勘違い。
それは、観測者と対象の間に存在する、認識の齟齬が生み出す、哀れで滑稽な喜劇である。
だが、その観測者の数が、信仰という名の巨大なレンズによって無限に増幅された時、喜劇は容易に神話へと姿を変える。
そして、神話の中心に据えられた、空っぽの神輿。
その中にいる男が、どれだけ「違う、そうじゃない」と叫ぼうとも、その声は熱狂の渦の中に虚しく吸い込まれ、むしろ神の謙譲の美徳として、物語に新たな一ページを書き加えるための、最高のインクとなるのだ。
今、我らが神、カイ・シラヌイは、その最も残酷で、最も理不尽な真理の祭壇の上で、新たな、そして最も望まない役割を、強制的に演じさせられようとしていた。
すなわち、救世主、という名の、哀れな生贄である。
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コロニー「黄泉」の居住区画は、絶対的な静寂に支配されていた。
いや、静寂というよりも、それは「死」の気配そのものだった。
カイ・シラヌイと、彼が率いる五十名の完全武装の調査隊。そして、その向こうで、物陰から怯えた獣のようにこちらを窺う、数百のコロニーの住民たち。
その二つの集団の間には、見えない、しかし決して越えることのできない断絶の壁が存在していた。
歴戦の兵士たちも、かつては弱者を食い物にしてきたはずの元囚人たちですら、目の前の光景に言葉を失っていた。
彼らが想像していたのは、屈強な海賊どもとの、血で血を洗う銃撃戦だった。
だが、そこにいたのは、ただ、静かに死を待つだけの、骨と皮ばかりに痩せこけた老人、怯えた瞳でこちらを見つめる子供、そして全ての希望を失った顔で身を寄せ合う女たち。
巨大な墓標の中で、かろうじて息をしているだけの、魂の抜け殻の群れ。
カイの、完璧なる『虎の威を借る狐(あるいは宇宙の寄生虫)』作戦。
その、あまりにも虫が良く、あまりにも下劣な計画は、その全ての前提が、この瞬間、根底から、そして完璧に、崩れ去った。
彼が寄生しようとしていた宿主は、もはや死にかけていたのだ。
『……あれれー? おっかしいぞー?』
カイの脳内で、この世の終わりのような静寂を切り裂いて、シロのどこまでも軽薄な声が響き渡った。
『君の完璧な計画によれば、ここにいるはずの獰猛な「虎」さんが、なんだか骨と皮だけになって、死にかけてるみたいだけど。これじゃあ、虎の威を借るどころか、虎の皮算用すらできやしないじゃないか。どうするのさ、この死体の山』
(黙れ……! 黙れ黙れ黙れ! 俺のせいじゃない! 俺は悪くない! 俺はただ、ちょっと強い奴らに寄生して、楽をしようと思っただけだ! なんでこんなことに……!)
彼の内心が、壮大な責任転嫁とパニックの嵐に見舞われている間にも、部下たちの思考は、カイにとって最も都合の悪い方向へと、暴走を始めていた。
その、重く、そして救いのない沈黙。
それを最初に破ったのは、カイの部下の一人、かつてタルタロスでカイに心酔し、今やその敬虔なる信徒の一人と化した、元囚人の男の、畏怖に満ちた、か細い呟きだった。
「……そうか……。そういう、ことだったのか……」
その、あまりにも場違いな、何かを悟ったかのような呟き。
それが、引き金だった。
その言葉を皮切りに、調査隊の兵士たちの間で、まるで雷に打たれたかのような、恐るべき「理解」が、連鎖し始めたのだ。
「ああ……! だから、海賊どもは、我々を襲ってこなかったのか……!」
「このコロニーが、まるで墓場のように静まり返っていたのも……全ては……!」
「司令は……! 我らが神は、全て、ご存知だったのだ!」
彼らの、狂信という名の認知フィルターは、目の前の、あまりにも不可解で、あまりにも悲惨なこの現実を、彼らにとって最も理解しやすく、そして最も都合のいい「物語」へと、瞬時に、そして完璧に、誤訳した。
すなわち。
「神は、この虐げられた民を救うために、我々をこの地へとお遣わしになったのだ!」
その、あまりにも壮大で、あまりにも飛躍しすぎた結論。
それが、一度「真実」として認識されてしまえば、もはや疑う余地など、どこにも存在しない。
全ての不可解な点が、一つの美しい線で結ばれていく。
海賊たちがネメシスを遠巻きにしていたのは、カイの武威を恐れたからではない。彼らが、このコロニーを見捨て、もはやここには価値がないと判断していたからだ。
コロニーが静まり返っていたのは、罠などではない。ただ、そこに住む人々が、生きる力そのものを失っていたからだ。
そして、カイ・シラヌイが、あえてこのコロニーへと進路を取ったのは。
彼の完璧な寄生計画が頓挫したからでは、断じてない。
──彼が、神だからだ。
神は、全てを見通し、全てを知り、そして、最も救いを必要とする、最もか弱き子羊たちの元へと、その使いを遣わすのだ。
なんと、シンプルで、なんと感動的な、完璧な物語だろうか。
「おお……! なんという、深き御心……!」
「我々は、司令の深遠なるお考えの、そのほんの上澄みすら、理解できていなかったというのか……!」
兵士たちの瞳に、狂信的なまでの熱が宿り始める。
彼らが握りしめた銃は、もはや殺戮のための道具ではない。
弱きを助け、強きを挫く、神の意志を代行するための、聖なる鉄槌へと姿を変えた。
その「確信」は、通信回線を通じて、瞬く間に艦隊全体へと伝播し、彼らの瞳に「弱きを助け、強きを挫く」という、燃え盛る使命感の炎を灯した。
その、あまりにも熱狂的で、あまりにも厄介な勘違いの連鎖。
その中心で、我らが神、カイ・シラヌイは。
血の気の引いた、真っ青な顔で、ただ、立ち尽くしていた。
(違う、違う、違う、違う、そうじゃない……! 俺はただ、楽して虎の威を借りて、安全な場所でふんぞり返っていたかっただけなんだが!? 虐げられた民の救済!? なにそれ、美味しいの!? 面倒事の匂いしかしないんだが!?)
彼の内心で、魂そのものが、拒絶の絶叫を上げていた。
だが、その声なき叫びは、もちろん誰にも届かない。
それどころか、彼の呆然とした表情は、部下たちの目には、目の前の悲惨な光景に、深く、そして静かに心を痛める、慈悲深き神の苦悩の表情として、完璧に誤訳されていた。
実に、都合のいい神である。
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完全に「聖なる使命(ホーリー・ミッション)」モードへと移行したクルーたちの行動は、迅速だった。
彼らは、もはやカイの命令を待つまでもなく、自らの判断で、次々と行動を開始していく。
レナを筆頭とする戦闘部隊が、居住区画の周囲に防衛線を展開し、万が一の脅威に備える。
医務官のエミリアが率いる医療班が、ネメシスから大量の医療品を運び込み、負傷者や病人の手当てを開始する。
そして、ナビゲーターのハンスと厨房長のオットーが、まるで聖餐式を執り行う司祭のように、あの「奇跡のスープ」を、飢えた住民たちに振る舞い始める。
その、あまりにも手際が良く、あまりにも統率の取れた、完璧な人道支援活動。
その光景は、さながら、神の軍勢が、地獄の底に舞い降りたかのようであった。
コロニーの住民たちは、最初こそ、その異様な光景に怯え、警戒していたが、差し出された温かいスープの、その魂まで温めるような味わいと、兵士たちの(狂信的ではあるが)真摯な眼差しに、少しずつ、ほんの少しずつ、その凍てついた心を溶かしていく。
そして、その全ての活動の中心で、ただ一人。
カイ・シラヌイだけが、完全に、そして完璧に、取り残されていた。
(……え? なにこれ? 俺、何も言ってないんだが? なんで、勝手に炊き出しとか始めてるの? あれ、もしかして俺、いる? この場に、俺、必要なくないか?)
彼は、自らが作り出した(ということにされている)狂信者たちの、あまりにも高すぎる自主性と行動力に、もはやドン引きを通り越して、若干の恐怖すら感じていた。
だが、そんな彼の内心の葛藤などお構いなしに、彼の部下たちは、ことあるごとに彼の元へと駆け寄り、その神託を求めてくるのだ。
「司令! 医療品の備蓄が、予想以上の速度で減少しています! 追加の物資を、本国に要請する許可を!」
「神よ! 住民たちの間に、僅かながら笑顔が戻り始めました! これも全て、貴方様の御心の賜物です!」
「カイ様! スープのおかわり、五十杯目です! このペースですと、備蓄食料が三日で底を突きますが、よろしいですね!?」
(知るかァ! お前らで考えろ! なんでいちいち俺に聞くんだ! 俺は中間管理職なんだぞ、現場の判断に任せるのが基本だろうが!)
だが、もちろん、そんな本音を口にできるはずもない。
彼は、完全に、絶体絶命の状況に追い込まれていた。
ここで「いや、もう帰るぞ。あとは頑張って」などと言えるか。
言えるわけがない。
そんなことを言えば、この、せっかく築き上げてきた(勝手に築かれた)神の威光は、地に堕ちる。それは、今後の安楽なリモート総督ライフを揺るがす、最も避けたい事態であった。
『おめでとう、カイ。ボランティア活動の時間だよ。しかも、銀河で最も過酷で、最も感謝されない(君の内心では)現場での、強制参加だ。よかったじゃないか、社会貢献ができて』
脳内で、シロが心底から楽しそうに告げる。
カイは、観念した。
もはや、選択肢はない。
演じるしかないのだ。
この、彼らが望む「救世主」とやらを。
カイは、内心の絶望を、完璧な外面(ポーカーフェイス)で覆い隠すと、救世主の仮面を、その顔に深く、そして完璧に装着した。
彼は、威厳に満ちた、そして慈愛に満ちた声で、次々と、的確な指示を飛ばし始めた。
「うろたえるな。全ては、想定の内だ」
その、神の如き第一声に、クルーたちが、はっと息を呑む。
「レナ、医療班を再編成し、治療の優先順位(トリアージ)を徹底させろ。助かる命を、確実に見極めろ。感傷は不要だ」
(そうだ、効率化だ! 医療品は有限のリソースだぞ! 無駄遣いするな! 早く終わらせて、早く帰るんだ!)
「バルツァー! 機関班を総動員し、コロニーの生命維持装置を掌握しろ! 居住区画の環境制御を、最優先で復旧させろ! 住民たちの、最低限の生活(ミニマム・ライフ)を保障するのだ!」
(そうだ、疫病でも発生してみろ! 俺まで巻き込まれたらどうする! 死なれたら後味が悪い! 生かさず殺さず、だ!)
「ハンス! 厨房長と連携し、食料の配給を厳格に管理しろ! スープは一日一杯までだ! 貴重な資源を、無駄にするな! 飢えを知る者こそが、真の救済の意味を知るのだ!」
(そうだ、俺の貴重な備蓄食料を食い尽くされたら、俺が飢えるだろうが! 一日一杯でありがたく思え!)
その、あまりにも的確で、あまりにも冷静で、そしてどこか非情ですらある、完璧な指示の数々。
クルーたちは、その神の如き采配に、ただただ、打ち震えていた。
ああ、やはり我らが司令は、ただ慈悲深いだけではない。
この地獄のような状況を、完璧に乗りこなすための、冷徹なまでの判断力と、大局を見据えた、深遠なる戦略眼をお持ちなのだ、と。
彼らの神が、内心で(早く帰りたい、早く帰りたい、早く帰りたい)と、念仏のように唱え続けていることなど、もちろん誰も知らない。
かくして、カイ・シラヌイの意図とは、完全に、そして完璧に無関係な形で。
ネメシスと、タルタロス神聖国家の民による、大規模なコロニー復興支援活動が、正式に、そして壮大に、開始されてしまったのである。
その、あまりにも場違いで、あまりにも滑稽な光景。
それが、やがてこの星系の運命そのものを、根底から揺るがすことになる、巨大な嵐の、最初の胎動であったことを、この時、まだ誰も、知る由もなかった。
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復興作業は、驚くべき速度で進んでいった。
ネメシスのクルーたちの、狂信的なまでの使命感と、元囚人たちの、有り余るエネルギーと特殊技能。
その二つが組み合わさった時、それは正規の救助隊ですら再現不可能な、驚異的な奇跡を生み出した。
崩壊しかけていた生命維持装置は、ビット率いる技術者たちの手によって、僅か半日でその機能を取り戻した。
枯れ果てていた水耕栽培区画には、ギデオンの右腕であり、このコロニーに残った坑夫たちを束ねる男、ゲッツが、仲間たちに檄を飛ばしながら、地下水脈から新たな水を引き込もうとしていた。
そして、住民たちの顔には、ほんの僅かずつではあるが、生気が戻り始めていた。
彼らが、カイ・シラヌイと、その異様な部下たちに向ける視線は、もはや恐怖や警戒だけではなかった。
畏怖。
そして、それを遥かに上回る、絶対的なまでの、感謝と尊敬。
彼らは、カイを、本物の「神の使い」であると、信じ始めていた。
その、あまりにも重く、そしてどこまでも純粋な信仰の視線。
それが、カイにとっては、何よりも居心地の悪い、精神的な圧迫であった。
彼は、住民たちから感謝の言葉を述べられるたびに、完璧な笑顔で応えながらも、内心では(やめろ……! そのキラキラした目で俺を見るのはやめろ! 気持ち悪い! これ以上、期待のハードルを上げるんじゃあない! もし俺が、お前らの期待に応えられなかった時、どう責任を取ってくれるんだ!?)と、理不尽な責任転嫁と、暴露への恐怖に身を震わせていた。
──この男、その精神構造は傲慢な鋼鉄で出来ているが、見栄とプライドという名の外装だけは、驚くほど脆いガラス細工なのである。
彼が、その純粋な期待という名の無言の圧力に耐えかね、仮設の支援本部となっているネメシスの艦内で、一人、頭を抱えていた、その時だった。
一人の、老婆が、杖を突きながら、静かに、彼の元へと近づいてきた。
彼女は、このコロニーの、長老のような存在らしかった。他の住民たちのように、ただ一方的に感謝を述べるのではなく、その、年齢を感じさせない鋭い瞳は、カイの、その完璧な仮面の下にある、本質そのものを見透かそうとするかのように、じっと、彼を射抜いていた。
その、あまりにも老獪な、そして全てを見通すかのような眼光に、カイは、思わず身構えた。
(……やばい。こいつは、他の連中とは違う。他の奴らは、俺という偶像を、盲目的に信じているだけの、扱いやすい駒だ。だが、この婆さんの目は……違う。俺という人間そのものを、値踏みしている目だ。俺の、この薄っぺらい化けの皮を、見破られるかもしれない……!)
老婆は、周囲に、カイの部下たちがいないことを確認すると、カイにだけ聞こえるような、低く、しかしどこまでも澄み切った、切迫した声で、囁いた。
「……あんたたちが、何者で、どんな大層な目的でここに来たのかは、知らん」
その第一声は、感謝でも、尊敬でもなかった。ただ、冷徹な事実確認。
カイは、ごくりと、乾いた喉を鳴らした。
「じゃが」と、老婆は続けた。
「その、腹の足しになる温かい汁を恵んでくれたこと、そして、死にかけのワシらに、生きるための仕事を与えてくれたことには、感謝する。……ワシらの組は、仁義を重んじる。受けた恩は、忘れん」
組。仁義。
その、古風で、どこか物騒な響きを持つ言葉。
それが、カイの心に、小さな、しかし確かな棘のように、引っかかった。
そして、老婆は、最後に、こう言ったのだ。
その言葉は、感謝の中に、明らかな、そして絶対的な「警告」を、含んでいた。
「……だからこそ、言う」
彼女は、カイの瞳を、真っ直ぐに、射抜いた。
「悪いことは言わん。……ここから、一刻も早く、立ち去った方がいい」
その言葉は、予言だった。
あるいは、呪いだったのかもしれない。
なぜ、助けているはずの相手から、逃げろと言われるのか。
この老婆は、一体、何を知っているのか。
カイは、老婆の真意が読めず、ただ、その不吉な響きに、背筋が、まるで氷の刃で撫でられたかのように、凍りつくのを感じるのだった。
彼の、不本意なる救世主ごっこは、今、新たな、そしてより深刻な、謎という名の舞台の幕を、静かに、そして確実に、開けようとしていた。
あとがき、あるいは蛇足
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カイ: (聞いたか、シロ!? 聞いただろう!? 『一刻も早く立ち去った方がいい』だと!? あれは、絶対に、ガチのやつだ! このコロニー、呪われてる! 間違いない! 今すぐ、全速力で、この宙域から離脱するぞ! 理由は……そうだな、『艦内の空調設備に、未知のウイルスが発見された』とかでどうだ!?)
シロ: 『残念ながら、それは無理だね。君の忠実なる信者たちは、今や完全に「聖なる使命」モードに入ってる。今、君が「帰るぞ」なんて言ったら、彼らは君を玉座に縛り付けてでも、この地に留まらせるだろうね。「神よ、我々をお見捨てになりませぬよう!」って涙ながらに』
カイ: (ぐっ……! では、どうすればいい! このままじゃ、俺は、あの婆さんの予言通り、とんでもない厄介事に巻き込まれて死ぬぞ! 俺の本能が、警鐘を乱れ打っているんだ!)
シロ: 『簡単なことだよ、カイ。君が、彼らが信じる「神」として、これから起こる厄介事を、いつものように、神がかりの幸運とハッタリと、部下の盛大な勘違いで、乗り越えればいいだけさ。……まあ、君にそんなことができるとは思えないけどね』