『頑張って、カイ。君のそのぎこちない歩き方、まるで初めてハイヒールを履いたOLみたいになってるけど、信者たちには「神の、我々凡人には計り知れぬ、深遠なる歩み。一歩ごとに、宇宙の法則を再計算させているのだ」とでも見えてるんじゃないかな』
脳内から響く、シロの無慈悲な実況中継が、カイの最後のプライドを、粉々に打ち砕く。
(うるさい! 人の心を抉る天才か、お前は! 黙って見てろ、このポンコツAI! これから俺は、神としての完璧なウォーキングを披露してやる!)
カイが、そんな不毛な脳内レスバトルを繰り広げていた、その時だった。
前方の通路の角から、一つの巨大な影が、ぬっ、と現れた。
身長は、二メートルを優に超えるだろう。その全身は、岩のような筋肉の鎧で覆われ、着ている制服が、はち切れんばかりに張り詰めている。顔には、歴戦の傷跡が、まるで悪魔の紋様のように刻まれ、特に左目を縦に走る深い傷は、見る者に原始的な恐怖を抱かせる。
その、あまりにも凶悪で、あまりにも暴力的なビジュアル。
それは、カイの脳内に深く刻み込まれた、あの悪夢のリスト──『俺を怖がらせた囚人ランキング』の、堂々たる第7位に輝く男、通称”狂鬼”のボルグであった。
(ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ! 出たァァァァァァァ! よりによって、なんで朝っぱらから、こんなSSレア級の化け物にエンカウントしなきゃならんのだ!)
カイの心臓が、物理的に、喉から飛び出しそうになった。
全身の血液が、一瞬で凍りつき、そして次の瞬間には、沸騰する。
逃げろ!
彼の自己保身の本能が、魂の全てを懸けて、そう絶叫した。
だが、彼の足は、恐怖のあまり、床に縫い付けられたかのように、一歩も動かない。
(終わった……! 俺の人生、こんな通路のどん中で、唐突に、そして無残に、終わるんだ……! まず、あのゴリラみたいな腕で頭を鷲掴みにされて、そのまま壁に叩きつけられる。次に、床に転がった俺を、サッカーボールみたいに蹴り上げて……! さらば、俺の快適なリモート総督ライフ……! 来世は、クラゲにでもなりたい……!)
彼が、そんな具体的かつ悲惨すぎる完璧な遺言を脳内で組み立て、人生の全てを諦めかけた、その瞬間。
その、歩く暴力装置のような大男、ボルグは、カイの姿を認めると、その場で、ピタリ、と動きを止めた。
そして、次の瞬間。
カイの常識を、そして物理法則すらも超越するような、信じがたい行動に出たのである。
男は、その巨体を、まるで折り畳むかのように、その場に、勢いよく、ひれ伏した。
ゴッッ!!!という、あまりにも鈍く、そして重い音。硬い金属の床に、彼の額が叩きつけられた音だ。常人であれば、頭蓋骨が陥没していてもおかしくないほどの、凄まじい勢いだった。床が、僅かに凹んでいるようにさえ見える。
そして、男は、その腹の底から、地鳴りのような、しかしどこまでも敬虔な響きを持つ、大声を張り上げた。
「──神よッ! 本日も、ご壮健であらせられますこと、心より、お慶び申し上げますッ!! このボルグ、貴方様の神々しいお姿を拝謁でき、感涙の極みにございますッ!!」
その、あまりにも大音量で、あまりにも狂信的な、朝の挨拶。
それが、カイの鼓膜を、そして小心な魂を、物理的に、そして精神的に、激しく揺さぶった。
(う、うるせぇ……! そして、顔が、怖い……! なんで挨拶するだけで流血沙汰になってるんだよ、この戦闘民族は!)
ひれ伏した男の顔は、床に叩きつけた衝撃で、鼻から血を流していた。
その、血塗れの顔で、感涙にむせびながら、自分を見上げてくる。その瞳は、狂信的な光で爛々と輝き、もはや正気のそれではない。
その光景は、もはやホラーを通り越して、何か新しいジャンルの、冒涜的な芸術作品のようだった。
カイは、引きつった笑みを浮かべることしかできない。
外面だけは、完璧な「慈悲深き神」の表情を維持しながら、内心では(もうやだ、この惑星……。早く、家に帰りたい……。お母さん……)と、五歳児レベルの思考にまで退行していた。
彼は、なんとか外面を取り繕い、穏やかに、そして威厳たっぷりに、頷いてみせた。
「……う、うむ。息災そうで、何よりだ」
声が、僅かに上ずった。だが、幸いなことに、目の前の狂信者は、それに気づく様子はない。
それどころか、神からの、あまりにもったいないお言葉。
それを聞いたボルグの瞳が、カッ、と見開かれた。
その瞳の奥に宿る、狂信の炎が、さらに勢いを増して、燃え上がる。
彼は、まるで神の御業を目の当たりにしたかのように、その場で、わなわなと打ち震え始めた。
「おお……! おお……! 神が……この俺に、直接、お言葉を……! なんという慈悲……! なんという寛大さ……! このボルグ、この御恩に報いるためならば、この身、いつでも貴方様のために捧げましょうぞッ!」
(やめてくれ! そんな、エクスタシーを感じたみたいな顔で、俺を見るんじゃあない! 頼むから、俺のために命とか捧げないでくれ! 重い! 重すぎるんだよ、お前らの忠誠心は!)
カイは、その場から、一刻も早く逃げ出したかった。
だが、彼の足は、まだ動かない。
神は、信者の前で、うろたえたりはしないのだ。
その、どうしようもない見栄とプライドだけが、彼をその場に縛り付けていた。
この、一連の、あまりにもシュールで、あまりにも心臓に悪い遭遇。
それが、これから始まる、本当の地獄巡りの、ほんの序章に過ぎないこと。
そして、この艦内に、あの悪夢のランキングのランカーたちが、あと三百九十九人も徘徊しているという、絶望的な事実。
我らが神、カイ・シラヌイは、わかっていながらも必死に目をそらすしかなかった。
彼の安息の日は、どこにもありはしないのだ。
あとがき、あるいは蛇足
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カイ:「……疲れた……。もう、神様やめたい……。自分の部屋に引きこもって、カップ麺だけ食べて生きていきたい……」
シロ:「おや、カイ? 君の『神の民を思う散策』は、まだ始まったばかりじゃないか。それに、ボルグ君はランキング第7位に過ぎない。考えてもごらんよ、彼を上回る、トップランカーたちが、まだ艦内には大勢いるんだ。彼らが君に会ったら、一体どんな反応を示してくれるんだろうね? 楽しみだなぁ」
カイ:「ひぃぃぃぃっ! やめろ! それ以上言うな! 俺のSAN値がゼロになる! もうだめだ、俺は船室のベッドの下に隠れる! レナにも見つからない完璧な隠れ場所だ!」
シロ:「残念ながら、そこは3日前にレナが清掃済みで、君の生態データを取得するためのマイクロセンサーが設置されているよ。というわけで、カイの安息の日はまだまだ遠い! 次回、『狂信者たちのパレード』で、またお会いしましょう!」
※嘘です