自由商業圏ヴェガ首都トライアスター。その中枢に位置する統合軍総司令部作戦司令室。通称『神々の観覧席』。
その名の通り、この部屋にいる者たちは盤上の駒である兵士たちの運命をモニター越しに観覧するだけの存在だ。部屋を満たすのは最新鋭の戦況表示システムが放つ冷たい光と葉巻の紫煙、そして権力者特有の傲慢な空気。
「――以上が、カイ・シラヌイ少尉の着任に関する最終報告です」
報告を終えた副官が下がると、円卓を囲む将官の一人、情報統括本部長のゲルハルト・フォン・バウアー提督がふう、と紫煙を吐き出した。贅肉のついた指で葉巻を弄びながら、その目は蛇のように細められている。
「第十三独立遊撃部隊か。あの若き英雄殿には随分と手厚い歓迎だな。まるで生きたまま棺桶に放り込むようなものだ」
その皮肉に満ちた言葉に、隣に座る作戦本部長エルンスト・ヘッケル大将が面白くなさそうに眉をひそめた。軍規と伝統を重んじる絵に描いたような古狸だ。
「言葉を慎まれよバウアー卿。あれは彼の類稀なる才能を最大限に活かすための戦略的配置だ。正規軍のしがらみから解放された独立部隊こそ、彼の神がかり的な戦術が最も映える舞台であろう」
「ほう、戦略的配置ね。聞こえはいい。だが本音はどうかな? あの部隊の副官が誰であるかを知らぬ者などここにはおるまい」
バウアーの言葉に、その場にいた将官たちの顔に一瞬影が差した。
第十三独立遊撃部隊副官、レナ・ユキシロ大尉。
通称『狂犬』。
彼女は戦死したヴィクトル・アンダーソン准将が育て上げた最高傑作にして、最も危険な遺産だ。アンダーソン准将個人に絶対の忠誠を誓い、その復讐のためならばいかなる命令違反も、いかなる非情な手段も厭わない。その鋭すぎる牙は敵だけでなく、味方であるはずのヴェガ軍上層部にすら向けられている。
「あの女は危険すぎる。アンダーソンという首輪が外れた今、いつ我々に牙を剥くか分からん。野に放っておくにはあまりに過ぎた駒だ」
人事局長の陰気な声が響く。
「だからこそだ」
それまで沈黙を守っていたこの観覧席の主、ヴェガ軍総司令官ヴィルヘルム・フォン・シュトレーゼマン元帥が重々しく口を開いた。皺の刻まれた顔はまるで能面のようだ。一切の感情を読み取らせない。
「劇薬には劇薬をぶつけるのが定石。カイ・シラヌイという男もまた、我々にとって制御不能な劇薬となりかねん」
シュトレーゼマンの言葉に将官たちは息を呑んだ。
「卒業演習でのあの戦いぶり。あれはもはや天才という言葉では生ぬるい。神、あるいは悪魔の所業だ。あのような男が民衆の熱狂的な支持を背景に軍内で発言力を増した場合どうなるか。我々が築き上げてきたこの軍の秩序が根底から覆される危険がある」
そう、彼らが恐れていたのはカイ・シラヌイの「才能」そのものだった。
腐敗し巨大企業の思惑にがんじがらめになったこの国において、純粋すぎる力は秩序を破壊する毒なのだ。民衆は分かりやすい英雄を求める。そしてその英雄がもし本当に世界を変える力を持っていたとしたら、それは現在の権力者たちにとって何よりも恐ろしい悪夢の始まりを意味する。
「ならばいっそ飼い殺しにするか、あるいは……」
「それも考えた。だがオリオン・アーム・インダストリーの連中が、この新しい『商品』を黙って見過ごすはずがない。我々が彼を冷遇すれば連中は彼を担ぎ上げ、軍内部における自らの影響力をさらに強めるだろう。それは避けねばならん」
シュトレーゼマンの言葉がこの茶番劇の核心を突いていた。
結局のところ彼らの行動原理は軍の秩序でも国家の未来でもない。ヴェガを裏で牛耳る巨大企業「オリオン・アーム・インダストリー」との醜いパワーゲーム。ただそれだけなのだ。
「そこでレナ・ユキシロだ」とシュトレーゼマンは続けた。「あの『狂犬』はアンダーソンの死以来、成り上がりの英雄を病的なまでに憎んでいる。カイ・シラヌイのようなメディアが作り上げた偶像は、彼女にとって不倶戴天の敵であろう」
将官たちの目に下劣な光が宿り始める。ようやく総司令官の描いた悪魔的な筋書きを理解したのだ。
「つまり……」
「そうだ。二匹の猛獣を同じ檻に入れる。うまくいけば共食いを始めて双方ともに消えてくれる。そうなれば万々歳だ」
シュトレーゼマンはそこで一度言葉を切ると、まるでチェスの駒を置くようにゆっくりと指を組んだ。
「あるいはカイ・シラヌイという男が我々の想像を超える『本物』であった場合。彼はあの狂犬すらも手懐けてしまうかもしれん。そうなればそれはそれで面白い。我々は最も危険な駒を一括で管理できることになる」
どちらに転んでも損はない。
これが神々の観覧席に座る者たちが導き出した、最も効率的で最も非情な一つの「解」だった。
若き英雄の未来も復讐に燃える狂犬の魂も、彼らにとっては盤上の駒の動きに過ぎない。
「せいぜい我々を楽しませてくれることを期待しよう。ヴェガの新しい光、カイ・シラヌイ君に」
シュトレーゼマンの言葉を合図に、将官たちの間から乾いた笑い声が漏れた。
彼らは知らない。
自分たちが檻に放り込んだ猛獣の一匹が、その実臆病なハムスターにも劣る小心者のクズであったことなど。
そしてその小心者の自己保身のためだけの悪あがきが、やがて自分たちの椅子すらも揺るがす壮大な勘違いの嵐を巻き起こすことになるということを。
神々の観覧席はいつだって、最も舞台から遠い場所にあるのだ。
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旗艦「ネメシス」の食堂はいつだって墓場のような匂いがした。
オイルと汗、そして染み付いた死の匂い。ここでは誰も大声で笑ったりしない。誰もが明日の自分の命の値段を計算しながら、味のしない固形栄養食をただ胃袋に詰め込むだけだ。
ハンスはテーブルの隅で一通の手紙を書いていた。故郷の星に残してきたまだ幼い娘への手紙。それは手紙というよりは遺書に近かった。
『愛するマリアへ。父さんは元気でやっている。ここの食事はあまり美味しくないけれど、仲間たちはみんないい人だ。もう少しでお前の好きな星砂糖のお菓子を持って帰れると思う。だから母さんの言うことをよく聞いて、いい子で待っているんだよ』
嘘だ。
元気なわけがない。仲間は次々と死んでいく。そして生きて帰れる保証などどこにもない。
ここは「スケープゴート・フリート」。生贄の艦隊。
俺たちはヴェガという国家の罪を背負わされ、名誉という名の祭壇の上でただ殺されるためだけにここにいる。
「……また遺書かよ、ハンス」
向かいの席に座った同僚のクラウスが呆れたように言った。いや、クラウスではない。士官学校にいたあの狂信者と同じ名前なのが気に食わないので、ハンスは彼のことを勝手に「ヨハン」と呼んでいる。
「うるさいヨハン。お前だって書いといた方がいいぜ。いつお前の番が回ってくるか分かったもんじゃないんだからな」
「俺は書かん。そんなもん書いちまったら本当に死んじまいそうだからな。縁起でもない」
ヨハンはそう言うと固形栄養食をひとかじりし、眉をしかめた。「クソまずい」と彼の顔に書いてある。
食堂の空気は鉛のように重い。誰もが諦観に満ちた死んだ魚のような目をしている。
半年前までは違った。
アンダーソン准将がいた頃は。
あの人はいつもこの食堂で俺たちと同じクソまずい飯を食いながら、冗談を言って笑わせてくれた。
「いいか、お前ら! 死ぬな! 生きて帰って故郷で美味い酒を飲むことだけ考えろ! それがお前たちの唯一の任務だ!」
あの人の下では死ぬのが怖くなかった。いや、あの人のために死んでもいいとさえ思っていた。
だが、あの人は死んだ。
そして俺たちはここに残された。
「なあ、聞いたか? 新しい司令官のこと」
ヨハンが声を潜めて言った。
「ああ。なんでも士官学校を出たばかりのピカピカの若造らしいじゃねえか。『不敗の魔術師』だかなんだかメディアが大騒ぎしてる、あの」
ハンスは興味もなさそうに吐き捨てた。英雄。救世主。そんな言葉はこの艦では禁句だ。それは死神の別名に他ならない。
「魔術師ねぇ。どうせ幸運だけで勝ち上がってきた坊ちゃん野郎だろ。そんな奴がこの地獄で何日もつか見ものだな」
「期待するだけ無駄だ。どうせ俺たちを使い潰して自分の手柄にすることしか考えてないに決まってる」
兵士たちの間に新しい司令官への期待など微塵も存在しなかった。
それは諦めであり、そして自己防衛の本能でもあった。期待すれば裏切られる。信じれば捨てられる。この艦ではそれが当たり前の日常なのだ。
だから誰も新しい司令官のことなど気にしていない。どうせすぐに死ぬか、あるいは俺たちを見捨てて逃げるか。そのどちらかだ。
その時、食堂の入り口がにわかに騒がしくなった。
副官であるレナ・ユキシロ大尉が一人の若い士官を伴って入ってきたのだ。
食堂にいた全員の視線がその士官に突き刺さる。
あれが新しい司令官か。
カイ・シラヌイ。
ハンスは無感動な目でその男を観察した。
背はそれほど高くない。軍人にしては少し線が細い。だがその佇まいは奇妙なほどに落ち着いていた。まるでこれからピクニックにでも行くかのような穏やかな笑みさえ浮かべている。
(……なんだ、あの男は)
この死の匂いが充満する艦内で、あの男だけがまるで異世界の住人のように場違いな空気を放っていた。
兵士たちの侮蔑と敵意が入り混じった視線を一身に浴びながらも、彼は全く動じていないように見えた。
「……大したタマか、あるいはただの馬鹿か」
ヨハンが面白そうに呟いた。
ハンスは何も答えなかった。ただ手の中のペンを強く握りしめる。
どうせ同じだ。
誰が司令官になろうと俺たちの運命は変わらない。
俺たちは生贄なのだから。
ハンスは再び手元の便箋に視線を落とした。
『愛するマリアへ』
その文字が滲んで見えた。
それは絶望のせいか、あるいはほんの少しだけ何かが変わるかもしれないという、愚かな期待のせいだったのか。
彼自身にも分からなかった。
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(死ぬ……! 絶対に死ぬ! 戦う前にこの艦の空気で圧殺される!)
旗艦「ネメシス」へと続く連絡通路を歩きながら、カイ・シラヌイの内心はすでに最大級のパニックに陥っていた。
彼の完璧な外面はこれから赴任する部下たちの前で、威厳と慈愛に満ちた理想的な指揮官の姿を保っている。しかしその仮面の下では、生まれたての小鹿のように全身がガクガクと震えていた。
『落ち着きなよ。まだ艦に乗り込んでもいないのに、そんなんでどうするのさ』
シロの呆れた声がカイの脳内で木霊する。
(うるさい! お前には分からんのだこの絶望的な空気感が! シャトルのハッチが開いた瞬間からもうダメだった! なんだあの殺伐とした格納庫は! 整備兵たちの目が全員死んだ魚の目をしてたじゃないか! あれはこれから死地に向かう人間の目じゃない! すでに死んでいる人間の目だ!)
カイの言う通り、この艦「ネメシス」は異常だった。
隅々まで清掃は行き届いている。軍規もおそらくは厳格に守られているのだろう。だがそこに「生」の気配が一切感じられないのだ。まるで巨大な鉄の棺桶。艦内を循環する空気すらホルマリンの匂いがするような気がした。
やがて長い通路の先に巨大な扉が見えてきた。ブリッジへと続くメインゲートだ。
その前には百名ほどの兵士たちが寸分の乱れもなく整列していた。
カイが姿を現すと一糸乱れぬ動きで全員が敬礼する。
完璧な統率。完璧な規律。
だがカイの背筋を凍らせたのは、その完璧さではなかった。
(目が……! 全員の目が死んでる……!)
彼らの瞳には何の光も宿っていなかった。感情も意志も希望も、全てが削ぎ落とされたただの硝子玉。彼らは新しい司令官の顔を見ているようで、その実何も見ていない。ただ命令されたからそこに立っているだけ。
(なんだこの艦隊は……! これがあの『スケープゴート・フリート』……! 話が違うじゃないか! 教科書には士気の高い兵士こそが最強の武器だと書いてあったぞ! こいつら士気どころか、そもそも生きてるのか!?)
カイの内心が恐怖と絶望で悲鳴を上げる。
だが本当の地獄はその先に待っていた。
整列した兵士たちの最前列。その中央に立つ一人の女性士官。
彼女がこの艦隊の副官、レナ・ユキシロ大尉。
カイは彼女と目が合った瞬間、全身の血液が凍りつくのを感じた。
(……殺意!?)
他の兵士たちとは明らかに違う。
彼女の瞳には感情があった。
だがそれは忠誠でも尊敬でも、あるいは反感ですらない。
純度百パーセントの、一切の不純物を含まない完璧なまでの『殺意』と『侮蔑』。
その凍てつくような瞳はカイという存在を、まるで汚物でも見るかのように値踏みしていた。
『幸運だけで成り上がった空っぽの道化が。お前のような害虫がこの艦の空気を吸うことすら許さない』
言葉はない。だがカイには彼女の心の声がはっきりと聞こえた。
(死ぬ! 絶対に殺される! 戦場で敵に殺される前にこいつに背中から刺されて死ぬ! 間違いない!)
カイの脳内で警報がけたたましく鳴り響く。
自己保身の本能が生存確率ゼロを弾き出していた。
『ご愁傷さま。あの人、君のこと本気でゴミムシ以下だと思ってるよ。なんなら今すぐその場で斬り捨ててもいい、くらいにね』
シロの無慈悲な実況が火に油を注ぐ。
(どうする……どうすればいい……! このままじゃ着任初日にして俺の人生は本当に終わってしまう……!)
絶体絶命。四面楚歌。
恐怖のあまり膝が笑い出しそうになる。
だがその極限の状況下で。
カイ・シラヌイという男の歪んだ才能が、閃光のように煌めいた。
(そうだ……!)
彼の脳裏に一つの計画が浮かび上がる。
それはこの地獄のような状況を打開するための起死回生の妙手。
それはこの殺意に満ちた狂犬を手懐け、死んだ魚の目をした兵士たちを蘇らせ、そして何よりもこの鉄の棺桶を自分にとって少しでも快適な空間に変えるための完璧な計画。
(……これしかない!)
カイは内心のパニックを完璧な仮面の下に押し隠した。
そしてまるで長年の戦友に会ったかのような、穏やかで親しみに満ちた笑みを浮かべると、殺意の化身であるレナ・ユキシロに向かってゆっくりと歩みを進めた。
「君がレナ・ユキシロ大尉だな。噂は聞いている。君のような優秀な副官と共に戦えることを心から光栄に思う」
その声はどこまでも優しく、そして自信に満ちていた。
レナの眉が侮蔑の形でわずかにピクリと動いたのを、カイは見逃さなかった。
だがもう彼は怯まない。
なぜなら彼にはもう勝算が見えているのだから。
(見てろよ狂犬。お前もこの艦隊も、俺が俺の快適な生活のために完璧に作り変えてやる……!)
この男、己の命の危機に瀕してなおその思考のベクトルが、常に「自己保身」と「怠惰」にしか向かわないあたり、ある意味本物の大物なのかもしれない。
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司令官室はアンダーソン准将が使っていた頃のまま、時が止まっていた。
壁に飾られた准将が好きだった星図。使い込まれた革張りの椅子。
レナはこの部屋の空気を、准将の魂の一部のように感じていた。
だが今、その神聖な空間が土足で踏みにじられようとしていた。
「――以上が本艦の現状報告です」
レナは一切の感情を排した声で報告を終えると、目の前の男カイ・シラヌイを観察した。
着任の挨拶の時この男が見せた、あの不快な笑み。まるでこちらの殺意など全てお見通しだと言わんばかりの、あの傲慢な余裕。
レナは内心で舌打ちした。
(思ったよりも食えない男らしい。だが所詮は口先だけの雛鳥。すぐに鳴き声も出せなくしてやる)
カイはレナの報告を聞き終えると満足げに頷いた。
「ありがとうユキシロ大尉。完璧な報告だ。君がいかにこの艦隊を深く理解し、兵士たちを思っているかがよく伝わってきた」
その心にもない賞賛の言葉に、レナの眉がわずかに動く。
(……何が言いたい)
カイはゆっくりと椅子から立ち上がると、部屋の中を歩き始めた。まるで自分の新しい城を検分する王のように。
「だがいくつか改善すべき点があるようだ」
「……と、申しますと?」
レナの声に温度はない。
「まず兵士たちの士気だ。先ほど整列した彼らの顔を見たが、あれでは戦えない。彼らの瞳には光がなかった。まるで死を待つだけの罪人のようだ」
その言葉にレナの心に、冷たい怒りの炎が灯った。
(……貴様に何が分かる)
彼らは罪人などではない。国に見捨てられ、それでも最後まで戦い抜いた誇り高き戦士たちだ。お前のような幸運だけで成り上がった男に、彼らの痛みが分かってたまるか。
「士気。それこそが我々が今、最優先で取り組むべき課題だ。そしてそのためにはまず、彼らが置かれている環境そのものを変える必要がある」
カイはそこで足を止めると振り返り、完璧な笑みでレナを見つめた。
そして信じられない言葉を口にした。
「ユキシロ大尉。私はこの艦を、銀河で最も快適な場所にしたいと考えている」
「……は?」
レナは自分の耳を疑った。今この男は、何と言った?
「まず軍服だ。今のものは素材が硬すぎる。これでは兵士たちの集中力が削がれる。肌触りの良い最新式のドライテック素材のものに、全兵士分即刻交換したまえ」
「なっ……!」
「次にベッドだ。個室の殺風景さは兵士の心を荒ませる。良質な睡眠こそ戦士の基本だ。全ベッドを低反発マットレスに交換。それから目に優しい間接照明も導入しよう」
「き、貴官は正気か!?」
「食事も問題だ。あんな固形栄養食では士気が上がるはずもない。厨房長と連携し温かく栄養バランスの取れたメニューを開発するように。ああ、それから娯楽も必要だな。休息なき戦士はただの機械だ。人間性を取り戻す場所が必要だ。娯楽室に最新のゲーム機とマッサージチェアを導入したまえ。そうだ、艦内eスポーツ大会を開催するのも面白いかもしれん」
矢継ぎ早に繰り出される常軌を逸した要求。
レナの思考は完全に停止した。
この男は気でも狂ったのか。
ここは銀河で最も過酷な最前線だ。明日生きている保証すらない戦場だ。
それをなんだ?
ホテルか何かと勘違いしているのか?
「ふざけるのも大概にしろ!」
ついにレナの冷静さが限界を超えた。叩きつけるような怒声が響く。
「ここは戦場だ! 軟弱な考えは全軍の規律を乱し、兵士たちを死に追いやるだけだ! アンダーソン准将が築き上げられたこの艦の鋼の規律を、貴様のような若造が一日で破壊してたまるか!」
レナの瞳から剥き出しの殺意が迸る。
だがカイはその殺意を真正面から受け止めながらも、全く動じなかった。
それどころか彼はどこか悲しそうな目で、レナを見つめ返した。
「……君の言うことも一理ある。規律は重要だ。だがユキシロ大尉。君は根本的な何かを見誤っている」
(うわ、キレたキレた! 目からビーム出そうじゃん! だがここで怯んだら終わりだ! 俺の安眠ライフがかかってるんだ! いけ、俺の口! 完璧な正論でこの狂犬を黙らせるんだ!)
「……何だと?」
「鉄の規律だけで人は戦えない。恐怖だけで兵士を縛り付けることはできない。彼らは機械じゃない。人間なんだ。守るべきもの、帰るべき場所があるからこそ人は死の恐怖を超えて戦える。違うか?」
『へぇ、言うじゃん。まるで本当にそう信じてるみたいな口ぶりだね』
(うるさい! これは前世で読んだ自己啓発本の受け売りだ! 存外こういう手合いには効くんだよ!)
カイはゆっくりとレナに近づくと、その凍てついた瞳を真っ直ぐに見据えた。
「私が作るのはホテルじゃない。聖域だ。この地獄のような戦場で彼らが唯一『人間』でいられる場所。ここに戻ってくれば温かい食事と柔らかいベッドが待っている。仲間と笑い合える時間がある。その『日常』を守るために彼らは戦うんだ。私の考えは間違っているか?」
(そうだ、その通りだ! 俺が温かい食事と柔らかいベッドで快適に過ごすために、お前たちは死ぬ気で戦え! 完璧な論理だ! 我ながら完璧すぎる!)
それは完璧なまでの正論だった。
あまりに正しくあまりに理想的で、そしてあまりに現実離れした戯言。
レナは言葉に詰まった。反論できない。だが断じて認めることもできない。
「……綺麗事だ」
絞り出した声は自分でも驚くほど、か細く震えていた。
「そうかもしれないな」
カイはふっと笑うと、レナの肩をポンと軽く叩いた。
(うわ、肩こっわ! 鋼鉄かよ! こいつ絶対サイボーグだろ!)
『セクハラで訴えられないようにね』
「だがその綺麗事を現実にしてみせるのが指揮官の仕事だ。君の意見も尊重しよう。だが忘れるな。この艦の最終的な決定権は私にある」
(よし、完璧なクロージングだ! これで俺の勝ちだ! 早くこの殺意マシマシ空間から脱出して自室でふかふかのベッドにダイブするんだ!)
そう言うとカイは踵を返し、部屋を出て行こうとした。
その背中にレナは最後の抵抗を試みる。
「……待て。予算はどうするつもりだ。そんなものを全て揃える金がこの艦隊にあるとでも?」
それは最も現実的で、最も強力な反論のはずだった。
──この男、カイ・シラヌイの懐に巨大企業のカードが握られていることを知るまでは。
カイは振り返りもせずにこう言い放った。
「ああ、そのことか。心配ない」
そして扉の前で一瞬だけ足を止めると、懐から取り出したデータ端末の画面をレナに見せつけた。そこに映し出されていたのは『オリオン・アーム・インダストリー』のロゴと、天文学的な数字が並んだ承認画面。
カイは悪戯っぽくウィンクして、こう言ったのだ。
「──必要経費はスポンサーに出させるのが、現代の常識だよ」
バタン、と無慈悲に扉が閉まる。
一人残されたレナはその場に立ち尽くすしかなかった。
怒りと侮蔑、そして自分の信じてきた全てが目の前の男の、その底知れない「何か」によって根底から覆されていくような、理解不能な恐怖に打ちのめされて。